建国と復讐
十九
成都にいる漢中王の劉備は、悲嘆に暮れていた。
荊州を任せていた義弟にひとしい関羽を、見殺しにしてしまったからである。
笑顔を見せなくなった王を心配しながらも、諸葛亮をはじめ群臣たちは、
「漢中王には、践祚していただかなければ」
と考えはじめた。
なぜなら、漢の献帝が魏王曹丕に殺害され、曹丕が魏の帝位に就いたからである。
はじめ、献帝は曹丕に殺害されたという報が成都に届いたのだが、実際は穏便に禅譲がおこなわれ、献帝は山陽公として厚遇されているとの続報が届いた。
「都合がよろしくありませんな」
諸葛亮は、太傅の許靖にいった。
「都合とは、いかなる……」
「はい。わが漢中王は漢の正統をお継ぎになるお方です。
先帝(献帝)が生きておられれば、大義が通りますまい」
「なるほど……」
「先帝には、死んでいただきましょう」
「……とは」
「なにも本当に殺害するわけではありません。最初わが国に報じられたとおり、曹丕に殺されたことにするのです」
許靖は、手を打った。
「そうか。それなら漢中王に帝位を践祚していただくことに、なんの瑕疵はない」
滑稽なことではあるが、蜀では献帝が死んだことになった。官民は喪を発表し、喪服を着て、亡くなった皇帝に
「孝愍皇帝」
と諡号をおくった。
さて、劉備を皇帝にするには、各地の瑞祥が必要である。
群臣たちは、各地に起こった瑞祥をさがしはじめた。あれこれ解釈をすれば、どれも瑞祥にみえてくる。
軍師将軍の諸葛亮、太傅の許靖、安漢将軍の糜竺らも相次いで瑞祥の上表をおこなった。
安漢将軍の糜竺といえば、劉備のように土気色の顔色で、生気が見られない。
(芳よ、なぜそなたは漢中王を裏切った)
弟の糜芳が裏切って荊州を孫権に献上し、関羽を死に追いやったことである。
糜竺は欲の少ない人で、劉備が陶謙のもとで徐州牧だった頃から、家財を進呈して劉備を扶けてきた。
劉備の人柄を誰より尊敬していた糜竺は、劉備の良き相談相手となり、初期の功績を含めて安漢将軍という諸葛亮より上位の名誉職に任じられた。
だが弟の糜竺は違った。
じぶんたち兄弟は、家をあげて劉備を扶けてきたのに関羽に蔑まれるのを嫌った。
糜竺は家財を捧げて、劉備の人柄を尊崇してきた人なので、弟の裏切りを聞いたときは、その場に卒倒した。
やがて糜竺は自らの両手を後ろ手で縛って、処罰を乞うた。
「わが弟の罪は、私の罪です」
劉備は糜竺の人柄を憐れんで、
「あなたは、弟の罪まで背負うことはない」
とみずから糜竺の縄を解いた。糜竺はその厚遇に号泣した。
やがて心労から病牀についた糜竺は、病牀において上表の筆を執ったのである。
(芳よ、われは死んでも漢中王の厚遇にはおいつかぬ。なんじはそれを知って裏切ったのか……)
蜀の官民にその人となりを敬愛された糜竺は、上表から二ヶ月後に亡くなった。
一方の糜芳は、どうなったか。
呉の将軍として遇されていた糜芳は、ある日多くの人とともに船に乗っていた。
そこに小さな船団が通りかかってきた。
船に乗っているのは、倫理家の虞翻である。
「将軍の船がとおるので、避けよ」
と糜芳の配下が呼びかけると、虞翻は頭に血が上り、
「忠と信を失っていながら、なにをもって君(孫権)に仕えるつもりか。
守備せねばならない二つの城を敵に献上して将軍を名乗るとは。片腹痛いわ」
といい返した。
糜芳は恥ずかしさに船の戸を閉めて、水路をあけて虞翻の船を通した。
さらに虞翻はねちねちと、糜芳の裏切りをなじった。
虞翻の車が糜芳の兵営の門にさしかかったとき、軍吏は門を閉じて通さなかったところ、
「ここの門は閉じるべきときに開き、開くべきときに閉じる。まったく事理がわかっておらぬな」
と大声で罵った。
糜芳は度重なる虞翻の辱めに、恥じ入るしかなかったという。
さて諸葛亮、許靖、糜竺たちの上奏文であるが、
「曹丕は漢帝を虐殺して、漢室を滅ぼしました。神器を盗み、忠義の臣を脅迫したのは天道にもとる無道です。
人も鬼神もその行為に憤怒して、みな劉氏を思っています。
