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亡蜀記  作者: コルシカ
22/26

同盟


         二十二


 章武四年(二二三)に崩御した劉備の遺体は、梓でつくられた棺におさめられた。

 諸葛亮にまもられて、永安宮から劉備の遺体が成都にもどったのは、五月のことである。

 諸葛亮は劉備が崩御した直後に、成都にいる劉禅に上奏をおこなった。

 「伏しておもいますに、大行皇帝(劉備)は仁にすぐれ、徳を立て、天下をおおうことは無限でありました。

 しかし、天は大行皇帝を憐れまず、病に伏してそのままとなり、今月二十四日に崩御なさいました。

 臣妾はみな涕泣し、あたかも父母を喪ったかのようでした。

 遺詔は、このようなものです。

 おおもとを思い事をおこない、損得をよく考慮して行動しなければならない。

 百官が喪に伏しても、三日でこれを解くがよい。埋葬の期日が到来すれば、礼のごとくおこなってほしい。

 郡国の太守、相、都尉、県令は、三日を経過すれば喪を解いてよい。

 私は大行皇帝より親しく勅戒をうけたまわりましたので、神霊を畏れ、あえて遺詔に違えることはいたしません。

 どうか、臣下がなすべきことを宣下なさいますように」

 ここに大行皇帝と標記されているが、これは正式に諡号が贈られるまでの、仮の号である。

 諸葛亮は射援など識者と協議したうえ、劉備の諡号を、

 「昭烈皇帝」

 と決定した。今後蜀では、劉備のことを昭烈皇帝とよぶことになる。

 八月になり、棺は恵陵に埋葬された。恵陵は、東陵ともよばれる。

 五月に即位した劉禅は、穆皇后を皇太后とし、大赦をおこなって、年号を改めた。

 章武三年は、建興元年となった。

 また諸事を諸葛亮に委任し、わざわざ、

 「政治は葛氏がおこない、朕は祭祀をおこなう」

 といった。

 諸葛亮のことを「葛氏」といったのは、古代から名族であった葛氏が地方に散在して諸葛氏になったことから、それに敬意を表しているのである。

 (諸葛亮にさからえば、朕は譲位させられるか、暗殺されるであろう)

 劉禅は諸葛亮がみずからに権力を集中させてきた過程を、冷えた目でみている。

 (あえて諸葛亮のさせたいことをさせ、朕の味方になってくれる者を見きわめめたい)

 それゆえ、あえて劉禅は政治と軍事に意見せぬことを宣言し、諸葛亮に劉禅からゆるしを得ずとも、みずからの判断だけで命令を下せることとした。

 (劉禅は、思いのほか賢い……)

 諸葛亮は、劉禅のふるまいに感心した。

 なにより父の昭烈皇帝である劉備が、そのことを遺詔として残しているが、それへ従順にしたがう劉禅はいさぎよいと思った。

 劉禅が、目をつけている臣はふたりいる。

 蔣琬と費禕である。

 かれらは、荊州時代からなにごとも劉禅のことを配慮し、諸葛亮のおそろしさを教えてくれていた忠臣である。

 さて、劉備が死んだことにより、益州南部の牂柯郡太守である朱褒が、郡をあげて叛乱をおこした。

 それよりまえに建寧郡の豪族である雍闓も叛乱をおこし、越嶲郡の蛮族の王である高定までもが、越嶲郡太守の張裔を捕らえて呉に送り、太守の座を僭称していた。

 (劉備や関羽、張飛らが死んだ蜀は、いずれ魏か呉に攻め取られるかもしれぬ)

 劉禅はまだ少年であり、それを補佐する諸葛亮がどれほどの能力を発揮するのか、蛮族どころか、中央の官民にも未知数なのである。

 「諸葛亮など、取るに足らぬ書生にすぎぬ。

 まだ四十そこそこの青白い男で、武勲をたてたこともない。荊州を治めていたのも、関羽だったではないか。

 いまなら、われが蜀の皇帝になってやろう」

 雍闓などは、そううそぶいた。

 「丞相(諸葛亮)は、この叛乱をいかがなされるおつもりか」

 群臣からは、南中で勃発している謀叛を諸葛亮がどうしまつするのか、不安の声があがった。

 「いまは、昭烈皇帝の喪中でもある。

 われには考えがある」

 諸葛亮は、叛乱軍がおしよせる城の城門をかたく閉じさせ、防御に専念させた。

 いわば、なにもしなかったのである。

 「丞相にほんとうのお考えなど、あるものか。叛乱を鎮圧しなければ、燎原の火のごとく叛乱は拡大してしまうのだぞ」

 諸葛亮をこころよく思わない群臣は、そのようにかげで批難した。

 (朕は、諸葛亮と一蓮托生よ……)

