夷陵
二十
劉備軍は、一方的に有利な戦を展開している。
将軍の呉班と陳式は戦がうまく、夷陵を陥落させた後、水軍で江水の両岸に陣取った。
そうなると蜀と呉の攻防を観察していた蛮族たちも、劉備軍に与したく申し出てくるものがおおくいる。
さっそく劉備は、軍師の一人である侍中の馬良を呼んで、
「武陵にむかって、五渓蛮を慰撫して味方につけるよう」
と命じた。五渓蛮は、もともと武陵蛮と呼ばれていたのだが、五派に分かれたため五渓蛮という。
馬良は、かれらを戦場に兵として連れてくるように要請されたのである。
馬良の生まれは荊州の襄陽郡宜城県なので、五渓蛮たちが住む地理には詳しい。
「さっそく漢帝(劉備)の軍に従いましょう」
馬良は黄権に勝るとも劣らない戦略の天才なので、理を尽くして説かれた五渓蛮の族長たちは、こぞって劉備軍に加わることになった。劉備は馬良に印綬をもたせて、五渓蛮の族長たちに与えた。
さて、もう一人の軍師である黄権が劉備軍軍師筆頭である。この呉征伐において、鎮北将軍に任じられている。
(呉を攻めることには反対だが、戦うならば、必勝を期さねばならない)
劉備がみずから兵を率いるのであれば、万が一の危険も避けなければならない。
「呉の兵は、勇猛をもって知られています。
また、わが軍にとっては江水の流れは順流ですから、進むに易く、退くに難くなります。
まず私が先鋒を承りまして、先に敵を掃討してゆきますので、陛下はどうか後軍の鎮めになっていただきますよう」
皇帝が先陣で戦う、ということは非常時であって、あえて過去の例を出せば後漢の光武帝以降ない。
劉備は皇帝になったばかりなので、危険にはさらすわけにはいかず、軍後方で全体を俯瞰し指揮してくれればよい。
(われをじゃまものあつかいするか)
しかし、今の劉備は生涯で最も頑ななときである。
みずからの軍を最前線に出してきた劉備は、黄権を呼び出し、
「なんじは北方の敵に備え、江水の北岸に布陣せよ」
と命じた。つまり劉備はこの呉征伐をじぶん独りでおこなうつもりであり、黄権の助言を必要としない、といったに等しい。
(これでは、軍が分断されてしまう……)
黄権は不吉を感じたが、皇帝直々の命であるので、軍を率いて夷陵道を進み、そこで呉の兵を防ぐことになった。
劉備じしんはどうしたかというと、巫県の方角から江水に沿って夷陵まで営所をつらね、そこに数十の屯戍の兵を置いた。
まさに、数珠つなぎである。
そのような補給と防衛に特化した路を長々と構築した。
攻撃面では、将軍の馮習を大督に任命した。
先鋒は、張南である。張南は先鋒を任されるだけあって勇猛の将軍であると思われるが、その事蹟は伝わっていない。
さらに輔匡、趙融、廖化、傅肜らを別督に任命した。大督も別督も蜀にしかない職名で、大督は総司令官、別督は方面軍司令というところだろうか。
劉備の戦術をかたわらで支えているのは、もう一人の軍師である馬良である。
陣地構築を終え、臨戦態勢に入った劉備軍は、夷陵にいた呉班を平原部まで進めた。その数五千である。
数で勝る呉軍では諸将が陸遜に、
「呉班を攻撃しましょう」
とさかんにせっついた。
陸遜は慎重すぎるといった態度で、劉備軍と対峙している。
(たった五千で、五万のわが軍と対決する意味とは……)
陸遜は、熟考している。
劉備の戦術は呉の諸将が侮っているほど、まずいものではない。
むしろ堅実すぎるくらいであり、営所をつらねた陣地に攻撃をしかける隙はない。
陸遜は、顔をあげた。
「これには、かならず敵の策略がある。呉班への攻撃を控え、ようすを見る」
諸将は、この決断に不満をもった。
「ようやく敵が出てきたのに、数にまさるわれらが攻撃すべきだ」
「大都督(陸遜)は、臆病すぎるのではないか」
本営での不満は陸遜も知っていたが、それでも軽率な出撃を認めなかった。
果たして、陸遜の見立ては正しかった。
劉備は呉班の隊を突出させて呉軍に食いつかせ、谷に誘引して伏兵とともに包囲殲滅する策をたてていたのである。