いま上に天子はおらず、海内の民は戸惑い、敬仰する人も式もなくしてしまいました。群臣は八百人が上書を行ない、みな瑞兆のしるしをのべています」
とある。曹丕の場合と同じく、類似した上書が多くの臣から王座に捧げられたにちがいない。
「天地は、瑞兆に満ちています。すべからく帝位にお登りください」
ということである。
その中でも、以前関羽の前将軍就任を説得した、司馬の費詩だけが、冷静であった。
「曹丕が孝愍帝(献帝)を殺害し、帝位を簒奪したので、王(劉備)は兵士を糾合してまさに賊を討たんとされておられます。
まだ賊を倒さないうちに帝位へ登られますと、人々の心が騒擾いたします。
かつて高祖(劉邦)は、さきに秦王を破った者が王になるという約束において、秦都の咸陽を陥落させて秦王子嬰を捕らえました。
にもかかわらず、高祖は項羽にその功績を譲ったのです。
まして王はまだ軍を発してもいないのに、みずから帝とならんとされております。
愚かな臣である私としましては、それは王のためにならないと存じあげます」
劉備は費詩の上奏に、たちまち不機嫌になった。
この頃、すでに蜀の臣民は献帝が殺害されず曹丕に帝位を譲位したことを知っている。
が、諸葛亮の主張通り、その誤解を押し通していたのである。
漢から魏への禅譲を理解すれば、ここまで沸騰した世論に水をかけることになる。
「われには徳が足りぬゆえに、いまだ敵は滅びていない。ゆえに帝位につくなどもってのほかである」
と形式上でも否定した曹丕に対して、劉備はいちども謙譲の姿勢を見せなかった。
なるほど劉備や蜀の群臣からすれば、
「劉氏でない者が王になろうとすれば、天下はこぞってこれを討て」
という高祖劉邦のことばを信奉しているので、謙譲どころかただちに魏を討つことが正義であると考えている。
劉備は劉邦の遺言を実行できる唯一の王であり、そうであれば曹丕の下にあって王にとどまることなく、漢の正統を継ぐべく帝位に登らねばならないのである。
劉備をはじめ、諸葛亮をはじめ群臣に冷眼視された費詩は、永昌従事に左遷された。
永昌郡は、成都の南方にある僻地である。
任地に向かいながら費詩は、死んだ関羽のことを考えていた。
(関羽は、最期まで劉備のことが好きだったのだな)
劉備が天下の支持を得たのは、曹操と反対のことを行なってきたからであり、その左右にはいつも関羽と張飛がいた。
益州を掠め取った劉備は、曹操の追従者になって漢中王に即位し、いま帝位に登ろうとしている。
(劉備がそうなったのは、諸葛亮がいたからだろう……)
費詩は、つぎに遺された張飛のことを考えた。時代にそぐわない豪傑で、好漢である。
(張飛も、諸葛亮に消されるのだろうか)
関羽が不自然な死を遂げたことを、費詩は諸葛亮のせいだと思っている。
年が改まって建安二十六年(二二一)になった。劉備の王朝では魏の年号を認めていないので、まだ建安という年号はつづいている。
その不可思議さと矛盾を解消するがごとく、劉備を漢中王から帝位に即けようとする機運は高まった。
「待っていろよ、雲長」
ひとりでそうつぶやいた劉備は、ついに群臣におされるかたちで、この年の四月丙午の日に、成都を出立した。
武担山の南に壇を築き、帝位に即いた。
急に従順になった劉備を、諸葛亮はいぶかしんだが、
(こうでなくてはならぬ)
と己のかねてからの計略と時機が一致したことをよろこんだ。
皇帝となった劉備は、壇上で皇天の上帝と后土の神祇に文を捧げた。
「建安二十六年四月丙午、皇帝である備は告げます。漢は天下を有し、年代は無窮です。
ちかごろ曹丕は神器を奪い、漢の社稷は頽廃しています。
わが群臣と将士は、私がそれを糺すべきであるといい、高祖と光武帝のあとを嗣いで、天誅を行なうべきであるといっております。
不徳の私は帝位を辱めたくなく、庶民から蛮夷の長にいたるまで意見を求めましたが、みな天命に答え、四海の主になるべきと申しました。
ゆえにつつしんで元日を選び、百僚とともに壇に登り、皇帝の印綬を受けました。
どうか神は漢室に幸いを授け、四海を永く安んじくださいますように」
劉備は、漢中王を自称したときとおなじように、皇帝を自称した。
