関羽
十七
関羽がいなくなった偃城に入った徐晃は、樊城の包囲を重厚にした関羽とどのように戦うかを模索していた。
「塹壕と土塁をつくりつつ、ゆっくり関羽の本営に接近するぞ」
用心深い策を、徐晃は取ったものである。
しかしこの広い陣をじりじり南下させることで、関羽を圧迫できる。
「公明(徐晃)め、どこまでわれらに近づけるか、見定めてやろう」
関羽が余裕をもっているのは、理由がある。
「塹鹿角十重」
という厳重な包囲陣を樊城に対して、構築しているからである。
塹とは塹壕つまり堀のことで、鹿角は鹿の角のように木と竹を組み合わせた、さかもぎである。
やがて徐晃の陣は関羽の陣に接近をきわめ、その距離三丈というところまできた。
人を数人あわせたくらいの距離で、もはや徐晃と関羽の陣は目の前でにらみあっている、といっていい。
「じゃまなのは、この塹壕とさかもぎよ……」
徐晃はここまで接近しておきながら、関羽の塹鹿角十重の構えを攻めるのには兵が不足していると見た。
何度も曹操に、兵の増援を要求した。
「徐公明は、まことに関羽と戦う意志があるのか」
戦況を聞いて憤慨した曹操であったが、徐晃の陣が関羽の目の前まで迫っていることを知り、
「秦の白起のような戦をする。勇敢ではないか」
といって、殷署と朱蓋ら十二の屯営の兵を、徐晃の要望どおり送り込んだ。
目の前の敵陣に増援がなされたのを見た関羽は、
「これでは公明と戦うのに、兵が足りぬ」
とうめいた。すぐさま江陵の糜芳と公安の士仁に兵を送るように命令した。
「これ以上防備を薄くすることなどできぬ」
もともと配下につらくあたる関羽を嫌っている糜芳と士仁は、ともに連絡をとりあって関羽には兵を送らず、武器だけを輸送した。
「なんだ、これは。兵を送れといったはずだぞ。戦勝ののちは、糜芳と士仁に命令違反の罪を贖わせてやる」
関羽は、激怒した。それを心配した関平が、
「糜芳と士仁は、ほんとうに兵をもっておりません。これ以上ふたりを締め上げると呉に降るのでは……」
といさめた。主簿の廖化も、
「戦線が伸びていますので、王(劉備)に援軍をお求めになった方がよろしいのでは」
と関平のことばを補足した。
「いまさら益州に兵を要請できるか。糜芳と士仁は、腰抜けよ。呉に降るなど大胆な行動ができるはずがあるまい」
関羽は、みずからにいいきかせるようにつぶやいた。
(ここで王から援軍があれば、南陽郡どころか、許都まで陥とせるというのに……)
廖化は、なにごとも独力で行おうとする関羽に、不審の念をいだいていた。
劉備と諸葛亮も、関羽の奮闘を知らぬはずがないのに、使者を送ってこようともしない。
(まさか、王と前将軍は不仲か……)
廖化は、ついに真相をつきとめた気がして、不吉を感じとった。
(われは、関羽父子に殉ずるつもりはない)
そのように、廖化は思っている。
(狐は危機に際して、逃げ穴を用意しておくと聞く……)
まだ三十にすぎない廖化は、むなしく戦場で屍をさらしたくない。
一方、孫権は関羽討伐に向かう前に、呂範に建業の守備を命じた。
「かつてあなたは、劉備を呉に留めるように献策してくれたが、われはそれを無視してしまった。今はそれを悔いている……許されよ」
孫権は懇ろに、呂範へ謝罪した。呂範は孫策の親戚であり、呉さらには孫氏創業の元勲なのである。
先鋒はいうまでもなく、呂蒙である。
その軍はすでに尋陽に至っており、荊州の州境に達している。
呂蒙は兵をすべて大型船の中に伏せさせ、商人の服装をさせた兵に櫓をこがせている。
江水のほとりにある関羽の監視所を急襲すると、糜芳と士仁に内密で事情を告げられている兵たちは、無抵抗で降伏した。
