劉備
二十一
劉備と孫権が和睦した一方で、こんどは呉に欺かれた魏が孫権を攻めている。
孫権は魏の二正面作戦にさらされ、洞口に南下してきた曹休には呂範指揮の五軍で構成された船団を、南郡には諸葛謹、潘璋、楊粲を救援に出した。
濡須に侵攻してきた曹仁には、朱桓を向かわせている。
さらによくないことには、揚州や越の異民族が魏に内応して、不気味なうごきをみせていることである。
内憂外患にさらされた孫権は、いまさら曹丕に上書し、言い訳をすることにした。
「もしもわたしに罪があり、それを除くことができず、処罰されるのであれば、交州に隠居し、余生を過ごすことにします」
しかし、いくら人のよい曹丕でもこのような虚偽を信ずるはずはない。
「呉王の上書には、なみなみならぬ贖罪の心があらわれており、すぐに詔を下して兵の前進を止めた。
ただしあなたが忠節を明示しようとするならば、太子の孫登を入朝させるべし。
孫登が朝で都へ到着すれば、夕に全兵を撤退させるであろう」
孫権は、
「曹丕も、さすがに阿呆ではないわ」
と笑って、
「改元する」
といった。魏の元号を撤去して、「黄武」という呉独自の元号を創出した。
曹丕を畏れてみせたのは、各方面に迎撃軍を送るための時間かせぎにすぎない。
このことにより、魏の「黄初」、蜀の「章武」、呉の「黄武」と三つの元号が並び立ち、三国時代の到来をもたらした。
ただし、孫権はまだ帝位にはついていない。呉王のままであり、帝位に即くのは七年後になる。
十月に入り、孫権は江水の防備を重厚にした。水軍を率いる呂範は、宿将であり応変の戦術を身につけている。
兵力では呉軍にまさっている魏軍ではあるが、水戦が不慣れであるため、軽々しく兵をうごかさず、呉軍とのにらみあいになった。
十一月に、事態はうごいた。
それは天変地異であり、江水を暴風が襲って呉軍の船を転覆させた。数千人を溺死させてしまった呂範は、兵船を江南に移動させた。
「天がわれらに味方した。呉軍を追撃するぞ」
曹休と臧覇は軽船を五百艘用意し、決死の兵を一万人募った。
ふたりは風が弱まり、退却してゆく呂範を猛追した。徐陵という土地で数千の呉兵を檄殺し、攻城車を焼くことに成功した。
呉の全琮と徐盛も、負けてはいない。
「このまま敵を、北に還してよいものか」
大勝して油断していた魏軍は、全琮と徐盛の返り討ちに遭い、魏将の尹廬は戦死した。
とはいうものの、戦全体を俯瞰してみれば、魏軍の大勝はゆるがない。
「よくぞ江水をわたって、敵を懲らしめた」
十一月、宛に到着した曹丕はおおいによろこび、曹休を征東大将軍に任じた。曹休は黄金の鉞をあたえられ、呉に対する元帥になり、独断専行をもみとめられたのである。
しかし南郡を南下して江陵を攻めているはずの曹真からは、なんの報告もない。
年が明けて黄初四年(二二三)となった。
曹丕に届いたのは、曹真軍からの捷報である。
「江陵の中州を占拠しました」
中州とは、江陵の西にある川に囲まれた土地である。ようやく、曹丕も表情を明るくした。
曹真軍の中でも猛威をふるったのは、魏の五将軍のなかの張郃である。
張郃はみずから先頭に立って呉軍を大破し、江陵の西に進出した。
江陵の中州は、江水だけでなく四方を川に囲まれているので防御にむいており、ここを陣地として江陵を攻め落とせばいいということである。
江水の下流域にいる曹休も、また呉軍に対して優位に立っている。
曹丕は若い曹休の側に張遼をつけ、その補佐にあたらせた。
このとき張遼は病気がちで、体調は良好ではなかった。しかしかつて張遼は李典とともに、十万の孫権軍へたった八百の兵で斬り込み、孫権をおいつめたことがある。
その神話はいまでも魏呉で語りつがれており、張遼はまさに生きる軍神であった。
孫権は張遼を畏れ、
「張遼は病であるそうだが、決してこちらから兵をけしかけてはならぬ」
と厳命した。
しかしこの遠征が、張遼の寿命を終わらせた。
