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亡蜀記  作者: コルシカ
14/25

漢中王


         十四


 劉備軍北上の急報を受けた曹操は、夏侯淵と張郃だけでは漢中の守備がこころもとなく感じ、曹洪と曹休を派遣することにした。

 曹洪は曹操の従弟であり、董卓との戦いで馬を失った曹操にみずからの馬をあたえて逃亡させたこともある。夏侯惇に比べれば、はるかに老練な武将である。

 曹休は曹操の族子であるが、十代の頃から曹操に「千里の駒」と絶賛されて曹丕と起居をともにさせていた。虎豹騎という精鋭を任せて宿衛させていたが、このたびの劉備との戦で、一軍をまかせることにした。

 将帥は曹洪だが、曹休は騎都尉で、参軍という抜擢である。

 すでに劉備は諸将を率いて北進し、呉蘭と雷銅という武将を武都郡に侵入させている。

 劉備の本陣は、夏侯淵と張郃に備えるために陽平関に置いている。

 曹操との戦いにおいてその履歴が古い劉備は、曹洪と曹休が援軍に来たことを知ると、

 「曹洪が相手では、呉蘭と雷銅ではかなわぬかもしれぬな……」

 といって盪寇将軍の張飛を派遣することにした。

 こころえた張飛は、武都郡の郡都である下弁の東南にある固山まで進出した。

 「固山に、張飛が進出してきたと……」

 曹洪は、腕を組んで熟考した。

 呉蘭と雷銅は与しやすい敵将だと思っていたが、かれらを攻撃すると固山の張飛が曹洪の後方に回り込んで、挟撃される。

 諸将をあつめて軍議をおこなった曹洪であるが、呉蘭と雷銅を討つべきか、張飛を討つべきか意見がまとまらない。

 そこに、曹休が意見を具申した。

 「張飛がまことに我が軍の後方を遮断するつもりでしたら、すみやかにそれをおこなっているはずです。

 ところが張飛軍は声を上げて気勢をしめしているだけです。

 張飛が呉蘭と雷銅と連動する前に、呉蘭と雷銅を攻撃すべきです。かれらが敗れれば、張飛は戦うことなく撤兵するでしょう」

 さすがは曹操に絶賛された若武者である。

 曹休の策戦にうなずいた曹洪は、

 「よかろう。このまま前進して呉蘭を討つぞ」

 と軍に命令を下した。

 固山の張飛を無視して、下弁にいる呉蘭と雷銅を攻撃したのである。

 張飛の軍を期待していた呉蘭の軍は、大敗した。

 呉蘭は逃走したが、劉備のところへ還ることができず、陰平の氐族に捕らえられて首を斬られた。

 「このままここにいても、益はないな」

 そう考えた張飛は退却してしまったので、雷銅の軍は曹洪に攻められて全滅した。

 曹操軍が大勝したのは三月で、一月後には曹操のもとに捷報がとどけられた。

 「文烈(曹休)がやりおったわ」

 むろん、曹休の才能を活用した曹洪の指揮にも満足であった。

 一方武都郡をおさえるために送った呉蘭と雷銅を失った劉備は、陽平関に立て籠もった。

 その前に劉備は陳式に命じて十余営の兵を派遣し、馬鳴閣道を絶ったこともあった。

 しかしすかさず徐晃が出陣して陳式の軍を追い払い、閣道を確保した。この敗戦で山道から身を投げて死ぬ蜀兵が多かった。

 ここにきて、打つ手打つ手がまったく噛み合わなくなった劉備は、

 「成都の軍師将軍(諸葛亮)に、兵を徴発し戦場に送ってもらおう」

 と書面を送った。諸葛亮は書面を読んで、展望を予想してみた。

 戦況の不利がつづけば、益州の兵を漢中に送り続けなければならない。益州を鎮撫している今、もっと戦況を好転させる戦い方はできないものか。

 かたわらにいた蜀部従事の楊洪に、

 「主が兵の増援を求めておられるのだが、存念があれば聞かせてほしい」

 楊洪はあざなを季休といい、益州犍威郡の出身である。犍威郡の太守となった李厳と意見が合わず職を辞したが、李厳は楊洪の才能を惜しんで、中央に推薦された。

 諸葛亮に存念を問われた楊洪は、少々戸惑った後、気魄にみちた声でいった。

 「漢中は、いわば益州の喉元です。

 そこでいま存亡にかかわる大戦がおこなわれているのですから、すみやかに男子は戦場に行き、女子は輸送にあたるべきです。

 もし漢中を失うことになりますと、益州も滅亡することは必至です。

 兵を徴発されることに、狐疑なされることはありません」

 諸葛亮は、楊洪の覚悟を見た思いがして、すくなからぬ感動をおぼえた。

 (楊季休の胆力は、なみなみならぬものがある……)

 すぐさま増援部隊を劉備のもとに送った諸葛亮は、劉備に従軍している蜀郡太守の法正と楊洪を交代させるように上奏した。

 蜀郡太守に任命された楊洪は、万事行政をとどこおらせず、謹直に処理した。

 漢中に滞陣している劉備のもとに、諸葛亮から兵と兵糧が輸送されたことで、蜀軍はおおいにうるおった。

 魏軍と蜀軍は、にらみあったまま、年を越した。

 運命の建安二十四年(二一九)である。

 劉備は比較的余裕をもった心境で、護軍の黄権に話しかけた。

 「曹操は長安にとどまったまま動こうとしないが、なぜであろうな」

 黄権は劉備に聞きたいことがあったので、この機会に問いを発した。

 「長安は漢中を見るのと同時に、荊州を見ることができるからだと察します。

 荊州の関将軍から、何か報告はありませんか」

 劉備はさびしげな表情をして、

 「いや、雲長からまったく報告はない」

 といった。

 関羽から劉備への報告があがってきていないのは、事実である。荊州三郡の郡府である公安からわずかに関羽の動向を知るだけとなっていた。

 (荊州の関羽と漢中の兵が連動して北上すれば、おもしろくなるのだがな)