「敵もさるものですな」
馬良は、こちらのもくろみを見破った陸遜を褒めた。
「腰抜けが……谷に隠れるまでもない。軍を出すぞ」
劉備は伏兵の一万の軍を率いて、平野部に進軍した。
ここで元帥の威をしめさねばならぬと思った陸遜は、
「卿らに呉班を討つことをゆるさなかったのは、かならずや敵に罠があると考えてのことだったのだ」
とことさら強くいった。
諸将はすこし陸遜のことを見直したが、
(しょせんは負け続きではないか)
との批判をもっている。
陸遜は秭帰と夷陵をたてつづけに劉備に奪われ、いまは夷道にちかい猇亭まで進出されている。
(諸将が不安に思っているということは、王も不安であろう……)
そう感じた陸遜は、孫権に書簡を送った。
「劉備の軍の指揮は、以前もいまも失敗が多く、成功は少ないので、王におかれましてはご心配なさいませんよう。
私が恐れておりましたのは、劉備が陸軍と水軍を同時に侵攻させることでしたが、いまは劉備の兵はすべて船を降り、徒歩で各所に連結した営所を設置しています。
この布陣を察するに、陣形変化は起きないでしょうから、王におかれましては枕を高くお眠りください」
書簡を受け取った孫権は、
(劉備軍が優勢なのは、変わりないではないか……)
とひそかに思いつつ、陸遜の度胸に感心もした。不満があるとすれば、劉備軍を撃破する方策が一切述べられていないことである。
陸遜としては、劉備軍の数珠つなぎになっている営所を寸断し、勝利にもっていきたいところであるが、思っている以上に劉備軍の守備陣形は重厚である。
また劉備軍が船を降りて歩兵になったといっているが、それは陸戦においては山岳戦や平野戦を多く経験している劉備軍に、呉軍の強さはおよばないことはあきらかである。
つまり、打つ手がないのは陸遜とて同じなのが実情であった。
劉備とて、備えを重厚にした呉軍を攻めきれずにいた。
「わが軍に油断がなければ、負けはない。ならば敵の失策を待ち、決戦をしかけてやろう」
つまり戦場は、蜀軍と呉軍の持久戦の様相を呈してきた。
敗将の陸遜は諸将の不平や不満をのらりくらりとかわしながら、月日が過ぎるのを待った。
呉としては、領土を守り切れば勝ちである。
春が過ぎ、夏になった。
蜀の暦である六月に秭帰から十余里の場所に黄気が立った。
目視できる気は蒸気や雲のようでもあるが、輝きをもっている。
(黄色は漢の色ではない……不吉である)
軍師の馬良は、劉備への黄気の報告をやめた。黄色は土徳を指しているから、魏に吉兆があるのだろうか。
もちろん陸遜率いる呉軍は、黄気を見ていない。対陣の膠着状態が長くなったところで、諸将が陸遜の本営にきた。
「劉備を攻めるのであれば、緒戦しかありませんでした。
それがいまや敵は六百里もわが領土に攻め込んで、営塁を築いてしまっています。
にらみ合いも八ヶ月つづいており、蜀の各要害は守りをいよいよ固くしています。
いまさらそれらに攻撃しても、われらは勝つことができません」
要するに、緒戦で劉備を叩かなかったがゆえに、こうなったと諸将は不満を述べにきたのである。
ところが、陸遜はこのときを待っていたのである。
(陣地が堅固であれば、敵兵の士気が落ちるのを待てばよいが、そのときが来つつある……)
しかし。呉軍も蜀軍に対応するかのように、士気が弛緩しているではないか。
(劉備軍が先鋭であれば、わが軍を攻撃するはずであるが)
陸遜は、いぶかしんだ。
(そうか。陣形が堅固すぎて、兵をすみやかに集合させることができないのだ)
まさか、難攻不落に見えた劉備軍の営々が、その弱点になっていたことを、陸遜はついに発見した。
「劉備は狡猾な敵だ。いくつもの戦場を踏んできている。
きやつらが侵攻してきたときは精密な戦術を立てていたはずなので、われはあえて強く抗戦しなかった。
だがこのように長く互いに滞陣していると、敵はわが軍の隙をみつけることができず、兵は疲弊し故郷に還りたがっている。