諸将とともに呂範の船団を打ち破った張遼だが、病が悪化して江陵の北岸にある江都まで退き、そこで病没したのである。
その死は、黄初三年(二二二)のことであり、張遼はまだ五十代のなかばであったと推測される。
「文遠(張遼)が亡くなっただと」
曹丕は魏最高の武将の死を聞き、涙をながした。妻や子、兄弟などの身内には冷酷な曹丕は、愛顧する武将へは厚情をみせる一面がある。
張遼は、死後「剛候」という諡号をたまわった。家は子の張虎が嗣いだ。
さて、濡須の戦場に目をむけると、守将は周泰である。
周泰は孫策に仕えてから二十余年、宿将としてつねに献身的な武勇を誇り、身には数十の傷があった。
周泰は貧家の出身で平虜将軍にまでのぼったので、朱然や徐盛などの名家出身の将軍たちは周泰をかろんじて従わなかった。
そこで孫権は濡須まで閲兵にでかけたとき、宴会をひらいた。
各将に酒をついでまわった孫権は、周泰の前にくると、
「平虜将軍(周泰)、上衣をぬいでみてくれぬか」
といった。全身戦で負った傷跡だらけである。孫権は感嘆して、
「この傷は、どこの戦で負ったものか」
と逐一聞き、周泰は明確に答えていった。
朱然や徐盛たちが、唖然としたのはいうまでもない。
「平虜将軍は、われら兄弟のために熊虎のごとく戦い、命を惜しまず、その身は切り刻まれたようになった。
卿は呉の功臣で、われは卿と栄辱をともにし、喜悲をもともにしたい。
幼平(周泰)は寒門の出身であることを恥じる必要はなく、ここではおもったように戦うがよいぞ」
そういった孫権は、自らの幘と青い蓋を周泰にあたえた。
この日を境に朱然や徐盛らが、周泰の命にしたがうようになったのはいうまでもない。
しかし、その周泰も年齢は六十をとうに超えている。
(幼平も、老いてきてはいる。若い将軍と激戦地になる濡須の守備を交代させよう……)
孫権の配慮にかなったのが、朱桓、あざなを休穆という将である。
朱桓はこの年四十七歳の男ざかりであり、裨将軍、新城亭候である。
二十年の戦歴で、呉領土内の異民族や、孫権に従わない民族を平定しその武勇は、燦然たるものである。
孫権は濡須の兵の入れかえをおこない、守将を朱桓、騎都尉として周泰の子の周邵を残した。
二月に濡須におしよせてきた曹仁と対峙しても、大胆不敵な朱桓は萎縮しない。
(周瑜にも勝てなかった曹仁だ。われに勝てるはずがない)
曹仁は、いまや曹操の戦術の後継者である。
さっそく策を立て、
「まずは羨渓を占拠する」
と宣言した。魏呉の両軍には偵探がまぎれこんでいる。つまり、朱桓に聞こえるようにいったのである。
その実は、佐将の蔣済に羨渓を攻めさせて朱桓の注意をそらし、曹仁じしんは濡須の中州を攻め取るというものだ。
蔣済は危機を察知し、察知して曹仁に諫言した。
「中州の江水上流には、呉軍の船が多数うかんでいます。兵を中州に侵攻させれば、逃げ場がなく、孤立してしまいます」
曹仁は、いつもの曹仁ではなかった。
蔣済の諫言を無視して、己の策を強行した。
「曹仁が、羨渓を攻めているとはまことか」
朱桓は、すみやかに兵を羨渓にむかわせた。
曹仁の策に、欺かれたのである。
曹仁は濡須まで七十里の場所まで、せまった。朱桓のもとには、五千の兵しかいない。対する曹仁は二万の兵を率いている。
しかし、心中の動揺を諸将にみせるような朱桓ではない。
「戦において両軍が戦うとき、勝敗は将によるのであって、兵の多寡ではない。
なんじらは老いた曹仁が、若いわれにまさるとおもうか。
その曹仁軍は遠路はるばる攻め寄せてきて疲弊しており、士卒は疲弊し、おびえている。
われらは守備するにおいて、高い城壁と大きな江水、北は山に護られている。
士気旺盛なわれらが、疲弊した敵兵を迎え撃てば、百戦百勝ぞ。
曹丕が親征してきたとしても、なんのことがあろうか。敵将は、たかが曹仁だぞ」
魏では屈指の名将も、朱桓にかかればかたなしである。