糜芳と士仁の内通は、諸葛亮が呂蒙と計画したものであるから、関羽のもとには一切の情報が漏れていない。
さて、関羽と徐晃のにらみ合いは、依然前線で続いている。
囲頭と四冢という屯営が関羽の陣中にあるが、徐晃はこれらを突破するために多くの塹壕と鹿角を越えなければならない。
(裏の裏をかいてやるか)
徐晃は四冢を攻めると決めていて、
「囲頭を攻撃するぞ」
と自軍の兵にむかって宣言した。むろん両軍には内偵が潜んでいることを知ったうえで、である。
徐晃の攻撃目標は、まもなく関羽に報告された。
「公明は、策を弄している。囲頭を攻撃すると喧伝してわれに四冢を守備させ、やはり囲頭を攻撃するつもりである」
徐晃は関羽が四冢にいないことを祈りつつ、四冢に攻撃をかけた。
徐晃の策が、関羽を上回ったということだ。
「ここに、関羽はいないぞ」
兵たちの声で、徐晃軍は勢いづいて塁壁を破壊しはじめた。
(公明に、謀られたか……)
関羽は五千の兵で、囲頭から引き返した。
ここまで無敗であったじぶんが、という気力の減退を感じた。
関羽は六十歳になる。「七十をもって老とす」といわれるものの、老将である。
つねに軍の戦闘に立って戦う関羽の落胆は、そのまま軍の勢いを殺いだ。
囲頭の方角から砂煙をあげて接近する関羽軍五千を、徐晃は見据えた。
(兵では、われらの方が多い。だが、相手は雲長だ。臆すれば敗れる)
徐晃は、関羽とこの場で決戦する意を固めた。弩を連ねて、殺到する関羽の騎兵を止め、そして自軍の騎兵と歩兵を突入させる。
(……これで勝てねば、龐徳のところにゆくまでよ)
関羽も、考えることはおなじである。
「敵軍に矢を放て」
両軍、激しい矢の応酬となった。
徐晃の軍も兵たちが斃れはじめたが、ここが我慢のしどころである。
「矢を絶やすな。敵も苦しいのだ」
徐晃の声励は、軍全体に必死の気魄をそそいだ。
数千の矢は徐晃軍が放つ方が多く、やがて関羽軍の騎馬突撃が止まった。
「よし。騎兵と歩兵を押し出すぞ」
徐晃は鼓を叩いた。
それでも、関羽の強さは群を抜いている。
関平と廖化に突撃する騎兵を防がせているあいだに、関羽はあっという間に陣をたてなおした。
「ここからが勝負だな、公明」
関羽は、にやりと笑った。
両軍、激烈な合戦となった。関羽と徐晃は、ともに「押し返せ」と馬上で声をあげている。
時間の経過とともに、兵数の差が出てきた。
「関羽を畏れぬ者などいない。矢を放て。もうひと押しだぞ」
囲頭から急いで駆けつけた関羽軍は、疲労もあった。徐晃の重厚な陣にじわじわ押されはじめた。
関羽の率いる騎兵は激減しているが、それでも退却しない。それは関羽の意思で統一された死兵であった。
「関羽の兵を取り囲んで、殲滅せよ」
徐晃は、ついに関羽を捕縛することをあきらめた。ためらいは、敗北につながる。
「公明め……やるようになった」
疲弊した関羽は、ついに兵の退却を命令した。関羽の退却とともに四冢の兵も屯営を棄てて、漢水に浮かべている船上に逃れた。
「勝った……のか」
徐晃は虚脱したように、つぶやいた。気を引き締め直して、樊城を包囲する関羽軍を掃討しはじめた。
「おう、徐公明が関羽を撃退したぞ。これで城外への道が通じた」
曹仁は喜色をみせて、将兵に声をかけた。
樊城は孤立からまぬがれ、援軍と兵糧を受け入れることができる。
五十を越えた曹仁は老将というには早いように思われるが、関羽が七月に攻めてきてからの三ヶ月は水浸しの籠城であったため、周瑜に敗北した江陵の籠城よりも過酷であったろう。
曹仁と副将の満寵は反撃に出て、関羽が構築した塹鹿角十重や営塁をことごとく破壊し、敵兵を漢水まで追い込んだ。
