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亡蜀記  作者: コルシカ
26/31

街亭


         二十六


 劉備を裏切った孟達は、諸葛亮に叛乱をおこさせられたが、司馬懿にしかけられた電撃戦の前に孤立無援のうちに戦死した。

 それをみずからの失敗といわず、あたかも裏切り者を敵に始末させたかのごとくふれなかった諸葛亮は、ついにみずから北伐すると宣言した。

 「まずは、鎮東将軍(趙雲)と揚武将軍(鄧芝)」

 「おう」

 長い停滞に飽きた趙雲は老将であるが、目を輝かせた。鄧芝は文官として呉との外交を担当したことは先に述べたが、将軍としての能力は未知数である。

 「ふたりは斜谷道を出て、郿にむかってもらう。しかし、肝要なのはなるべくその進軍をゆるやかにおこなってもらうことだ」

 「つまりは、別働隊……おとりとして敵主力をひきつける、ということですか」

 鄧芝が、諸葛亮に趙雲とじぶんの役割を確認した。

 「いかにも」

 諸葛亮は、うなずいた。

 「しばらく、丞相」

 魏延が、発言をもとめた。

 「なにかな、鎮北将軍(魏延)」

 「はい。鎮東将軍を斜谷にむかわせるならば、丞相の主力軍は褒中を通って長安を攻めるご所存か」

 諸将が、ざわめいた。おとりを敵に食いつかせて、長安を急襲するのであれば、これこそ勇気ある決断である。

 「そうではない」

 諸葛亮は、即座に魏延の予想を否定した。

 「ならば……」

 諸葛亮の率いる主力は、どこを攻めるのか。

 諸将は、困惑の目を諸葛亮にむけている。

 「魏の雍州西部を攻略する。鎮東将軍の別働隊に敵をむけさせ、われは主力を率いて天水郡へくだり、敵の交通を遮断する。

 そうすれば、天水郡から隴西郡の雍州西半分へは兵と兵糧が届かないので枯渇し、われらは戦わずしてそれらの領土を奪うことができる」

 「なんと」

 「范雎が用いた兵略か……」

 呉壱が、つぶやいた。すなわち領土を線で攻略するのではなく、面で攻略し保有する土地をふやしながら前進するのである。

 (それで曹真や張郃をだませるか)

 魏延は、諸葛亮の策に疑問をもった。

 魏に名将はすくなくなったとはいえ、大将軍の曹真や左将軍の張郃が西部方面に派遣されるであろう。

 (そのような難敵と戦わずとも、長安には夏侯楙という無能な将しかいない)

 夏侯楙は夏侯惇の次男で、曹操の娘である清河公主を妻にしているため、皇室につらなり、安西将軍に任じられて長安を守備している。

 風聞によれば、武辺はまったく能力がなく、蓄財が趣味でそれにいそしんでいるため、身内からも軽蔑されているらしい。

 「丞相、意見をよろしいですか」

 魏延は、たまらず諸葛亮にむけて挙手した。

 「うむ。なんなりと申してみよ」

 「はい。われらは長安を急襲すべきかと存じます」

 諸将のあいだに、どよめきがおこった。

 だれもがはるかかなたの魏の副都である長安を、眼中にいれていなかったのである。

 魏延は、みずからの戦略をのべた。

 「仄聞するところによりますと、長安の守将である夏侯楙は若く怯で、しかも無謀であるとのことです。

 いま私に兵五千と兵糧五千斛をいただきますと、褒中より出て秦嶺の山々をつたって東行し、子午道にあたりますと北上し、一気呵成に十日で長安に至るでしょう。

 夏侯楙に戦歴はなく無能なのですから、かれは私の軍を見るやいなや、船で長安から逃走します。

 空になった長安には京兆太守と御史しかおらず、横門にある邸閣には蓄えられた糧食がありますから、われらは飢えることがありません。

 東にいる魏軍が、長安の救援にむかうには少なくとも二十日かかります。ゆえに丞相の主力軍が斜谷から長安に入るには充分の日数となります。

 この策を実行なさいますと、一挙に咸陽より西の地域が平定されます」

 まさに敵の意表を突く、大戦略である。

 蜀軍は曹操以来、魏軍と戦っていない。つまり、魏軍はいまの諸葛亮の戦い方を知らないということだ。

 一度でも矛をまじえてしまえば、諸葛亮の戦い方や癖を司馬懿や張郃は見抜いてしまうであろう。

 その前に。

 霧中から正体の知れない蜀の別働隊が、長安を急襲すればどうか。

 おそらくこのような速攻を魏軍は予想しておらず、長安は大混乱となるであろう。

 諸葛亮は、魏延の策を表情も変えずに聞いていた。

 しかし、その胸中は動揺を禁じえなかった。

 (このような策があるのか……)

 狼狽した、といってもいい。

 それを察した馬謖が、反論した。

 「鎮北将軍(魏延)の策は、十全ではありません。

 鎮北将軍の奇襲部隊が子午道を通ることを、魏軍が察知していたならどうなりましょうか。

 将軍と五千の兵は狭い子午道で全滅してしまいます。さらに、その魏兵が将軍の通ってきた道を逆にたどって、褒中を襲うでしょう。

 この危険があるかぎり、将軍の策を採用することはできかねます」

 「たしかに、いきなり長安を攻めるというのもどうか……」

 諸将も、魏延の飛躍的な戦略に賛成するものはいなかった。

 (そろいもそろって、怯よ)