朱桓は、あえて旗鼓を立てず、軍が曹仁におびえているように偽装した。
「敵は寡兵だ。見よ、わが軍に萎縮しているではないか」
曹仁は、蔣済にきこえるようにいった。
今年五十六歳の曹仁は、まだ十年二十年魏の陸軍をささえる名将たるべきと自覚しており、気が大きくなっていた。
「われが、出るまでもない。なんじが攻めよ」
と子の曹泰に攻撃を命じた。
さらには曹泰が武功を立てやすいように、将軍の常雕と属将の諸葛虔と王双をつけてやった。
諸葛氏は珍名であるように思えるが、魏呉蜀に散見できる。諸葛虔は、呉の諸葛謹と蜀の諸葛亮とは遠縁である。
曹仁は先鋒の曹泰らを後援するため、とどまった。先鋒だけでも大軍であることには、違いない。
朱桓の洞察力は、曹仁のうごきを的確に読んでいた。
「魏の油船を襲って、沈めよ。先鋒は、うごきがにぶい。そのままわれが出陣して、敵の営所を焼き払う」
朱桓は将軍の厳圭に命じて、魏の油船を急襲させた。蔣済がいっていた上流の船団を利用したのである。
曹泰はあるいは初陣か、戦慣れしていない若将だったのかもしれない。
朱桓が指揮する縦横無尽の呉軍に翻弄され、陣が整列するまえに、朱桓に営所を焼かれて右往左往することになった。
厳圭は、軍を鎮めようとしている常雕を討ち取り、王双を捕虜にした。
見るも無惨な壊滅である。
朱桓は、常雕の首と王双の身柄を武昌に送った。魏兵の戦死者は、千余人であった。
孫権は朱桓を嘉し、奮武将軍に任じ、嘉興候に封じて、彭城の相という職をあたえた。
「ぶざまな負け方をしてしまった……」
じぶんなら負けるはずがない、という圧倒的な戦力差で朱桓に敗れた曹仁は、落胆から病に罹患し、三月丁未の日に亡くなった。
曹仁は水軍をうまく統率できはしなかったが、曹操の覇業を忠烈に補佐し、陸戦においてその精強さは張遼とならぶ将軍であった。
さずけられた諡号は「忠候」である。
子の曹泰は家督を継ぎ、鎮東将軍にまで昇進した。ただ、曹仁の死後その軍を引き継いだのは東中郎将の蔣済であった。
曹仁の右腕としてつねに補佐してきた牛金は、後将軍となった。
曹仁が死んでも、戦線はうごいている。
やはり曹丕は親征をおこない、現地の多方面に展開する軍を指揮すべきであった。
曹休などは、
「呉軍の補給物資を奪えば、かならず戦に勝つことができます。江水を渡らせてください」
と決死の嘆願をおこなったが、曹丕は判断に迷い、駅馬をはしらせて、それをとめた。
しかしそのあと大風が吹いて、呉の船を転覆させたりして、魏に勝機が訪れた。
「すみやかに、江水を渡れ」
こんどは進軍命令を出した曹丕ではあるが、ふたたび命令が現地に到達することが遅れて、魏軍は勝機をうしなった。
江陵を攻めている、曹真軍はどうなったか。
対峙している呉の諸葛謹は、中州に着目し、軍を渡らせた。
「諸葛亮の兄かよ。難敵ではないぞ。われらで挟撃しよう」
曹真は夏侯尚と協議して、歩兵と騎兵を一万人油船にのせて江水下流に移動した。
夏侯尚は呉軍に気づかれぬように対岸に渡り、岸にいる呉軍を急襲し、船を火攻めにした。同時に挟撃のかたちをとった曹真も攻撃を開始したため、諸葛謹の軍は撃破された。
夏侯尚も、中州に軍をすすめて合流した。
そこに屯営を築き、浮橋をもつくって、南北への往来を可能にした。
「江陵の陥落も、まもなくだな」
悦にひたった曹丕に、群臣たちも追従している。しかし董昭だけが不安をもっていた。
「武帝(曹操)は、知勇にまさるものがいなかったにもかかわらず、敵を軽んずることはありませんでした。
兵は進むことをこのみ、退くことを忌みます。平地でもそうなのに、江水の中州に駐屯していれば、なおさら帰路を確保すべきです。
なぜなら、中州から脱出するには、浮橋しかないからです。
もし防備がよわい浮橋を呉軍に攻撃されれば、たちまちわが軍は孤立し、捕虜になってしまいます。
すみやかに、呉軍が攻撃をしかける前に撤退をご命令ください。