関羽は樊城で敗れた兵たちを船で救助したが、曹仁軍の追撃によって多くの兵が間に合わず、漢水に落され溺死した。
「父上、いかがいたしますか……」
関平が、関羽に訊いた。
「うむ。南岸の襄陽を攻撃する。襄陽を基点に曹仁ともういちど戦ってやる」
関羽の強気の発言は、呉から背後を襲われていることを一顧だにしていないからだった。
病気を装っていた呂蒙は、船を何艘も率いて公安に到着した。
「決して人家で、狼藉をはたらくな。略奪もゆるさぬ」
呂蒙はいずれ公安が呉の領土に帰することを知っているので、部下に厳命を下した。
やがて公安の城門がしずかに開いた。
「お待ちしておりました」
士仁が、呂蒙の使者である虞翻を出迎えた。
「関羽の折檻によくお耐えになりました。
このような日がきたのは、天意です」
虞翻のことばに、士仁は涙をにじませた。
(これで、関羽に復讐できる)
士仁と糜芳は、部下に尊大な関羽にいつもなじられ、蔑まれてきたので、呂蒙の降伏勧告にはためらいなく応じた。
「士仁どの、血を流すことなく公安を受け取ることができました。
公安の住民もあなたに感謝するでしょう」
呂蒙は懇ろに士仁をねぎらい、降伏の後ろめたさを払拭してやった。
「さて、これから劉璋を訪ねる」
呂蒙は諸葛亮から教えられていた、前益州牧の劉璋の家にむかった。
荊州を統治するために、劉璋は政治軍事における大義の象徴になる。
「振威将軍であられるか」
呂蒙の前に出てきたのは、おだやかな生活を乱された劉璋である。
「そなたは、だれか。公安にいかなる事がおこったのか」
「行車騎将軍および徐州牧である孫権の配下の、呂蒙ともうします」
劉璋は、呂蒙の挨拶で劉備が荊州を孫権に奪われたことを知った。
「そういうことか……それで、われに何の用があるのか」
「はい。公安は孫権の治下になり、まもなく南郡もそうなりましょう。
ですが、孫権はあなたを粗略にいたしません。いまはそのことだけをお伝えにまいりました」
一礼すると呂蒙は、劉璋の邸を辞した。
「関羽が留守であるときに、荊州を狙ったか……」
劉璋は、ため息をついた。
ちなみに劉璋は孫権によって益州牧に任じられ、益州の州境にちかい秭帰に移された。
「政治なぞ、つまらぬ」
こんどは孫権の政治的な道具にされた劉璋は、ほどなく秭帰で亡くなることになる。
益州への野心は、いささかももっていなかったであろう。
士仁をしたがえた呂蒙は、ふたたび虞翻に江陵にいる糜芳を降伏させることにした。
糜芳は士仁と同様、関羽の無礼さを憎んでいたから、江陵城の門を開けると同時に大量の牛酒で呂蒙と虞翻をもてなした。
「戦いは、おさめ方が大事よ」
呂蒙は江陵を取った後、関羽の将士の家族を人質にしたが、手厚く遇した。
また江陵の住民に対しても、みずからの兵に法を遵守させ、慰撫させた。
その際、呂蒙の配下である兵士が、民家から笠をひとつ取って鎧の覆いとした。
そのことを報告された呂蒙は、
「その兵士はわれとおなじ汝南郡の者であるが、軍法を曲げるわけにはゆかぬ」
と涙をうかべて、その兵を斬った。
(笠ひとつで死刑か……)
粛然とした呂蒙の兵士たちは、道に落ちている物さえ拾わなくなった。
呂蒙は詐略をもって江陵を奪ったので、住民に徳を施さなければ呉軍に住民が懐かないことを知っている。
朝夕長老のもとに使いを遣っては、不足している物資を届けさせた。
また病人を看護し、寒さや飢えで貧困にあえぐ民には衣服と食料を与えた。
なお関羽が蓄財していた府庫には封をして、孫権が到着するのを待った。
こうして、呂蒙の占領政策は成功をおさめたといっていい。
一方、関羽は不審をおぼえていた。
