陳倉
二十七
蜀の建興六年(二二八)の八月に、魏軍が呉に大敗した、という報が届けられた。
魏の曹休が呉の周魴に欺かれ、石亭で壊滅的な敗北を喫した。しかもその直後に曹休はその敗北を悔やみながら病死したという。
(しかし、呉という国は人を騙してでも勝てばよい、という風潮は変わらぬらしい)
諸葛亮は、呉の戦勝を祝う書簡を孫権に送りながらも、そう考えていた。
赤壁の戦いで黄蓋の佯降によって勝った経験が、呉の倫理を麻痺させている。
(呉には道義などは、そだちようもないな)
諸葛亮は、呉のような地方政権ではなく、蜀を漢の正統を継ぐ王朝としたい大望がある。
五月に魏軍に街亭で敗れた諸葛亮は、夏に大規模な軍事訓練をおこなった。
(将兵の質を高めなければ、魏という大国には勝てぬ)
そこに、諸葛亮の気づきがあったといえる。敗北を直視し、少数の将兵でも教練を重ねれば、純度の高い戦略戦術を実行することができ、魏軍を凌駕できるはずである。
諸葛亮はみずから兵の教練をおこない、
「いまがきびしいときぞ。はげめ」
と兵たちに声をかけていった。
(丞相は、馬謖の失敗で成長したな)
趙雲亡きいま、蜀軍の柱石ともいえる魏延も、教練に参加しながら諸葛亮を見直した。
いわば、諸葛亮は兵のうごきが見えるところまでおのれを降ろし、手足のごとく指揮できる軍を編成しようとした。
法によってのみ人を制御することやめ、生の人との距離を縮めた、ともいえる。
(大軍と机上の軍略に、あまり意味はない)
蜀軍をみずから訓練しはじめた諸葛亮は、軍事における玄妙さに、一歩近づいたといっていい。
(劉備や関羽の兵法がすぐれていたのは、兵の顔を見て意思疎通ができていたからだ)
諸葛亮は、机上の戦略だけで馬謖と勝利を得ることができると錯覚していたじぶんを恥じた。
大軍であるからといって、街亭での敗北のように必勝を期すことはできない。
諸葛亮は兵法の基礎を魏延と呉壱について復習し、夏と秋を訓練に費やした。
「丞相は、お変わりになられたな」
訓練に同席していた呉壱は、魏延に話しかけた。
「うむ。失敗で成長する者と、そのまま沈没してゆく者がいる。丞相は、前者よ。
遠からず魏軍を撃破できるときもくるだろうて」
魏延も、満足そうにうなずいた。
用兵に自信を得た諸葛亮は、魏軍の大敗を聞き、少数精鋭を手足のごとくうごかしたくなった。
十一月に奏上し、西方から遠いところにいる魏軍を尻目に、関中を攻略するというものである。
「敗戦の影響からたちなおっていないのに、丞相はふたたび軍をうごかすのか」
劉禅は、上奏文を読んで首をかしげた。
「このたびの丞相は、地に足をつけた戦略をねっておられるようですよ」
費禕が、劉禅を安心させるようにいった。
「あの熱心な、軍事訓練のことか」
「さようです。丞相はさきほどの敗戦で測りきれなかった魏軍の実力を、識るという目的もあるようです」
「軍事訓練の、実戦演習のようなものか……」
費禕の説明を聞いた蔣琬も、はたと気づくところがあったようである。
「丞相も、泣いて身内にひとしい馬謖を斬ったのだ。馬謖のぶんまで軍事に精進しようとしているのだろう」
それが蜀の国民にとってよいことがわからぬが、と劉禅は心中でつけたした。
まさか春に敗れた蜀軍が、冬に出師することはあるまい、と諸葛亮は考えた。
かつて孟達を裏切らせようと逡巡していた諸葛亮は、もういない。
一月後に、諸葛亮は軍を率いて散関を出た。
かつてない決断と行動力である。
蜀軍は渭水に到着し、北岸の陳倉城を包囲した。虚を衝いたつもりの諸葛亮ではあったものの、魏の曹真は用心に用心を重ねて、
「つぎに蜀軍が攻めるとすれば、陳倉よ」