 魏延は、歯ぎしりした。

 魏は、いま蜀軍のうごきのにぶさに油断している。それの虚を衝くことこそ、兵法における常道なのだと魏延は考えている。

 「われらは、必勝を期してこのたびの出師にのぞまねばならぬ。

 ゆえに平地の道をえらび、まず雍州を取る」

 諸葛亮は、そう宣言した。

 (われらの大義は、どうなる……)

 魏延は、うなだれた。

 蜀こそ漢の正統を継ぐ正義の王朝であるとしめすには、ただ蜀の領土を増やしても意味がない。

 魏の副都である長安をいきなり陥落させ、民衆の歓声をあびてこそ、北伐の最初の意義がある。

 「諸将、よろしいか。先鋒は、馬謖とする」

 (なんだと……)

 魏延は、顔面が蒼白になった。

 なぜなら魏延は漢中郡の太守をつとめたことがあり、漢中と以北に詳しい。

 そのじぶんをさしおいて、軍事が未経験で、成都より南の越嶲郡の太守をつとめていた馬謖が、先鋒に抜擢されたのである。

 (雍州の地理を、馬謖が熟知しているはずがない……丞相の縁故で先鋒になったのか)

 これは諸将にとっても衝撃であったので、みな口々に、

 「先鋒は魏延か呉壱であろうと思ったが……」

 「馬謖は、丞相の義兄弟だ。手柄をたてさせてやりたいのであろう」

 と懐疑的な意見がかげでかわされた。

 魏延を張飛にまさる武将として認めてくれたのは、劉備であった。劉備は馬謖の実力は口ほどではない、とも諸葛亮に伝えたのだ。

 諸葛亮は、劉備の人物観察眼を無視した。

 馬謖こそ総帥である諸葛亮の指示を明確に実行できる将であり、魏延は独断専行の危険がある将であると見た。

 「以上である」

 諸葛亮は、軍議の終了を告げた。

 この決断は、のちになって大きな誤りであったとわかることになるが、やはり魏延に長安を急襲させるべきであり、そこまでせずとも先鋒は魏延にすべきであった。

 諸葛亮は馬謖に期待を寄せすぎ、魏との緒戦の大切さを棄ててしまった。かつて劉備には龐統、黄権、馬良という優秀な軍師がいたが、かれらが諸葛亮の側にいれば、この策をとめたであろう。