勝てずとも、損害がでないほうが勝ります。
いま江陵の中州は、危地に他なりません」
曹丕は董昭の意見をきいて、現地の危機を実感した。
「すみやかに、中州から撤退すべし」
その使者をうけた曹真と夏侯尚は、あわてて中州から撤退をはじめた。
はたして董昭のいったとおり、江水の水量が増えてきており、それに乗じて呉軍が攻撃してきたので、撤退戦は困難をきわめた。
殿の将軍である石建と高遷が奮戦したため、なんとか曹真と夏侯尚は退路を断たれず、中州から脱出できた。
胸をなでおろした曹丕は董昭を召して、
「卿の進言のつまびらかなことは、漢の張良と陳平にもまさる」
とおおいにほめた。
三月のうちに、魏の全軍は呉から撤退し、曹丕も宛から洛陽に帰還した。
「反転攻勢をしかけるぞ」
戦況が呉軍有利となったいま、孫権は武昌から五万の兵を率いて、夏口にすすんだ。
そのゆくてを阻んだのは、文聘あざなを仲業である。
文聘はもと劉表の部下で、劉表死後劉琮が曹操に降伏したとき、それにしたがった。
その才能は曹操に重んじられ、このときは討逆将軍、長安郷候、仮節をさずけられている。
魏全軍に撤退命令が出たため、文聘も夏口から西北にある石陽に移動した。
まさか、孫権みずから石陽に大軍を寄せてくるとは思わなかったので、軍を解いていた文聘は驚いた。
洛陽に救援をもとめても、間に合うことはない。
(いっそ、孫権と戦って死ぬか)
おりしも大雨が降りそそぎ、石陽の城壁を溶かしはじめた。
(空城の計をつかうしかない……)
城壁の崩れを補修し、魏軍から城内を見えないようにした文聘は覚悟をきめた。
文聘は、
「兵たちに、物音をたてさせてはならぬ」
と配下に厳命し、みずからは官舎で数日間眠りつづけた。
さて、石陽城下に兵を寄せてきた孫権は、その静けさをいぶかしんだ。
「魏軍に文聘ありと、その名はとどろいている。その文聘がうごきをみせないということは……かならずや曹丕からの援兵を待っており、近々それが到着するにちがいない」
二十日間石陽城を包囲して、抵抗を受けなかった孫権は、見えない敵を警戒して、ついに五万の大軍を撤退させてしまった。
孫権は老獪ではあるものの、曹丕とおなじくみずからが軍を率いて勝ったことがない。
おまけに撤退戦もうまくない孫権は、文聘に追撃され大敗した。
曹丕はこの戦況を洛陽で聞き、
「仲業(文聘)が、みごとに孫権をおいはらったではないか」
と褒め、五百戸を追贈した。
文聘は江夏郡に数十年とどまり、民にはみごとな行政をおこなった。まさに文武両道の将である。
文聘が江夏にいることで、呉軍は江夏に兵を出せなくなったのである。
※
黄巾の乱から、この年まで生き残った英雄はもはや劉備ひとりである。
曹操も、袁紹、孫堅、呂布もみな逝った。
その劉備も、昨年末に体調をくずし、死の床にあった。
「劉備は、もう立ち上がれぬ。いまが好機ぞ」
と漢嘉郡太守の黄元が、叛乱をおこした。
(諸葛亮のような、青白い書生の風下に立てようか)
劉備が永安から成都に帰還できないので、いま成都は空である。
諸葛亮は防備を固め、黄元の叛乱に備えた。
永安は益州と荊州の境にある。
劉備は呉と和睦したので、もはや国境の防備にあたる必要はない。劉備はそれでも呉を警戒していたのかもしれないが、多数の蜀兵をじぶんの失敗で殺してしまったので、慚愧にまみれていた。
関羽の戦死、張飛の横死、そして陸遜に惨敗とかつてない苦しみが劉備をおそった。
仇敵の曹操も、すでに生きてはいない。
(もはや、生きる意味はない……)
劉備の気力と精神は衰弱し、長年の疲労が免疫を失ったからだを蝕んだ。
劉備は、病を受け入れた。
その方が、生きるより楽であったからである。はやく関羽や張飛、曹操に会いたかった。
とはいえ、劉備は漢を継承する皇帝である。
その後事を皇太子の劉禅や、丞相の諸葛亮に託さねばならなかった。