と予想して、将軍の郝昭と王生を陳倉城に籠もらせて、城壁の修築をおこなわせていた。
城兵は約千人だが、兵糧は充分備蓄がある。
もともと蜀軍の奇襲にちかい攻撃を予想していた曹真のもとへ、郝昭は援兵を乞う書簡を飛ばした。
陳倉は帝都洛陽にちかいので、数万の蜀軍を見ただけで、撤退するわけにはいかない。
「準備は整った。諸葛亮の兵法を見せてもらおうではないか」
郝昭は物怖じしない性格で、名宰相として名高い諸葛亮が、どのような攻城をしてくるか手ぐすね引いて、将兵によびかけた。
士気は高い。しかし、兵の少なさはいつまでも籠城できるわけではない。
諸葛亮も、兵の質を格段に高めた自信はある。
「この程度の城であれば、数日で落とさなければな」
そうつぶやいた諸葛亮の思考には、魏の曹真という援軍を想定している。
(曹真ならば、二十日あれば陳倉に到着するであろう)
渭水を渡った諸葛亮は、全軍の布陣を終えて、すぐさま陳倉城に猛攻を加えた。
蜀軍の練度はすさまじく、城はあっけなく落ちるかと思われたが、守将である郝昭の気魄はそれを凌駕していた。
猛攻をつづける蜀軍に、城壁の上から矢の雨を降らせ、三日経過しても城はびくともしなかった。
(諸葛亮……やるではないか)
精鋭となった蜀軍を迎え撃った郝昭も、ひとかたならぬ疲労をおぼえた。
数万の精鋭で城を包囲している諸葛亮もまた、
(守将は郝昭といったか……やるな)
とは感心したものの、千にすぎない城兵を見下している。そこは諸葛亮の戦略思想の弱点なのかもしれない。
曹操や劉備、関羽ならば寡兵で戦う経験も多く、かならず敵を恐れた。そして配下に名声をもつ武将を召し抱え、自軍を強化したゆえ、魏と蜀の国を建国することができたのである。
諸葛亮が抜擢した将は、馬謖と姜維だけであるが、馬謖に関しては武将というよりも軍師や参謀としての才能があったのかもしれず、一度の失敗で殺してしまっていれば、蜀の軍事における強靱さは増強されないであろう。
あと数日もすれば陳倉城は陥落するであろうとの予想をくずさない諸葛亮だが、できれば陳倉城を破壊せず、魏の援軍の曹真と戦いたいと考えた。
そこで靳詳という配下を、郝昭の降伏勧告に城内へ出向かせることにした。
「よいか。なんじは郝昭と同郷であろう。
寡兵においてむなしく戦死することがあきらかな同郷の友を、救ってやってほしい」
靳詳は太原郡の出身で、郝昭とは知り合いである。さっそく使者のしるしをもった靳詳は、楼上にいる郝昭を説得した。
説得を聞いた郝昭は内心、
(笑止、諸葛亮め)
と嘲笑する思いであった。
陳倉城の城壁はほとんど破壊されておらず、したがって兵も無傷の者が多く、士気も旺盛である。
あと十数日籠城すれば、援軍が来るめども立っている。そのような郝昭が降伏するはずがないではないか。
「魏の法がどういうものか、なんじも知っているだろう。また、われの性格も知らぬなんじではない。
われは皇帝より重大な職に就けてもらっているのだがら、必死に戦う他ないであろう。
還って、諸葛亮に伝えるがよい。ふたたび戦をはじめよ、とな」
靳詳が還って諸葛亮にそのことばを告げたが、諸葛亮は気にせぬそぶりで、
「郝昭は、戦で頭に血が上っているのかな。
明日になれば冷静になって、おのれが死地にいることを理解するであろう。
明日、再度郝昭を説いてきてくれぬか」
といった。靳詳は、
(丞相は、おそろしい自信だ)
と思った。おそらく郝昭の数手先まで読んで、蜀軍の勝利を確信しているのだろう。
ふたたび城下にやってきた靳詳を見やった郝昭は、
(われは、諸葛亮にどれほどみくびられているのか)
と腹が立った。