これでは袁術の児戯にひとしい帝位僭称とかわらないと見られてもいいわけがむずかしい。
劉備はこれまでの曹操との対蹠的な生き方を放擲してでも、帝位に即きたかったのである。
その理由として劉備は、呉の孫権に対して関羽の復讐の出兵をひそかに急いでいた。
劉備は皇帝になると、すぐさま大赦をおこなった。年号は建安二十六年(二二一)を改め、章武元年とした。これが、蜀王朝として独自の年号となる。
また王朝の重臣として、
丞相 諸葛亮
司徒 許靖
驃騎将軍 馬超
車騎将軍 張飛
とした。
諸葛亮はこの年四十一歳であり、許靖は翌年亡くなるが、七十二歳である。
許靖は若い頃、後漢王朝の尚書令であった。
董卓が西涼から洛陽に踏み込んでくると、御史中丞に任命され、あくまで董卓に逆らい、己の正義を信じる行いをしたので、殺害されそうになった。
洛陽を脱出し、苦難を乗り越え蜀王朝の司徒になった。諸葛亮のよき善導役を引き受け、後進の推挙と指導も行ない、清談を好んだので、誰からも愛された晩年であった。
劉備は百官をおき、宗廟を建てた。五月には劉禅を皇太子とし、呉氏を皇后に立てた。
呉氏とは、ききなれない皇后である。
呉皇后は陳留の出身で、兄は呉壱である。
兄妹の父は劉焉(劉璋の父)の知り合いで、益州に移住することにした。
ところが兄妹が幼いうちに父が病死し、たちまち呉壱と妹は孤児となって劉焉に保育された。
成人して劉焉に仕えた呉壱であるが、ここに奇縁奇遇があった。
人相見の名人が妹の呉氏を観て、
「なんという大貴な相をおもちか」
と驚いていった。
「妹は女ですが、至尊の相をもつということはどういうことでしょう」
呉壱は戸惑って、人相見に訊いた。
「つまりは皇后になられるということです」
「皇后……」
兄妹は驚愕して、ことばがなかった。
やがてその噂は、劉焉のもとに届いた。
「呉壱の妹が皇后になる器だと……」
劉焉は現実において思案した。
「ここ成都は都より遠く、天子が逃れてくるということは考えにくい。
ならば、わが息子が呉氏を嫁にすれば皇帝の地位に即くということか」
劉焉は子の劉瑁を連れて、呉氏の家に行き、婚約を行なった。劉瑁は劉璋の兄で、平寇将軍の位を与えられたのだが、呉氏を妻に迎えてから精神の病を発し、まもなく亡くなった。
呉壱の妹は、若くして未亡人となった。
その後劉焉が死に、劉璋が益州牧を嗣ぎ、劉備を迎え入れたときに、呉氏は劉備の正夫人となった。劉備が皇帝になったことで、皇后に立てられることになった。
「妹の大貴の相とは、このことであったのか……」
呉壱の驚きと喜びはひとしおであった。
孫夫人に懲りた劉備は、恭謙な呉兄妹に好感をもった。呉壱じしんも文武の才能があったため、諸葛亮に抜擢され、のち車騎将軍にのぼることになる。
呉兄妹は、蜀漢政権における荊州人と益州人の橋がけになったといっていいだろう。
太子の劉禅も、この年に皇后をむかえている。張飛の娘である。
呉皇后はのちに穆皇后とよばれ、張皇后は敬哀皇后とよばれた。
従順に帝位に即き、百官の体制を整えた劉備が豹変したのは、まもなくのことである。
「呉の孫権を、討伐する」
といきなり宣言したのだ。
劉備は関羽の復讐をいそぐために、諸葛亮らのすすめにおとなしくしたがってきたにすぎない。
諸葛亮をはじめ、群臣は青ざめた。こういうとき、劉備を諫められるのは建国の元勲のひとりである趙雲だけである。
「国賊は魏の曹丕であって、孫権ではありません。
曹丕を滅ぼせば、孫権はおのずとわれらに降るでしょう。
曹丕がおこなった簒奪について、多くの人は怒りをもっています。その怒りに従って関中を制圧し、河水と渭水の上流に拠点を築いて逆賊曹丕を討つのが先決です。
関東の忠義をもつ士はかならず糧食をもち、馬に乗って、わが皇軍を迎えるでしょう。
魏を放置した上で呉を討つのは、順序が逆であるうえ、いちど戦端が開かれれば、それをおさめるのはたやすいことではありません。
曹丕を喜ばせるだけですぞ」
まさに正論である。
義兄弟だった関羽の復讐は私事であり、魏を逆賊として天下に認知させた劉備が、その魏を討伐することにこそ、公の大義があるのである。
