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亡蜀記  作者: コルシカ
18/26

禅譲

一九


 関羽の脅威を一掃した曹操に、孫権から上奏文が送られてきた。

 内容は「天命はすでに漢から魏に移っています。皇帝の位におつきになってはいかがか」というものである。

 曹操は露骨にいやな顔をし、その文を側近に見せて、

 「孺子が。われを炉の上に座らせるつもりであろうよ」

 といった。

 しかし夏侯惇は、

 「そうはおっしゃいますが、天下の民は漢の命運が尽きていることを知っています。

 あらたな王朝が興ろうとしていることは事実です。古代より、民の害を除き、百姓の帰服を受ける者こそが民の王といわれています。

 殿下は戎衣を着て戦場を往来されること三十年、その功績は人民に明らかです。

 つまり天意に応えて、民意にしたがうことになんのためらいがありましょう」

 と漢王朝からの禅譲をすすめた。

 曹操は、この挙兵からともにした従兄弟の献言を優しく諭した。

 「有政を施せば、是れ亦た政を為すなり……とは孔子もいった。

 天子として政治を行うことだけが、すべてではあるまい。もし天命というものがあるにせよ、われは周の文王ということでよい」

 周の文王が、殷の紂王を倒して易姓革命を行わせたのは、子の武王である。

 漢から魏への禅譲を行うにせよ、子の曹丕が行なえばよい、といったのである。

また曹操は、すでにみずからの寿命が尽きていることを知っていた。

 もともと偏頭痛をもっていた曹操は、関羽の迎撃にむかった摩陂への遠征がたたったのか、病牀についた。

 そして庚子の日、一度も意識を取り戻すことなく崩じた。享年六十六であった。

 関羽の死から、二週間しか経過していなかった。

 意識をなくすまでに、周到な曹操は遺令を残している。

 「天下はいまだ安定していないので、古礼に遵う必要はない。

 わが葬儀が終われば、みな喪に服すことをやめよ。駐屯地にいる兵たちは、任地を離れてはならぬ。有司は、それぞれの職につとめよ。

 時服(時節の衣服)で斂を行い、金玉珍玉を棺に納めてはならぬ」

 つまり古法によれば子は親の服喪に三年をついやすが、天下が安定していないのでそれをしてはならない、といっている。

 斂には小斂と大斂があるが、曹操はみずからの遺体に美衣を着せる必要はない、と命じた。質素を徹底した、といっていい。

 諡号は、武、なった。

 以後曹操は、武王と呼ばれたが、嗣子の曹丕が帝位にのぼったのちは武帝とされ、魏の武帝とよばれることになった。

 曹操の陵墓は鄴の東北にあり、高陵とよばれた。葬られたのは二月丁卯の日である。

 『魏書』にはこのように曹操の偉業が記されている。

 「軍を率いること三十余年、その間手から書物を離さず、昼は軍事の策を講じ、夜は経書と伝(歴史書)に思いをめぐらせた。

 高所に登るとかならず詩を詠み、新しい詩には管弦をつけたので、すべて楽章になった」

 詩人丞相とは、まさに曹操のためにある称号であろう。『魏書』は、曹操の日常生活にも触れている。

 「曹操はつねづね倹約をし、美麗を好まなかった。後宮の衣服には錦繍をゆるさず、侍御の履の色も一色に統一させた。

 帷帳と屏風が壊れれば修理させ、しとねは暖かければよく、縁飾りもつけなかった。

 城を攻め落としたときは、美麗なものを得るとすべて功績があったものに下賜した。

 その労がみごとな者には千金を与えて惜しがらなかったが、功績がない者にはわずかのものも与えなかった。

 四方からの献上品は、すべて群臣とともに分け合った」

 儒教とくに「論語」における、倹約の教義をすみずみまで実践した人生であった。

 婚儀においても公女には黒い帳を用い、侍女らを十人以上つけることはしなかった。

