天下三帝
二十八
まもなく孫権からの使者が、蜀の劉禅のもとに到着した。
謁見をゆるされた呉の使者は、
「呉王は、皇帝を称えることにいたしました。ゆえに海内に二帝が並立することになりました」
といった。
魏の皇帝を認めないのは、呉とて蜀と立場を同じにしている。ゆえに、二帝といったのである。
孫権の皇帝即位を知った蜀の群臣たちは、激怒したといっていい。
なぜなら前漢の高祖劉邦以来、皇帝は劉氏以外がなってはならないのである。
蜀の群臣は劉氏の皇帝を奉戴しているがゆえに、蜀に正義があり、魏は偽善をおこなっていると誇りをもってきた。
呉の孫権はそういう蜀の国是を認めているがゆえに、呉王にとどまっていると蜀の群臣たちは考えてきた。
孫権は関羽を詐欺によって殺すような陰謀を駆使する王ではあるが、中国が守らなければならない道義はこころえているので、劉禅の盟友であってよいはずだった。
ところが、孫権は劉氏でもなく、後漢の皇帝の許しもなく皇帝になったことは、どういうことか。
「孫権の行いは、道義に反するものぞ」
蜀の群臣たちは怒りに、声をあらげた。
「呉との同盟は、破棄すべきだ。この道理を認めてしまえば、正義のありかがなくなってしまう」
天下で正義をおこなっているのは、蜀のみなのである。
だから蜀が魏に戦で敗れても、中原から排斥されていても蜀の群臣たちは胸をはっていられた。
益州という中国の辺境に逼塞していても、心が正義をおこなっていれば、蜀は不滅なのである。
しかし魏の視点からすれば、後漢の皇帝から禅譲を受けたのは魏なので、正統はあくまで魏であり、蜀などはじぶんたちだけで独善の悦にひたっているにすぎない、と見ている。
宰相としての諸葛亮は、幅広い視野と見識を備えている。孫権の皇帝即位にも、うろたえなかった。
「孫権が漢の正統を無視し、叛逆の心を抱いてからはひさしいではないか。
それを知りながら、わが国が目をつむってきたのは掎角の助けを得たかったからである」
掎角の助け、とは魏という鹿を捕獲するために呉に協力をもとめた、ということである。
「呉との国交を断絶すれば、どうなる。呉はわが国を怨み、魏に協力するであろう。
そうすれば、わが国は魏と呉の挟撃に遭ってしまう。
そのような困難をえらぶよりも、このまま呉との友誼を保持していれば、北伐において東方を憂慮する必要はなく、国益は大きいのだ。
ゆえに孫権の僭上の罪は、いますぐ天下に知らしめなくてよい」
宰相としての諸葛亮は、あくまで現実主義者である。
理念としての正義よりも国益を重視しなければ、益州一州しか領有していない蜀に生き残るすべはない。
蜀の群臣たちは、沈黙した。
諸葛亮が発したことばは、群臣たちもじつは理性では承知していることなのである。
それを理路整然と説き、みずから現実を直視させた諸葛亮に感謝した群臣も多かったはずである。
「孫権の皇帝即位を慶賀する、使者をおくる」
諸葛亮は陳震を使者として、呉都建業に派遣した。大人の対応といえるであろう。
呉の孫権が帝位につくきっかけになったのは、黄武八年(二二八)に曹休の軍を撃破したからである。
翌年の黄武九年(二二九)の春には百官が、
「王(孫権)におかれましては、至尊の地位にお就きになるべきです」
と帝位に即くことをすすめた。
敵の魏は大国であるものの、呉に大敗したうえ、蜀の諸葛亮から挑戦をうけており、呉だけに怒りの矛先をむけることができなくなったことは好機である。
蜀は呉との良好な同盟関係あってこそ、存続が可能である。
諸々の事情を勘案して、孫権は皇帝即位の内心をかためた。
あとは天の許し、つまり瑞兆があればいい。
瑞兆などは、見つけようと思えばいつでも見つけることができる。
