野望
十六
孫権は、戦略において八方塞がりの状態にあった。
関羽との諸事における交渉役であった魯粛が二年前に亡くなったのが、その端緒ともいえる。
(周瑜のみならず、魯粛までも喪ってしまった……)
孫権の悲嘆は、大きかった。
呉という支配地域における国益を長期にわたって見据えることができた参謀は、周瑜と魯粛しかおらず、のちにも出現することはなかった。
孫権が北上するにあたって魏から奪取しなければならない土地は合肥になるが、初めて合肥攻めをおこなって十余年、いまでも合肥を抜くことができない。
唯一の成果といえば、荊州の南部三郡を魯粛が関羽との交渉によって取り戻してくれたが、劉備と和睦したからには兵を西に向けることもできない。
しかも姻戚関係にある劉備が、孫権に一言の相談もなく、漢中王になったではないか。
「劉備は、天子のお許しを得て王になったのか。そうせず漢中王になったのであれば、帝室をないがしろにしており、袁術の轍を踏むであろう」
と諸将にむかって、不機嫌さをあらわにした。ところが、諸将はだれもうつむいて孫権の不満に同調するものはいない。
みな劉備の威勢を畏れて、ものがいえないのである。
(魯粛亡きいま、これが呉の現状よ……)
孫権は、心中おおいに落胆した。
魯粛は四十六歳という若さで亡くなるにあたり、じぶんの後継者は呂蒙を推した。
呂蒙は努力の人であり、武勇だけでなく書物を熟読することによって、孫権の軍師に足る能力を得たのであるが、それをいち早く見抜いたのは魯粛であった。
呂蒙だけは、諸将とはちがう戦略を練っている。
すなわち関羽が無視している襄陽に、呂蒙自身が攻め上る、というものである。
そのためには征虜将軍の孫皎を南郡に入れて守備させ、潘璋を白帝まで遣わせて軍をとどめさせ、蔣欽に兵一万を率いさせて江水沿岸に駐屯させるというものである。
「このように軍を展開しますと、曹操を畏れず、関羽に頼らなくて済むのです」
さらに呂蒙の書簡には、こう続く。
「関羽とその配下は、いたるところで裏切りを行い、武力を誇示しています。
関羽とは誠実に外交ができるとも思えず、いずれ荊州全土を支配する欲望はあきらかです。
関羽が力をもっているうちに、打倒しておかなければ、呉が力を失ったあとで抵抗しようとしても無駄なのです」
呂蒙は、以前の関羽ならば劉備に忌憚して、呉の領域を侵さなかったが、いまはちがうといっている。
すなわち関羽は劉備から独立するための軍事行動を起こしているので、呉との盟約は守らない。ゆえに打倒すべきであるとはっきりのべている。
(しかし……関羽と劉備の兵と連動できれば、曹操を中原から駆逐できるのではないか)
孫権はめずらしく大局を考慮し、
「この機に乗じて、徐州を攻め取るというのはどうであろう」
と呂蒙に訊いた。そこでも呂蒙の戦略には、ぶれがない。
「徐州の兵は少なく、攻めればいったんはその地を奪うことができましょう。
ところが徐州は陸路が四方に通じており、曹操の援軍がまもなく押し寄せてまいりましょう。七、八万の兵で守り切れるかどうかも心もとないのです。
ですから関羽の不意を衝いて、かれを討ち滅ぼしたほうがいいのです。長江に拠り、勢力を安定して拡張できるでしょう」
「それはわかるのだが……」
孫権は、軍事の前に外交をすすめなければならない。
じぶんの妹(孫夫人)が劉備との婚姻関係を解消して呉に還ってきたからには、劉備陣営のだれかと姻戚となって、反曹操の紐帯を強くしておかなければならない。
「遠くの劉備がだめなら、近くの関羽か……」
孫夫人が荊州にいたころ、男勝りの性格もあり、
「関雲長どのは、武将の中の武将です」
と絶賛していた。
(ならば、関羽の娘を自分の子の嫁にできぬものか)