 むろん葬儀も嗣王の曹丕が曹操の遺志を尊重して、斂を終わらせた。

 実際に葬儀を取り仕切ったのは、諫議大夫の賈逵である。

 曹操が亡くなる前、長安に駐屯していた曹彰を呼び寄せたが、曹彰が洛陽に到着する前に曹操は死去した。

 曹彰は葬儀の長である賈逵をつかまえ、

 「魏王の璽綬はどこにある」

 とせまった。賈逵は堂々としたもので、

 「太子(曹丕)は鄴におられ、副君(世継ぎ)は国におられます。魏王の璽綬は、あなたさまが問うべきものではありません」

 と脅迫に屈しなかった。

 憮然とした曹彰は、弟の曹植に会って、

 「なんじは、王になりたいとはおもわぬのか。そのためにわれが都に呼び寄せられたのかも知れぬのだぞ」

 といった。曹植は、

 「いけませんよ。袁紹の子どもたちをごらんにならなかったのですか」

 と戒めた。

 曹操の好敵手であった袁紹は、死後に末子の袁尚を後継者に指名したので、長子の袁譚との争いで家を滅ぼしたのである。

 さて、曹丕は三十四歳で後漢王朝の丞相となり、魏王になった。

 生母の卞后に王太后の尊号をたてまつり、改元をおこなった。

 建安二十五年を延康元年とした。

 二月に、魏国中枢の臣を任命した。

 大尉   賈詡

 相国   華歆

 御史大夫 王朗

 後漢王朝では相国は司徒、御史大夫は司空であったので、魏国における三公ということになる。

 諸将は、みな曹操が魏王になったとき、魏からの官号を受けていたのだが、夏侯惇だけはちがった。

 夏侯惇は曹操の親戚にして、最初の挙兵から功績を積み重ねてきた例外である。

 夏侯惇は後漢の献帝に臣下の礼をとっても、魏王の曹操には臣下の礼をとらなくていい。

 いわゆる「不臣の礼」という殊遇である。

 夏侯惇は折りにつけ、これを畏れ多いと曹操に訴えたが、

 「元譲(夏侯惇)はわが友である。とるにたらない魏が、なんじを臣としてへりくだされようか」

 とそのつど諭していた。曹操最後の遠征となった摩陂でも同じ車に乗せられ、寝所の出入りもゆるされた。

 「これは、われが戦場に出る最後となろうな」

 曹操がそういうと、夏侯惇は、

 「それならば、どうか私の不臣の礼をおやめください。殿下の配下として私も死にます」

 と頼んだ。曹操は仕方なく、夏侯惇を前将軍に任命した。

 曹操の死後、曹丕はこの建国の元勲を大将軍に任命した。

 大将軍は三公より上の位階であるから、群臣の中で最高位である。

 夏侯惇は、そのことよりもひたすら曹操の死を悼み、それから数ヶ月後に亡くなった。

 新政権が整うと、いよいよ魏国が後漢王朝からの禅譲がおこなわれるのではないか、と官民は期待しはじめた。

 曹操じしんも「われは周の文王でよい」とつねづね繰り返していたので、もしかすると献帝と曹操の間に、曹操の死後禅譲の約束が交わされていたのかもしれない。

 三月に豫州の譙で、黄色い龍があらわれた。

 これはいうまでもなく、曹丕が帝位に就く祥瑞であろう。

 さらに祥瑞はつづく。

 渤海郡のじょう安県で、白い雉があらわれたという。

 五月には、左馮翊の山賊である鄭甘と王照が廬水胡とよばれる異民族とともに多数の兵を率いて魏に投降した。

 さらに七月、蜀将である上庸の太守孟達が、観兵のため南下していた曹丕に降伏した。

 孟達は劉備の養子である劉封とともに上庸を守備していたが、諸葛亮から、

 「前将軍(関羽)を援護する必要はありません。御身のその後は、よしなにいたします」

 とそそのかされ、関羽を見殺しにしたのだが、それを知らない劉備は激怒した。

 「なぜ雲長を助けなかった。なんじが動いていれば、雲長は荊州で殺害されることはなかった」

 めったに配下を叱責しない劉備としてはめずらしいというべきであろう。義兄弟にひとしい関羽を見殺しにしたことに、そうとう憤懣やる方なかったのであろう。

 (諸葛亮のいうとおり、曹丕に降伏しよう)