四月に夏口と武昌で、黄色い龍と鳳凰が出現したとの報告が入った。
「天の許しがあったため、即位する」
孫権は四月丙申の日に、首都建業の南郊において、皇帝の位に即いた。
大赦をおこない、改元もおこなった。黄武八年は黄龍元年とした。瑞兆の黄色い龍を年号に用いたのである。
ちなみに、呉は黄色を国の色としている。
それは当時五行(木・火・土・金・水)思想が絶対視されており、後漢王朝は火徳とされているので、それにつづく王朝は「土」すなわち黄色を至上の色にしなければならない。
黄巾の乱で首領たちが黄色を掲げたのも、おなじ理由である。
魏が後漢から禅譲をうけたときも黄色い龍が出現し、曹丕が皇帝に即位した後、年号を黄初としたので魏と呉はおなじ思想により建国されたといっていい。
蜀だけは漢を継承しているので、後漢の火徳である赤色を国の色にしている。
孫権は父の孫堅を追尊して、
「武烈皇帝」
という位を贈った。同時に兄の孫策には、
「長沙桓王」
という位を贈った。兄は創業を継いだ時代が短かったので、皇帝の序列から外したのかもしれない。
皇太子は、長子の孫登である。皇室と朝廷の体裁はあっというまに整えられた。
(蜀の劉禅……いや、諸葛亮が反発するのではないか)
しかしその心配は、杞憂におわった。
六月に蜀から、孫権を祝賀する使者が来たからである。
使者は衛尉の陳震である。
「さすがは諸葛亮。時勢というものをよく理解している」
群臣の前で上機嫌になった孫権は、内心蜀の反応をおそれていただけあって、呉蜀同盟を継続できることに安堵した。
(諸葛亮は、人を騙すことのない外交をする……)
それはかつて関羽を詐謀によって殺害した、呉の外交と相反するものである。魏に対して服従と離反を繰り返していた呉は、魏とはたがいが滅亡するまで戦いつづけることになろう。
しかし、諸葛亮はちがう。
両面外交をしない諸葛亮は、かんたんに騙せるように見えて、もっとも騙しにくい外交を至上としているのである。
陳震に皇帝即位を慶賀され、ほがらかになった孫権は、
「今後、呉と蜀が魏を滅ぼしたあとの領土をどう分割するか、あらかじめ決めておこうではないか」
といいだした。
孫権の計画は、こうである。
豫州、青洲、徐州、幽州を呉の版図に。
兗州、冀州、幷州、涼州を蜀の版図に。
洛陽を中心とする司州は、函谷関を境にして両国で分ける。
そのように陳震に示した孫権は、盟約を文章にして呉内外に知らしめた。
その文章を要約すれば、魏の悪逆さをあきらかにし、呉と蜀の正義を宣言するものである。
董卓から曹操までは凶悪な時代であった。そのせいで四海は転覆し、九州は分裂した。
曹操の子である曹丕は極悪で、後漢王朝の帝位を盗み取った。その子の曹叡は曹丕の悪徳を継承し、兵の多さをたのんで国土を盗み、いまだ誅に伏していない。
ゆえに呉と蜀が、正義を決行するというわけである。
孫権がかつてここまで魏について誹謗したことはなく、じぶんが帝位に即くことによって蜀との誼を深くし、魏と訣別する宣言であった。
この文において、孫権は蜀の群臣を安心させるつもりであり、宰相である諸葛亮についても激賞している。
「諸葛丞相は、その徳の威を遠くに著した。
かれは国にあっては主君をよく補佐し、国外にあっては兵を掌握している。
その信義は陰陽をも感動させ、その誠実さは天地をもうごかす」
孫権が皇帝を名乗ることに、率先して蜀の群臣たちを説得した人が諸葛亮であることを知らぬ孫権ではない。
諸葛亮が蜀の宰相であるかぎり、呉と蜀の盟約が破棄されることはないであろう。その感動をあらわした文である。
孫権は、このたびの蜀王朝の反応を見て、
(諸葛亮は、誠実さを体現したかのような人だな)
と思った。ゆえに使者の陳震を歓待して、兵たちの行進までもともに観覧した。