公安と江陵からの軍使が、いっこうにやってこない。そのかわりに、北に逃亡した官吏や住民が、関羽に異変を伝えた。
「公安と江陵は、すでに呉軍に占領されているというのか」
思いもよらなかった事態である。
「糜芳と士仁は、呉軍と戦わなかった……ということでしょうか」
関平も、半信半疑である。
(あの二人を信用したのが、まずかった)
廖化は、関羽父子の糜芳と士仁へのあつかいを知っているだけに、さもありなんと悔やんだ。
「公安と江陵に、船をはしらせてみる」
関羽は監視船を公安と江陵に向かわせたが、呉が漢水と江水のほとりに駐屯している、という情報をもって帰ってきた。
「全軍を、撤退させる」
関羽は、苦渋の決断をした。
いったん漢水を下って上陸し、情報を整理し、戦略を練り直さねばならない。もはや関羽軍は魏軍と呉軍に挟まれた、袋の鼠である。
「関羽軍が、撤退したもようです」
樊城の曹仁にも、偵探が急報を告げた。
「呉軍が公安と江陵を占領した、ということだな。いまなら関羽を追撃し、捕捉することができようぞ」
勇んで立ち上がった曹仁に、諫言したのは趙儼である。
「おやめください。孫権は、われらとの戦いで疲弊した関羽を襲う算段です。
ここで長躯関羽を追うと、孫権はわれらとの密約をやぶってわれらに矛を向けてくるはずです。
それは魏王(曹操)も憂慮されている事態ですので、関羽にはまだ孫権にとって脅威でいてもらわねばなりません。追ってはなりませぬぞ」
曹仁は曹操のちかくにいて用兵を習得したので、いつも曹操がどのように戦うかを思い描いて兵を進退させている。
なるほどと趙儼に感じ入った曹仁は、
「関羽を追撃してはならぬ。武器を伏せ、魏王の命を待て」
と全将士に命じた。はたして襄陽の包囲を解かれて関羽が去ったのを知った曹操は、
「関羽を追ってはならぬ」
と曹仁に使いを走らせたので、曹仁と趙儼は面目を賜った。
曹操自身は、徐庶が諸葛亮に密書を送ったように、体調がよくない。
それでも曹仁や呂常を応援する姿勢を関羽に見せようと、豫州を越えて摩陂という土地までみずから軍を進めた。
曹操の病が篤くなれば、帝都の許に戻ることができる。
そこに居巣を守備していた張遼が、曹操のもとにやってきて、
「徐公明が関羽を破り、樊城と襄陽の包囲は解かれました」
と報告した。曹操の喜びは尋常ではない。
凱旋してきた徐晃を、なんと七里先まで出迎えた。
「徐将軍は、長躯敵の包囲陣を衝き破った。われは三十年用兵をもちいているが、このような勇気は見たことがない。
周亜夫(前漢の元勲・周勃の子)の威風があるといえよう」
まさに曹操は、徐晃を絶賛した。しかも相手はあの関羽なのである。
さて、関羽が江陵と公安にむかわせた偵探は、驚いていた。
城門や城壁には、呉の旗が立っているにもかかわらず、住民は笑顔で、もととかわらぬ生活を送っているのである。
城門をくぐった偵探は、幾人かの知人に会い、状況を聞いた。
「糜芳と士仁が裏切って、戦わずに呉軍に降った」
「そうなのか……呉の将軍は誰だ」
「呂蒙と聞いている」
「なんだって」
偵探は、仰天した。呂蒙は病気が篤くなり、呉の首都である建業にもどったはずではないのか。
「その呂蒙が、厳しすぎるほど兵を律して、江陵と公安の治安を維持している。だから住民は、だれも呉軍に不満をもつことがない」
「なんということだ……」
使者は、取るものも取りあえず、関羽のもとに急行した。
事情を訊いたさすがの関羽も、慄然とした。
「呂蒙が……後任にはあの陸遜という若い書生のような男が就いていたのではなかったか」
たしかにそうであった。呂蒙が病気療養のため建業に帰るにあたって、陸遜がその後任となっており、