幼少期に二度もじぶんを救ってくれた趙雲の諫言を、皇太子の劉禅はもっともだと感じた。
(父は、関羽の復讐のために皇位に即いたのだ)
劉禅は、他の群臣とともにうつむく他なかった。近頃の劉備は、歳を取ったことと関羽を失ったことで、頑固になっている。
そして閬中から張飛を呼んで、
「卑劣な手をつかい、雲長を殺した孫権を討ち滅ぼさねば、わが心情は晴れぬ。益徳ならわかるな」
と同意をもとめた。張飛はじぶんの胸をたたいて涙を流しながら、
「わかりますとも……われら生まれた日は違えども、死すときは同じ、と誓ったではありませんか。
私が地の果てまでも孫権を追いつめて捕斬し、きやつの首を雲長の墓前に供えましょう」
となんどもうなずいた。
「おう、それでこそ益徳よ。なんじは閬中から出陣し、われと江州で合流しよう」
劉備は、張飛の手を取って喜んだ。閬中は巴西郡の郡府で、益州を流れる川はすべて江州を通る。劉備率いる主力軍は、江水を下って荊州に攻め込む戦略を想定している。
「かしこまりました」
張飛は勇躍して退出していったが、劉備が生きて張飛を見たのは、これが最後となった。
諸葛亮は、離れて列席している馬謖に目で合図した。馬謖は小さくうなずいた。
(張飛が生きていると厄介だ……出陣前にしまつしておきたい)
諸葛亮は目をふせて、謀略を練っている。
(それにしても、劉備と関羽、張飛はふしぎな縁であることよな)
若い諸葛亮は、黄巾の乱からの前半生を劉備ら三人とすごしてきたわけではない。
かれら三人はいつも時代で滅びゆく者たちの側にいながら、かえってそのことを機運にし、生き残ってきたのである。
最初に頼った公孫瓉は袁紹によって滅ぼされ、つぎに仕えた陶謙は病没した。
呂布と共闘したが、呂布が死んだ後は袁紹を頼った。袁紹が曹操に敗れ病死した後は、劉表を頼り、かれが病死したのち、はじめて劉備たち三人は自立したのである。
(曹操に逆らいつづけて、生き残った……)
諸葛亮は、嘆息した。ならば。
関羽と逆らいつづけた曹操が死んだ今、劉備は生き残ることができるのか。
(それは、できまいな)
うつむいて沈思している太子の劉禅を、諸葛亮は見た。
(おや……)
諸葛亮は、劉禅を父に恭順なだけの太子とみていたが、感じるものがあった。
(太子とは、ともに戦うことができるやもしれぬな)
劉備の限界は、ここかもしれない。曹操に逆らいつづけて、皇帝にのぼりつめたこの場所が、劉備の頂点であろう。
もともと道義をふりかざして生きてきたことのない人である。皇帝としてふさわしくない行動をしてこその劉備であろう。
(となると、漢の旗を立てて魏を討つことができるのは、太子だけだな)
諸葛亮は、劉禅のあざなである「公嗣」という字を思い出していた。
蜀の成都は呉への遠征が決まり、あわただしくなってきた。
そこに突然、張飛の都督からの使者が劉備に拝謁をもとめてきた。それを聞いた劉備は、喉が張り裂けんばかりの声で、
「嗚呼、益徳が死んだ」
と叫んで、泣き出した。群臣や使者さえ驚いていると、
「益徳は、いつもじぶんでしか使者をたてたことがない。都督からの使者が来たということは、益徳はすでにこの世にはおらぬ」
劉備のいうとおりであった。
都督からの使者は、張飛の死を報せる使者だったのである。
張飛の軍は精強であり、その理由は張飛がみずから兵を訓練するところにあった。
その訓練は過酷であり、もたついた将兵を張飛は鞭でこれでもかというほど折檻し、何人も死人が出るというものであった。
かつて劉備は、
「益徳よ、なんじは刑罰によって人を殺しすぎる。また鞭打った兵を左右においている。
それはいつか禍を引き起こすのではないか」
と張飛を諫めたことがある。
「王よ、それはちがいます。われらは正義の王軍ですので、敵地での略奪や暴行をしない風格をもたねばならないのです。
また兵は鞭うってでも精強に鍛え上げねば、戦で命を落します。これはみな兵のために行なっていることなのです」
張飛は、劉備の諫言を聞くことはなかった。
