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亡蜀記  作者: コルシカ
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曹丕


        二十四


魏の鮑勛は、群雄割拠時代の曹操を全力で扶けて戦死した鮑信の子である。

鮑信がいなければ、曹操が覇者になることはなかったといえるし、曹操はじぶんのために黄巾賊の残党と戦って死んだ鮑信を、思い出すたびに哀悼した。

鮑勛は、そんな無私で正義を重んじた父の遺風を受け継いだ人物である。

(父が曹操にしたことを、われは曹丕に対してなさねばならぬ)

つねにそうじぶんにいいきかせてきた。

しばしば狩りに出かけて、政務をなおざりにし、むだな出費を重ねる曹丕を、鮑勛はそのつど戒めてきた。

「武帝(曹操)にとっての鮑信は、わしにとっての鮑勛ではない」

子はしょせん子よ、と鮑勛を疎んじた曹丕は、鮑勛を左遷した。

しかし尚書令の陳羣と尚書僕射の司馬懿は、皇帝の顔色をうかがわず、正しいことを諫言できる鮑勛をみごとだと感じ入った。

皇帝の好悪によって人材が登用されるならば、王朝の頽廃はまぬがれず、自浄作用がはたらかない。

「鮑勛は、宮正の任にあてるべきです」

ふたりは曹丕に推挙した。

宮正とは御史中丞のことをいい、御史大夫が司空になったので、中丞は御史の長になっている。

(またうるさい男がかえってくるな……)

叙任には反対したかった曹丕ではあるが、陳羣と司馬懿の推薦を無碍にはできない。

鮑勛を、宮正にした。

陳羣と司馬懿が鮑勛を推したのには、わけがある。

このごろ魏王朝の朝廷内の百官にゆるみが生じており、それを引き締める厳格な人物がいなかった。そこに鮑勛が宮正になったので、

「鮑勛が、宮正だと……」

「かれの目は、ごまかせぬ」

と風紀粛正はまたたくまに整然とした。

曹丕は黄初六年(二二五)に、陳羣を鎮軍大将軍に、司馬懿を撫軍大将軍に任命した。

曹丕が呉を討伐するとき、曹丕にしたがうのが陳羣で、司馬懿は許昌にのこって諸軍を指揮する体制となった。

機嫌が良い曹丕は、

「江水から数里のところに宮室をつくり、その間を往復し、呉賊を攻撃すべきときには、すみやかに奇兵を出して攻撃する。

戦がないときには、六軍の兵士をいたわるため狩猟をおこなうぞ」

といった。

実際曹丕は三月に召陵まで行って、討虜渠という運河を開通させている。許昌にもどって、水軍をととのえ、五月に譙に到着した。

譙からは渦水をくだって、たやすく淮水に入ることができる。

曹丕に随行していた鮑勛は、ため息をついた。

(陛下は、また呉を攻めようとなさっているな)

諫めるべきときは、躊躇のない鮑勛である。

「陛下は、しばしば呉に出師を行なわれました。しかし、はかばかしい成果は得られておられません。

考えますに、それは呉蜀が唇歯のごとく協力し、山水をもって阻み、それらを攻め落とすことが難しい状況にあるからです。

以前、龍舟が漂流して呉軍のいる南岸に漂着いたしましたときは、陛下の身を案じた臣下は、胆をつぶしたものです。それは、宗廟を傾けそうになった戒めです。

いままた兵を呉に遠征させますと、一日に千金を費やすことになり、国は疲弊し、呉賊をつけあがらせることになるのです。

臣は、このたびの遠征をとりやめるべきだと思っております」

むろん、この戦に反対していたのは司馬懿も同様である。

(下手の横好きというのか……)

曹丕は学問やとくに詩に関しては天才的であるにもかかわらず、それを誇ろうともしない。ほんとうに曹丕が好きなのは、兵書なのかもしれない。

戦に関してはよほど現実における、じしんの初勝利を得たいのか、呉に対して戦をしかけることに執着している。

(この戦は、鮑勛のいうとおり、ただの浪費におわるだろう)