 そう考えると、この三人の中で唯一生存している黄権を、魏に降伏させたのはいかにも惜しかったといわざるをえない。

 その黄権は、魏でどのようにすごしていたか。曹丕と曹叡におおいにその器量を認められたかれは、益州刺史さらには河南尹に昇進した。

 司馬懿は黄権の才能と人柄に傾倒した一人だったので、

 「蜀には、あなたのような人材が何人もいるのですか」

 と気さくに声をかけるまでになった。

 黄権は司馬懿がじぶんに好意をもってくれることが意外であったらしく、

 「あなたが、私のことをこれほどまでに気にかけてくださっていたとは、思いもよりませんでした」

 と笑顔で答え、さらには、

 「諸葛孔明は、天下の奇才です。私があしもとにおよぶものではありません」

 と率直に語った。司馬懿は、いよいよ黄権の人柄を敬慕し、のちに諸葛亮と対決するに至ったとき書簡にこう書いた。

 「黄公衡(黄権)は快男児です。つねに足下のことを褒め、話題にしております」

 黄権はさらに魏で生き続け、景初三年(二三九)には車騎将軍、儀同三司に昇進した。

 翌年に亡くなり、景候と諡された。

 亡命した将軍が、亡命先で王朝運営者の三公の下である車騎将軍になるのはめずらしい。

 黄権が蜀の陣営にいたならば、魏延の長安急襲策を支持したか、馬謖の策を支持したかどうか。

 「蜀軍北進」の報は、魏の朝廷を騒然とさせた。

 諸葛亮が幕府として長期間漢中にとどまっていたことは知られていたが、孟達の謀叛が失敗したいま、

 「諸葛亮は、軍を成都に返したのではないか」

 と推測する臣がふえていたせいもある。

 現実に諸葛亮は成都に還るどころか、魏の雍州に攻め込もうとしている。

 「関羽や張飛、馬超もいない蜀軍が、大魏に戦を挑んでくるとは……」

 魏も蜀と同様多くの名将が亡くなったが、司馬懿をはじめ張郃、曹真らが健在である。

 なにより蜀軍は益州ひとつの軍ではないか。

 魏は司州、幷州、荊州北部、豫州、兗州、冀州、揚州北部、青洲、徐州、幽州西部、雍州、涼州あわせて十二州が、領土である。

 この国力の差をかえりみず、戦いを挑むとは諸葛亮は正気なのか。

 しかもその軍事行動は隠密にされているらしく、正確な報が偵探からもたらされず、朝廷も対応に苦慮していた。

 そのなかでも冷静なのは、皇帝の曹叡である。曹叡は大将軍の曹真を招き、

 「じ、情報が錯綜している。て、偵探はみな蜀軍が斜谷を出て郿を攻めるという予想をたてているので、だ、大将軍(曹真)は郿にむかい、蜀軍を迎え撃っていただきたい」

 と懇ろに命じた。

 曹真がかしこまって出撃した後も、郿からの報告はいっさい曹叡のもとに届かない。

 曹叡は蜀軍のうごきを予想していたが、八日を過ぎても郿で蜀軍と曹真が交戦したという情報がないままであった。

 「……もしや、陽動作戦ですかな」

 驍騎将軍の秦朗が、曹叡に判断をもとめた。

 「あ、ありえる」

 曹叡は、偵探からの報告書簡を読みくらべて熟考している。

 日をおかず、曹真が漢中郡を攻めるため進路を南に変えたとの報告が入った。

 「し、諸葛亮は、漢中から出ていなかったのか」

 曹叡は、はじめて敵に裏をかかれるという経験に、青ざめた。

 諸葛亮は、曹真を漢中に誘い込んだのである。曹真は有能であるとはいえ、臨機応変の戦術に対応しつつ冷静をたもつことができるかどうか。

 「後援の軍を、すばやくお送りになるべきです。諸葛亮の目的は、別にあるとかんがえられます」

 秦朗も、心中狼狽している。孫権を相手に戦っているときには、このような不穏な気配はなかった。

 もちろん、曹真を後援する軍の総帥は曹叡である。洛陽で軍の編成をいそがせていた曹叡のもとに、急報が入ってきた。

 「諸葛亮は、祁山を攻撃中。郿県より西の天水郡、南安郡、安定郡の三郡は、官民が叛き、諸葛亮に呼応したとのことです」

 (し、してやられたか……)

 曹叡は、諸葛亮に裏をかかれた悔しさを一瞬にじませたが、冷静に宮中を見まわすと、群臣が右往左往しており、じぶんがうろたえるわけにはいかぬ、と居住まいを正した。

 「し、諸君。し、諸葛亮は長年山をたのみにして堅固に守備してきたが、い、いまようやく守りを棄てて山を降りてきたぞ。

 こ、これは兵書にいうところの、人をまねく術である。

 さ、三郡をむさぼって退くことをしらぬ諸葛亮を、討ち滅ぼすのは、いまである」

 微笑をたたえた曹叡は、群臣をはげますようにいった。

 とはいえ関中が震撼しているのは、事実である。

 曹叡は、みずから兵を整えしだい長安にむかうことを宣言し、荊州に駐屯していた張郃に、

 「すぐさま、諸葛亮の軍を迎撃せよ」

 と命令をくだした。張郃は歴戦の猛将であり、漢中攻防戦で夏侯淵とともに劉備と戦ったこともある。

 適切な人事であった。

 特進の位をさずけられた張郃は、諸葛亮の意外な戦略を見抜くことができなかったが、

 (陛下は、武帝についで軍事の才能がある)

 とはやるきもちをおさえつつ思った。

 そうではないか。

 諸葛亮が祁山に進出して喜んだ曹叡は、諸葛亮が曹真を誘殺せず惑わせただけで、霧の中から天水郡に姿をあらわしたことに、安堵したのである。

 (諸葛亮は、急な策を弄さぬらしい)

 張郃が感じたのは、それである。

 主戦場は、曹真が救援にむかった郿県ではなく、右扶風より西の天水郡になる。

 張郃の兵は歩兵と騎兵をあわせて五万、一方の諸葛亮軍の先鋒をつとめる馬謖は、祁山から北進して渭水を渡った。

 「街亭まで軍を進める」

 馬謖は渭水のほとりにとどまらず、進軍を命じた。

 みずからたてた策に魏軍はひっかかり、右往左往しているのを知って、自信をみなぎらせているといっていい。

 諸葛亮は祁山のやや北にある西県に、主力をとどめている。

 「先鋒と、距離が開きすぎているのではありませんか」

 呉壱が、諸葛亮に訊いた。

 「鎮東将軍(趙雲)に割いた軍が少ないので、陽動作戦が敗れた場合、救援をさしむけたい」

 そういって諸葛亮は、偵探からもたらされた報告書簡から目をあげた。

 (幼常には、子均をつけてある……経験不足は、子均がおぎなってくれよう)