孫権は、中原を震撼させている関羽の実力は買っている。関羽の舅となれば、頼もしいではないか。
さっそく使者を関羽に遣わした孫権だったが、関羽の怒りを浴びせられた使者は憤慨して還ってきた。
「狢の子に、狼の娘をやれようか。樊城を陥落させ、曹操を中原から駆逐したのちは、なんじらを滅ぼしてやろう」
「関羽め……ぬかしたな」
さすがの孫権も、怒りをかくすことができなかった。関羽が劉備から独立するのであれば、孫権との姻戚関係をむすぶのはわるい話ではない。
にもかかわらず、関羽は誰とも協調するつもりはないのである。
そうであれば、関羽のいる荊州三郡の後ろを襲っても、孫権にうしろめたさはない。
さっそく孫権は、北伐を行っている関羽が南郡と公安に残している戦力の分析を、偵探を使っておこなわせた。
南郡の州府である江陵には、糜竺の弟である糜芳が守り、北部荊州三郡の行政府である公安には士仁が守っている。
(いま関羽を滅ぼしておかねば、呉にとって根深い病根になろう)
呂蒙はそう感じて、孫権に書簡をおくった。
「関羽は樊城を攻めていますが、かなりおおくの兵を江陵と公安に残しています。
これはおそらく私に背後を襲われることに、備えてのことでしょう。
そこで私はこのところ病がちですので、兵を分けて建業に召還命令をお出しください。
名目は、病気療養ということにしてください。
情報は関羽に伝わるようにしておけば、関羽はかならず江陵と公安に残している兵を前線に送るでしょう。
そうしますと、大軍を船に乗せて長江をさかのぼり、兵が少ない江陵と公安を陥すことができるばかりか、関羽を捕獲することもできるでしょう」
孫権は熟考したが、
(関羽を打ちのめしたところで、劉備はさほど怒りはしないだろう)
との結論を出した。露檄すなわち封をしない檄文で関羽に情報が漏れるように、呂蒙の召還命令を下した。
孫権は関羽と劉備の不仲をきめつけてしまったが、このことがのちに呉にとって一大危機をうむことになるのである。
はたして呂蒙は、陸口にわずかな兵を残して病気療養を名目に、建業に還った。
情報探知にはひときわ力を入れている関羽のもとに、廖化がそのことを報せた。
「呂蒙は疾病が重ったので、陸口の兵ほとんどを率いて建業に還りました」
関羽は龐徳と于禁を撃破したことで、得意になっており、日頃から侮っていた呂蒙がじぶんに謀略をしかけてくるなど、夢にも思わなかった。
「後顧の憂いが、ひとつなくなった。呉に対する守備兵を樊城の前線にまわせ。
それと湘関の米を兵糧にする」
あたりまえのようにいった関羽だが、じつは湘関とは湘水沿岸にある港で、所有権は呉にある。
于禁と七軍の兵数万を捕虜にしたため、関羽軍は食糧不足気味であった。それで、呂蒙のいない呉の食料を強奪してもかまわない、と関羽は高をくくったのである。
(さっそくきたか)
呂蒙にとって、この事態は想定内である。
建業に還ってきた呂蒙は、
「湘関の米が、さっそく関羽に奪われました。樊城を陥落させたあと、陸口を襲う算段でしょう」
と孫権に報告した。
孫権はやや眉をひそめたものの、
「まあよい。ところでこういうものが曹操から届いた」
孫権から渡された書簡を一読した呂蒙は、
「江南を将軍の領土とする……ですか。ということは、曹操はあなたを呉公に封建するということでしょうか」
孫権は首をふって、
「いや、いきなり公国をもたせる気は曹操にはなかろう。候、といったところであろうな。関羽を背後から襲って樊城から兵を退かせれば、公国も画餅ではなくなるであろう」
といった。呂蒙は、微笑んだ。
「流れが、こちらにむいてきましたな。曹操は、呉とは戦わないという意思です。
ところで、正式に曹操に臣従なさるのですか」
「いや……漢の天子に臣従して、魏王の建てた王国に返礼するという態度で臨む」