司馬懿は、曹丕に諫言することをやめた。

「出てゆけ」

鮑勛を会議から退出させた曹丕は、それだけで腹立ちがおさまらず、鮑勛を治書執法に左遷した。

八月に、曹丕は軍をうごかした。

渦水をくだって淮水に入り、そこから陸路で東に向かい、下邳郡の徐県に至った。

魏軍の兵力は、なんと十万である。

兵営を連ね、旗は数百里にもわたって立った。

十月に、曹丕は広陵の古城に到着した。古城は曹丕の計画通り、呉討伐の本営にする城である。

閲兵をおこなって軍の士気を高めたはずの曹丕だったが、この年は大寒波となり、十月のうちに水路に氷が張りはじめた。

(五月に兵をうごかして、十月までなにもしないから、こうなる)

曹丕に従軍した陳羣は、曹丕の戦下手に辟易とした。

つまり曹丕の戦いかたは孫権が挑戦してこなければ、戦が生じないということである。

寒波で江水が凍ってしまっている今、戦いが起こりうるはずもなく、

「帰還する」

と曹丕は不機嫌になっていった。これでは、莫大な戦費を浪費した遊興の旅となんらかわらない。

呉軍はかならず曹丕がなすすべなく撤退することを知っていたので、将軍の孫韶が属将の高寿に五百人の決死隊を編制させ、曹丕の帰路に待ち伏せさせた。

案の定、高寿の待ち伏せに遭った曹丕は、算を乱して撤退し、高寿は副車の羽蓋を得て陣に帰還した。

またしても勝ちの見えない戦をしてしまった曹丕は、この遠征に意味をもたせるべく、十二月に譙から梁国に立ち寄り、橋玄の墓参りをした。

橋玄は群雄割拠の時代に、まっさきに曹操の異能を見抜いて後援したので、曹家にとっては大恩人である。

曹丕は使者を遣わせ、太牢を捧げて橋玄を祭って供養とした。

許昌への帰途、陳留郡の郡境に曹丕が留まったとき、陳留郡の太守の孫邕は曹丕に拝謁したあと、友人である鮑勛に会いに行った。

その際、本営の営塁が完成しておらず、孫邕は本営の予定地を横断したことが問題になった。

軍営令使の劉曜はそれを知り、

「孫邕は、陛下のご営所を横切ったのか」

といって孫邕を逮捕しようとした。

それを聞いた鮑勛は、あきれた。

「孫邕は、ご営所を通ったわけではない。

ただのご営所の予定地を通っただけではないか。予定地ならば、どこもかしこもご営所になりうるので、官民だれも外を歩けなくなってしまうではないか」

と劉曜を諭し、告発させなかった。

黄初七年(二二六)の正月に、曹丕は許昌に帰還した。そのとき、不吉なことがあった。

許昌の南門が、かってに崩壊したのである。

気味の悪さをかんじた曹丕は、許昌に入らず洛陽に還ってきた。

「許昌の南門は、手抜き工事だったのではないか」

「いや、むだな遠征をつづけておられる陛下を天が戒めたのだ。しばらくは宮中で内政をしておられたほうがよい」

など、百官は曹丕のいないところで話し合った。

そんななか、劉曜が罪を犯した。鮑勛は曹丕に、

「罪あるものは、おしりぞけになるのがよろしい」

と上奏した。これが、劉曜を激怒させた。

「鮑勛は、ご営所を横切った友人の孫邕の罪を不問とし、私だけに罪を着せようとしています」

孫邕は、ご営所の予定地を横切っただけで、罪は犯していない。

しかし、劉曜の密奏を受けた曹丕は、

「鮑勛は、百官の罪をじぶんの裁量で、かってに決めているのか」

と激怒した。

「お待ちください。孫邕はご営所の予定地を横切っただけで、鮑勛にそのような恣意はありません」

事情を知る近臣が曹丕を諫めたが、

「だまれ。鮑勛は鹿を指して馬であるといっている。秦の二世皇帝をあやつった宦官の趙高とかわらないではないか。

逮捕して、廷尉にひきわたせ」

と命じてしまった。曹丕はふだんから鮑勛のやることなすことが不快だったので、どうしても罪を着せたかったのである。

鮑勛は、罪人に落された。

廷尉は曹丕の圧力を感じ、むりやり重い刑を決定した。

「正刑五歳」

懲役五年、ということである。廷尉の属官の三官は、

「罰金二斤」

という判決を下した。鮑勛は無罪なので、配慮した判決となった。

しかし。

「鮑勛を、生かす余地はない。なんじらは悪党に与するのか。

三官以下を逮捕し、刺姦に引き渡すのだ。

十匹の鼠を同じ穴に落すのは道理である」

曹丕は激怒して、司法をねじ曲げた。

(陛下は、どうしても鮑勛を殺したいのだ)