「なんど降伏を説得しようと、われの意志はかわらぬぞ。われはなんじを知っているが、矢の方はなんじのことなどかまいはせぬぞ」
郝昭は矢をつがえた兵たちを城壁の上にならべ、靳詳をねらわせた。
(こ、これはかなわぬ)
靳詳は郝昭の剛直さを知っているので、あわてて馬首を返して、諸葛亮に復命した。
「ききわけのない将軍よ」
諸葛亮は二日をむだにしたことは振り返らず、本格的な攻城を開始する命令をくだした。
諸葛亮がもちいた兵器は、雲梯である。
城門を破るためにまず衝車を近接させ、城壁の上と同時に攻撃するのだ。
大型兵器に臆する、郝昭ではない。
「兵器を破壊する策はある。じゅうぶんに城壁まで近づけよ」
巨大な兵器が城壁に向かって近づいてくるさまは、まるで恐竜である。
雲梯は首のながいキリンのようであり、衝車は堅牢なハリネズミのようである。
雲梯の長い梯子の上には兵をのぼらせる大きな箱がある。長い首の部分にはさらに何個もの箱があり、兵がそこから最上部にある箱に乗る兵士を援護する仕組みになっている。
「あえて雲梯の下部にある箱を、火矢で焼き落す」
雲梯が近づききってしまうと、陳倉城の守兵がそれより上に位置する雲梯の最上部の箱から矢の攻撃を受けてしまう。
「よし、放て」
郝昭が数百の火矢を、雲梯下部にある箱にむけて発射させた。
しかし数百年かけて進化を遂げてきた雲梯は、その程度の攻撃をはね返すようになっている。
箱に金属の札を貼り付け、燃えないように防御してあるのだ。
城壁と雲梯の兵両者からの、矢の応酬である。それでも雲梯は炎上しない。
「箱は防火措置がとられている。雲梯の梯子をねらって焼き落すぞ」
郝昭は軍吏に命じて、攻撃目標を変えさせた。城壁からの火矢は、箱にくらべて細い梯子を射撃することになったので、的中率がとたんに悪くなった。
反面、蜀軍の籠もる雲梯の箱からの矢が城兵に届くようになり、守兵の死傷者がふえた。
「郝将軍、矢に狙われます。こちらへ、退避してください」
佐官が、郝昭を矢の届かない場所まで案内しようとした。
「いらぬ。兵たちが戦っているのに守将が逃げることができようか」
郝昭は、その誘導を拒否した。
(諸葛亮め……ここで戦って死ぬまでよ)
そのときである。
雲梯の首の部分がにわかに赤く染まったかと思うと、火はあっというまに雲梯全体にひろがった。
「火矢があたったぞ」
城兵たちの歓声があがった。恐竜がうねるように、首が長い雲梯は轟音とともに焼け落ちた。
「油断するな。衝車がくるぞ」
もうひとりの将軍である王生が、兵たちの気をひきしめた。
衝車には、猛牛のような角がついている。
その角が城門に衝突し、城門が揺れた。
「大きな石を落して、衝車を破壊せよ」
城内のもっとも大きな石を落しても、衝車はびくともしない。
(どうする……そうだ)
城内に、穀物をすりつぶす石臼があった。
これを縄で結んで落下させれば、ちょうど衝車の真ん中に衝突し砕けるにちがいない。
郝昭と王生も兵たちにまじって、落下させる石臼の位置を調整した。
「よいか、衝車がつぎ城門にぶつかったときに、石臼を落す。失敗はゆるされぬぞ」
郝昭の檄に城兵は、おう、と集中力をたかめた。
すさまじい衝撃と音とともに、衝車が城門にぶつかった。
「いまだ、落せ」
門扉はかたむいているが、開いたわけではない。ふたたび後退しようとしている衝車の背中に、渾身の石臼が落された。
兵たちの歓声が、衝車を破壊したことを郝昭に告げていた。
「やったか……」
郝昭と王生は、城壁の下で粉砕された衝車を見た。しかし諸葛亮が、これしきのことで攻撃をやめるはずはない。
「丞相、雲梯と衝車が魏軍に破壊されました」