 諸葛亮とて、初陣にして先鋒の馬謖を信用しすぎるわけにはいかない。王平を佐将にして街亭をまもりきる功績をたてさせてやりたかった。

 王平は、あざなを子均という。

 出身は益州の巴西郡である。もと曹操に仕えていたが、劉備との漢中攻防戦に敗れた曹操が撤退したとき、劉備に降伏した。

 曹操には校尉に任命されていたものの、劉備は王平の能力を高く評価し、牙門将裨将軍に任命された。

 将軍としてなんども戦場をふんでいる王平は、戦場経験のない馬謖の補佐としては、適切な人選であった。

 ところが、である。

 王平は馬謖にしたがって街亭に到着すると、川のほとりに迎撃の陣をしかずに、全軍が山に登りはじめたのを見て、奇妙だと思った。

 実戦では山を背にして戦うことがあっても、山に登って決戦をおこなった事例はない。

 「軍を、麓に降ろされるべきです」

 王平は、あわてて馬謖に進言した。

 しかし兵書を熟読している馬謖は、王平を軽く見やって、

 「高所に利はある。なぜ、軍を降ろさねばならぬのか」

 と嘲笑していった。王平は文字を十字しか書けない。そのような無学な将軍の助言など必要としないという態度である。

 たしかに「孫子」では、

 「戦わんと欲する者は、水に附きて客を迎うることなかれ」

 といっている。つまり、水辺で客つまり敵を迎え撃ってはいけないということだ。

 さらにすこしでも高いところがあれば、そこに登り、戦うべきだというのが孫子の兵法の基本にある。

 孫子の兵法を熟読している馬謖からすれば、街亭の地形を見てすぐに川から遠ざかり、山に登った。

 無学な王平には、孫子の兵法を理解する能力はない、と断定した。

 「このような小さな山に登りますと、水源を敵におさえられます。どうか山から兵を降ろしてください」

 王平は、必死の諫言を何度かおこなった。

 街亭は、緒戦でも要地である。

 このような陣では、戦う前から敵に負けているのも同然だ。

 王平の諫言をあざわらった馬謖は、

 「それほど下山したければ、なんじの兵だけを降ろすことをゆるそう」

 といった。

 「勝利の功績は、なんじには分け与えられぬぞ」

 とまで馬謖は王平を侮辱したのである。

 王平は憮然として少なくない兵を率いて下山したが、このことが先鋒の滅亡を救うことになる。

 おくれて戦場の街亭に到着した魏の張郃は、

 「川の対岸に、敵陣はありません」

 という偵探の報告を聞き、おどろいた。

 「川を、渡らせてくれるのか」

 いぶかりながら、注意深く川を渡り終えた張郃が見たのは、山上に陣をおいた蜀軍である。

 「このような陣立てを、みたことがないぞ。

 敵軍は奇策を弄しているのではないか」

 罠か援軍が近くにいるのではないか、と張郃は疑った。

 多くの偵探をはなったところ、蜀軍の主力は西県におり、先鋒と離れている。

 また、張郃の軍の退路を断つために別働隊もいない。

 ということは。

 「蜀軍の先鋒大将は、馬謖ときいたが……他国に聞こえた馬良の弟にしては、戦場の経験がないのではないか」

 という結論を、張郃はみちびきだした。

 「山上に、水源はあるか」

 「いえ、この山は麓にしか水源はありません」

 偵探の答えにおおきくうなずいた張郃は、

 「敵に策はないぞ。山上の敵を取り囲む。

 この戦、勝ったぞ」

 と自信をみなぎらせて、いった。

 蜀兵は山から降りて、水を汲みにきているはずである。山を取り囲んだうえは、それらの兵に水を渡さなければ、山上の本陣はまもなく枯死する。

 山を降りて別の陣を敷いていた王平は、ためらいなく張郃が山を囲む陣を展開したのを見て、

 (おそれていたことが、おこった……)

 と絶望した。このままでは馬謖のいる先鋒の本陣は全滅してしまう、と思った王平は近習を呼んで口述筆記で、諸葛亮に書簡をしたためた。

 「これを至急、西県にいる丞相のもとへ。援軍を乞う、とな」

 先鋒から追いやられた王平に、馬謖を救出して張郃を追い払う戦力はない。

 一方の馬謖は山上から、張郃の軍が麓で土を掘り塁を築いているさまを見て、

 「張郃は名将だと聞いていたが、たかがしれているな。兵法の初歩も知らぬのに、よく魏の将軍になれたものだ」

 と笑うだけであった。

 王平は、冷静に張郃が塁を築くのを眺めていたが、

 (張郃の本陣は、工作兵がいないいま、がらあきではないか。

 山上から電光石火で攻め下れば、張郃の首を取れる……馬謖はなにをしているのか)

 と歯噛みした。馬謖は敵を侮るだけで、少ない勝機をみずから棄ててしまったといっていい。

 翌朝には、昼夜工作をほどこした張郃軍は、堀と壁で馬謖が山上にいる山を取り囲むことに成功した。

 のこりの魏兵は水源を探し出し、数日のうちにすべての麓にある水源を遮断した。

 この最悪の事態を察知した王平は、麓近くに営所をつくっていたので、自軍の水源は確保しているものの、山上の馬謖にいそいで使いをおくった。

 「魏兵が山を取り囲み、水源を断っています。はやく汲道を確保してください」

 「なんだと」

 ここにきてはじめて張郃が戦闘を開始しない理由を知った馬謖は、あわてて隊を三方にうごかした。

 しかし場当たり的な指示に隊は混乱し、堅固につくった陣はたちまち穴があいた。

 「敵は、ようやく気づいたようだ。攻めるなら、いまだ」

 張郃は太鼓を打ち鳴らし、狼煙をあげて全軍に攻撃命令をくだした。

 魏兵は四方に配置されており、いっせいに山上へむかって攻め上がった。

 「なぜわが本陣が、包囲されている」

 馬謖は事態を知って、さけんだ。

 敵陣が馬謖の本陣の正面にのみ、存在すると考えていたからである。

 張休、李盛は馬謖のとりまきにすぎず、諸葛亮に気に入られている馬謖の意見に追従するしか能のない将であったから、人事も最悪であった。

 孫子の兵法は兵站という概念がなく、現実にそれを活かすには、その研究者であった曹操のように戦場をふまねばならない。

 しかし戦場経験のない馬謖は、孫子の理論をすべてとし、敵にもそれをあてはめてしまった。

 蜀軍は、はじめから防戦一方である。

 四方すべてが敵で、劣勢の報告を聞いた馬謖は、あわただしく救援をおくっては敗退することをくりかえした。

 「このようなことが……ありえぬ」

 馬謖は目の前に展開されている戦況が、理解できなかった。

 山中での戦いを想定していなかった蜀軍は、それでも諸葛亮に訓練されているだけあって、山岳戦をよく戦った。

 しかし、山腹でのどのかわきにより体力をうばわれている蜀兵は、魏兵からの突き上げでつぎつぎと討たれていった。

 馬謖は、現実から逃避して兵書に思いをはせた。低所にいる兵がなぜ、高所にいる兵に勝るのか。すべては現実の戦場に立ったことのないおのれの独断であることに、馬謖が気づくことはなかった。