諸葛亮は陳震を呉に派遣するにおいて、
「孫権は、自国の弱いところを強いところとして卿に見せようとするだろう。
それを察してほしい、という孫権の願いも込められているので、よくよく洞察してほしい」
といった。陳震は、雲霞のごとく眼前にひろがる兵たちの行進を見て、
(そうか、これか……)
と気づいた。さすがは諸葛亮が使者として選抜しただけの人物である。
孫権と陸遜が並んで兵たちの行進をながめているが、どことなく浮かないようすである。
(孫権は、兵の少なさを憂いているのだ)
陳震は、複雑な心情で行進を見ていた。
黄巾の乱や董卓の猛威が去り、曹操が中原を統治するようになってから、呉に避難していた中原の住民たちが、こぞって帰郷しはじめた。
「董卓の頃とは、治安が天と地のほどよくなっているぞ」
「ならば、故郷に帰ろうではないか」
江南の地に移住してきた住民が激減しはじめたことに気づいた孫権は、吏員を派遣して移住を禁止する法令を出したものの、取り締まる吏員までもが中原に帰還してしまい、手のうちようがなかった。
益州は、というと桟道など命がけで戦乱を逃れた住民が多かったので、いまさら険阻な山をわたって中原にもどろうとするものは、いないに等しかった。
「呉の兵たちを拝見いたしますに、大軍でたのもしいものですね」
陳震が孫権に話しかけると、
「うむ。しかし兵の多さに頼っていてはならぬ。質も高めていかなければ……」
陳震は、このことばから孫権の本音を聞いていた。
(兵の質を高めようとも、数がそろわなければなにもならぬ……)
陸遜に目をやると、陳震へさびしげに目くばせしてふたたび前をむいた。
(そうか、つらいのだな……孫権や陸遜も)
呉が過剰なまでに卑怯な謀略に頼るのも、兵が少数であることに起因しているのだ。
(呉とは、協同戦線を構築することがむずかしいな)
陳震はひとつの収穫をもって、蜀に帰還することになった。
ところで、魏の反応である。
曹叡は孫権の皇帝即位を、なかったかのように無視した。
「て、帝位を僭称する賊がひとりだけでなく、ふ、ふたりにふえただけよ」
曹叡は後漢王朝の献帝から父の曹丕が禅譲をうけた魏国こそが、正統な王朝であると信じている。
(曹叡め……)
孫権は、感情によるゆさぶりがきかない曹叡を、あらためて警戒した。
魏への裏切りをくりかえすたび出兵してきた曹丕とちがい、曹叡はものごとを俯瞰でき、挑発にはのってこない。
(曹叡のようなかしこい若者が魏に君臨しているかぎり、いつか呉も圧迫をうけるであろう)
そのような不安が、孫権にひとつの外交案を実行させた。
はるかかなたにある遼東に使者を派遣して、国交をはじめたのである。
孫権が皇帝に即位したことで、この時代の中国は「三国時代」とよばれているが、実際には遼東に王国があり、「四国時代」といってもよかった。
遼東は本来郡であるのだが、公孫恭が太守として赴任してから中央から独立し、郡を国のようにしてしまった。
公孫恭は建安九年(二〇四)に亡くなり、子の公孫康が継いだ。
公孫康が遼東を統治していた時代に、袁紹の息子である袁尚と袁煕が逃げ込んできたが、公孫康はふたりの首を斬って曹操に送った。
このときから曹操と曹丕は遼東と友好な関係をむすび、左将軍や車騎将軍などの高位を贈ったが、公孫康は入朝することはなかった。
「車騎将軍など、なにほどのことがあろう。
われは、遼東の王ぞ」
これが、公孫度や公孫康の心中を正確に表現したことばであった。
公孫康が死去したとき、子の公孫淵が幼かったため、弟の公孫恭が後嗣として王に即位した。
ところが公孫恭は病気のため性的不能となってしまい、国政に意欲をみせなくなった。
つまり、後嗣がうまれないということだからである。