「丞相(諸葛亮)に、永安まで来てもらえるだろうか」
劉備からの使者が成都に到着したのは、一月であった。
(……このときがきたか)
諸葛亮は、劉備との別れを思った。
じぶんは劉備を皇帝につけ、呉との二正面作戦で魏を討とうとした。
関羽や張飛、諸葛亮の暗躍に気づいた法正たちをしまつした。後悔はない。
諸葛亮が成都から永安に到着したのは、二月であった。
(ご容態は、悪くはない)
寝室には、李厳もいた。
劉備の遺言の、立会人ということになろう。
諸葛亮がとまどったほど、劉備は顔色がよく、牀からからだをおこした。
「卿の才能は、曹丕の十倍以上ある。
かならずや国を安んじ、ついには大事を定めることができるであろう。
もし皇太子(劉禅)が、補佐するのに充分な才覚をもっているなら、補弼してほしい。
才能がなければ、卿がとってかわっって皇帝になれ」
おどろくべき遺言である。
李厳は唖然として、劉備と諸葛亮を見た。
諸葛亮はひざまずき、劉備の手をとっていたが、たちまち目に涙をあふれさせた。
「臣は股肱として忠義を尽くし、死するまで皇太子のためはたらきます」
李厳は諸葛亮のことばを聞き、脱力した。
(皇太子の才能は、諸葛亮にはるかおよばない……帝位を禅譲してもらえばよかったのだ)
現実主義者の李厳が落胆したように、すべてを棄て尽くしてきた劉備が、ここで帝位を諸葛亮に譲れば、歴史的な美談となり、蜀は敗戦の痛みから立ち直り、中原を制覇することも夢ではないのである。
(それとも陛下はわれに、皇太子をたのむと諸葛亮に念押しするところを見せたかったのか)
李厳は、劉備の心中をはかりかねた。
諸葛亮の立場からすれば、帝位を譲ると面とむかって皇帝からいわれて、はいうけたまわりました、と答えられるはずがないではないか。
「そうか……では、皇太子に詔を下す」
劉備は紙と硯を近習にもってこさせ、成都にいる劉禅にむけた詔を書いた。
「なんじはいつも丞相とともに事にあたり、丞相を父と思えよ」
諸葛亮の涙はとまらず、さらに嗚咽をもらすようになった。
劉備は、これまで諸葛亮のしたことをすべて呑み込んだうえで、後事を託したのである。
(われの陰謀は、劉備に功臣の粛正をさせたくないがためであった)
建国の元勲は、漢の劉邦らによってなされたように、粛正の対象になる。
いわば諸葛亮は、劉備の手をよごさせぬように、粛正代行者となった。
この年章武四年(二二三)に、十七歳にすぎない皇太子の劉禅は、劉備の遺徳によって蜀国民に慕われるであろう。
その最大の褒賞に、劉備は諸葛亮へ帝位をゆずる、といったのである。
(器の大きさにおいて、われは劉備にかなわぬ)
諸葛亮は感動して涙をながし、それがとどまるところをしらなかった。
一方諸葛亮がいない成都は、劉禅が黄元の叛乱を防衛するしかない。
とはいえ、その側には馬謖がおり、諸葛亮の指示で蜀郡太守の楊洪に、叛乱の鎮圧にあたらせた。
「将軍の陳臽と鄭綽に親兵を率いさせ、賊の黄元を討ち果たしましょう」
黄元は、すでに蜀郡に侵入している。
「もしも黄元が成都を包囲できなければ、越嶲郡を経て南中に割拠するつもりかもしれません」
蔣琬が、楊洪に懸念を述べた。
陳臽と鄭綽は益州の逸材なので、能力に不満はない。しかし黄元に勝ったあとのことを考慮しているのか、と蔣琬はいっているのである。
だが、楊洪はまったく憂慮をみせない。
「黄元はもともと凶暴な男で、兵や民に恩恵をほどこしたりしたことはない。
どうしてそのような手が打てようか。
陳臽と鄭綽に敗れたあとは、せいぜい永安の陛下に面縛して赦しを乞うか、呉に逃げ込むことしかできぬ」
つまり益州には、薄情な黄元に呼応したり庇護するものはいない。よって黄元の叛乱は根をはることができない、と楊洪は見切った。
「陳臽と鄭綽に命じて、南安峡の入り口をふさぐだけで、ただちに黄元を捕縛することができましょう」
楊洪はそう断言して、劉禅に策をすすめた。