劉備を前後から捕らえる機会は、まさに今であるぞ」
諸将は、豹変した陸遜を見て姿勢をただした。
陸遜は将軍の朱然を呼び、
「大事な戦術です。劉備の数ある営所の一つを攻撃してもらいたい」
朱然は首をひねって、
「どの営所でもよいのですか」
と陸遜に訊いた。
「どこでも。朱将軍が攻めやすいと思われた営所を攻めてください」
朱然は半信半疑で、劉備軍がつらねるひとつの営所を攻撃した。
しかし守りは固く、成果なく退いた。
朱然は、
「さきほどの攻撃に、どのような意味があったのかな」
と陸遜にあらためて訊いた。
しかし、陸遜の表情は明るい。
「これで、われは敵を撃破する策をさとりました」
と自信に満ちた声をあげた。
「なんと」
「それは、まことですか」
諸将は、こぞって驚いた。陸遜はうなずいて、
「劉備に、応変の戦術はない。敵軍の士気に緩みが生じ、営塁の連動ができないとわかったいま、火攻めをおこなう」
と宣言した。
「たしかに、敵のそれぞれの営所は木製だが……」
朱然と潘璋も、陸遜の火攻めに賭けてみようという気になった。
翌日、陸遜は劉備の営所に火を放つと、あっという間にその営所は風に煽られて焼け落ちた。
「みたか」
陸遜は鞭を振り上げて、
「これから、火攻めによる総攻撃をかけるぞ。各将士奮闘せよ」
と叫んだ。
劉備軍はひとつの営所が焼け落ちると、連絡機能が麻痺した。兵がすばやく集合できないので、兵力が分散され各個撃破されていった。
「呉軍の火攻めだと」
劉備は驚いて迎撃の指令を出したが、前後に分断された前の方の営所にいた兵たちは、孤立するのを恐れて撤退するばかりである。
(陣形を固定しすぎてしまった……)
軍師の馬良は、劉備をまもって退却を指示した。
先鋒の壊滅を援護できない劉備軍は、それぞれの営所だけで陸遜の大軍と戦わざるをえず、次々と焼け落ちていった。
「陛下が撤退するまで、われが国家の鬼となり呉軍を防ぐぞ」
先鋒の張南は武勇を買われて抜擢されただけあって奮戦し、逃げずに戦死した。
大督の馮習、胡族の王を自称していた沙摩柯も討ち取られた。
劉備軍は敗走し、大混乱に陥っている。
「追撃の手をゆるめるな」
陸遜に油断の気配はない。兵をあつめて、劉備の本営を攻めた。
黄権が心配していたように、劉備の本営は呉軍に対して前に突き出しすぎている。
陸遜がこれまで攻めあぐねたように、営所を連ね、堅固な陣を構築したのはまずくなかったが、決戦の意図が見えず、兵たちの士気が弛緩したのが致命傷となった。
営所が孤立した将の杜路と劉寧は、救援がこないことを悟り、呉軍に降伏した。
「降伏した将は手厚く扱うように。まずは劉備を追うぞ」
劉備を輔斬すれば、新しい君主の劉禅は諸葛亮が補佐するであろう。そうなれば遠くない未来に呉蜀両国の和議は成る。降将は、捕虜交換に使える。
そこまで、陸遜は先を展望している。
呉軍は、劉備の本営である猇亭を熾烈に攻めた。営塁を包囲した陸遜は、
「まもなく、劉備の首が届くことになろう」
といった。
猇亭の営塁を破砕した呉軍ではあるが、届けられた首の中に劉備のそれは入っていなかった。
(逃げ足の速さだけは、天下一よ)
劉備は馬良に付き添われて、猇亭が包囲される前に営塁を出て、夜陰にまぎれて逃走したのである。
猇亭と秭帰の間にある馬鞍山というところに、劉備は敗兵をまとめて布陣しているという。
敗れたとはいえ、劉備軍はまだ数万の兵を擁している。陸遜としては、劉備に頽勢を立ち直らせてはならない。
「敵に策はないぞ。四方を包囲して攻め潰せ」
陸遜は、ついに麓の陣を突破した。
劉備の陣はやはり脆く、易々と陸遜率いる呉軍に撃破された。
しかし逃げることにかけて劉備にまさる才能をもつものは稀であろう。夜陰にまぎれて、劉備はふたたび陸遜の前から姿を消した。
劉備は、けっして戦が下手ではない。
ただ曹操における官渡の戦いのように、乾坤一擲の大勝利を得たことがないのが不思議である。