このことは遼東王国の群臣らを不安にさせ、その不安を利用した公孫淵が公孫恭を脅して王位を剥奪し、みずからが王位についた。
呉の元号でいうところの、黄武七年(二二八)に起きた政変である。
遼東とは領土を幽州で接している魏の曹叡は、このことを聞くとさっそく使者を派遣し、公孫淵を揚烈将軍に任命し、遼東太守とした。
曹叡は、蜀と呉の戦線が一段落すれば、遼東を滅ぼしたいと考えている。
いまはそれができないので、公孫淵が呉や蜀と連携しないように穏便に機嫌をとっているにすぎない。
「このような爵位がなんになる。それよりも呉からは慶賀の使者はこないのか」
傲慢な公孫淵は、呉がじぶんの王に即位したこと祝賀する使者がこないことをなじった。
呉と遼東は離れていると思われるだろうが、じつは遼東半島の南端から船に乗れば、東莱郡にたやすく着くことができる。
ゆえに公孫淵の祖父である公孫度は兵を渡海させて東莱郡の諸県をうばい、支配をつづけていた。営州刺史をおいて領土の一部にしていたというので、継続的な経営をおこなっていたと思われる。
公孫淵の時代に、それがおこなわれていたのかは不明である。
とにかく中国とくに魏と国交をむすびたい近隣諸国は、公孫淵の遼東のために海路を封鎖されていたとみていい。
「三国志」の「烏丸鮮卑東夷伝」には、
「公孫淵が父祖三代において遼東を統治していたため、天子はそこを絶域として東夷との交易をあきらめた。ゆえに東夷とは隔絶することになり、中華に使者がやってくることはなかった」
と記されている。
西方の大国、たとえば亀茲、康居、烏孫、疎勒、月氏などから朝貢が毎年おこなわれているのに、東方の国々は公孫氏をはばかって魏へ朝貢ができないでいる。
むろん、この東方の国々のひとつに倭国、当時の日本が含まれていたことはまちがいないであろう。
倭国は、魏への朝貢の代わりに遼東の公孫氏に朝貢をおこなっていたと推測できる。
このような傲慢な公孫淵が呉のために協力してくれるとは考えられないが、孫権は公孫淵が魏のために海上から呉を攻撃する事態を避けたかったので、校尉の張剛と管篤に金玉や珍宝をもたせて遼東に派遣した。
張剛と管篤は公孫淵に謁見すると、
「わが主は天命を受けて践祚しました。皇帝になったわが主は、あなたさまに王の位を授け、今後は燕王と称されますように」
といった。公孫淵は不愉快なようすで、あごをあげた。
(孫権もかってに皇帝になったのか……)
こざかしい、と公孫淵は侮蔑の色をしめした。
すでに公孫淵の祖父である公孫度は、遼東王と自称しながら、天と地を祭り、籍田の儀式をおこない、鸞車に乗っていた。
この行跡はじぶんを天子となぞらえているもので、公孫淵もみずからのことを、
(われは、すでに王などではなく皇帝よ)
と内心思っている。
(一国に四人の皇帝は多すぎる……やがて魏呉蜀がともだおれしたときをみはからって、われが洛陽にのぼり、中華を統一してくれようぞ)
公孫淵は、局地で井の中の蛙になっているので、正気でこのような妄想をたくましくしているのである。
ゆえに近臣へ、
「適当にもてなしておけ」
といいのこして奥に下がってしまった。
金銀財宝も、遼東にあるものと比してさしたる豪華さではない。
ところで皇帝になった孫権は、朝廷に百官をあつめて宴会をひらいた。
「朕が皇帝の位に即けたのは、公瑾(周瑜)のおかげである」
しみじみといった。
老臣である張昭は帯にはさんである笏をあげて在りし日の周瑜の功徳を述べようとしたとき、孫権は張昭がことばを発するまえに、
「張公(張昭)の言に従っていれば、朕はいまごろ人に食を乞うていたであろう」
と皮肉をいった。