用意に用意を重ねた、攻城兵器である。
諸葛亮はわずかに眉をひそめたが、
「わかった。井蘭をつかう」
とあらたな攻城兵器を投入することを命じた。
井蘭とは高い櫓を建てて、敵城内に矢を大量に射込む兵器である。形が井戸の囲いのようなので、井蘭とよばれる。
もちろん井蘭を組み立てる訓練も万全であり、蜀軍はあっというまに百尺(二十四メートル)もの井蘭を完成させた。
「こんどは、井蘭だと」
さすがの郝昭も、疲労の色が濃くなった。
なぜなら井蘭の上から大量の矢が雨のように城中を守備する兵に浴びせられるので、城内でも盾をもって戦わねばならなくなったからだ。
(しかし矢を降らせるだけでは、この城を落城させられぬ……)
郝昭は矢を盾でふせいで城内を督戦しつつ、考えていた。
「申し上げます。敵兵が、濠を埋めはじめました」
兵からの報告を聞いた郝昭は、
「そういうことか」
と納得した。井蘭上からの攻撃に城兵の注意をむけさせ、その隙に濠を埋め立てて城壁を登る策である。
「それならば、援兵到着までの時間がかせげる。濠は埋め立てるままとさせ、井蘭からの防備だけにそなえよ」
陳倉城の士気は、衰えきったわけではない。
数日で城の濠を埋めきった蜀兵は、井蘭からの援護をうけながら、我先にと城壁をのぼりはじめた。
「ややっ、なんぞこれは」
城壁を登りきった蜀兵たちは、おどろきの声をあげた。
なんと城壁は、二重であったのである。
つまり、これまで攻めていた城壁の内側にもう一つ城壁があったのであるから、攻め手としてはたまらない。
曹真に諸葛亮が襲来することを予告されていた郝昭は、このように陳倉城を堅牢な仕組みに強化していたのである。
内側にいる城兵による矢の雨で、せっかく城壁を登りきった蜀兵はつぎつぎと転落していった。
諸葛亮は、あいかわらず恐れをしらない。
「ならば地中を掘りすすめて、城内に侵攻する」
とこともなげにいった。
「丞相のなさることは、郝昭に読まれているとは思わないか」
呉壱が、陣中で魏延に話しかけた。
「はじめての城攻めを丞相は試しておられるのだろうが、諸将に策をもとめてもよさそうだがな」
魏延は、苦笑した。
「うむ……虚実ないまぜにした兵法を実行せねば、郝昭のような強敵には勝てぬ」
呉壱も、魏延の意見に同意した。
さて、蜀兵は地中から城内に侵入すべく、地を掘りはじめた。しかし、この攻城策は数百年前の戦国時代には確立されており、郝昭の予想するところである。
どのように、それに対抗するか。
すなわち、城内からも敵兵に呼応するように地を掘るのである。
「蜀軍が攻撃をやめたということは、地中に坑道をほっているのではないだろうかな」
将軍の王生が、郝昭に提言すると、
「それに間違いあるまい。耳のよい者に地に耳をつかせて、蜀軍がどの方向から掘りすすんでいるか、探知させよう。城内からも、その方向に坑道を掘りすすめるぞ」
と即座に対抗策を実行した。
ひとしきり地上での戦闘がなくなり、戦場は静寂につつまれた。
それでも地下での攻防はつづいている。
地中で掘削作業をつづけている両軍の兵たちは、いずれ坑道を掘り進むうちに出会うことを想定していた。
蜀軍の訓練された工作兵も、城内から地中を掘削する音を察知している。
「魏軍が掘りすすめている坑道を奪えば、そこから城内になだれこむことができる。
穴がつながったら、戦闘がはじまるぞ」
やがて予想どおり両軍の坑道がつながって、兵たちは鉢合わせした。
城を守備する兵がよくつかう防御法として、坑道の出入り口で火を焚き、その煙によって敵兵を一酸化炭素中毒にして窒息させる手法がある。