「関将軍は敵の隙を衝いて、軍律を厳しくされて出師し、小をもって大を倒されました。
その武勲は大いなるものであり、敵国が敗北したということは、われら同盟側がおおいに利することになりましょう。
私は一介の書生身分に過ぎず、任をもって西に参りましたが、関将軍の光塵を慕い、良き手本といたしたいと存じます」
と着任の挨拶を書簡で送ってきた。
「陸遜とは何者ぞ」
関羽が主簿の廖化に訊くと、
「使者にたずねましたところ、あざなは伯言で偏将軍右部督ということです」
とくわしい性格などはわからない。
「これまでの戦歴はどうか」
「とくにない……とのことでございます」
「そうか」
関羽は、陸遜のような実績のない若者を呂蒙の後任にあてたことで、孫権は荊州を攻める戦略がない、と断定していた。
于禁を捕虜にしたときも、
「于禁を捕虜にしたことは、古の晋の文公や漢の韓信に匹敵する武勲です。
聞くところによりますと、徐晃が少数で救援に差し向けられたとのことですが、曹操は狡猾な敵ですから、関将軍の本営を狙っているものでしょう」
陸遜は関羽を賞賛することしきりであり、関羽の注意をたくみに北にむけさせた。
さらには、
「私は実戦の経験がなく、書物においてしかものごとを識りません。
諸事においてうといこの私が、関将軍にとなりあっていることは頼もしく喜ばしいことです。
このうえは軍事をともに行うとき、関将軍を手本とし、ご高配をたまわるようお願いもうしあげます」
とまで下手に出た。
「陸遜め、われをたばかったか」
関羽は、怒りを全身にみなぎらせた。
陸遜からすれば、関羽を倒すための策であろうが、このような露骨な詐略は類を見ない。
「つまりは、呂蒙と陸遜が策を合わせてわれを欺き、江陵と公安を奪ったと……こういうわけだな」
関羽は荊州でおこなわれた詐術を、ようやく理解した。
陸遜は、秘密裏におこなわれていた呂蒙と孫権の策を見抜いていた。
建業にもどる途中の呂蒙が丹楊郡の蕪湖に来たとき、そこに軍を駐留させていた陸遜は、
「呂将軍は関羽と境を接していますのに、心配でなりません」
と懸念を述べた。
「ふむ……われは病のために建業にもどるのであって、仕方がない」
遁辞をかまえた呂蒙に、
「関羽は于禁らをやぶって大功を立て、今が驕りの絶頂です。
呂将軍が病と聞けば、ますます呉に対する防備をうすくすることは間違いありません。
いま出師して関羽を責めれば、やすやすとかれを生け捕ることができましょう。
どうか、主(孫権)にそのように献策していただきたい」
と陸遜は臆することなくいった。
(陸遜は、われの策を知っているな)
呂蒙はそれでも、
「関羽は勇猛で、相対するとすれば難敵だ。
荊州を掌握してからは、民を慰撫しているし、大功をたてたとなればなおさら慎重にならねばならぬ」
と陸遜をたしなめておいた。
陸遜は二十過ぎまで官僚をしており、軍事でも地方の叛乱を鎮圧した知る人ぞ知る逸材である。孫権に嘱目されたかれは、孫策の娘を妻にしているので、孫一族の姻戚でもある。
(陸遜ならば、われの後任にふさわしい)
こう確信した呂蒙は、
「陸遜を、私の後任におあてください。
かれの才覚はまだ他国に聞こえておらず、関羽が油断することは必定です」
と孫権に推挙した。
陸遜はさっそく召されて陸口に赴任し、ひたすら関羽にへつらいの書簡を送った。
関羽を慢心させることに成功した陸遜は、呂蒙とともに江水をさかのぼり、夷陵を制圧した。夷陵を抑えてしまえば、関羽が蜀に逃げ帰る道をふせぐとともに、蜀の援軍を阻止することができるからである。
呂蒙は、関羽の家族も丁重に保護した。