と察した廷尉は、三官以下を逮捕した。

「鮑勛は、まことの忠臣ではないか。陛下をお止めせねばならぬ」

大尉の鐘繇は、司徒の華歆、鎮東大将軍の陳羣、侍中の辛毗、尚書の衛臻、守廷尉の高柔と連名で助命嘆願をおこなった。

「鮑勛の父である鮑信には、太祖(曹操)において大功があります。父の名に免じて鮑勛を無罪にしてくださいますよう」

挙兵したばかりの曹操を全力で扶け、さらには曹操のために戦死した鮑信の恩は、魏王朝において永遠である。

今それを、曹丕は足蹴にしようとしている。

橋玄には礼を尽くすのに、好悪のみによって忠臣の鮑勛を誅すのは、道理にあわない。

曹家は、代々鮑家に礼を尽くすべきなのである。

(そろいもそろって、皆は鮑勛の味方か)

重臣たちの嘆願が、曹丕をさらに意固地にさせた。

「父は父、子は子である。すみやかに鮑勛を誅せ」

こうして鮑信は、刑死した。

その最期は淡々としたもので、

「嘆願してくださった大尉(鐘繇)らに、よろしく……」

といいのこし、刑に服した。

司馬懿は、おおきく嘆息した。

(まえの武帝の頃は、このようなことはなかった)

曹操は、いくら好みにあわない臣下でも、諫言する者を殺したことがなかった。曹操は人材を国の宝であると考えていたため、忠臣を殺すことは、国益を減ずることだと知っていた。

ひとりの忠臣を殺せば、あまたの忠臣は曹丕の私刑を恐れて諫言しなくなる。かわりに佞臣による阿諛がはびこるようになるであろう。

(王朝の弛緩がはじまらねばよいが……)

司馬懿は、機嫌のよさそうな曹丕を見て不吉をおぼえた。

ちなみに鮑勛が死去したあと、家に余財はまったくなかった。それだけかれは清廉に生きてきた。

司馬懿のおぼえた不吉は、それを上回る不幸として実現することになる。

鮑勛の刑死からちょうど二十日後、五月丁巳の日に曹丕が死んだのである。

正月に洛陽にもどった曹丕は、すこしも体調のわるさをみせることなく、三月に九華台という宮殿を建築した。

ところが五月中旬になって、にわかに病牀についたのである。

「陛下ほど、病から遠いお方はおらぬ。すぐにご回復になるであろう」

鐘繇や辛毗などは、そういって曹丕の容態をさほど心配していなかった。

曹丕は曹操のように頭痛などの持病もなく、なんども呉を攻めたときも風土病にかかったことはない。

それでも人々の楽観を嘲るように、曹丕の病は篤くなるばかりであった。

「これは、なにかの祟りではないのか」

「というと……やはり鮑勛を殺したのがまずかったのかな」

たしかに、曹丕は鮑勛を誅殺するやいなや病にたおれたのである。

「皇太子は叡でよいか……」

すなわち曹丕に死を賜った甄皇后の子、曹叡である。

曹丕には曹協、曹蕤、曹霖といった九人の子がいる。曹叡は平原王として、任地でひっそりと生涯をおえる人であるとみなに思われていた。

「平原王(曹叡)が践祚されるとは」

「しかし、平原王は……」

「しっ、どこに耳があるかわからんぞ」

曹叡は、甄皇后が袁紹の次男である袁煕の妻のときに産んだ子で、いわば連れ子である。

曹家の血が絶えることになるのではないか、と群臣は心配した。

五月丙辰の日に、曹真、陳羣、曹休、司馬懿が召された。

「みなで叡を補佐してやってくれ」

あえぎながら、曹丕は息をはきだすようにいった。

詔が四人にさずけられ、これが遺詔となった。

曹丕は翌日、嘉福殿において崩御した。まだ四十歳である。

雍丘王である曹丕の弟の曹植もまた文章の天才で、曹丕の功績を褒め称える文章を書き、群臣の涙をさそった。

曹植は曹操の後嗣になる野心はなかったようだが、かれにむらがる者たちがかげで様々な活動をおこなったため、後継問題が生じた。

曹丕は曹植の無欲を知っているので、雍丘王という地方の王に封じただけであった。

(昨年末、兄は雍丘に立ち寄ってくれて、やさしかった……)