あれほど激怒した勢いで荊州に攻め込んだにもかかわらず、その戦ぶりは慎重に過ぎ、負けないことを優先するものであった。
余談だが、この陸遜による火攻めが敢行される前に、蜀と呉の戦のようすが魏の皇帝曹丕に報された。
柵が営所をつらぬいて七百余里も続いていると聞かされた曹丕は、
「劉備の兵略は、おろそかなものだ。七百里の陣営で敵を防ぐことができるものか。
孫権が、戦勝の報せをよこしてくるのはまもなくであろう」
と群臣にむかっていった。
はたして、七日後に孫権から劉備を撃破したという上書をもった使者が到着した、という。
この逸話については、疑義が残る。
曹丕はその長くない人生において、戦に勝利したことが一度もなかった。
孫氏の注を著したほどの曹操の子であるので、兵書は充分熟読していたようであるが、実戦においてはからきし勝てなかった。
その貧弱な戦歴において、せめて劉備の敗北を預言した一事のみが、曹丕唯一の戦略眼といってよく、劉備の数珠つなぎになった営塁を陸遜は何ヶ月も攻めあぐねたわけであるから、魏の初代皇帝に捧げた虚飾なのかもしれない。
さて、劉備は乗り捨てていた船に乗って、秭帰まで帰り着いた。
そこでも、呉軍の追撃は止まない。
「白帝城まで退きましょう。秭帰の脆弱な陣では、呉軍の追撃を食い止めることはできません」
矢傷で満身創痍の馬良が、劉備に進言した。
それを聞き入れた劉備は、陸路を逃げて白帝城をめざした。
その逃走を助けるため、駅の役人が鐃を焼き、鎧を焼いて殿をつとめた。その甲斐あって、劉備はかろうじて白帝城に逃げ込むことができた。
まさに、大惨敗である。
水軍と歩兵を失い、兵の遺骸は川の流れをせき止めるほどであったという。
多大な軍資、船や器械も失った。
白帝城で、馬良は矢傷がもとで亡くなった。
五渓蛮を味方につけ、劉備を身を挺して守り抜いた馬良は、武人ではないが軍師として最大の貢献をしたといっていい。
「季常(馬良)、なんじの子はわれに任せよ。弟の幼常も取り立ててやる」
馬良は、すこし微笑んだようであった。
慚愧にまみれた劉備は、
「われが陸遜ごときに辱められたのも、天命であったか……」
とうなった。
劉備はこれまでの敗戦のように、多くの将兵を見棄てて逃げた。呉班と陳式のような武勇のある将軍は、みずから血路をひらき、白帝城に帰還した。
戦死した兵は、数万であったという。
逃げ場を失った将軍といえば、黄権である。
蜀軍最高の知嚢である黄権を、劉備はまったく活用できなかった。
黄権がもつ応変の戦術に従えば、劉備は少なくとも荊州は奪還できていたはずであった。
しかし、自ら関羽と張飛の復讐をおこなうつもりであった劉備は、黄権を北と東の守備にかこつけて本営から遠ざけた。
陸遜は劉備を追う際、黄権の軍を無視したため、黄権が劉備の敗北を知ったときはすでに蜀への帰路は閉ざされていた。
「陛下の陣は、すでにやぶられていたということか」
陣地の構築には、黄権も協力していたがゆえに、なぜ一夜にして蜀軍は敗北したのか信じられない。
「陸遜の火攻めです。わが陣も、蜀への帰路は断絶しています」
「なんだと……」
黄権は、愕然とした。
益州出身のかれとしては、故郷に帰れなくなったことは泣きたいほどつらいことである。
(呉軍に突撃して、死ぬか)
とも考えたが、劉備の生死はあきらかではなく、兵も皇帝である劉備にあたえられたもので、無駄死にさせることはできない。
ひとつ、残された道がある。
北上して、魏に降るということだ。
黄権は、涙をこらえて将兵にいった。
「蜀軍は敗退し、われらは益州に還ることができなくなった。
呉軍に降伏すれば、われをはじめだれも命を棄てずにすむ……が、陛下が憎んでいた孫権に膝を屈したくない。
ゆえに、ここから北上し魏に降ることにする。魏もわが国の敵には違いないが、狡猾な孫権よりはましであろう。
従いたくないものは、われを殺すなり、呉軍に降伏するなりすきにしてよいぞ」