さきほど孫権は関羽の娘をじぶんの息子と婚姻させようとしたので、娘は含まれていたと思われる。
関羽は呂布を滅ぼした際、呂布の配下である秦宜祿という人物の妻(杜氏)を妻にしたいと曹操に願い出たので、本妻を亡くしていたのかもしれない。
杜氏は秦朗という連れ子とともに、曹操の妾になった。
関羽は後妻をむかえたようで、関興という息子をもうけている。前妻の子と思われる関平は関羽に従っていたのに対し、関興は劉備のもとにいたようである。
二十数歳で亡くなったとあるので、この時点(二一九年)では存命か微妙なところであろう。
関羽の目前の敵は、もはや呉軍である。
ところが、家族が呂蒙に丁重に遇されていることを知った兵たちは、次々と脱走をはじめた。
関羽が当陽を過ぎて麦城に入った頃には、率いていた兵は半減していた。
戦意を半ば喪ったという意味では、関羽も兵たちと同じである。
「孫権のあくどさを、王(劉備)はかねがね嫌っていたが、こたびのことでわれもそれが身にしみてわかった。
人を欺いて領土を掠め取り、得意になっているのが孫権の本性よ。周瑜と魯粛が生きていたころには、このような悪質な策を立てなかった。
われは曹操にも一時仕えていたが、かれも人の領土を横領したことはない。孫権は曹操に劣り、いずれみずからの醜悪なおこないによって滑落してゆくであろう。
それにしても……江陵の民は孫権のうわべの奸計にならされてしまったのが残念でならぬよ……」
関平は、このような自信をなくした父を初めて見た。
「父上の徳が、孫権に劣ったわけではありません。曹操にここまで立ち向かった者は父上以外におらず、天は正義のおこないをかならず見ております」
(倨傲を棄てるのがおそすぎた……)
廖化は、関羽父子のやりとりをひややかに聞いていた。今は、関羽に現実を提示するのが主簿の役割である。
「前将軍(関羽)、今のうちに益州に走ってください。このままですと、兵がすべて逃げ去ってしまいます。
城の守備は私がおこない、時をかせぎます」
関平が色をなして、
「元検(廖化)、何をいう。まだ兵は数万いるではないか。ここで孫権と決戦し、きやつに煮え湯を飲ませてくれるわ」
と胸を張った。
「いや……元検のいうとおりだ。
ここにいる兵には、もはや戦意がない。まともに戦って数日も城を保つことはできぬ」
関羽はそういって、関平をさとした。
「ですが……」
「私が城に旗を立て、前将軍が立て籠もっているようにみせかけます。
猶予はありません。王(劉備)のもとに、一刻も早く少数の兵で出立してください」
廖化の献策を聞いた関羽は、しばらく脳内から追い出していた劉備のおもかげを思った。
劉備はみずからも多くみぐるしい負け戦を経験しているので、配下が敗戦しても叱責したことは一度もない。
「漢の高祖は、項羽に九十九敗しても最後の一勝で天下を取ったではないか」
いつも劉備はそういって、関羽や張飛を勇気づけてくれた。
「ふふ……狡猾な孫権に斬られるくらいなら、王に敗戦を詫びてから処刑されたほうがよい」
関羽は廖化の献言にしたがって、関平と益州に逃亡することにした。
孫権が江陵に入ると、麦城に立て籠もる関羽軍の兵たちは、さらに脱走していった。
孫権はまず呂蒙と虞翻を無血で江陵と公安を降した功績を賞賛し、城中で捕虜になっている于禁を解放した。
于禁はかなり容貌がやつれており、衣服を着替えて孫権にこう問うた。
「私は孫将軍に釈放されるのですか。それとも捕虜として場所を変えられるのですか」
孫権は懇ろに于禁をもてなして、
「左将軍(于禁)は、いずれ魏王(曹操)のもとにお帰りいただけます。ひとまずは私の客になってください」