 黄権は、心中で劉備と関羽の不仲を嘆いた。

 しかし劉備の落胆に同情した黄権は、あらたな策をさずけた。

 「そうですか。しかし、今や成都からの増援でわが軍の方が、夏侯淵の軍より兵力はまさっています。

 この有利さを活かすために、火攻めを行ってはいかがでしょうか」

 このたびの戦役では、軍事指揮の長は軍監の法正であるが、こまかな戦術はすべて護軍の黄権があみだしている。

 「火攻めか……しかし、どのように」

 劉備は思いがけない策を聞き、心がうごいた。劉備が黄権を軍事の天才であることに気づくのは、この献策によるのである。

 劉備軍は黄権の策にしたがい、夜間ひそかに陽平関を離れた。

 蜀軍の強敵は、元帥の夏侯淵であるというより張郃である。

 張郃は広石に駐屯していて、劉備軍は動くことができなかった。

 そこで劉備は一万の部隊を十分割して、張郃を包囲するような攻撃を夜間にしかけた。

 しかし、さすがは百戦錬磨の将である張郃である。

 奇襲にややたじろいたものの、すぐに親兵を組織してみずから白兵戦に参加した。

 張郃の軍は短時間で軍の乱れを立て直し、反撃に転じた。

 「よし、ここで狼煙を上げるぞ」

 劉備は黄権の策が順調に推移していることに満足し、走馬谷という土地で敵陣営の囲いに火をはなった。

 たちまち火は燃え広がり、張郃軍を圧迫しはじめた。

 軍監の法正が上げた狼煙に、黄忠軍がひそかに軍の向きを変えて南に向かう。

 「張雋乂(張郃)が、火攻めに遭っているだと」

 走馬谷のおびただしい火を見て驚いた夏侯淵は、大勢の軍を割いて張郃の救援にむかわせた。

 「われは南にむかい、定軍山を守備する」

 夏侯淵は定軍山のふもとに簡易な営塁を築き、劉備軍の到来に備えた。

 夜が明ける前に守備を固めたい夏侯淵は、みずから柵の構築を兵とともに行っていた。

 そのときである。

 黄忠率いる大軍が夏侯淵の営塁に、雪崩のごとく襲いかかった。

 不意をつかれた夏侯淵の営塁は、黄忠軍に蹂躙され、あっけなく夏侯淵は首を取られた。

 明朝、営塁を占領した黄忠は、首実検をしているときに、大将とおぼしき首を見つけ、

 「これは、敵の将軍なのではないか」

 と夏侯淵軍の捕虜に問いただした。

 「これは、征西将軍(夏侯淵)に間違いありません」

 「なんと……」

 黄忠と法正は驚いて、さっそく劉備のもとに夏侯淵の首を送った。

 「われらが得なければならないのは、魁帥の首である。このようなものが何になる」

 劉備は張郃を討てなかったことを悔やんだが、敵元帥である夏侯淵を討ち取ったことで、軍の士気はおおいにあがった。

 それをまだ知らない張郃は、

 「陽平関から兵がいなくなっているだと……」