 泰然自若としている劉禅をみたとき、諸葛亮は、

 (意外とやるではないか)

 と劉禅を見直した。

 蜀の擾乱を好機ととらえたのは、むろん魏の曹丕である。

 「戦わずして、蜀を魏の藩国にできようぞ。

 諸葛亮に、説諭の書簡を送ってみよ」

 ほどなく、司徒の華歆、司空の王朗、尚書令の陳羣、太子令の許芝、謁者僕射の諸葛璋から、つぎつぎと諸葛亮に書簡がとどけられた。

 諸葛亮は、それらの書簡に一通たりとも返事を出さなかった。徹底した無視である。

 「魏の高官に、返書はお出しにならないのですか」

 それが礼儀というものであるとおもった馬謖は、その献言を聞いた諸葛亮の冷酷な表情を見て戦慄した。

 「魏賊が……」

 ひとことつぶやいた諸葛亮は、馬謖を残したまま執務室を出た。

 丞相府の庭には池があり、鯉たちが飼育されている。

 鯉に餌をやっているうちに、諸葛亮は冷静さをとりもどしてきた。

 (われは、魏にも蜀にも見くびられている……)

 このときのために、昭烈皇帝すなわち劉備の遺徳にすがるべきであろう。

 (魏は漢を簒奪し、けっして和睦できない賊である)

 つまり魏を悪とし、蜀を善とする。

 漢の劉氏でなければ皇帝になってはならないとした高祖劉邦の遺言を蜀の国是とし、

曹操と曹丕を悪の根源であると規定しておかなければ、蜀の正統性はうしなわれ、魏呉に内通して蜀が内部から崩壊しないともかぎらない。

 魏と同盟をむすび、呉を攻めるとする。

 蜀は荊州一州を得て劉備の仇を討つことができる代償として、魏はやすやすと揚州と交州を攻め取り、呉を滅亡させたあとは、蜀を三方から包囲してしまう。

 (幼常は、もうすこし賢いと思っていたが……)

 諸葛亮は、馬謖こそじぶんの後継者で、丞相になれる逸材だと考えている。

 しかし、数ヶ月前永安で劉備の看護にあたっていたときに、

 「馬幼常を、信用しすぎるなよ……あれはいうことが大きいが、その実は空虚な者よ。

 よくよく、考えておくように」

 と劉備に警告されたことを、思い出した。

 諸葛亮は、そのとき内心憮然としたものだ。

 (季常を死なせたくせに、よくいう……)

 季常とは夷陵の戦いで戦死した馬良のあざなで、諸葛亮とは義兄弟の契りをむすんでいた。

 黄権を北の魏に去らせ、馬良を戦死させた蜀では、馬謖はのこされた逸材にちがいないのである。

 (呉と紐帯をつよくせねば、蜀の未来はないのがわからぬか)

 諸葛亮だけが事理を的確に把握し、展望をもっている。

 呉では劉備が崩御した四月に、群臣がこぞって、

 「王(孫権)は、帝位にお即きになられるべきです」

 とすすめた。しかし孫権は、

 (いまは蜀との同盟を、はやく結びたい。蜀帝や諸葛亮の心象をわるくするのは、さけるべきだ)