「それでよろしいかと存じます。
これでわれらの目前の敵は関羽のみとなり、関羽は四方を敵に囲まれることになります」
機が熟したと感じた呂蒙は、じぶんが立てた策の詳細を孫権に披露した。
長時間孫権と呂蒙は協議を重ね、曹操に返答の書簡を送った。
「魏王(曹操)のご厚情に報いるため、兵を西進させて関羽を討伐します。
江陵と公安は距離が近く、この二城をいちどに失陥すれば関羽は敗走し、樊城の包囲は解けます。
どうかこのことを固く秘密にされて、周囲にお漏らしなさいませぬように。関羽が知ってしまえば、守りにはいってしまいますので」
孫権は関羽を討伐することによって、曹操に忠誠を誓うといっているのである。
「おお、孫権がこちらになびいたぞ」
曹操はおおいに喜び、
「呉軍が関羽を伐つことは、だれにも知らせてはならぬ」
と厳命した。群臣が納得したのを尻目に、それに疑義をとなえたのは、司空軍祭酒の董昭である。
董昭はかつて袁紹のもとで参軍事となっていたが、袁紹死後はその才能を曹操に愛されて今の地位にいる。六十四歳で、曹操とは同年代である。
「軍事は、謀を尊ぶものです。孫権の要望を聞くふりをして、ひそかに情報を漏らしてゆくべきです。
なぜならこの策を実行すれば、利を得るのは孫権だけであり、わが方とすれば関羽と孫権を互いに争わせて消耗させ、樊城の包囲を解くことが最上の策だからです。
孫権のうごきを秘密にしていれば、樊城の将士たちは救援がないと思い、城内にある兵糧の減少や関羽の攻撃に不安を感じます。
関羽のひととなりは剛直で、江陵と公安の二城が強固であると信じ、たとえ孫権が襲来してきてもすぐに兵を退くとは思えません」
董昭の策は、決して難易度の高いものではない。孫権の策を利用して、魏軍の利益を最大化する解釈をおこなっただけである。
そこに乱世を渡り歩いてきた董昭の、真骨頂がみてとれる。
「司空軍祭酒(董昭)の謀こそが、玄妙というものであろう」
曹操は孫権の提案を破棄し、董昭の戦略を実行した。そもそも曹操が魏公となり魏王となったのは、董昭の草案が基となっているので、軍事政治に関しては万能といえる人である。
徐晃の援軍に追いついた曹操からの使者は、さっそく曹操の命令を記した書簡を渡した。
「そうか。魏王からの策は、われらが数万の兵を援軍として得たようなものだ」
徐晃は喜び、その書簡の写しを、樊城を包囲している関羽の屯営に矢文として射込んだ。
意気消沈して疲弊の極みだった樊城を守備する将兵たちは、
「魏王と孫権からの援軍が、関羽を挟撃してくれるぞ」
とおおいに士気を上げた。
一方の関羽陣営である。
「父上、このような矢文が射られてきましたが……」
関平が、いぶかしげに徐晃からの書簡を手にやってきた。
「どれ……ふん、このようなものは敵の陽動策だ。曹操からの援軍はともかく、どうして孫権の裏切りをこちらに報せる必要がある。
仮にだ、孫権が裏切ったとしても、江陵と公安は百日でも陥落せぬ。ふたたび援軍を送ることができる。
われらは目の前の曹操の援軍だけを、撃破すればよいだけである」
関羽は、董昭の策にまんまとはまった。
もしも孫権の裏切りを関羽の偵探がつかんでいたならば、関羽は迅速な臨機応変の対応をとっていたであろう。
「それで、曹操の援軍で来た将はだれか」
関羽の問いに、関平は複雑な表情で、
「徐晃です……」
と答えた。関羽と徐晃の親交を関平は承知している。
「公明か……ふふ、相手にとって不足はない」
天下一の武勇を自負している関羽が、親友とした男である。張遼にしても徐晃にしても、曹操軍五将軍に名を連ねている。
その五将軍のひとりである于禁は、すでに捕虜とした。徐晃には関羽が自立するための右腕になってもらいたい、とひそかに思った。