たしかに張飛軍の強さは関羽、黄忠亡き今となっては抜群であり、張飛の厳しい訓練が反映されたものなのである。
これまでは。
今回の遠征では、張飛の兵たちへの訓練はさらに過酷になった。
軍令に背く将や、訓練についてこれない兵をこれでもかと鞭打った。
さすがに張飛の陣営に、兵たちの怨嗟の声が満ちてきた。
それを見ていた属将の范彊は、
「おい、今夜あたり実行するか」
と同僚の張達に声をかけた。
「うむ。頃合いはよさそうだ。丞相(諸葛亮)にこれだけの逃亡資金をもらっているし、遅れればわれらの首が危うい」
張達は、かたわらの木箱をなでていった。
その夜、范彊と張達は船を用意した。
張飛が寝ている宿営に深夜行くと、守衛の兵が、
「今夜は酒をたらふく呑んで、寝ておりますよ」
とふたりを中に導き入れた。守衛の兵も范彊と張達に買収されている。
張飛は、前後不覚で大いびきをかいて眠っている。
「酒に薬を入れてありますので、死んでも起きますまい」
「そうか。ご苦労」
范彊は、剣でねじ切るようにして張飛の首を落した。
「ほんとうに……よう寝ておるわ」
張達は張飛の遺骸を見て、かすかに笑った。
ふたりは用意していた船に乗り込み、江水を下って呉に降伏した。
都督は翌日まで張飛の死を知らなかったというのだから、よほど訓練が厳しく疲れていたのか、張飛を怨んでわざと報せなかったのか。そこまで張飛が施す兵の訓練は、度を超していた。
「益徳まで、孫権に奪われたか……」
泣きやんだ劉備は、怒りの声をあげた。
(これで、呉攻めは避けられぬ……)
諸葛亮は、ここ数ヶ月で急速に老いを呈してきた劉備を見ていた。
亡くなった張飛は、「桓候」という諡号をさずけられた。後継は、次男の張紹である。
ちなみに長男の張苞は、若くして亡くなっている。
劉備は急いで出師し、数万の兵たちは何艘もの船に分乗して、江水を下った。
巴東郡の魚腹県に劉備軍が至ったところで、呉の荊州兵たちが異変に気づいた。
「劉備が大軍を率いて、荊州に接近中」
仰天したのは、孫権である。
(劉備は、魏を攻めるはずではなかったのか……)
諸葛亮は劉備と関羽の仲は険悪であり、関羽を打倒しても、劉備の憎しみは魏に向かうはずだといっていた。
(われは、諸葛亮に騙されたのか)
ともあれ孫権は、劉備の怒りをおさめなければならない。
しかし、その策をさずけてくれる呂蒙がほんとうの病気にかかってしまった。
厳密には、もともと病がちだと呂蒙はいっていたので、病が再発したのであろう。
孫権は荊州を取り戻した呂蒙の功績を最高のものとし、南郡太守に任じ、孱陵候に封じた。さらに銭を一億と黄金五百斤を下賜した。
「金銭はご辞退申し上げます……」
呂蒙は、病牀で関羽の霊に悩まされており、みずからの詐略を今さらながら恥じた。
それを許さなかった孫権は、病牀の呂蒙をみずからの宮室にまで牀ごと運ばせた。
「子明(呂蒙)よ、回復してくれよ。そして劉備との戦いの軍師になってくれ」
孫権は冷たい呂蒙の手をにぎっていったが、
呂蒙は悲しげに首をふるばかりであった。
それは、かなわぬ夢だといっているのである。
「子明を治すことができる医者がいれば、千金を授ける」
孫権にできることといえば、それしかなかった。周瑜と魯粛を喪った孫権からすれば、呂蒙しか呉のために計略をめぐらせる軍師はいない。
医者が呂蒙に針をうって姿を見ると、
(子明よ、痛いであろうな)
と表情を曇らせた。呂蒙が気を遣うそぶりをみせると、病室に穴を空け、そこから呂蒙の病状をうかがった。
呂蒙がわずかでも食事をすれば孫権は喜び、左右の者と笑語した。
反対に呂蒙が食をうけつけないときには、嘆息し夜も眠れなかった。
それが孫権の呂蒙への敬愛であり、できるかぎりの看病であった。
孫権の思いに応えたい呂蒙は、一時やや快方にむかった。無理をおして病牀に座った。
「どうか私の後任には、陸伯言(陸遜)をお命じくださいますよう……」
そういい終えた呂蒙は、ふたたび昏睡状態におちいった。孫権は道士まで呼んで呂蒙の延命を乞わせたが、呂蒙はまもなく亡くなった。享年四十二であった。