つねに曹植に対して冷淡をしめしていた曹丕は、去年の晩冬に雍丘に立ち寄り、曹植と歓談し五百戸を加増してくれた。

むろん、そのときの曹丕に病の兆候はなかった。

ちなみに、曹丕は死後「文帝」と諡された。文という文字は、最高の称号である。

曹丕の遺業というものは、なんであったか。

在位期間は七年と、ひじょうに短く、魏王室を皇室に格上げした、というだけではさびしすぎる。

戦での功績は、まったくないといってよく、呉へのなんどかの遠征は、軍資を浪費しただけであった。

暴政や苛政をおこなったわけではないが、国民に思慕されたとはいえない。

曹丕の遺体を棺におさめて祭ることを殯といい、それが終わって六月戊寅の日には、埋葬がおこなわれた。埋葬地は、洛陽の北にある首陽陵(首陽山)である。

曹丕が嗣子としたかったのは、愛妾の徐姫が産んだ曹礼であった。曹叡が甄皇后の連れ子であるので、当然であろう。

それを翻意させた、ちいさな出来事があった。

曹叡をつれて狩りを楽しんでいた曹丕は、母子の鹿を見つけて母鹿を射殺した。

「叡よ、子はなんじが射よ」

と声をかけた曹丕に、曹叡は涙を流して、

「陛下はすでに、その母を殺されました。

私はその子を殺すにしのびないのです」

といった。

曹丕は、はっとして弓矢を投げ捨てた。

「そうだな……ゆこう」

そういって、その場を立ち去った。

曹叡が母の甄皇后とじぶんに、母子の鹿をかさねたのはいうまでもないが、曹丕は怒りが湧いてこず、曹叡を見直した。

(叡は、やさしい……曹家の血など、なんのことがあろうか)