(船を忘れた于禁とちがい、公明とは腰を据えて戦わねばならぬ)
徐晃は、宛から陽陵陂まで南下して駐屯した。関羽はそれに対応するため、樊城の北にある偃城に本営を置いた。
徐晃も相手である関羽の力量は、充分すぎるほど承知している。
軍をいたずらに動かさず、じっと関羽の陣を見据えていた。
徐晃の側近たちが、
「樊城は疲労だけではなく、飢えはじめています。すぐに救援すべきではありませんか」
と進言した。
徐晃の心中を理解している議郎の趙儼は、
「関羽軍の樊城包囲は、いまだ堅固である。水も完全に引いたわけではない。
わが軍は単独で兵も多いわけではなく、樊城の曹将軍(曹仁)と連携がとれるわけでもない。
このような不利な状況で敵に攻撃をしかければ、城の外と内で疲弊し被害が大きくなるだけで、まずはじりじりと関羽の包囲陣まで前進し、圧迫するだけでよい。
城内には偵探を入れて、外からの救援を報せ、士気を鼓舞させる。
そうすれば樊城はさらなる援軍を知り、堅守できる。われらの後続軍が到着したのち、城の外と内で連携が取れれば、関羽を容易に撃破することができよう。
救援が遅すぎて魏王から処分を受けることがあれば、われが徐将軍に代わって処分を甘んじて受けよう」
と諸将に説いた。徐晃もその言を良しとし、うなずいた。
趙儼がさらなる援軍といったのは、曹操が将軍の徐商と呂建を先遣させ、万一のときはみずからが樊城救出にむかうことを示唆している。
徐商と呂建には、
「援軍を合流させれば、ともに樊城にむかえ」
と命じている。
陽陵陂にいる徐晃の軍に徐商と呂建の援軍が加わったところで、とても于禁が率いた七軍に数ではおよばない。あたりに浸水していた水も引いてきた。
(このあたりが潮時か……)
徐晃は、ようやく顔をあげた。
策をもちいて、関羽を偃城から退去させようということである。
徐晃は南にむかうふりをして、南方にむかって大きな塹壕を掘りはじめた。
関羽は偃城からそのようすを観察していたが、
(公明め、わが退路を断つつもりか)
と推測した。大胆なことに、数人の側近を従えただけで、城を出て工事している塹壕に近づいていく。
塹壕を掘っている兵たちは、最初巨軀の将軍を見てとまどったが、その美しい鬚を視認して、
「か、関羽が来た」
とさわいで逃げ出した。
「逃げずともよい。今日は、ひさしぶりに徐公明と話をしたくなって来ただけだ」
関羽のよく通る声を聞いた兵は、さっそく徐晃のもとに関羽が面会を求めていると報せた。
「雲長(関羽)が会いにきた、というのか」
徐晃は半信半疑ながら、関羽より多く兵を連れて工事の現場に向かった。
はたして、そこに関羽が待っている。
「雲長ではないか……」
徐晃はなつかしさに、顔をほころばせた。
「公明、久しいな」
関羽もおだやかな笑みをうかべ、
「なんじの武勇を、曹操の麾下で腐敗させたくない。どうだ、われとともに天下を目指さぬか」
といった。徐晃はなおも笑っていたが、おもむろに下馬すると、
「関羽を捕らえたものには、千斤の賞金をあたえるぞ」
と自軍の兵たちに告げた。
関羽は徐晃の豹変ぶりにおどろいて、
「どうしたのだ、公明」
と叫んだ。徐晃の表情は、前線の将軍のものにもどっている。
「雲長、これは国家のことなのだよ」
徐晃と関羽の会見は、両軍の兵士たちが目撃している。
そこで、徐晃が関羽となごやかに会話しただけならば、
「平寇将軍(徐晃)は、むかしの誼で関羽に通じている」
とあらぬ噂をたてられることだろう。
徐晃は魏王である曹操に、関羽を討伐するよう命を受けて来た。それが徐晃の意志表示であった。
(公明も、しょせんは飼い狗か……)
関羽は失望して、徐晃のつれてきた兵たちを一睨した。だれも関羽をとらえようと、うごきだすものはいない。