絶望的な選択であった。
魏は漢を継承する蜀の宿敵であり、黄権ら将兵の降伏を容れてくれるかもわからない。
蜀軍の将兵たちは、呆然とした。
もちろん益州に還りたいが、呉と魏の領土に孤立した今となっては、敵地を横断するうちに将兵ともに戦死してしまうであろう。
「われは、孫権の履を舐めたくありません。
鎮北将軍(黄権)におともします」
「そうだ。うすぎたない呉に降るくらいなら、魏に命をあずけてみるほうがましだ」
諸将らは、つぎつぎと黄権の提案に賛同した。黄権はその光景を見て、涙をにじませた。
「もう、蜀には還ることはできぬのだぞ」
それはすなわち、黄権を含む全員の将兵が、家族に会えなくなることでもあった。
すみやかに準備を整えた黄権軍は、呉軍に襲撃される前に北方にある魏の国境にむけて出発した。
「私は黄公衡(黄権)と申します。戦場で行き場を失い、陛下(曹丕)に降伏させていただきたく存じます。
容れられぬのであれば、私の命とひきかえに、どうか将兵の命だけでもお助けください」
黄権からの書状を受け取った曹丕は、
「黄権といえば、蜀随一の戦上手ではないか。劉備を見限ったのかな」
と上機嫌で黄権軍の越境を認めた。
曹丕は孟達の降伏の際も、みずから謁見して人物を観てきた。
今回も都の洛陽に落ちついた黄権を呼び、みずから対面した。
「君が逆(悪)を棄て、順(正)にしたがったのは、韓信や陳平をならってのことかね」
曹丕は儒教に基づき、順と逆という倫理観を語った。楚漢戦争のむかし、楚の項羽に仕えていた韓信と陳平は、漢の劉邦のもとに出奔して漢帝国の元勲となった。楚の項羽が逆であり、漢の劉邦が順であることはいうまでもない。
黄権の胆力は、おどろくべきものである。
「私は劉主から過分の待遇を得ており、呉に降伏することができず、かといって蜀に還る路もなく、やむなく陛下に帰順したのです。
敗軍の将は死を免れれば幸福で、どうして古の名将を追慕することなどできましょう」
「そうか……君の赤心はよくわかった」
曹丕は黄権の人柄を気に入り、鎮南将軍に任じた。育命候に封じ、侍中の位も加え、曹丕の車に同乗させて語り合ったので、まさに殊遇である。
目の前の呉軍に降らず、敵地を踏破し、魏に降った侠気は、まさに黄権の意地である。
そんな硬骨漢の黄権は、曹丕のみならず、諸将に愛された。
一方の蜀では、司法の官が黄権の家族を連座で捕縛しようとしていた。
報告を聞いた劉備は、
「朕が黄権をうらぎったのだ。黄権が朕をうらぎったのではない」
といって、黄権の家族をもとのままのあつかいとした。
黄権には、男子が少なくとも二人いる。
父に従って征呉軍に加わっていた黄邕は、そのまま魏の国にとどまった。
蜀にとどまっていた黄崇は、のちに尚書郎にまでのぼった。
魏にいた黄権のもとに、
「ご家族が、劉備によって連座させられ処刑されたようです」
という噂が流れてきた。
しかし黄権は、まったく顔色を変えなかった。
「劉主とは、そのようなことをするお方ではない」
とそのことばを信じることをしなかった。
数年後劉備が薨去した際も、魏の百官は祝いあったが、黄権だけはうつむいて無言の弔意をあらわしていたという。
さて劉備軍を撃破し、大勝した孫権は、陸遜をおおいに讃えて、輔国将軍を加え、荊州牧に任じ、江陵候に封じた。
敗北した劉備は、白帝城に本営をおいている。劉備は半数にあたる約二万の兵を戦場に置き去りにして逃亡したので、兵力が大きいわけはない。
白帝城も堅牢な城ではないので、勢いのある呉軍が猛攻すれば劉備を捕獲することができる。
「どうか、白帝城の攻撃をお命じください」
徐盛、潘璋、宋謙らの呉将は、こぞって孫権に上表をおこなった。
孫権は、陸遜に意見をもとめた。
「潘璋らはみな、劉備を攻めたがっているが、なんじはどう思う」
陸遜の返事に、迷いはない。
「おやめになるべきです。理由としては、魏の動向です。
曹丕はわれらには蜀を討つ、といっておきながら、まったく兵をうごかしません。