看病に疲れ、気落ちした孫権は食事ものどを通らなくなった。また、呂蒙は下賜されていた黄金などすべて府庫に保存しており、じぶんが亡くなったら国庫に返すよう命じていた。その清廉さに、孫権はふたたび涙した。
さて、呂蒙が死んだ後、南郡太守の後が空いたので、孫権は呂蒙の遺言を思い出し、陸遜を太守にしようと考えたが、
(伯言は、軍事において未知の部分が多すぎる)
と思い直し、綏南将軍の諸葛謹(諸葛亮の兄)を南郡の太守とした。
諸事穏やかで外交も穏便にこなす諸葛謹ならば、魏と蜀に隣り合う南郡を無難に治めると信じたからである。
諸葛謹を公安に住まわせた孫権は、船で江夏郡の鄂へ向かい、武昌県という大きな軍事拠点にした。さらに五県を併せて「武昌郡」に編成した。
いちだんと蜀への防衛の意識を高めた孫権は、客将として遇していた于禁を魏に帰還させることとした。
関羽と戦って降伏して以来、慚愧にまみれていた于禁は、鬚と髪は真っ白となり、容貌はやつれ果てていたものの、曹丕と引見したときは、額を地面につけて涕泣した。
曹丕はねんごろに于禁の手を取り、
「荀林父や孟明視のためしもあるではないか」
となぐさめた。
荀林父と孟明視は春秋時代の将軍で、荀林父は晋軍を率い、孟明視は秦軍を率いてともに大敗したが、二人の君主はかれらを罰せず、以前のごとく重用したので、二人は奮起してたがいの国益を増大させた例をひいたのである。于禁は、曹丕によって安遠将軍に任じられた。
感涙にむせんだ于禁は、
(これで最後のご奉公を、新しい王朝においてすることができる……)
と思った。関羽に降伏した罪は、一切問われなかった。つまり曹丕は一悪をもって、過去の数多くの勲功を忘れたわけではない、ということである。
「さあさあ、于将軍、亡き武帝(曹操)の高陵に詣でてくれ」
高陵は鄴の東北にある、曹操の墓である。
じぶんの敗北で曹操を危機に追い込んだという自覚がある于禁は、死者に復命するつもりで高陵に詣でた。
(武帝、私の最後の働きをごらんください)
ふと、于禁は高陵に描かれた一つの絵に目を奪われた。
立派な鬚をもった武将が、憤怒の表情をした武将と相対している。
(これは、関羽と龐徳か)
その横に視線を転じた于禁は、目の前が真っ暗になった。
そこには関羽にあわれみを乞い、降伏を願い出ている于禁が描かれていた。
「このようなことをなさらずとも……」
私は自ら死を選びましたものを、と心の中で叫んだ于禁は、恥のあまりその場に失神した。
あきらかにこの絵を描かせたのは皇帝の曹丕であり、霊となった曹操が毎日この絵を見ているのである。于禁にとって、このような屈辱があろうか。
于禁は、ほどなく発病して亡くなった。
敗将のなんじが荀林父らになれようか、という曹丕のあてつけであるが、そのような理屈であれば曹丕も春秋の名君には遠くおよばない。
さて、呉の孫権である。
劉備が孫権を嫌っているように、孫権も劉備を嫌っている。
益州を譲ったのに、借りていた(と孫権は思っている)荊州四郡を呉に返却しなかったり、孫権の妹を冷遇したり、王や皇帝を自称したことも蔑んでいる。
(袁術のように、皇帝を自称する者は滅べばよいのだ)
とは思うが、その劉備が州境に兵を集め、荊州に攻め込んでくる、という。
「呉と蜀が戦えば、喜ぶのは魏の曹丕だけである。そのことを劉備に説いてくれ」
孫権は南郡太守の諸葛謹に、使者を送った。
諸葛謹も心得たものであり、すみやかに劉備に書簡を送った。
「最近聞き及びましたところ、陛下は出師して白帝に至ったということです。
その原因は、おそらく呉王が荊州を取り、関羽を殺害したので、陛下の怨みや怒りが大きく、呉との講和をすべきではないと臣下の方々と議論されたからでありましょう。
しかしそれは小事に心を費やして、大事に留意されていないことになります。
陛下と関羽のご関係が、陛下と献帝のご関係にまさることはありません。また、荊州は海内の一部分に過ぎず、仇を討つとすれば呉よりも魏を優先させるべきであります」
この書簡には、諸葛謹のやわらかな性格や心配りが見える。
呉討伐を強行したのは劉備であり、臣下はそれを止めたのに、あえて劉備の独善を咎めていない。