「つぎは、戦場で逢おう」
関羽は笑って、本営に去った。
そして、偃城から出て陣を下げ、樊城を包囲する兵に合流した。
「さて公明よ、お手並みは拝見させてもらおう」
関羽は万全の態勢で、決戦のときを待った。
※
成都の諸葛亮は、魏の徐庶からの報告書に目を通していた。
「関羽の進撃は、とまらぬようですね」
そう諸葛亮に声をかけた人物は、馬謖あざなを幼常という。
馬謖は襄陽郡宜城の人で、兄に馬良がいる。
馬良はあざなを季常といい、眉が白い。
馬良五兄弟はすべて劉備に仕えているが、もっとも賢いのが四番目の兄弟である馬良であったので、
「馬氏の五常(兄弟のあざなにはすべて常の文字がつく)白眉もっともよし」
と世間から評されている。馬謖は末弟ということである。
諸葛亮と馬良、馬謖は、荊州で知り合って意気投合し、義兄弟の契りを結んだ。
諸葛亮への政治の教導は馬良が、軍事と謀略の教導は馬謖がおこなっている。
「関羽はやりすぎた……劉備から自立して中原を支配してしまわぬともかぎらぬ」
諸葛亮は、苦笑して若い馬謖を見た。
「……孫権への策はひそかに実行されているようですが」
馬謖はけげんな表情で、いった。
「ふむ。幼常(馬謖)の工作で、江陵の糜芳と公安の士仁は、戦わず呂蒙に降るはずだ」
諸葛亮は、ふたたび書状に目を落していった。
「元直(徐庶)さまからの報告は、いかに」
馬謖の問いに、
「魏は于禁と七軍が捕虜になったあと、徐晃を救援によこしたようだ。
徐晃は関羽の親友であるから、疑心暗鬼の曹操はみずから樊城救援にむかう準備もしているらしい」
と諸葛亮は、ため息をついた。
「曹操は、かなり体調がわるいとのことでしたね」
「元直は、年内もつかもたぬかの容態であるといっている……いずれにしろ事態が緊迫しているのはたしかだ」
「それはゆゆしき事態……曹賊こそ孔明兄が打倒せねばならない仇敵です」
徐州出身の諸葛亮は、初平四年(一九三)に曹操が徐州太守陶謙の部下にじぶんの父を殺された復讐で、徐州に侵入し住民を大虐殺したとき、幼年であった。
草を刈るように数え切れない人々を殺してゆく曹操を、幼い諸葛亮は憎悪した。
(曹操は、この手で殺す。このうえない残虐な手法をもちいて)
長じてからの諸葛亮は、曹操への復讐を片時も忘れたことがない。しかし。
「老賊は死をまぬがれぬ。だとしても子孫を根絶やしにせねば、徐州の悲劇は繰り返される」
諸葛亮の顔は、白い鑞のように無機質な物体に見えた。
「と、おっしゃいますと」
「関羽ごときに、わが宿願をうばわれてなるものか。それは漢中王(劉備)の大義への叛逆でもある……」
馬謖はうなずいて、
「そのとおりです。関羽は敗北するでしょうが、成都に逃げ帰ってこられれば厄介です」
と諸葛亮に同意した。
「関羽には、荊州で死んでもらう」
諸葛亮は、微笑んで馬謖にいった。
「上庸の劉封と孟達な……やつらに関羽へ与せぬように手はうってある」
「さすがは、孔明兄……」
上庸は樊城の北西部にあり、関羽からの救援を拒んだ場合、関羽は荊州で袋の口を閉められた状態になる。
「いっそ、最後まで劉備の用心棒であってくれれば、関羽も終わりは悪くなかった。
実質荊州王にまで厚遇されなければ、無用な野心をもたずにすんだはずだ……」
諸葛亮は、劉備を王から皇帝にまで位をすすめさせる腹案をもっている。
劉備を奉じて魏を伐つことで、大義名分と私怨を同時に満たすことができる。
「呂蒙には、荊州から益州への抜け道をすべて描いた地図を渡してあるか」
「はい。そのことは、抜かりなく……」
「よろしい。関羽と曹操の死後、われらの態勢を整えておかねばならぬ」
黄巾の乱の頃の英雄たちと、新時代の人材の世代交代は徐々にすすんでいる。