 「馬謖は、夜間に撤退するであろう。そこを急襲し、輔斬する」

 張郃の命令は純度が高く、兵たちには迷いがない。いったん兵を、麓まで降ろした。

 日没になった。

 馬謖は側近の張休と李盛にうながされるまま、なんとか山麓まで降り、逃亡しようとした。

 「みつけたぞ、馬謖」

 多くの火を炊いた張郃は、崩れに崩れ、逃亡する馬謖軍を追跡した。

 そのときである。

 遠くから太鼓の音が聞こえてきて、少なくない兵の気配が濃厚になった。

 王平の隊である。

 「蜀軍に、伏兵がいたか。奇襲にそなえよ」

 張郃は、各隊に伝令を飛ばした。

 「敵兵に、わが隊の全貌はわからぬぞ。敗走する先鋒の兵を吸収しつつ戦う」

 王平の戦闘能力は、張郃におとらない。

 日中は混乱にまきこまれないように鳴りをひそめていたが、日没とともに馬謖の救援と反撃の機会を麓でうかがっていた。

 沈毅で整然とした王平の隊は、闇夜の魏兵にとって脅威である。

 「追撃をやめよ。奇襲があるかもしれぬ」

 張郃は戦の体勢が決したいま、闇夜の不確定要素がおおい強敵と戦うことをやめた。

 山上でさんざんに蹴散らされた先鋒軍は、王平隊に加わり、負傷者は後方に逃げたため、王平隊はすでにかなりの規模になっている。

 われをうしなった馬謖が戦死しなかったのは、文字を十字しか書けないと馬鹿にした王平のおかげであった。

 そのころ、西県にいる諸葛亮に王平からの書簡が届いていた。

 「あの幼常(馬謖)が……」

 諸葛亮は書簡を読むなり絶句して、すぐさま街亭にいる先鋒へ救援をさしむける準備をはじめた。

 (もう、幼常の軍は敗れているかもしれぬ)

 諸葛亮の不安に追い打ちをかけるように、先鋒軍が張郃に大敗したとの報せがとどいた。

 「丞相、曹真の軍がこちらにむかっているようです。張郃と曹真に挟撃される前に、撤退するしかありません」

 楊儀が顔面蒼白で、いった。

 北と東から大軍が迫っているからには、諸葛亮の本陣はその攻撃に耐えられない。

 馬謖はもはや敗走しており、頽勢を覆して張郃と戦うことはできぬであろう。

 「撤退する」

 諸葛亮の決断は、一瞬であった。

 主力がここで崩壊してしまえば、後日を期することはできまい。

 諸葛亮は、馬謖を見棄てた。

 張郃と曹真は、曹叡から専守防衛を命じられていたので、漢中の奥深くまで諸葛亮を追ってはこない。

 (先鋒に、なにがおこったのだ……)

 兵法に精通している馬謖があのようなまずい陣を敷き、だれもそれを戒める将がいなかったのか。

 馬謖は、三十九歳になる。

 まちがいなく二十年後の蜀漢王朝の主宰者である、丞相になる器であった。

 (馬謖を抜擢したのは、われの誤りであったか……)

 諸葛亮の心は、寂寞としていた。

 蜀王朝の存続を願い、若い才能を発掘し採用してきたなかでも、馬謖は王佐の才がある駿馬であった。

兵法の達人であった曹操でも、戦に敗れたことは一度や二度ではない。それにしても、馬謖の今回の負け方は悪かった。

祁山をすぎて、益州に入った諸葛亮のもとに続々と先鋒の敗報における詳細が入ってきた。

裨将軍の王平だけが馬謖を諫め、かれの隊だけがふみとどまって張郃と戦い、後拒までつとめたというではないか。

(あの十文字しか書けない子均が……)

実戦においては、知識の有無が勝敗を左右しないと、身をもって諸葛亮は思い知らされた。

王平は性格がやや偏狭ではあるものの、ふだん人に「史記」と「漢書」を読ませて理解し、そのおおまかな意味は熟知している。しばしばその論説をおこなったが、大義からはずれることはなかったという。

また耳学問とはいえその姿勢は見事なもので、一日中正座して威儀を正し、生涯学ぶことをわすれなかった。

さて、斜谷道を進軍していたおとりの趙雲と鄧芝はどうしたか。

ふたりは少なくない兵を任されていたが、箕谷で待機している。漢中郡にふみこんできた曹真は、ぶきみなほどしずまりかえった道を進んできた。

どこまで行っても蜀軍をみかけない曹真は、

「蜀軍は、漢中を放棄したのではないか」

といって笑った。

そのとき突然蜀軍があらわれ、魏軍は進軍を止めた。

(ようやく、出てきたな)