しかし郝昭はその手法を用いず、両軍の地下での戦闘は二十日間にもおよぶことになった。
「煙を用いると見方の兵までが窒息するおそれがある。専守防衛だ。ひたすら狭い坑道で蜀軍をふせいで、大将軍(曹真)からの援軍を待つぞ」
郝昭の粘り強さは、尋常ではない。
(そろそろ魏軍の援軍が到着するころか……)
さすがの諸葛亮も、焦りをおぼえた。
その不安を馬の乗せて還ってきたような偵探が、曹真軍の到着を告げた。
(もう打つ手はないか)
諸葛亮は嘆息したが、はじめてじぶんで兵を手足のごとく指揮した軍事演習の側面では得るものがあった。
「撤退する」
みじかく諸葛亮は、全軍に告げた。
曹真に諸葛亮は敗北間もないにもかかわらず陳倉を攻める、と預言された時点で、蜀軍の勝利はなかったといえる。
「だ、大将軍(曹真)は、い、いながらにして諸葛亮を退けた。こ、これこそ将軍の模範であろう」
魏の皇帝曹叡に絶賛された曹真は、領地を加増されて、合計二千九百戸になった。
熾烈な攻城戦を守備しきった郝昭も、おおいに褒められて列侯の爵位を下賜された。
陳倉における攻防に参加しておらず、援軍に選ばれたのは曹真のほかに、老将の張郃である。
曹叡は張遼、徐晃亡きいま、張郃がもっとも気に入っている将軍である。
司馬懿のいる荊州にいた張郃を、救援軍の途中でわざわざ首都である洛陽に召し寄せ、それだけでなく河南城まで見送ったのであるから、曹叡の寵愛は厚いものである。
張郃には三万の兵だけでなく、武衛、虎賁といった近衛兵まで分け与えた。
張郃を見送る宴会の席で、曹叡は、
「し、将軍が陳倉に遅れれば、し、諸葛亮は陳倉を攻略してしまわないだろうね」
といった。張郃は、曹叡の不安を払拭するような強い口調でそれを否定した。
「私が到着するまえに、諸葛亮は退却しているはずです。
諸葛亮の兵数から兵糧を算出してみますと、十日以内に兵糧が底をつくはずですから」
さて、追われる立場となった諸葛亮は、
「われがみずから、後拒の指揮をおこなう」
といって諸将を驚かせた。
「そこで鎮北将軍(魏延)」
「おう」
「われらを追撃してくるのは張郃のようだが、その先鋒が隘路にさしかかったところで、伏兵としてそれらをたたいてもらいたい」
(ほう……)
魏延は、諸葛亮の勇気と戦略眼に感心した。
後拒と伏兵設置は魏延が諸葛亮に申し出ようと思っていたので、諸葛亮が俯瞰して戦場を視ることができることを知った魏延は、
「かならずや、敵先鋒を壊滅させてみせましょう」
と胸をはった。
張郃軍は、予想どおり蜀軍の撤退を追うだけのかたちとなった。
張郃軍の先鋒は、将軍の王双である。
「ここから先は悪路となる。騎馬兵だけを先行させる」
王双がその騎馬隊の先頭にいたことが、かれじしんの不幸であった。
なれない道を騎馬でいそいだ王双は、前方に諸葛亮軍を視認したものの、両側の森から激しい矢の雨を浴びた。
「待っていたぞ。魏文長といざ勝負せよ」
魏延の伏兵隊である。
雨でぬかるんだ隘路を戻るに戻ることもできず、王双は及び腰のまま戦闘状態にはいった。
諸葛亮もみずから後拒をおこなっているため、旗の向きを変え、魏延隊と三方から王双を包囲した。
王双はさすがによく戦ったが、衆寡敵せず、魏延の兵によって斬られた。
「すこしは手みやげができたな」
魏延は奮闘した諸葛亮の軍を見て、うなずいた。
王双の先鋒軍が壊滅したので、張郃は追跡をやめた。
(蜀軍は、余力を残しているな)
いわば陳倉を攻めた蜀軍は、郝昭の奮闘で城を攻めあぐねただけで、戦闘で敗れたわけではない。
そこに曹叡から、
「帰還すべし」
との詔を受けた張郃は、洛陽にもどった。
昇進して、行征西車騎将軍に任命された。