しぜんと曹丕の胸はあたたかくなり、このとき後継を曹叡にきめた。

この決断こそが、曹丕にとって最大の遺業といえることになるのである。

曹叡は、五月丁巳の日に皇帝に即位し、すぐ大赦をおこなった。

魏の群臣たちは、曹叡のことを地方の王として生涯中央政権にかかわらない人物だと思っていたので、

「新皇帝は、まだ賢愚さだかならずか……」

と戸惑いをかくせなかった。

曹叡は、後宮育ちのころからの親友だった秦朗だけをそばに置き、即位から数日経って侍中の劉曄だけが謁見をもとめられた。

「劉侍中ひとりだけか」

群臣は、またも驚いた。なぜ曹叡は宮中にあまたいる賢臣のなかで劉曄をえらんだのか。

むろん劉曄が賢臣中の賢臣であることを、知っているからである。

劉曄は宮門をくぐり、宮室に入った。

その対談は、なんと一日中おこなわれ、劉曄が退室してきたのは夜になってからである。

待ちくたびれた群臣たちは、退出してきた劉曄にむらがった。

「陛下は、どのようなお方でしたか」

劉曄は、ひとつ大きなため息をしたが晴れやかな表情で、

「秦の始皇帝、漢の武帝のともがらです。ただお若いので、才能はわずかにおよばないかと」

といった。

「始皇帝と武帝……」

群臣たちは、息をのんだ。この二人の皇帝は親政をおこなっており、政治を臣下に丸投げしないということである。

曹叡はみずから見識とつよい意思をもっており、臣下は身をひきしめて仕えなければならない。

「鮑勛は、おしいことをした」

そういう者が多かった。曹叡が賢いというならば、かならず鮑勛の本質を察知し、重用されたからである。

処刑が三十日遅ければ、鮑勛はさらに歴史に名を残す名臣となっていたであろう。

さて、曹丕が死んだことを知った孫権は、

「魏の新皇帝は、まだ若すぎるそうではないか。ひとつ戦で魏をゆさぶってくれようぞ」

と考え、八月にみずから兵を率いて江夏郡を攻めた。

江夏郡の太守は文聘で、戦が下手な孫権ならば専守防衛で、孫権軍にほころびが見えたら、一撃加えようと考えていた。

なぜなら文聘には、過去に孫権と呉の大軍を寡兵でしりぞけた経験があり、あわてることがなかった。

しかし洛陽では、魏の新体制が定着しておらず、孫権襲来の報に動揺がひろがった。

「いそいで将軍を派遣し、文聘を救助しましょう」

何人もの群臣が、曹叡に進言した。

曹叡は拍子抜けしたような表情で、あわてる群臣たちを落ちつかせるようにいった。

「そ、孫権は水戦が得意なはずなのに、あ、あえて下船して陸路を攻めている。

こ、江夏郡のほころびを衝こうとしているようだが、し、守将は文聘である。そ、備えは万全であろうよ。

そ、そもそも攻める側は、ま、守る側の倍の戦力を必要とする。こ、今回の孫権はそこまでの大軍を引率していないので、ほ、ほうっておけば撤退するであろう」

曹叡は、うまれながら吃音であるが、それを気にするそぶりがない。

(ほほう……)

司馬懿は、曹叡の戦における勘のするどさに感心した。

(文帝より、戦の才能がありそうだな)

司馬懿の感想をよそに、曹叡の寵臣である秦朗が発言した。

「治書侍御史(荀禹)を派遣し、呉との国境地帯を慰撫させます。たいした戦にもならず、孫権は撤退するでしょう」

曹叡は、大きくうなずいた。

(秦朗は佞臣どころか、陛下の知恵袋か)

曹叡と秦朗は、後宮で子どものころから書物を熟読してきた仲である。

曹叡はただの佞臣を、つねに側にはべらせるほど愚かではない。

さっそく荀禹は江夏郡に到着すると、到着までに経由してきた県で徴発した千の兵に、山に登らせた。

「烽火をあげろ」

守将の文聘は、この狼煙の意味を知っているであろうが、ほんとうに見せたい相手は孫権である。

「もう、魏軍の援兵が到着したのか」

孫権は、うめいた。

すでに急襲は、沈着な文聘の堅守によって失敗している。それにくわえ、魏の援軍が到着すれば戦線は膠着し、ただ魏をゆさぶりたかっただけの孫権のかるはずみは軍費の大出費につながってしまう。

「撤退する」

孫権は、全軍に撤退の指令を下した。

(これまでの曹丕とは、わけがちがうぞ……魏の曹叡は侮りがたい敵だ)

のちに魏の援兵が、荀禹のたった千人だったことを告げられた孫権は、暗澹としてこう思った。

大規模な軍をうごかさず、孫権を追い払ったのは、文聘と曹叡の功績に帰するであろう。

曹叡は、江夏郡を攻めた孫権と両面作戦をとって襄陽を攻めていた諸葛謹と張覇へ、撫軍大将軍の司馬懿と征東将軍の曹休を派遣した。

つまり曹叡は、孫権の主目的が襄陽にあることを見抜いていたのである。

司馬懿はつねに曹丕からは、

「朕の遠征時には、卿は留守をたのむ」

とたのまれていたので、はじめて大軍を率いて遠征できる昂奮にひたっていた。

司馬懿はこのとき四十八歳であるが、事実上の初陣である。

(こたびは、あざやかに敵に勝たねばならぬ……)

司馬懿は、これまでの守将としての群臣たちがもつ認識を、あらためさせたかった。

司馬懿の兵に関する統率力はすばやく、用兵に関しては一流とはいえない諸葛謹と張覇の軍と遭遇するや、一撃で粉砕した。

「追撃するぞ」

意気上がる司馬懿に鼓舞された魏兵は、呉軍を猛追し、ついに副将の張覇を斬った。

司馬懿は事実上の初陣で、千余の敵の首級を得た。快勝である。

(衆望を得るには、戦場での勝利はかかせぬ)