張公の言、とは赤壁の戦い以前に、張昭が曹操と戦わず降伏すべきであるといったことを指している。
孫権じしんも蜀を攻め取ろうとした周瑜を毒殺しているので、それを隠して意地の悪いことをいったものである。
憮然とした張昭は骨のある人であり、
(あのときは、偶然が重なっただけではないか)
と胸をそらして口をつぐんだ。
偶然とは、曹操軍に疫病が広がったことと、赤壁の戦いの季節に吹くことまれな東南の風が吹いて、周瑜は曹操の大軍を火攻めで壊滅させたことである。
奇跡がめったにおこらないことを顧みると、張昭以外にも大半の群臣が曹操への降伏を勧めていたのだから、張昭だけにその過誤をおしつけた孫権もそうとうに執念深い。
しかし、正史「三国志」の註をつくった裴松之は後年、
「天下が定まる機会が、そのときにあった」
と張昭の判断を弁護している。
たしかに孫権が曹操に仕えるようになれば、以後戦乱はやみ天下統一が果たされて、国民たちも疲弊することはなかった。
孫権の信用を失ったと感じた張昭は、
「私も年老いました。おあずかりしている官位と所領を返上いたします」
と数日後に朝廷に申告した。
「子布(張昭)がそのようにもうしたか……」
孫権は、建国の元勲である張昭を宴会で辱めたことを後悔した。
孫権の兄の孫策は死ぬ前になんども、
「子布を父のように思うのだぞ」
とくりかえしていた。そのことが急に懐かしく回想された孫権は、
「張昭にはあらたに輔呉将軍の位を与え、婁候に封じて一万戸の食邑を下賜する」
と命じた。
「そうなのか……」
張昭は気分をあらためて、孫権に仕えることになる。
孫権は酒が入ると人格が変貌してしまうので、このことが呉という国に大きな厄災をもたらしてしまうのだが、これは後のはなしである。
太子の孫登の補佐には、陸遜を建業によびよせた。世代がかわると、若い陸遜を張昭のように太子を守らせようとしたのである。
孫権が即位した年は、魏・呉・蜀が三国を鼎立させ、たがいにその基盤をかためた年であった。
魏の曹叡は首都の洛陽に宗廟を建築し、先祖の位牌を十二月に安置した。これまでの位牌は鄴に置かれていたので、高皇帝(曹騰)、太皇帝(曹嵩)、武帝(曹操)、文帝(曹丕)の位牌を洛陽の宗廟に移したわけである。
蜀の諸葛亮は、呉との同盟が堅固になったことにより、北伐に集中できるようになった。
そこで、漢中郡に二つの城を築いた。
まずは、沔陽に漢城を築いた。つぎに漢中郡の中心にある成固という土地に楽城を築いた。
この二つの城は、漢中に侵入してくる魏軍を守備するのに役立つだけでなく、北伐を行なう際に拠点にもなるのである。
魏の曹真は、蜀が漢中郡を要塞化して、なお魏に攻め込もうとしていることを察知している。
かれは太和四年(二三〇)の二月に、大司馬に任ぜられていた。のみならず剣をはずさず、履をはいたまま上殿することがゆるされた。また入朝したあと、小走りしなくてよいともされた。
これは魏の曹一族においても、特別な優遇であり、曹真じしんもこの待遇に応えることをのぞんでいた。
(このまま、諸葛亮にされるがままになっていてたまるか)
魏は後漢王朝から禅譲を受けた中華の正統王朝であり、蜀や呉にくらべるべくもない大国である。
(受け身にまわるのではなく、こちらから漢中を攻めて奪取してしまえばよい)
曹真は蜀征伐の計画をたてていたので、さっそく皇帝の曹叡に拝謁した。
「蜀は連年出撃しては、わが国の辺境を攻撃しています。
どうか私に征伐の軍を出させてください。いくつかの道から同時に侵攻すれば、諸葛亮は防備することができず、大勝することができます」
「ふ、ふむ……」
若い曹叡は蜀と呉に対しては、長期的な視点をおいている。
たしかに蜀が魏を攻めれば、連動して呉もうごくことはありうるだろう。