曹真は備えをおこたらない将軍なので、蜀軍の実態をいちはやく把握した。

「敵の数は多くないぞ。山の斜面に登って兵を展開させよ」

蜀軍の主力が街亭にむかっていることは、曹真もすでに知っている。

山の斜面から蜀軍を見下ろすと、なんとそこに趙雲の旗がひるがえっている。

「長阪の英雄、常山の趙子龍は、生きていたのか……」

長阪の戦いから、二十年経つ。そのとき壮年であった趙雲はすでに老人であろう。

趙雲はさわがしく、戦塵にまみれた戦場でも、常に心の奥は静寂である。

鄧芝とともに陽動部隊を任されたからには、敵大軍と適当に戦って撤退するだけだ、ときめている。

山の斜面から魏兵の矢を受けはじめた蜀軍は、苦戦した。

 先頭に展開している魏兵も勇敢で、山岳戦に慣れているはずの蜀軍から逃げようとしない。

 「いいか、よく聞け」

 声をはなった趙雲は、存外若々しくみえた。

 「これ以上の戦は、必要ない。先陣が撤退すれば、われが後拒をおこなう」

 七十を超えた趙雲が、殿軍を率いるというのである。

 「趙将軍……」

 副将の鄧芝が、心配して馬を寄せてくる。

 「われは、まだ戦えるようだ。丞相の軍がいまごろ進撃しているころだろう。

 すすむときはだれよりも早く、ひくときはだれよりも遅くひく。こうしてこの歳まで生き残ってきた」

 そういって、趙雲は笑った。

 蜀軍の先陣が、数におされて後退しはじめた。中軍をやりすごした趙雲は、わずかな後拒の兵を率いて曹真の軍と対峙した。

 (この戦場も、負けか)

 劉備につかえてからいくつもの戦場を経験したが、そのおおくは負け戦であった。

 趙雲はかぞえきれないほどの後拒をまっとうして、劉備軍の潰走をささえてきた。

 かすり傷もおわずに、かならず本営に帰還する趙雲は、関羽と張飛とちがった武神のようであった。

 (このまま引き下がりつづければ、魏兵は南鄭に至る……一働きして漢中を守護せねばならぬ)

 趙雲は、槍をもちなおした。

 数百の兵をみずから率い、追撃してくる魏兵を攻撃して、またたくまに数十人をたおした。

 「あれが、常山の趙子龍か」

 「老い首討ち取って、手柄にしてやる」

 魏兵は、さらに趙雲隊の追撃をやめない。

 隊長がみずから後拒をおこなうことなどめったになく、後拒の隊のつよさには、趙雲の武勇が反映されている。

 つぎつぎとせまる魏兵を、槍の旋回と打突でなぎ倒す趙雲は、さびしさを感じていた。

 いつも趙雲が親衛隊として守っていたのは、劉備の背中であった。

 その劉備も、この戦場にはいない。

 (ここで斃れてもよいか)

 そう心中でつぶやいたとき、劉備の声が聞こえた。

 (長阪で救ってくれたわが子を、もう救ってはくれぬのか)

 趙雲は、顔をあげた。

 劉禅を二度も救出した趙雲ではあるが、それはかれが劉備の子であったからである。

 そして劉備の死とともに、灼熱のような時代も去った。

 将軍の位などなくても、劉備とともに東奔西走していた頃の大地はひろく、その空気は熱かった。

 曹操が右へ行けば、劉備は左へ行った。それは時代にさからう行為ではあったが、趙雲には痛快であった。

 (劉備が皇帝になってからは、窮屈な世の中になった……)

 劉備が漢中王となり、皇帝になって、ひろびろとした志はしぼんだように感じた。

 それに比して関羽は、たったひとりで曹操軍と孫権軍と戦って斃れた。

 (ほんとうの志をはたそうとしたのは、関羽ではなかったか)

 趙雲は、老いてなおかわらぬ後拒をつとめているじぶんをかえりみて、苦笑した。

 「子龍は、一身すべて肝のようだ」

 劉備は生前、趙雲が戦うたびにほめてくれたが、趙雲はどのような苦境にあっても、ぞんがい平然としていた劉備を思い出していた。

 (死んでも、劉備はわれをはたらかせようとする)