司馬懿は、満足した。曹休も尋陽で呉の別働隊を撃破していたが、司馬懿のような鮮烈な勝利ではなかった。

「ぶ、撫軍大将軍(司馬懿)ならば、それくらいは、やってくれる」

曹叡は捷報を聞いても、当然のようにそういった。

魏王朝は呉軍を追い払ったことで、ようやく落ち着きをえた。

この若い皇帝である曹叡を、群臣は見直し、畏怖さえおぼえるようになった。

司馬懿と曹休が冬に帰還したので、十二月になってはじめて新王朝の人事の叙爵がおこなわれた。


大尉の鐘繇を太傅に

征東大将軍の曹休を大司馬に

中軍大将軍の曹真を大将軍に

司徒の華歆を大尉に

司空の王朗を司徒に

鎮軍大将軍の陳羣を司空に

撫軍大将軍の司馬懿を驃騎大将軍に


これこそが、曹叡をささえる重臣の顔ぶれである。

曹叡の悪癖とまではいかないが、癖として巨大建築物の造営がある。

曹叡は洛陽に、宮殿を建築していた。

司徒の王朗は、呉との戦による戦費の浪費などで、人民の生活に不足が生じていると感じ、すぐ曹叡に上疏をおこなった。

「陛下のご即位以来、恩詔がしばしば発布され、百姓万民よろこばないものはおりません。ところがいま、宮殿の造営に繇役についている民が多いのです。

繇役は、省き減らすことができます。どうか陛下には、日がかたむくまで臣下の意見を聴いた古代の名君を思われて、賊を制圧することだけに国力をそそがれますよう」

王朗は、天下の大難を救うために宮殿をちいさくした禹王や、会稽の恥をそそいだ越王勾践、前漢の文帝や景帝の質素倹約を見習ってほしい、といったのである。

「かの霍去病は、匈奴を滅ぼすまではと、邸宅を修復しなかったといいます。遠くに気をつかうものは近くをなおざりにし、外を重視するものは内をなおざりにします。

いまわが国は呉との度重なる戦で疲弊しています。宮殿の建築はいったんおやめになり、豊年を待って完了なさればいかがでしょう」

曹叡は、なにかをいおうとしたが、かたわらに侍る秦朗が王朗に答えた。

「いまは、呉蜀の賊がわが国の内情をはかっているときなのです。

あえて宮殿を造りあげ、陛下の権威を賊にみせつければ、戦はおこらず、民の命をむだにすることはない……このように陛下はお考えなのです」

王朗はむっとして、秦朗をにらみつけた。

「と、とはいえ」

曹叡は、王朗にやさしく声をかけた。

「し、司徒(王朗)の国を思うこころは、朕に伝わったぞ。し、司徒の言にしたがい、賊を滅することを約束しよう」

(今の皇帝は、文帝とちがって臣下の諫言を聴く耳をもっているな)

驃騎大将軍に昇進した司馬懿は、曹叡をたのもしく感じた。

王朗は、二年後に逝去した。

いたずらに軍をうごかしただけの孫権も、魏が新皇帝のもと、ゆるぎない結束をみせていることが判明したので、鬱屈している。

魏と呉が、無益なつばぜり合いをして国力を削っているさまを、冷徹な観察者として俯瞰していたのが、蜀の諸葛亮であった。

「孫権が、魏の曹叡を挑発してくれたので、こちらから軍をうごかさずにすんだ」

諸葛亮が話しかける相手は、もちろん馬謖である。

「曹叡以下、魏の群臣の目は、つねに呉へとむいています。

魏の国力が消耗したいまこそ、出師すべきでしょう」

「機は熟した……ということかな」

諸葛亮は、春のおだやかな空を見上げた。

「あれは、どうなっている」

「上庸の孟達ですね。色よい返書がとどいています」

諸葛亮は孟達からの書状を熟読して、

「……北伐を決行する」

としずかに目をあげた。

「おお、いよいよですね」

蜀はいまや、夷陵の戦いでの傷をいやし、呉と同盟して、南中を平定した。

南中からの物資と兵の調達ができるので、軍備と兵站が強化された。

「幼常(馬謖)よ、なんじを北伐の先鋒に任ずるつもりであるぞ」

大役である。

それでも、馬謖の胸中には自信しかない。

「ありがたきしあわせ。丞相(諸葛亮)よりの日頃の御恩、そして漢の復興を実現すべく、身命を捧げる所存です」

満を持しての、出師である。

諸葛亮は皇帝の劉禅にあてて、魏討伐をおこなう上疏の書状を書き始めた。

出師の表、である。

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