勝敗が決したいまですと、まよわず兵を帰還させるべきです」
「そうよな……」
孫権は、劉備に大勝したことで気が大きくなっている。
その集大成は、孫権みずからが皇帝の座につくことであった。
そのために占星術にすぐれた者を呼んで、天文における呉の運気を占ってもらってさえいた。
(やはりわれが皇帝になれば、曹丕から兵を向けられるであろうな)
曹丕としてはできうることなら、呉を完全に藩国にしておきたい。
王太子の孫登を、候に封じたい旨使者が到着してもいた。
「これをお受けしますと、太子(孫登)を魏に入朝させるように曹丕は命じるでしょう」
西曹掾の沈珩が、孫権に注意をうながした。
呉郡出身の沈珩は博識で、「春秋左氏伝」と「国語」には造詣が深い。
(西曹掾は、外交が達者かもしれぬ)
語り合って沈珩を信頼した孫権は、沈珩を魏に派遣することにした。
謁見した沈珩に、曹丕は疑いの目をもった。
「魏が兵を東に向けるだろうと、呉王は疑っているのかな」
曹丕は東、といったが呉の荊州がある東南を指していると思われる。
「呉王に、陛下に対する疑いはございません」
沈珩の言に、よどみはない。
「まことであろうか」
「はい。魏がわれらの誓いを変えるようなことがあれば、その備えを呉はするだけです」
すると、そばにいた劉曄が、
「呉の太子がまもなく魏に入朝するということで、まちがいはありませんか」
と念をおしてきた。
「私はふだん江東におり、朝議に加えられておりませんので、そのような機密は聞いておりません」
「あなたは使者として、遁辞をかまえている。違うかな」
劉曄の執拗な追求に、曹丕はそれを手でさえぎった。
「よい。それより、近くに来ぬか」
曹丕は、沈珩の胆知を気に入ったのである。さきほど沈珩がいった「朝議に加えられず」ということばは「礼記」から引用しており、読書好きの曹丕は、感じるところがあった。
劉曄を遠ざけ、ふたりきりになった曹丕と沈珩は、終日語り合った。
なにを問われても明確に返答する沈珩に、あらためて曹丕は感じ入った。
褒美をもたされて呉に帰国した沈珩の仕事は、まさに完璧である。
さっそく孫権に復命し、
「曹丕はこちらの言い分を信じておりますが、侍中の劉曄は呉を攻めるよう曹丕に献策しているようです。
魏呉の盟約は、とおからず破綻することでしょう。古いことばに『敵がわが国を犯さないことを恃まず、わが国が敵に犯させないことを恃むべき』というものがあります。
当面は蜀と講和をいそぎ、民に夫役を課すことを控え、農耕と養蚕に務めさせ、軍資を増やして武具の増産をすべきです。
そうしますと曹丕は、さほど鋭敏ではございません。天下を図ることは、けっしてむずかしいことではありませんぞ」
「なんじのいうとおりである。よく曹丕を懐柔してくれた」
孫権は沈珩を永安郷候に封じ、少府に昇進させた。
ちなみに皇帝になった曹丕は、寵愛する夫人がふえた。
郭貴人、李貴人、陰貴人を寵愛するようになって、正室の甄皇后にはみむきもしないようになった。
甄皇后は曹丕を怨むようになり、行在所に来るように命じられた璽書を三度も拒否した。
皇太后の卞太后が、甄皇后をいたわるように曹丕へとりなしたが、曹丕にとってはすでに年老いた甄皇后はいらない女であった。
ついに曹丕は、黄初二年(二二一)六月、使者を甄皇后のいる鄴に遣わせて、甄皇后を自殺させた。
甄皇后を埋葬した翌黄初三年九月甲午の日に、曹丕は詔を下した。
「そもそも婦人が政治にかかわるのは、乱のもとである。これより先に群臣は太后に奏上してはならぬ。
また后の一族の家は、政治に関与してはならぬ。またほしいまま土地を所有することもならぬ。この詔を後世に伝えよ。
もしもこれに背反するものがいれば、天下はこぞってこの者を誅殺すべし」
これは甄皇后を曹丕にとりなそうとした卞太后への強烈な牽制であった。
曹丕はまだ若いが肉親への情が薄く、父母への孝行の逸話はひとつもない。