 なにかを悟ったように前をむいた趙雲に、微笑がやどった。

 「常山の子龍、ここにあり。魏軍をとめてくれようぞ」

 魏兵は数えきれぬほどいて、じりじり趙雲を包囲しようとする。

 しかし趙雲の発するしずかな気魄が、魏兵を前に進ませなかった。

 「名にし負う趙雲を捕縛すれば、後世までの名誉ぞ。かかれ」

 魏の伍長が、立ちすくむ魏兵たちをけしかけた。大声をあげて趙雲に殺到した魏兵たちに旋風がまきおこり、かれらは路のかたわらにつぎつぎと斃れた。

 趙雲の槍はおそろしいはやさで旋回し、その攻撃で数人の魏兵を倒した。

 せまい路上に立つ馬上の趙雲は、巨大なかげをともなっているようである。

 それでも趙雲におそいかかった魏兵たちは、川に突き落とされ、戟がへし折られ、伍長のほかだれも立っている者はいなくなった。

 趙雲は槍を伍長の首につきだし、

 「なんじを殺すことはたやすい。が、後続の兵たちに追撃をやめるよういいわたす。

 異郷で屍をさらすのは本意ではあるまい」

 といった。

 「わ、わかった……」

 群雄割拠の時代から戦いをやめなかった趙雲と、いまの兵とはつよさに雲泥の差がある。

 それをわからされた伍長は、兵たちを止めて日没後の休憩に入らせた。

 曹真もきびしく趙雲の隊を別の隊に追わせたが、すべてさんざんに蹴散らされたので、

 「常山の趙子龍に免じて、追撃をやめる」

 と全軍につたえた。

 曹真は皇室に連なる身分で、これ以上高位や戦功をのぞんでいない。

 箕谷で趙雲と鄧芝の別働隊に勝ったことで、曹叡からの軍令を果たしている。

 後拒する趙雲をこれ以上深追いすることで、いらぬ死傷兵が増えることを危惧した曹真は、

 「撤退する」

 といい、雍州にひきあげた。

 趙雲は、この北伐の翌年に逝去した。

 諡号は「順平候」である。後嗣は子の趙統が嗣いだ。

 皇帝の劉禅は、趙雲になんども命を助けられた恩義を感じているようで、

 「趙雲は先帝に従い、その功績はかぞえきれない。

 朕は幼い頃二度も苦難に遭ったが、かれの忠烈なはたらきをもって救われた。

 そもそも諡号は建国の元勲に贈るべきものであるが、世間もそのことを当然とみているであろう」

 と涙をうかべていった。

 趙雲は後拒をみごとにまっとうし、軍は最小の被害で漢中に還ってくることができた。

 のちに諸葛亮が、

 「鎮東将軍(趙雲)の軍は、整然と撤退できたようだが、なにゆえか」

 と副将の鄧芝に訊いた。

 鄧芝はじぶんを誇らない人なので、

 「趙将軍がみずから後拒をおこない、軍資や兵糧をほとんど無傷でもちかえることができました」

 とありのまま伝えた。

 ぶざまに軍をおいて逃げ帰ってきた馬謖とは、趙雲の将軍としての格ははるかにまさる。

 戦に負けたときこそ、将の器というものの違いがはっきりするのである。

 諸葛亮は、趙雲が持ち帰った軍資の中に絹が大量にあるのを見て、

 「これを将士に分け与えるように」

 と軍吏に命じた。

 するとそれを聞いた趙雲が、諸葛亮のもとにあらわれて、

 「わが軍は、敗れたのですぞ。にもかかわらず、これは何のための下賜ですか。

 それらの絹はすべて府庫に入れ、冬の支度のために下賜なさるべきです」

 と諫言した。諸葛亮は赤面する思いで、

 「趙将軍のいうとおりである。そのようにするであろう」

 と趙雲のことばにしたがった。

 その趙雲もほどなく病牀につくようになり、亡くなった。

 (きびしい時代を生き残ってきた将軍が、またひとり逝った)

 趙雲が長阪で戦場を駆け巡っていたとき、劉備のかたわらには、諸葛亮もいたのである。

 漢中に帰着した諸葛亮は、馬謖の処分をきめなければならない。

 まずは敗戦の原因となった馬謖、張休、李盛を捕縛し、獄にくだした。

 馬謖は諸葛亮の前で、みじめに泣き崩れるだけであった。

 諸葛亮は義兄弟の哀れな姿を見て胸が痛んだが、

 (幼常のために、多くの将士を失ってしまった……)

 と慚愧に堪えなかった。しかし。

 (幼常の賢愚を見抜けず、先鋒の司令官に任命したのは、われじしんである)

 部下の能力を判断できなかったことは、総帥である諸葛亮の罪である。

 能力以上の責任を負わせられた将こそ、あわれではないか。

 戦後処理のために、諸葛亮は漢中にとどまりつづけた。先鋒軍の崩壊をふせいだ佐将の王平には、

 「このたびは、将軍のはたらきのおかげで軍が潰えずにすみました」

 とことさら丁重に労苦をねぎらった。

 王平はこのあと参軍の官を加え、盪寇将軍に昇進して亭候に封じられた。

 やがて、獄中の馬謖から諸葛亮に書簡がとどけられた。

 (幼常を処刑して、軍や国民に詫びねばならぬ)

 そう決意していた諸葛亮であったので、書簡をひらく手もふるえた。

 「あなたさまは私を子のように目をかけていただき、私はあなたさまを父のように仰ぎみて仕えてまいりました。

 古の帝舜が子の鯀を殺して、鯀の子である禹をひきたてたことを、お考えください。

 そうしていただければ、私には恨むところはございません」

 書簡を読む諸葛亮の目から、涙があふれた。

 ここで身内にひとしい馬謖に温情をかけることはできない。そのことも馬謖は承知して、みずから処刑を乞うたのである。

 諸葛亮は近侍をよび、

 「明朝に、馬謖、張休、李盛を処刑する」

 と告げた。

 翌朝、兵たちが処刑場に集まってきた。

 「まさか、馬将軍までが……」

 「丞相は、なんと法に厳格なお方よな」

 兵たちは、ささやきあった。

 馬謖が諸葛亮と義兄弟の契りをむすんでいることを、知らぬ者はいない。よもや馬謖だけは、死刑を減じられると思っていた者が多かったが、諸葛亮の峻厳さに将兵ともに粛然となった。