「孫権が……」
劉備は、書簡を投げ捨てて怒った。
しかし諸葛謹が諸葛亮の兄であることと、その善良な性質を知るがゆえに使者を殺害せず、無視するにとどめた。
(われは、関羽も張飛も孫権に殺されたのだぞ)
それに加え、孫権は呂蒙を使い荊州三郡をだまし取った。
そもそも関羽が魏軍と大義をかざして戦っているのに、それを扶けもせず、目先の利益だけのために魏と通じて関羽がいない荊州を詐取した。これは曹丕よりも奸悪な行為であると判断したがゆえに、劉備は呉に出兵するのである。
「まずは巫県を奪取し、秭帰まで進む」
劉備の進路は、ある意味一本道である。
船を使って江水を下って行き、江水のほとりの県を攻略しながら江陵に接近するのである。
先鋒は、将軍の呉班と馮習である。
巫には呉の守将として李異や劉阿がいたが、猛将の呉班と荊州出身で船のあつかいがうまい馮習の連携で、あっという間にふたりを蹴散らした。
「つぎは秭帰を落してくれようぞ」
劉備が兵の士気の高さに満足していると、面会をもとめてきた者がいるという。
「もと関羽将軍の主簿をつとめていた、廖化が陛下のもとに馳せ参じた、と申しております」
「なに、廖化だと。よし、通せ」
劉備は荊州を統治していた頃、関羽に付き添っていた廖化をおぼえている。
「お目にかかれて、光栄至極でございます。
関将軍亡き後、呉に捕らわれておりましたが、陛下の呉征伐という義挙にいてもたってもおられず、老母をひきつれて呉を脱出してまいりました。
どうか、孫権討伐の端にでも私をお加えください」
廖化は、関羽の死後呉に降っていたが、劉備出陣の噂を聞き、じぶんは死んだという噂を流して母とともに劉備陣営まで駆け込んできたのである。
「なんと……雲長の霊がなんじを朕に逢わせてくれたのだ。なんじを宜都太守に任じよう」
劉備は涙を流して廖化の手を取り、蜀への復帰をゆるした。
(この笑顔だな)
廖化は、しみじみと感じた。
劉備は老いたとはいえ、臣下に見せるやわらかな笑顔のなんと魅力的なことか。
(関羽、張飛や諸葛亮がとりこになるのもわかる……)
劉備にふれた多くの人々が、劉備のためになにかしたくなる。いや、できうることのすべてを捧げ、劉備を強くし豊かになってほしくなる。
(皇帝体質というのかな)
廖化は漢の高祖(劉邦)や武帝、光武帝の片鱗を劉備に見たような気がした。
さて、巫にくらべて秭帰には、関羽を騙し討ちにした陸遜が駐屯している。巫よりはるかに手ごわい城である。
「劉備め。秭帰まで来たというのか」
孫権は、劉備軍の勢いさかんなことに不安を感じた。
諸葛謹が劉備の説得に失敗したというのなら、前線の指揮官をだれにすべきか。
呂蒙は遺言として、陸遜を司令官とし、将軍としては朱然をたよりにすべきだといっていた。
「伯言(陸遜)と義封(朱然)に任せてみるか……」
関羽に勝った呂蒙が、元帥と将軍にすべきと推薦した人材である。
孫権は陸遜を大都督に任じ、仮節を与えた。
陸遜の対外戦術には不安があるが、五万の兵を与え、防衛のために逐一孫権へ判断を仰ぐ必要がないよう仮節を与えたのである。
副将には朱然、潘璋。さらに宋謙、韓当、徐盛らをつけた。
劉備軍の戦力は、四万と報告を受けている。
戦力の差で上回っている呉軍であれば、守備に徹すれば劉備をはねかえすことができるであろう。
となると、魏から攻撃をうけて挟撃されるのは危険である。
そのため于禁を魏に返還し、恭順の姿勢をとったのだった。
劉備の出師前に、曹丕は群臣にむかって、
「関羽を孫権に殺され、荊州を失った劉備は呉に報復するだろうか」
ときいたことがあった。
「蜀は益州ひとつだけの小国であり、名将といえば関羽だけでした。
その関羽が死に、荊州までもが失われたとなれば、蜀国内は恐懼するだけで、報復などできようはずがありません」
このように答えた群臣がほとんどであった。
しかし、曹操の謀臣であった劉曄だけは違った。
「蜀は狭弱とはいえ、劉備は帝位を自称し、己の権威と武力によって政権を強化しています。かならずや呉に出兵して、自国の余裕をみせつけようとするでしょう。