 と思い、それをしりぞけた。

 群臣たちが、孫権に帝位をすすめたのにはわけがある。

 五月に吉祥が、あらわれたのである。

 曲阿という土地に、甘露が降った。

 甘露は甘い水であり、天下安寧の証とされている。

 孫権が皇帝即位を断っても、群臣は、

 「曹丕や劉禅が皇帝になれて、王が皇帝になれないのはおかしい」

 とさわいだ。孫権は、うんざりしていった。

 「われが呉王にとどまっているわけが、わからぬか。

 魏からは王太子(孫登)の入朝をせがまれ、それをこばんでいるいま、魏蜀がむすんだらどうなる。

 いそぐべきは、蜀との同盟である。

 和議が整っている蜀へ、劉備の弔問の使者をすみやかにおくることとする」

 弔問使に抜擢されたのは、馮煕である。

 馮煕はあざなを子柔といい、このとき立信都尉で、出身は潁川である。

 かれの出自は名家で、なんと光武帝の寵臣であった馮異の血筋であるという。

 馮煕も先祖の風韻をうけついだようで、諸葛亮と懇ろに対話し、正式な呉蜀の同盟をちかく結ぶであろう内約を得て帰国した。

 しかしながら、有能な人物がかならずしもおわりをまっとうするわけではない。

 馮煕はのち中大夫に昇進して魏に使いをしたとき、その才能を曹丕に気に入られて帰国をさまたげられた。

 生きて孫権に会えないと悲嘆に暮れた馮煕は、自殺をこころみたが周囲にとめられ、未遂におわった。

 この話を聞いた孫権は、

 「馮煕は、匈奴に捕らえられた蘇武のようだ」

 と賞賛し、涙をながした。

 馮煕は、魏でそのまま病死した。

 それにしても、孫権の安堵は周囲に笑みをもらすほどであった。

 「諸葛亮は、さすがである。過去の恩讐をおもてに出さず、たがいの国が存続するための和議を提案した。

 蜀からの使いが、待ち遠しいことよ」

 関羽を騙し討ちにし、皇帝の劉備を撃破した呉を蜀が憎んでいないはずはないのに、諸葛亮の目は未来を見ている。

 呉への特使を誰にしようか、諸葛亮は思案していた。そのとき、尚書の鄧芝が諸葛亮に面会にきた。

 「いままだ陛下は年少であられ、即位なさったばかりで、南中は騒擾しています。

 呉の馮煕が弔問に来たからには、わが国も呉に大使をおくり、同盟へとその紐帯を強化すべきではないでしょうか」

 目をまるくして鄧芝を見た諸葛亮は、

 「わかっている。そのことは、つねに私の頭の中にあった。ただ、今日その大使となる人物を見つけた」

 鄧芝は、

 「それは、だれですか」

 と聞いた。諸葛亮は微笑みをたたえて、

 「卿である」

 と即答した。

 鄧芝の先祖も、呉の使者である馮煕とおなじく後漢の光武帝を扶けた功臣である鄧禹である。あざなは、伯苗という。

 光武帝を補佐した名臣ふたりの末裔が、蜀と呉の同盟をなそうとするのだから、歴史はおもしろい。

 鄧芝については、さらにおもしろいはなしがある。

 荊州の新野にうまれた鄧芝は、若い頃後漢王朝が黄巾の乱や董卓の専横で乱れていたので、

 「戦火をのがれて、おだやかな益州に移住しよう」

 と考えた。

 ところが知人がひとりもいない益州の蜀郡で、鄧芝は無聊をかこっていた。

 つてがないと官途に就きにくいのは、いまもむかしもかわらない。

 そこで益州従事の張裕が人相をよく観るといううわさを聞き、たずねていった。

 人相を軽いきもちで観てもらいに行った鄧芝に、張裕は笑みをたたえていった。

 「よい相ではないか。君は七十を過ぎた頃、位は大将軍になれる。候にも封ぜられるであろう」

 「大将軍……でございますか」

 大将軍は天子に仕える位としては、三公をうわまわる高位である。無職のじぶんは、ふたたび益州を出て、後漢王朝に仕えなければならないのか。

 「そうよ。しかも長寿ときている。君はこの益州でのんびりすごせばよい」

 半信半疑の鄧芝は、食い扶持をさがすため巴西郡の太守である龐羲をたずね、気に入られ、はじめて職を得た。

 やがて益州を劉備が治めるようになると、郫県にある邸閣を管理する督に任命された。

 職は邸閣督という。

 あるとき、劉備は邸閣を検分するため立ち寄ったところ、その督である鄧芝とはじめて出会った。

 (これは、在野の才能ではないか)