 同じ守将である劉封は劉備の養子なので、言い訳のしようはいくらでもあろうが、外様の孟達には逃げ場がない。

 孟達の名を以前から知っていた曹丕は、近臣を遣って孟達の人物鑑定をしてもらった。

 「孟達は、宰相にもなれるほどの器をもっています」

 「そのような大器か……」

 よろこんだ曹丕は、孟達と譙において会見した。

 孟達は沈着な態度で、謁見に臨む姿勢は閑雅でもあり、魏の諸将を感じ入らせた。

 曹丕は一度会っただけで、孟達のことを気に入った。

 近くに外出するときに小さな車に乗ったときも、かならず孟達を同乗させた。

 親しく孟達の手をとり、背中をなでながら、

 「まさか、卿は劉備の刺客ではあるまいね」

 と笑ったほどである。

 まもなく孟達は散騎常侍に任命され、新城城主を兼任することになった。

 漢中郡東部にある房陵、上庸、西城をあわせて一つの郡(新城郡)にし、その太守にしたのだからすでに孟達は曹丕の寵臣といってよかった。

 (この男は……)

 おなじく曹丕の寵臣といえる司馬懿は、内心危機感をおぼえた。

 (厚遇に満足する男ではない)

 のちに司馬懿の胸騒ぎは、現実のものとなるのである。

 房陵にもどった孟達は、上庸にいる劉封を徐晃、夏侯尚らと攻めて後退させた。

 「あの人も帰るところはないはずだ……」

 劉封に同情した孟達は、投降を促す書簡を出した。

 「いまあなたは漢中王にとって、ゆきずりの人にすぎません。

 阿斗(劉禅)が太子になってからは、武勇のあるあなたは警戒され、殺されるしかありません。

 魏に降っても、古の晋の覇者である重耳のように批難されることはありません。どうか、進退をお考えくださいますよう」

 劉封は、怒った。諸葛亮は関羽を見棄てても、じぶんに害はないといったではないか。

 それが、孟達を通じて魏に降伏せよとはどういうことか。じぶんは劉備の養子なのである。

 「謀ったな、諸葛亮、孟達」

 書状を破り捨てて、魏軍と孟達に単身戦を挑んだ劉封であったが、衆寡敵せず、あえなく敗れて成都に帰還した。

 (諸葛亮の詐略を、漢中王に忠告してやる)

 戦塵を落すことなく、劉備の前に引き出された劉封は、

 「孟達を魏に降伏させただけでなく、雲長(関羽)を救援しなかったのはなにゆえか」

 と劉備のかつてないほどの怒りをあびた。

 「おまちください、軍師将軍(諸葛亮)のすすめに私はしたがっただけです。どうか軍師将軍に面会させていただけませんか」

 劉封は、すがるように劉備にいった。

 「孔明が、そのようなことをいうはずがあるまい。罪を人になすりつけようとするか」

 「ならば、王ご自身が諸将を荊州に諸将を救援にお出しになればよかったのです。

 私と孟達は、漢中郡の東部を維持する兵力しかありませんでした。前将軍(関羽)を救援できるはずがありません」

 陰からそんな劉封を眺めていた諸葛亮は、劉備に内謁して、こういった。

 「副軍将軍は、勇猛です。易世のあと(劉備が亡くなったあと)、ついには制御できなくなるでしょう」

 「では、どうする」

 劉備は関羽が死んでから温厚さが消え、目をすえて前を見たまま訊いた。

 「太子(劉禅)の御為にも、死を賜るべきです。後年……王室の害になります」

 「わかった。副軍将軍を自裁させよ」

 ついに、劉備は劉封を自殺させた。

 自殺する前、劉封は大きくため息をつき、

 「諸葛亮にたばかられた。このようになるのであれば、孟達のいうとおりにすればよかった」

 と嘆いた。

 劉封の自殺を報告された劉備は、ひそかに涙を流したという。

 さて曹丕は生まれ故郷の譙にとどまり、七月甲午の日に、父老と百姓を集めて大宴会を開いた。

 「先王(曹操)はこの地に生まれたものを愛していたので、譙の租税を二年間免除する」

 と布令を出した。

 孫権が遣わせた使者を引見し、献上物をうけとると、国都の許にむかった。

 十月癸卯の日には、

 「諸将の行なった征伐(関羽との戦い)において、まだ遺骸を納めていない者をわれは哀れむ。各郡は小さな棺を用意して遺骸を納め、かれらの家に送致して祭りを行なうように」