兄弟や妻をいたわった話もなく、むしろ臣下の有能な者を優遇したのは、父の曹操に似ていなくもない。
この姿勢が王朝の風土となっていった後に、魏をゆるがせることになるのだが、そのことに曹丕は気づかなかった。
新しい皇后は、郭夫人である。
これにより、甄皇后の子であった長男の曹叡は太子の候補からはずされたように思われたが、曹丕は曹叡については言及を避けていた。
曹叡はあざなを元仲といい、この年に十八歳になる。昨年斉公になり、今年は平原王に昇っていた。
曹操は生前、幼かった曹叡を観察して、岐嶷(すぐれて高潔なようす)と感じ、
「わが基は、なんじにおいて三世となるであろう」
と絶賛した。父である曹操に褒められたのが嬉しかったのか、曹丕は宴席があるたび曹叡を同席させ、帷幄の中でも近臣に列席させていた。
曹叡は、じつは母の甄皇后が袁煕(袁紹の次男)の夫人であった頃に身ごもっていたので、曹丕の実子ではない。
そのせいもあってか、謙虚で無口であり、学問を好み、とくに法に造詣が深くなった。
容貌は母の甄皇后に似て美しく、吃音ではあるが、これは複雑な出生と祖父らの期待による重圧による、心理的負荷かもしれなかった。
英邁ではあるが繊細な曹叡は、母が殺されたことをいっさい口に出さなかった。ただ、
(わ、われは、この王朝で、たった独りで生きてゆかねばならぬ……)
と思った。かれの心許せる親友は、秦朗という曹操の側室の連れ子である。
秦朗の母は杜氏といい、呂布の部下であった秦宜祿のもと妻で、あの関羽が、
「さきほど妻を亡くし、秦宜祿の妻を賜りたい」
と曹操に申し出ていたが、劉備がまもなく曹操のもとを出奔したので、杜氏は曹操の後宮に入った、というわけである。
秦朗も聡明で曹操にかわいがられ、とくに曹叡とは気が合った。
「阿蘇(蘇ちゃん)」
と成人後も曹叡は秦朗を側から離さなかったので、そのつながりの強さがわかる。
曹丕に話をもどすと、かれは立皇后を終えて外に目をむけた。
呉を藩国にする、という懸案である。
劉曄が孫権は魏に従うつもりはないので攻めよ、と夷陵の戦いのさなか進言したが、それをしりぞけてまで、曹丕は孫権を厚遇したのである。
(太子を人質に出すつもりはないのか)
曹丕は、熅度した。
それを強要すべく、侍中の辛毗と尚書の桓階を使者として呉に遣わせた。
「孫権に盟誓させて、任子を召させよ」
任子とは、高い身分である親の子、つまり孫権の太子以下、子息たちをいう。
ところが孫権は、
「劉備がまだ白帝城に健在で、軍事体制を解くことができません」
とのらりくらりと人質の提出をかわした。
その慇懃無礼ともいえる態度に、辛毗と桓階は怒りをとおりこして、あきれた。
「陛下のご叡慮を、呉王(孫権)はないがしろにしております」
なんの誠意も見せない孫権に対して、曹丕は、
「孫権め……兵を出しておもいしらせてやらねばなるまい」
と怒りをあらわにした。
かつて沈珩が、曹丕は鋭敏ではないと孫権に伝えたが、したたかな孫権にくらべれば、降人に対してあまさのある曹丕は、たしかに人が良いように感じる。
曹丕の側近である劉曄は、
(やはり、孫権に忠誠を誓わせることなどむりだといっていたのに……)
と心中でため息をついたが、
「孫権によって手玉にとられた、ということです。今や呉は戦勝によって将士が心をひとつにし、土地も江水のかなたにあることから、軽率に討伐するのはおやめになるべきです」
と曹丕の軽はずみを諫めた。
「孫権が……なめられてたまるか」
曹丕は己の叡慮をふみにじった孫権にたいして、頭に血がのぼっている。
ついに、揚州にむけての出師をおこなった。
(この人は、戦のかけひきがわかっていないな)
劉曄は、またしても進言を容れられなかったことに、むなしさを感じた。
曹丕の命令で揚州の洞口にむかったのは、曹休、張遼、臧覇である。いずれおとらぬ魏の名将を派遣したところに、曹丕が必勝を期していることがうかがえた。