といい、于禁の過去の武勲を数え上げて、こころをやわらげてやった。
于禁が最初に仕えたのは、曹操の盟友であった鮑信だった。若き日の曹操は鮑信に渾身の援助を受け、鮑信が黄巾賊の残党と戦って敗死したあと、于禁は曹操に仕えた。
いわば、曹操は鮑信がいなければ今の魏王という地位にはいなかったのである。
于禁が軍司馬として徐州の広戚県を落した最初の軍功から、呂布討伐で活躍したことなど、関羽に捕らわれるまでの勲功を孫権はすべて知っていた。
「一つの失敗で、これまでの数え切れない功をわすれてはいけないと古人もいっています。于将軍は霖雨にたたられて不運にも捕らわれただけであり、それだけで過去の武勲が帳消しになるわけではありません」
孫権のなぐさめは、痩せ衰えた于禁にあたたかくしみた。
(われは、どうして出陣の際に船を用意しなかったのか)
と悔悟にまみれていた于禁は、ようやく顔を上げ、
「かたじけない仰せです」
といった。
(客として……か)
于禁は魏の将軍として、今後許に帰ったとしても、恩義を受けた孫権と戦えないと思った。逆に虞翻は、
「主は于禁を優遇しすぎなのではないですか」
といやみを孫権にいった。魏の将軍である于禁をあまやかしても、なんの利益も呉はえることができない。
実利の点からすればそうなのだが、呂蒙からすればそれはちがう。関羽を捕縛し殺害することになれば、劉備はかならず復讐の兵を呉にむけてくる。そのとき魏とは友誼をたもっておかねばならないのだ。
(虞翻はしょせん、魯粛にはおよばない)
呂蒙は病身のじぶんが亡きあとの、呉の命運に暗澹とさせられた。
やがて陸遜が夷陵を占拠したとの報が、孫権に届けられた。
孫権はあっという間に、江水の要所を二つおさえたことになる。
陸遜を宜都太守、撫辺将軍に任じ、華亭候に封じた。華亭は呉郡の西にあり、私有地と民を得たことは、陸遜にとっては望外のよろこびであったろう。
「これで、関羽の逃走路は防いだ」
孫権は、もはや関羽が孫権と決戦できる状態にはないことを知っている。
ゆえに属将の潘璋を呼び、
「関羽は山道を越えて、蜀に逃げ込むかもしれぬ。そこもことごとくおさえよ」
と命じた。潘璋は呂蒙が諸葛亮から渡された地図をもっている。
万全の状態で麦城に大軍を寄せた孫権は、城内にいる関羽に降伏勧告をおこなった。
「わかりました。明日城門を開いて降伏します」
関羽は、意外と素直に孫権の使者に降伏を申し出た。
孫権陣営は、おおいに驚いた。きのうまでの関羽とは別人のような丁重さである。
孫権の使者が去るのを見届けた廖化は、
「城壁の上にできるだけの旗を立て、人形を置くのだ」
と作業を急がせた。
「すまぬ、元検(廖化)……」
関平が、廖化の手を取って涙を流す。
「一刻も早く、ご出立を」
廖化も涙を流して、関羽父子を見送った。
「よろしいのですか」
廖化に属官が訊いた。
「これでよい。関羽の自滅は身から出た錆よ。われらまで死ぬことはない」
廖化は遠く関羽父子の馬が立てる砂埃を見ながら、いった。
「われらが孫権に降伏して、赦されるでしょうか」
「ふむ……呂蒙は荊州を長く統治したいので、降将をむげに扱わぬであろう。
いずれ漢中王(劉備)が、呉に報復の兵を出す。その機を見て漢中王の陣営に逃げ込む」
廖化は、二手三手先を読んでいる。
一方の孫権は使者の復命を聞いて、
「はは、関羽は明日には城にはおるまいよ。
急いで益州への道をふさがせよ」
関羽は、麦城の北にある章郷をめざした。
当陽を過ぎたあたりで、さらに逃亡する兵が増え、章郷に着いた頃には数千に減っていた。
「父上……」