 劉備は、おもわぬ拾いものをしたと感じた。

 鄧芝は奇抜な才能はないが、ものごとを広汎にみわたすことができる。

 みずからの才能を誇らないし、性格は温順で他人と協調できる。

 軍事の才能は、のちに発揮されることになるが、少なくとも行政で活用できると思った。

 成都にもどった劉備は、鄧芝をすぐさま郫県の県令とし、広漢太守に抜擢した。

 鄧芝の太守としての評判がすこぶるよかったので、

 「鄧伯苗を、地方においておくには惜しい」

 とみずからの鑑定眼に満足した劉備は、鄧芝を成都によびよせて、尚書にした。

 「張裕の預言は、まちがいではなかったかもしれぬ……」

 おもわぬ立身出世に鄧芝は、よろこんだ。

 蜀も成都に百官を置き、丞相と司徒、驃騎将軍や車騎将軍がならぶさまは、まさに王朝となんらかわりない。

 さて、諸葛亮に呉との同盟における全権大使に任命された鄧芝は、出発にあたって諸葛亮に、あるたのみごとをされた。

 「君のことだから、孫権と誼を深め、同盟をたやすく成立させるであろう。

 孫権は性格にむらはあるが、悪人ではない。

 かれの機嫌のよいときに、張裔を連れ帰ってもらえないかな」

 「張君嗣ですね。たしか雍闓に捕縛され呉に送られて、健在とはきいていましたが……」

 「孫権は、張裔のねむっている才能にきづいていない。今なら、君とともに蜀に帰国できよう」

 (張裔に才などあるのだな……)

 鄧芝からすれば、諸葛亮がなぜ張裔のような凡人に固執するのか、理解できない。

 張裔は成都の出身で、「春秋公羊伝」や「史記」「漢書」を好んで読破した。

 つまり歴史になみなみならぬ興味があった、ということである。

 劉璋の時代に孝廉に推挙され、魚腹県の長となった。魚腹県は、いまの永安である。

 その後は行政の手腕をかわれて、成都で従事兼帳下司馬に任命された。

 劉備が益州に攻め込んだときは、張飛と戦って敗れ、成都に逃げ帰った。相手が張飛であれば、この敗北はみじめなものではない。

 その後簡雍が成都城内に入って、劉璋と歓談しているあいだ、張裔は劉備の陣に遣わされて、劉璋降伏後の交渉を誠実におこなった。

 この張裔のふるまいを、諸葛亮は感心して見ており、劉備に張裔を推挙した。

 新政権下では巴郡太守となり、司金中郎将として農具と武器の製造を任されていた張裔だったが、雍闓が叛乱をおこした際に鎮撫するために雍闓のもとにむかい、不運にも捕縛され、呉に送られたのは先述した。

 「張裔は、瓠壺のごとしよ。外側はつるつるして光沢があるが、内側はざらざらして粗い。孫権に、送りつけよ」

 瓠壺とは、酒をいれるひさごである。

 「張裔が……瓠壺のような男とは雍闓もいったものよ。

 とはいえ蜀とは和議が成っているから、殺してはならぬ。幽閉することもないが、呉からは念のため出すな」

 孫権は張裔を哀れに思い、邸宅を与え養っていた。

 一方鄧芝は、孫権に会うために国境を越え、荊州に入った。

 鄧芝は歓迎され、首都の建業まで通された。

 「鄧芝……聞いたことのない男が大使か」

 宿老の張昭も、同意した。

 「尚書ということは、諸葛亮が鄧芝を重視しているとは思いますが……しばしようすをみてはいかがですか」

 「そうよな……」

 孫権は困惑をかくせず、しばらく鄧芝を宿舎にとどめたまま、すぐに会うことはしなかった。

 (孫権は、われをはかっているな)

 鄧芝は孫権の迷いを払拭すべく、上表をおこなった。

 「私が使者として建業に来ましたのは、呉のためであり、蜀のためだけではありません」

 (ほう……)