しかし中書令の孫資は、
「魏からうごくことは、得策ではありません。蜀や呉のような小国がわが国に対して軍を出せば、それだけ国が疲弊します。
ゆえにわが国は蜀と呉のうごきにつられず、辺境を固く守備しているだけで、国力を蓄えることができ、蜀と呉はおのずと枯死します」
といっていた。
(と、とは思うが)
孫資の提案に共感して、曹叡は呉蜀の侵略軍を出さないようにしてきた。
しかし先年敗北し憤死した曹休のように、守備をつづけることには将兵の士気がしぼんでしまう。
大攻勢をかけて惨敗した曹休は敵将に騙されて大敗したのであって、曹真は蜀のうごきを冷静に分析して出師しようとしている。
かつて大将軍だった曹真が大司馬に昇進したので、いまの大将軍は司馬懿である。魏の軍事をつかさどっているふたりのうちのひとりが蜀を攻めたいといっているのは、無視できない、と曹叡は考えた。
しかし、蜀の漢中郡は険阻をたのむ要塞と化している。曹叡は、なかなか曹真の出師をゆるす決断ができなかった。
なぜなら四月に太傅の鐘繇が死去し、六月には曹操の正夫人だった太皇太后が崩じ、その葬儀で軍事を前むきに計画する気分になれなかったからである。
七月に太皇太后を武帝(曹操)の陵に合葬して、曹叡は秦朗に声をかけられた。
「この時期に大司馬(曹真)の出師をお許しにならなければ、征蜀軍は冬に遭遇してしまいます」
「あ、阿蘇(秦朗の幼名)は、蜀攻めを、ゆ、ゆるしていいと思うか」
曹叡と秦朗は幼少時から後宮で親友だったので、曹叡も気軽に秦朗に相談ができる。
ふたりは少年時代から法律や兵法の書籍を熟読しているので、理解もはやい。
「おゆるしになっても、よいかと存じます。
ですが、いちどの遠征で漢中は陥落しないでしょう。敵の強固な反撃や、気候にはばまれたときは、むりをせず撤退させることにすれば……」
「そ、そうだな……」
魏国の最高司令官ふたりで、蜀を攻めるのだ。その出師を無碍にはできぬ、と曹叡はついに決断した。
「大司馬(曹真)と大将軍(司馬懿)に、蜀討伐を命ずる」
曹叡からの詔を聞いた曹真は、なかば年内の出師をあきらめていたので、
「これで、漢中を奪還することができる」
とよろこびのあまりさけんだ。
蜀討伐を心中で否定的であった司馬懿は、
「漢中を攻めることになった」
と覇気に欠ける声で、息子たちの司馬師と司馬昭に告げた。
「そうですか……」
ふたりとも父の司馬懿のように、よろこびをあらわすことをしない。
「大司馬はいまの諸葛亮を、過去の優柔不断な諸葛亮のままだとあまくみている」
司馬懿は、街亭で敗れてから諸葛亮はみずから兵を精強に訓練し、魏の虚をついて陳倉や武都、陰平を攻めるまでに成長していることを知っている。
しかも漢中郡に城をふたつも築いて要塞化し、あたかも曹真を誘い込んでいるかのようである。
「蜀兵は、山岳戦には熟練しておりましょうしな」
司馬師も、みずから兵を訓練していない曹真や司馬懿は、合戦において諸葛亮に劣ることを暗にみとめている。
「不慣れな土地に深入りして、疫病や天候にたたられないことを祈ります」
司馬昭が疫病と天候についてふれたことに、司馬懿は不吉を感じた。
蜀にも偵探から、
「曹真と司馬懿らが、四道を通って漢中に侵攻しつつあり」
との報告があった。
「かかったな、曹真」
諸葛亮は、ひそかに笑みをみせた。漢中郡を強化したのは、北伐の前線基地とするだけでなく、魏が攻め込んだとき撃退して国力を削る策でもある。
(いつでも来い。存分に相手してやろう)
諸葛亮の自信を感じた魏延と呉壱は、
「たまには敵をふせぐ戦も、おもしろい」
と語り合った。
曹真はついに八月、長安を発して軍を南下させた。
大規模な漢中攻略戦が、開始されたのである