また関羽と劉備は義は君臣とはいえ、恩においては父子とかわりなく、関羽が死んだのに劉備が復讐しないとなれば、その関係は矛盾していることになります」
はたして、劉備は呉に対して関羽の復讐戦をしかけた。
劉曄の卓見は、これにとどまらない。
「呉は魏の藩国でございます」
とへりくだった孫権の嘘を、劉曄はすぐに看破した。
(なるほど。劉備と関羽が孫権を嫌ったのももっともだ)
そう断定した劉曄は、曹丕に進言した。
「呉は漢水と江水のむこうにあり、魏の臣下になるなどという虚偽を信じてはなりません。
陛下の徳は古の帝舜にもおとらないのに、愚劣な呉の性質ではその徳を受け入れることはできません。
劉備が攻めてきたので、臣下になりたいといっているに過ぎず、決して信用なさってはなりません。
今こそ呉の国難に乗じて荊州を急襲し、奪取すべきです。一日の猶予を敵にゆるせば、数十年の禍となります。なにとぞ、ご高察たまわりますよう」
劉曄の献策は、的を得ている。
ここで曹丕が呉を攻めていれば、孫権は劉備と曹丕に挟撃されることになり、滅亡していたかもしれない。
そうすれば劉備の蜀が荊州と益州の二州を得るのに対し、曹丕の魏は揚州を領土に加え、天下の三分の二を支配し、圧倒的な号令をかけることができる。
劉備が曹丕と和することはありえず、曹丕が北と東から荊州を攻めれば、蜀の滅亡も早まる。
曹丕がここにきて孫権に憐憫の情をもったことで、むしろ劉備の蜀は命運をながらえたといっていい。
つまり、曹丕は劉曄の献策を退けた。
「孫権は臣と称して魏に降ったのだ。これを征伐すれば、これから魏に降る者たちに疑念をもたせてしまう」
この一言が、中華に三国時代をもたらしたといっていい。
八月丁巳の日に、曹丕は太常の邢貞に節をもたせて孫権に遣り、孫権を大将軍に任ずるとともに、呉王に封じた。呉は、この時点で王国となった。
曹丕は亡くなるまで戦で勝てなかった人になるのだが、このときの決断が曹丕の勝負勘のにぶさを象徴している。
曹丕は冬に、すでに大将軍であった曹仁を大司馬に任命し、十二月に洛陽を出て東へ巡幸した。
さて孫権への使者になった邢貞は、呉の副都である武昌の宮門に入っても車から降りようとしなかった。
それを見た張昭は礼の権化のような人なので、一喝した。
「礼とは、人を敬うことにある。ゆえに法がかならずおこなわれるのであるが、あなたはじぶんを尊大にふるまっている。
呉は貧弱に見えているのだろうが、一寸の刃もないと思っておられるのか」
邢貞は、
「これは失礼いたしました……」
と詫び、車から降りた。
孫権も、武昌で呉軍の防衛戦を見守っている。
(魏はだましおおせたが、劉備の戦術とはいかがなものか)
しかし孫権の憶測を、劉備の怨念ははるかに凌駕している。
猛将の呉班と陳式に命じ、秭帰を揉み潰すように陥落させた。軍師には、黄権と馬良という蜀最高の知嚢がいる。
「敗走する兵を追撃し、夷陵を占拠するぞ」
先鋒の馮習にくわえ、呉班と陳式が水軍で江水をくだり、夷陵に猛攻をくわえた。
「夷陵まで陥ちたというのか……」
孫権は、劉備軍の士気の高さにあおざめた。
呉軍を猛追して夷陵まで兵をすすめた劉備だが、黄権に、
「兵站が、細くのびています。補給路を強化されるべきです」
との進言を受け、軍を返して翌年正月には秭帰にもどった。
そして黄権に命じ、白帝城から巫県を経て秭帰、さらに夷陵に至る補給路を構築した。
これは黄権にいわせれば、古代の秦軍あるいは潼関の戦いで曹操が用いた戦術である。
「建国の慶賀と、復讐を同時におこなった王朝は、わが国が初めてであろうな」
成都の諸葛亮は、かたわらの馬謖にいった。
「皮肉でございますか」
馬謖は劉備軍に、兄の馬良が従軍しているので、不満そうに訊いた。
「荊州を奪還できるのならば、それでよい……が、それで満足する陛下かな」
「それは……」
諸葛亮はわずかに目をふせて、
「この戦いは、終わり方が見えぬ。戦はどうおさめるかが肝要であり、陛下には生きてご帰還していただかねばならぬ」
といった。