「その言はよい。ただちにそうするであろう」
劉禅も楊洪の策が万全であると思い、陳臽と鄭綽を討伐に出兵させた。
ふたりの将軍は、西南から北上してくる黄元を迎撃すべくその進路を防いだのではなく、
南の南安にある峡谷を兵でふさいだ。
戦う前に黄元の退路を断って、まず黄元を袋の鼠にしたのである。
「陳臽と鄭綽の軍が背後にまわりこみ、退路を断ちました」
「なんだと……」
黄元は狼狽した。暗愚にみえた劉禅が、このような手を先にうってくるとは意外である。
黄元の迷いはすぐに配下の兵たちに伝染し、たちまち脱走兵が増え、戦う前に叛乱軍の兵力は半減した。
「よし、ただの一戦で黄元を捕らえるぞ」
陳臽と鄭綽は、機を逃さず黄元の軍をはげしく攻撃した。
もはや戦らしい戦には、ならなかった。
陳臽と鄭綽の軍は黄元の叛乱軍を大破し、江水を下ってきた親兵によって、黄元は捕虜となった。
(公嗣と孔明に、禍根を残すことはできぬ)
劉備は、これから蜀を経営する劉禅と諸葛亮に、負担をかけさせまいと、すぐさま黄元の処刑を命じた。
黄元の叛乱が鎮圧されたのは三月で、このときふたたび劉備の病は篤くなった。
劉備はじぶんの死期を悟り、ふたたび劉禅に遺詔をあたえた。
「われの病は、はじめ下痢にすぎなかったが、のちに転じて複雑な病となって、もはや命をたもつことはできなくなった。
人は五十まで生きれば夭折といわず、われはすでに六十余年生きたので、恨むところも悲しむところもない。
いまはただ、なんじら兄弟のことを案じている。
永安に来てくれた射君(射援)がいうに、丞相(諸葛亮)はなんじの知力の成長に驚いているという。予想以上の進歩であれば、われに憂うることはない。
つとめよ、つとめよ。
悪は、小さくても行なってはならぬ。善は、小さくても行なわなくてはならぬ。
ただ賢さと徳だけが、人をしたがわせるのだ。なんじの父は徳が薄かったので、まねをしてはならぬ。
『漢書』と『礼記』はかならず熟読せよ。
なお時間があれば、諸子と『六韜』『商君書』をながめ、心知をゆたかにするのだ。
丞相は『申子』『管子』『六韜』を書き写しおえて、なんじに送ろうとしていたというが、途中でなくしてしまったらしい。
みずから多くを知り、万事に通じるように、つとめるのだぞ」
劉禅は成都におり、異腹の兄弟がふたりいる。すなわち劉永と劉理である。
黄元の叛乱で成都を離れられなかった皇太子の劉禅に代わって、病牀の劉備に会いにきたのは劉理であった。
射君とよばれている射援は、右扶風の出身で、戦乱を逃れて蜀に移住した。
若い頃から学問にはげんだ射援は、諸葛亮に抜擢され祭酒になっている。祭酒とは学界の最高責任者であり、射援も諸葛亮に従って、永安にきている。
劉禅は学問熱心だったので、射援はその勤勉ぶりを劉備に報告し、劉備も心安んじた。
劉理を病牀に呼んだ劉備は、
「朕亡き後は、なんじら兄弟は丞相に父事して、卿(大臣)と丞相がともに事にあたるようにするのだ」
と兄弟らの心得を説いた。
季節は四月に入っており、気温の上昇とともに劉備は衰弱していった。
皇嗣の劉禅が国政とともに丞相の諸葛亮に任され、尚書令の李厳が副として劉禅と諸葛亮を補佐することになった。
ついに四月癸巳の日、劉備は崩御した。
享年六十三歳であった。
劉備はその生涯をつうじて、漢の高祖である劉邦を尊敬し、模倣しつづけた。
換言すれば、劉備の生き方に創意工夫はいっさい見られない。
ところが、どのような苦境にあろうと、劉邦の模倣をつづけた劉備は、乱世をだれよりもながく生き残り、忍耐が大器を形成した。
曹操が民に慕われなかったのに対し、劉備は荊州時代から帝位に昇るまで、官民に慕われた。
曹操が有為の人であれば、劉備は無為の人である。無為は劉備のあざなである玄徳に達する。
劉邦を模倣した劉備は、項羽のように単純ではなかった曹操に勝てはしなかったが、負けもしなかった。