 処刑は将兵の固唾をのむ前で、執行された。

 斧が振り下ろされる前、馬謖は諸葛亮を振り向いたようであったが、諸葛亮はちいさくうなずいた。

 (この処刑が、全軍への謝罪である)

 諸葛亮は、涙をぬぐった。

 張休と李盛も、処刑された。

 かれら三人の葬儀が終わったあと、漢中へ成都から蔣琬がやってきた。

 「なんと、もう処刑を終えられたのですか」

 蔣琬は、おどろいた。将軍たちの功罪は、諸葛亮が成都に還って劉禅に拝謁し、報告をおこなってから、裁判をおこなうのが筋であろう。

 しかし、諸葛亮には配下の将軍たちに対する専断権がある。

 (丞相は己の敗戦の罪を、馬謖らになすりつけた……)

 蔣琬は、蒼白になって諸葛亮を見た。

 「春秋時代、晋に敗れた楚は将軍の子玉を殺しました。それを知った晋の文公は、喜んだといいます。

 天下が定まっていないのに、智将を刑死させたのを惜しいとは思われませぬか」

 蔣琬の抗議に、諸葛亮は後悔の念を見せない。

 「呉王の覇業をたすけた孫武(孫子)が天下を制するほどの勝利を得たのは、法の運用が明らかであったからです。

 また晋王の弟の楊干が法を濫用したとき、魏降は容赦なくかれの従者を殺しました。

 四海の内は分裂し、戦いがまさにはじまろうとするとき、もしも法をおろそかにしていれば、どうして賊を討つことができましょう」

 諸葛亮の返答を聞いた蔣琬は、

 (それでも、馬謖には汚名をすすぐ機会をあたえてやるべきであった)

 と感じた。

 馬謖はこれからの蜀をささえる逸材であると、蔣琬はなんども諸葛亮に聞かされたことがある。

 それでもたった一度の敗戦で、馬謖の才能を見切った、ということなのか。

 魏と再戦させても、二度とかなわない愚将であるならば、これまでの諸葛亮と馬謖の親交はなんだったのか。

 (魏延の策を実行すべきであった)

 蔣琬は軍議の席で、魏延が長安を急襲すべしと献策したことを知っている。

 魏延の策こそ、蜀の正義を中華に知らしめ、敵の虚を衝くものであった。

 それなのに、魏の辺境の土地にこだわり、それを侵略する行為に、かつての漢を継承していると自称する蜀に対して、失望した人々は多かったであろう。

 諸葛亮は、漢中を発して成都にもどった。

 敗戦の報告を、劉禅にしなければならない。

 「街亭では馬謖にわが命令は背かれ、箕谷の兵もむなしく撤退するしかありませんでした。

 しかし、このたびの敗戦の責任はすべて臣にあります。任務をさずけることに正しさがなく、わが目は人の能力を見抜くことができませんでした。

 『春秋』では、責めはすべて将帥が受けるべきといっています。わが職はそれにあたりますので、どうか位階を三等落して、その咎めを受けさせてください」

 諸葛亮は、右将軍に格下げとなった。

 しかし、丞相のつとめを諸葛亮の代わりにできる者はいないので、ひきつづき政務を行なうことになった。

 得ることがほとんどなかった敗戦に、劉禅は暗澹としたきもちとなった。

 (丞相は出師の表で、あれだけの見栄をはっておきながら、戦場での視野は狭く、なすすべなく敗れてしまった……)

 これから諸葛亮を総帥として、蜀軍を任せることに、劉禅は不安をおぼえた。

 諸葛亮はかたちだけの降格を申し出たものの、権力を手放すつもりはないらしい。

 (丞相には、成長してもらわねば)

 劉禅は、かたわらの蔣琬と費禕に、視線をおくった。

 劉禅の視線を察した蔣琬は、諸葛亮に事務の決裁をもっていくついでに、ようすをうかがうことにした。

 意外なことに諸葛亮のかたわらには、刑死した馬謖のかわりに、二十代とおぼしき若者がいた。

 蔣琬の姿を見た若者は、さわやかな礼をして、

 「姜維、あざなを伯約ともうします。このたびあらたに漢(蜀)にお仕えすることになりました」

 といった。

 「ああ、伯約はな……」

 諸葛亮の表情にも、おだやかさがみえる。

 姜維の出身は、天水郡の冀県である。

 若い頃に父を失い、母と妻子と生活していたが、二十七歳のとき諸葛亮が天水郡に侵攻してきたので、県民をまとめて諸葛亮に降伏してきたという。

 もともと中郎という軍官だった姜維と会話するうちに、諸葛亮は、

 (このような才能が、雍州の辺境にねむっていたとは……)

 とおどろき、かつよろこんだ。

 蜀では倉曹掾に任じられているが、ほどなく奉義将軍に任じられることになる。

 (なんということだ)

 蔣琬は、内心の動揺をかくすのに苦心した。

 (姜維の容貌や、発する気は……若い頃の丞相そっくりではないか)

 「留府長史(蔣琬)には、倉曹掾(姜維)をよくおぼえておいてもらいたい。

 これからの王朝を、

になっていく偉材だ」

 諸葛亮は、笑顔でいった。

 (姜維は……わが王朝にとってはたして益になるのか)

 蔣琬は、戦慄とともに姜維の胆知あふれる挙措をみまもっていた。

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