とくに功績をあげていないのに昇進して車騎将軍になった張郃は、地位において司馬懿に比肩できるまでの者となった。
このことが悲劇をうむことになるが、のちのことである。
陳倉城の攻防戦は公平に見て、魏軍が城を守り通したので魏軍に軍配が上がるだろう。
しかし、諸葛亮は撤退戦で王双を斬ったことをことさら強調した。
「丞相は軍の威光を輝かせて、敵将軍の王双を斬る功績をたてた」
劉禅は諸葛亮を、
(みぐるしい……)
と感じながらも、褒詞を述べている。
じぶんをみぐるしいとわかっているのは、諸葛亮も同様である。
兵の指揮や攻城において手ごたえをもったものの、戦果はなく軍資をついえさせただけであった。
(われの代わりになるものは、蜀王朝におらぬ……)
かなしく思索した諸葛亮は、すこしでも戦果に値すべき事柄を強調するしかなかった。
前回魏を攻めて将軍の見込み違いで大敗し、今回は虚勢に終わったとなれば、丞相という地位に鼎の軽重を問われかねない。
(代わりがいなければ、われが万機を掌握せねば、蜀は滅ぶ)
諸葛亮は、恥にまみれても戦いつづけることを選んだ。
春になった。
諸葛亮は、成都のあたたかさにくるまりながら、つねに魏を征伐し勝利することを考えていた。
「武都と陰平を、急襲する手はいかがです」
姜維に献策を受けた諸葛亮は、にわかに心が躍動するのを感じた。
「それはいい。敵の虚を衝かねば、敵に打ち勝つことはできぬ」
馬謖亡き後、若い才能の姜維と軍事を話し合うことが増えた諸葛亮は、姜維とじぶんが軍事に関する考え方が似ている、と思った。
(兵法の肝に触れたぞ)
諸葛亮は足早に参内し、劉禅に謁見した。
「出師であるか。丞相は帰還されたばかり。
御身をいたわってはどうか」
劉禅は、諸葛亮を見た。
(どうしても、勝ちがほしい顔をしているな……)
わずかな嫌悪感をおぼえた劉禅にかまわず、諸葛亮は整然と持論をのべた。
「魏は、まさか帰国したばかりのわが軍が、すぐに出兵するとは思ってもいないでしょう。
戦闘は夏以降にあると、油断しているはずです。戦とは敵が重いもよらないところを衝くのが常道なのです。
どうか、出師をお許しくださいますよう」
「そうか……」
皇帝の劉禅でさえ、諸葛亮の訴願をはねつけることができない。
諸葛亮は、独裁を確立しているといっていい。
諸将を招集した諸葛亮は、すみやかに軍の編成をおこなった。
「扶風郡への出兵ですかな」
魏延の問いに諸葛亮は、
「いや、今回は漢中より西の武都郡と陰平郡に出兵する」
とはれやかな表情でいった。
(馬謖と立案した范雎の兵法を、場所をかえておこなうつもりか)
呉壱が、魏延に目くばせした。
軍議が解散されたあと、魏延は呉壱の陣をたずねて、
「丞相の戦術は、現実的になってきたな」
と感想をのべた。
「街亭のような遠所で、いきなり決戦をいどんで敗れたことを学んだと思われる。
いまは伯約(姜維)とよく軍事について諮問されているようだから、このたびの策も伯約からでたものであろうよ」
「あのとき、長安を攻めていればなあ」
魏延は、いまでも最初の北伐で長安を長躯急襲しなかったことを悔いている。
二度も蜀軍と戦った魏軍相手に、この策は通用しない。
呉壱が指摘した諸葛亮のこだわっている范雎の策とは、こういうものである。
范雎は点と点を結んで直線をのばす兵法を否定し、かならず三点を取って面を作り、その面を増やしていく領土の拡張法を考案した。
諸葛亮は、天下を取ることができなかった孫子の信奉者ではなかったので、天下を統一した秦の范雎の兵法に合理性を認めたのであろう。
すなわち遠親近攻というもので、遠い呉と親交を強め、近くの魏の郡県を取り、占領をつづける。