「よい。戦意のない兵は連れて行くと速度がにぶる。ほうっておけ」
章郷で待ち受けていた孫権軍に降伏する兵は後を絶たず、章郷を脱した頃には関羽父子にしたがう兵は十数騎に激減していた。
天は、関羽に味方したはずであった。
山道と渓谷を縫って進めば、益州まで阻むものはいない。
「このまま、益州まで駆けるぞ」
関羽は生気を取り戻した表情で、張りのある声を上げた。
(天意は、まだわれに玄徳とともに戦え、と告げている)
関羽の闘志がよみがえったところに、しんじられない光景が待っていた。
沮水に沿って騎馬を疾駆させていた関羽たちが臨沮県に到達したところで、呉の大軍が待ち受けていたのだ。
「なぜだ……ありえぬ」
関平は、絶望の色をうかべた。
沮水の道は荊州の細い山径で、呉軍が知っているはずがない。
(……となれば、孔明か)
関羽は、諸葛亮が呂蒙に荊州の地図を流したと知った。
「天に誓っていうぞ。孔明は、わが王国を滅ぼす」
関羽の絶叫に呼応した関平は、
「父上、ならば呉軍に降伏し、君側の奸である諸葛亮を討ちましょう」
「ふふ、われはいかなる敵にも降伏せぬ」
関羽は、笑った。
独尊の境地に至った関羽は、二千の呉軍に戦いを挑んだ。
呉軍の将は、司馬の馬忠である。
潘璋に臨沮県で待機しておけと命じられた馬忠は、まさかこのような僻地に関羽があらわれるとは思っていなかった。
(関羽に、勝てるのか……)
かつて関羽は数万の袁紹軍に単騎突入し、顔良の首を獲ってきたこともあるのだ。
「ここを突破されれば、後はないぞ。関羽を討ち取れ」
馬忠は血眼をむけて、覚悟を決めた。
疲れ果て精根尽き果てた関羽ら十数騎は、二千の呉軍に突入した。
(玄徳。なんじの理想は、われが代行しようとしたが、儚くなった。なんじは、あきらめるなよ)
関羽は何本もの矢を身体中に受け、ついに落馬した。大勢の兵がおそるおそる地上に横たわった関羽に近づいたところ、関羽はすでに落命していた。
関平をはじめ、関羽に従った十数名の兵もみな戦死した。
「蜀記」には関羽は孫権の捕虜になり、孫権が関羽を殺さずに劉備と戦わせようとしたところ、
「狼を養ってはいけません。魏王は関羽を降伏させたものの殺さなかったので、大難をまねくことになり、遷都を討議するまでにおいつめられました。かれを生かしておいてはいけません」
と側近に諫められたので、関羽父子を処刑したという。講談の「三国演義」でもこの説に準じている。
しかし、誇り高い関羽が蛇蝎のごとく嫌う孫権の捕虜になるとは考えられず、臨沮県の戦いで戦死したのであろう。
関羽は、誰にも協力も救援ももとめず死んだ。だが、それは関羽が黄巾の乱の頃、劉備たちと誓った正義の体現であった。
荊州を詐取した孫権や、また益州を乗っ取った劉備とも共闘したくなかった関羽は、劉備と挙兵したときの志をつらぬいたのである。
それはまぎれもなく、劉備に対する最大限の敬愛の証であった。
関羽は張飛とともに、生まれた日は違っても、死ぬ日は劉備と同じ日に死にたかったはずである。
関羽の首は、孫権によって曹操に送られた。
その途上で年は改まり、建安二十五年(二二〇)となった。
洛陽に帰還したばかりの曹操は、ちょうど関羽の首を受け取った。
「慇懃無礼とは孫権のことをいう。
関羽は、つい先日まで孫権の同盟者であったではないか。
それをだまし討ちにしたのが、あたかもわれであるかのように、首を送ってきた。
われと関羽には、篤い絆がある。
狡猾な孫権に埋葬されるよりは、われに埋葬された方が、関羽はよろこぶであろう。
かれの霊力を魏のささえとすべく、関羽を候にして葬る」
曹操と関羽も、まさしく動乱の時代をともに生きた友であった。