 率直な人間が、孫権は好きである。

 さっそく鄧芝に謁見をゆるした孫権は、

 「われは、ほんとうのところ、蜀との同盟を望んでいる。しかし蜀の皇帝は幼弱で、国は益州一州に過ぎず、国力も乏しい。

 魏に攻められれば、国土を保全できるであろうか。それを恐れたゆえに、なんじに会うのをためらったのである」

 と存外心中を率直に語った。それに対して鄧芝は胸を張っていった。

 「呉と蜀は四州の広さをもち、大王(孫権)は一世の英雄であり、諸葛亮も一代の傑人です。

 蜀には多くの険峻な地があり、呉には三江の険阻があります。

 これらの長所を併せ、唇歯の関係を結べば、すすんで天下を併呑することができ、ひいても三国鼎立のかたちをとることができます。

 大王がもし魏の要求に従い、王太子を魏に入朝させれば、魏はかならず大王の入朝をせがむようになりましょう。

 もし曹丕の命令に背けば、魏は呉に兵を出し、蜀といたしましても江水の流れをくだって、呉に兵をだすことになりましょう。

 そうなれば、江南の地は大王のものではなくなってしまうのですぞ」

 孫権は、驚いた。

 鄧芝は孫権がいいたかったことを、かわりに説諭してくれたのである。

 そうなれば、この同盟を阻むものはなにもない。

 「卿のいうとおりである」

 孫権は正式に、返礼の使者に張温を蜀へ送ることになる。

 もちろんふたたび呉に派遣されたのは、鄧芝である。

 「もし天下が太平になれば、呉蜀ふたりの君主が中華を分けて統治するのも愉快ではないか」

 そういった孫権に鄧芝は居住まいをただし、

 「そもそも天に二日はなく、地に二王はおりません。

 これからは呉蜀の君主はそれぞれ徳を積み、臣下は忠節を尽くし、その結果、桴と太鼓をひっさげて戦がはじまるでありましょう」

 と答えた。孫権は機嫌良く大笑し、

 「誠実な卿からすれば、そういうであろうと思っていたよ」

 といった。諸葛亮に書簡を送り、

 「以前の使者は、ことばがうわすべりしていたり、逆に足らなかったりした。

 呉蜀の和を強固にできるのは、鄧伯苗(鄧芝)だけである」

 と伝えた。

 ところで二国の同盟を結ぶ使者をみごとに為した鄧芝には、まだ張裔を蜀に連れ帰る任務が残されている。孫権とすっかり親しくなった鄧芝は、

 「大王に、お願いがございます。

 まえの益州郡太守の張裔という者が、大王の国のどこかにいるはずで、かれを生まれ故郷にかえしてやっていただきたいのです」

 張裔は成都の生まれである。

 「ふむ、張裔という者がか……」

 むろん、孫権はさえない張裔のことを記憶しているはずがない。

 側近に張裔の名をたずねた孫権は、

 「ああ、雍闓の捕虜になって送られてきた男か……」

 とようやく思い出した。その程度の価値しか孫権にとって、張裔はなかったのである。

 「わかった。張裔を探し出す。見つけしだい、連れ帰るがよい」

 孫権は、関心なさそうにいった。

 鄧芝が帰国の途につく期日前に、あっけなく張裔は発見された。

 (張裔は見た目は立派だが、中身は粗い男だと雍闓はいっていたが……諸葛亮が必要とする男なら、いちど会っておこうか)

 孫権は、張裔を謁見させることにした。

 「むかし未亡人となった蜀の卓氏の女は、司馬相如と駆け落ちした。なんじの土地の風俗は、どうしてそうなのかな」

 卓氏とは前漢の時代の人である蜀の卓王孫のことで、女は文君という。文君は富豪である父のもとに遊びにきた司馬相如に一目惚れしてともに逃げた。

 孫権は父の卓王孫をないがしろにした女の文君の不孝を批難したのである。

 それはあくまでたとえであり、蜀人の身勝手を批判し、呉と同盟しても魏に奔ることはあるまいね、と釘をさしたものである。

 歴史にくわしい張裔は、当意即妙さをみせて、こう答えた。

 「未亡人となった卓氏の女は、朱買臣の妻より賢いでしょう」

 おなじく前漢の人である朱買臣の妻は、いつまでも出世できずに貧しかった夫を見限って離縁した。

 のちに朱買臣が出世して会稽太守になったとき、もとの妻はおのれを恥じて首を吊って死んだ。

 孫権も、歴史にはなみなみならぬ興味をもっている。朱買臣の妻は、呉の人である。

 (こういうことがいえる男なのか……)

 張裔の返答に満足した孫権は、

 「なんじは還ったら、かならず王朝でもちいられ、田舎の田父としては終わらないであろう。そうすれば、なんじはわれになにを報いてくれるのかな」

 と冗談まじりにいった。

 益州の賊から送られてきた張裔をかくまってやり、帰還までゆるしたのであるから、礼くらいあってもよかろう。

 張裔は、はっとした表情となりうつむいていった。

 「私は罪を背負った身で故郷に還るわけですから、司法の裁きを受ける身です。

 もしもさいわいに私の首が銅から離れることがなければ、五十八歳以前は両親からもらった生であり、それ以降は大王から賜った生でございます」

 孫権は、笑ってうなずいた。

 (軍事はできなくても、なかなかの器ではないか)