 と布告をおこなった。

 その三日後、丙午の日のことである。

 曹丕は許の南にある曲蠡という集落で、献帝の使者を迎えた。

 使者は、兼御史大夫の張音である。

 「陛下は高祖の廟で祭祀をなさったあと、璽と綬を魏王に奉じるようお命じになりました」

 曹丕は、仰天した。

 「帝位を、われにお譲りになるといわれるのか……」

 もちろん、張音は献帝の詔を持参していた。

 「朕は位にあること三十二年、天下の騒乱に遭ったが、さいわいにして祖宗の霊のおかげで、なんとか家を復旧することができた。

 しかし天文を視るに、天命は尽き、曹氏に移っている。

 天下は公のものであり、賢能の者が治めるべきである。帝堯は子に後を継がせず、それによってその名声は無窮のものとなった。

 朕もそれを慕って、魏王に帝位を譲るものとする」

 古代中国には、禅譲という概念がある。

 聖王の帝堯は、舜という最も才能がある平民を引き立てて天下を譲った。

 このことは春秋時代には伝説になっており、もし献帝から魏王曹丕に禅譲が行なわれれば、史上初ということになる。

 曹丕は献帝からの詔をもらっても、

 「われにその徳はありません」

 と禅譲を拒みつづけた。

 それを、禅譲に至る礼儀と知っている群臣たちは、

 「これは各地にあらわれた瑞兆とともに、天命というものです、お受けください」

 と入れかわり立ちかわり奏上した。

 それでも拒否をつづける曹丕に対して、督軍御史中丞の司馬懿、侍御史の鄭渾らが、いっせいに献言した。

 「天の時が至っているのにそれに従わないのは、舜でもしなかったことです。

 いま八方の人々は、老いも若きも魏王が天意に従うことを望んでいます。

 天下の十分の九の人々の願いをきかないことは、周の文王に過ぎた恭謙であり、臣民は不安で夜眠れません」

 身に余る賜予があった場合、三度辞退することが礼儀であるとされている。

 はたして献帝は三度、曹丕に禅譲の意思を示し続けた。

 ついに曹丕は、献帝の使者である張音と相国の華歆、大尉の賈詡、御史大夫の王朗におされるかたちで、

 「卿らが天命を拒んではならぬと考え、民の望みを違えてはならぬと思うのであれば、われは帝の禅譲を受諾しよう」

 といった。

 そしてこの年の辛未の日(二十九日)に、曹丕は受命の壇に登って禅譲を受けた。

 四百年続いた漢が滅び、魏という皇国が誕生したのである。

 この史上初の禅譲式には、公卿、列侯、諸将、匈奴単于、魏に従った四方の蛮族ら数万人が列席した。

 火を燃やして、天地と五岳(泰山、衡山、華山、恒山、嵩山)さらに四瀆(河水、江水、淮水、済水)を祀ったあと、曹丕は三公に制詔を下した。皇帝としての、第一声である。

 「いま朕は、帝王としての継承を受けた。

 そこで延康元年を黄初元年とする。

 それにともない、暦をあらためること、服色を変えること、音律および度量を統一すること、この王朝が五行の中の土徳を受けることなどを議論せよ。

 天下に大赦を下し、死罪のものおよびすべての罪人を赦免せよ」

 曹丕は、曹操のなしえなかった帝位に登り、死後は文帝とよばれることになる。

 一方の漢の献帝は、十一月癸酉の日に河内郡山陽の邑一万戸を寄贈されて「山陽公」という称号を下された。

 (武帝との約束は、これで果たした)

 献帝あらため山陽公は、胸をなでおろした。

 漢王朝は、黄巾の乱において腐敗した屍を野に晒していたのである。

 曹操に擁せられて三十年、漢は正式に国家として魏に大権を譲ることができた。

 後漢王朝の腐敗を、曹操の幇助を経て、禅譲という美名のもと棺におさめることができて、山陽公は満足であった。

 四十歳の山陽公は、このあと十四年生きて、五十四歳で亡くなった。

 少年の頃董卓の傀儡として即位し、李傕らに命を追われたこともあった。曹操の台頭が遅ければ袁紹や袁術の傀儡として終わりをまっとうできなかったにちがいない。

 激動の前半生と、禅譲という美名のもと漢王朝を終わらせた献帝は、まぎれもなく名君のひとりであった。


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