濡須に侵攻したのは、五十五歳の曹仁である。
(このたびの出師は、若さがたりないな)
曹仁は、ひそかに呉と軍の勢いの差があることを憂えた。
夏侯惇亡きいま、曹仁が魏王朝の元勲にして最高位であることはまちがいない。
車騎将軍、陳候の曹仁は、張遼と臧覇ももとは呂布の部下であったことから同年代であり、若い曹休に期待をかけた。
自信にあふれた若い孫権は、防御にのみ力をいれてはいない。
将軍の陳邵をして、魏軍が南下する前にかつて曹仁が死守した樊城の南にある襄陽を奪取させた。
(やはり。呉軍のうごきは迅速だな)
気をひきしめた曹仁は、佐将の徐晃と戦略をねり、宛県からすみやかに南下して陳邵を襄陽から駆逐した。
「さすがは、車騎将軍(曹仁)よ」
曹丕は元勲のはたらきに目をほそめ、その功績をもって大将軍に昇進させた。
これは曹仁をさらに昇進させるための準備だったようで、許昌にちかい臨頴に駐屯させた曹仁は大司馬に任じられた。
さらに呉への攻勢を強めるべく、烏江にむけて曹真、夏侯尚、張郃、徐晃らを南郡にむかわせた。
※
(やはり、魏は呉を攻めたな)
いまだに白帝城にとどまっている劉備は、物憂げに顔をあげた。
陸遜とは、戦後和平にむけた使者が往復しており、劉備は陸遜に意見をもとめる書簡を出した。
「魏賊はすでに江陵に至っている。われはいずれ、ふたたび東(荊州)に向かう存念があるが、陸将軍はどのようにお考えか」
陸遜は劉備からの書簡を熟読し、すぐさま筆をとった。
「おやめになることが、賢明です。
貴国は戦により大きな犠牲を出し、その傷はまだ癒えておられないでしょう。
いまや呉と漢(蜀)両国の和議はすすめられていますので、敗残兵をふたたび荊州に向かわせれば、お命を危うくされることは必定です」
陸遜は、劉備と正式に和睦したいと率直にいっているのである。
(曹丕に協力して、荊州をとりもどしてもなんになる……)
劉備は漢を継承した皇帝なので、魏と協同すれば、いずれ皇位から降りねばならなくなる。
(孫権と結ぶ方が、まだましか)
冬に劉備は太中大夫の宋瑋を派遣して、孫権に和睦をゆるす旨伝達した。
成都の諸葛亮は馬謖に、
「陛下は、呉と和睦されるそうだ」
とおだやかな表情でいった。
「そうですか。しかし、それでは……」
馬謖はなぜ、諸葛亮が和睦を受け入れる心境なのか、解せなかった。
そうではないか。
魏軍に協力せず、呉を攻めない。これはわかる。それでは、数万の兵を失ってまで戦った夷陵での戦役は、なんの意味をもつのか。
(蜀漢のほんとうの敵は曹魏であった)
馬謖は、そんな劉備をまもりぬいて戦死した兄の馬良のことが、無念でならない。
今になって、魏こそが簒奪をおこなった賊であると気づいたならば、馬良や戦死した将兵になんといいわけすればよいのか。
「陛下は、白帝城にとどまったままか」
諸葛亮は、夜空の星を眺めながらつぶやいた。馬謖は、
「白帝城のある魚復県は、いま永安と名付けられたとのことです。
陛下のおられる宮殿は、永安宮といわれているとか……」
と補足した。諸葛亮は、馬謖の方にふりかえって、
「永安か。陛下はもはや、成都にお還りにはなられまい」
といった。
「たしかに、おかげんがよろしくない、との報せは入っていますが」
十二月、下痢からはじまった劉備の罹患は、ひそかに成都にいる高官たちには連絡されている。
(陛下は、往生際が悪い)
馬謖は、辛辣な意見をもっている。
関羽の仇討ちという私的理由で、大規模出兵を敢行したのに、敗れて成都にいる将兵の遺族に詫びないとは、あいかわらず劉備はいさぎよさがみられない。
「ご自身だけの永安を望んで、成都に帰還なされないというのは、いかがでしょうか」
「ふむ。しかし、それが陛下の生き方であった……これからは、われらの時代よ」
諸葛亮は馬謖の肩に手を置いて、部屋を出ていった。
「われらの時代……」
馬謖は、諸葛亮のことばをくりかえした。
ときは章武四年(二二三)年が、明けようとしている。