 しかし、鄧芝との約束を守ることにした孫権は、

 「まもなく鄧伯苗が出発する。無事の帰国を祈っておるよ」

 と張裔を送り出した。

 張裔は呉の宮殿から出ると、そわそわしたようすで鄧芝に、

 「もうしわけございませんが、一刻もはやく出発し、できるだけの速度で帰国してください」

 と願い出た。

 (孫権の前で、ついつられて臆病者になりきれなかった……)

 張裔は、そういうじぶんを悔いた。孫権は有能な人物を手元で活用したがる君主であり、かならずじぶんを追ってくるはずである。

 「卿のいうことは、ほんとうか」

 鄧芝は庸器にしか見えない張裔が、うぬぼれているのかとひそかに嗤った。

 しかし張裔をつれもどす命令を諸葛亮からじきじきにうけている鄧芝は、いそぎ出発して倍の速度で日没もかまわず、蜀への帰路をいそいだ。

 しかし。

 一方の孫権は、張裔との会話を思い出していた。その歴史への造詣の深さ、誠実さはまさに孫権好みであった。

 (また張裔と語り合いたいものだ……)

 そう考えた孫権は側近を呼び出し、是が非でも張裔を連れ戻してくるように命じた。

 国境まで追い続け、とにかく途中であきらめるな、といった。

 呉の船は快速であるので、鄧芝がいそがなければ、まちがいなく中途で追いつかれ、張裔を捕らえられていたにちがいなかった。

 「背後から、呉の船が追跡してきています」

 「なんだと」

 鄧芝は、青ざめた。

 (張裔を、取り戻しにきたのだ……)

 鄧芝は張裔の願いをきいて、日夜船をいそがせてよかったと胸をなでおろした。

 呉との同盟を為したが、張裔を奪われては特命大使としては片手おちとなる。

 鄧芝と張裔はなんとか国境を越え、永安に入った。

 鄧芝は、諸葛亮に復命した。二百匹の馬と千反の錦、それに益州の特産品を孫権に無事贈ったことも報告した。

 話は、張裔の身柄におよんだ。

 「孫権というひとは、ほんとうにむずかしい……いちど張君嗣(張裔)の帰国を許しておきながら、あとから追ってきたのですから」

 鄧芝の説明に、諸葛亮は皮肉な笑みをうかべて、

 「そうであろう。ゆえに卿でなければ特使のつとめははたせなかったのだ」

 とおおいに鄧芝を賞賛した。

 かたわらでかしこまっている張裔には、

 「昭烈皇帝(劉備)は、あなたの身柄を亡くなるまで心配しておられた。

 これからは若君のために、おおいに尽くされよ」

 といった。

 (詔烈皇帝が、われをおぼえておられるはずはあるまい)

 張裔は、じぶんを救ったのが諸葛亮であることを知っている。己の能力を評価してくれる人のために尽力すればよい。

 張裔は参軍に任ぜられ、益州治中従事も兼任した。七十四歳で亡くなるまで、公私うらおもてのない諸葛亮の信奉者となった。

 建興二年(二三四)年には、呉から孫権の使者である張温が来て、蜀と呉の同盟はさらに確固としたものになった。

 張温は諸葛亮や馬謖、鄧芝といった重臣に迎えられ、蜀の人材の豊富さにおどろいたようで、

 「蜀帝は父の跡を嗣いだばかりとはいえ、補佐の諸葛亮らに万事諮りながら、政治をおこない、臣下の才能をじぶんのものとして活用しています。

 呉にとって蜀はまことに頼りになる国であり、ともに天下を平定し、統一したいものでございます」

 と孫権に報告した。

 張温は、蜀の劉禅や諸葛亮と親しむことで、蜀びいきとなり、いつも、

 「蜀においては……」

 と呉との比較をするようになった。

 孫権はそのことがおもしろくなかったようで、張温を無実の罪で失脚させた。その六年後、張温は三十八歳の若さで病死するので、八十歳以上生きて大将軍になった鄧芝とは、明暗を分けることとなった。

 諸葛亮は念には念をいれるため、鄧芝を張温の返礼の使者として呉に送った。

 先述したとおり孫権に気に入られた鄧芝は、今や蜀と呉にとってかけがえのない橋渡しである。

 呉との同盟が成った今、諸葛亮の目は益州から南中に燎原の火のごとくひろがっている叛乱を鎮圧することにむけられるようになった。

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