これをねばりづよくつづけてゆくことで、蜀の領土は拡大し、魏を圧迫することができる、というわけである。
「先鋒は陳式とする」
この人選には、諸将もおどろきはなかった。
陳式は猛将で、劉備に信頼されていただけでなく、関羽の仇討ちで呉に攻め入ったとき水軍を任されて猛威をふるった。
もちろん山岳戦をやらせても、そつがない。
陳式の軍は、すばやく武都郡に侵攻した。
あまりの速さに、雍州刺史の郭淮は陳式軍をおさえきれなかった。
「蜀軍は陳倉から帰国したのではなく、国境にひそんでいたのか……」
完全に裏をかかれた郭淮は雍州の兵を武都郡にむかわせた。
これまでの諸葛亮ならば、軍の連動ができず陳式だけに戦わせていたのであろうが、魏延と呉壱に戦術を学んだいまの諸葛亮の軍は、陳式への援軍をすみやかにおこなった。
諸葛亮は敢然と武都郡北部にある建威まで主力をすすめると、北の雍州から援軍に来た郭淮の軍と対峙した。
あまりに堂々とした蜀軍に恐れをなした郭淮は、一戦も交えず撤退した。
諸葛亮は一戦一戦、自軍を手足のごとく指揮できるようになってきており、総帥として成長している。
「丞相の軍が援護してくれるならば、陰平も落としてやろう」
陳式の軍は、諸葛亮のすばやい後援によって士気がおおいにあがった。
ほどなく武都郡につづいて陰平郡も平定し、版図にくわえた蜀軍は、はじめて魏に対して痛快な勝利をえることができた。
(魏軍に、勝った……)
諸葛亮にとっては辺境における局地戦の勝利であっても、じしんの指揮能力を存分に発揮できた会心の戦であった。
劉禅は、有言実行を果たした諸葛亮の軍事を褒め称えた。
「街亭の役での敗戦は、馬謖の罪であった。
しかるに君は敗北をじぶんのせいにして、地位を落した。
朕は君の意を汲んで、君の意思を重んじたのである。
前年は出師して王双を斬り、今年も遠征して郭淮を遁走させた。
氐と羌の族人を多く降して、武都と陰平の二郡を平定した。君の威は凶暴な賊を鎮め、その功績は顕かである。
いまだ天下は騒擾し、元悪は梟首されておらず、ここで君を丞相の位に復位させる。辞退してはならない」
ときに蜀の建興七年(二二九)の春に、諸葛亮は丞相に復帰した。
敵の虚を衝く孫子の兵法と、獲得した武都と陰平の二郡を保有する范雎の兵法を融合させた戦略は、若き才能である姜維との協議であみだされたものである。
大敗や軍事演習にちかい城攻め、撤退戦、敵の虚を衝いた局地戦の勝利を経験し、諸葛亮は、急速に用兵を上達させた。
蜀の将兵だけでなく官民も、
「丞相の軍は、強くなった」
「魏の兵などに、負けはせぬぞ」
とおおいに自信をもった。
しかし、こんど魏を攻めるときには、諸葛亮は漢中に駐屯して北伐の用意をすることであろう。
そのたびに、朝廷から諸葛亮はいなくなり、漢中の幕府で朝政をおこなうことになる。
成都の朝廷には、蔣琬と費禕という敏腕の政治家が劉禅をささえているとはいえ、こころもとない、と蜀の官民は感じている。
その不安をふきとばす大事件が、呉からもたらされた。
丞相府で政務を執っている諸葛亮のもとに、楊儀が早足で入室してきた。
「丞相、一大事ですぞ」
諸葛亮は筆をおき、顔をあげた。
「なにかな、一大事とは」
「はい。四月に呉王の孫権が皇帝の位につきました。黄龍元年という改元もしたということでございます」
諸葛亮は、あおざめた。
(このようなときに……)
このことにより、中国に三人の皇帝がならび立ったことになる。
蜀の群臣たちは、そろって憤慨しているという。
(孫権……児戯にひとしいことを)
諸葛亮は、おおきくため息をついた。