 と夜明けに戦場の変化を知った。すぐに兵をひきいて陽平関に向かった張郃のもとに、

 「夏侯元帥が、戦死なさいました」

 と驚愕すべき報せが届いた。

 「そ、それはまことか……」

 張郃は、天地が昏くなる錯覚をおぼえた。

 (劉備は陽平関に帰らず、南下して征西将軍を襲ったのか)

 このような巧妙な策戦に、夏侯淵のみならず張郃も欺かれたということである。

 劉備には龐統という軍師がいたが、先日益州攻めのときに戦死したという。ならば。

 (劉備には、龐統よりすぐれた軍師がついているということだな)

 張郃は、呆然とその場に立ち尽くした。

 そのとき、夏侯淵の司馬である郭淮が、大声で動揺する兵を鎮めた。

 「張将軍は国家の名将であり、劉備に畏れられている。このような緊迫した事態を収拾できるのは、張将軍以外にはおられぬ」

 郭淮にはげまされた張郃は、本営を出て閲兵をおこなった。

 曹操軍はこれまで、元帥が戦死するような敗北を喫したことはない。

 それでも張郃の冷静沈着な指揮を見た兵たちは、おおいに安心した。

 人の真価は危機に見舞われたときに、発揮される。

 張郃を補佐し全軍を鎮撫した郭淮は、のちに羌族との対応で「神明のごとし」とたたえられることになる。

 郭淮はあざなを伯済といい、太原郡の人である。曹丕が五官中郎将になったとき、盗賊を取り締まる賊曹となり成果をあげたので、のち曹操の漢中討伐にしたがって夏侯淵の司馬に抜擢された。

 勇気があるものの、迂闊な性格の夏侯淵を補佐するために曹操が打った人事は、ここで活かされた。

 さて、夏侯淵の戦死を長安で報された曹操は、おおいにかれを哀惜し、

 「われの憂慮は、妙才(夏侯淵)のかるはずみをとめることができなかったか」

 といった。

 曹操は夏侯淵に西方鎮撫を任せるにあたり、

 「将であるかぎり、勇気は必要だが、軍事に際しては知略をもちいるのだぞ。

 勇にまかせて戦うだけでは、匹夫にすぎないのだからな」

 とかねがね諭していた。

 夏侯淵は馬超の配下である楊秋を説いて降伏させたり、将軍としての成長がみられただけに、惜しい死であった。

 さて夏侯淵戦死の翌日、劉備軍は勢いがあるので、川を渡って攻め寄せようとしていた。

 張郃が元帥代理をつとめる曹操軍諸将はそれを畏れて、

 「わが軍は、昨夜大敗したばかりだ。まともに戦っては負ける。川に沿って陣を連ねて敵軍を防ごうではないか」

 という意見が続出した。これに異を唱えたのは、またしても郭淮である。

 「これでは、戦う前から負けているようなものです。むしろ陣を川から離れて敷き、敵を引きつけて敵軍の渡河中に攻撃すれば劉備軍をやぶることができるでしょう」

 渡河中に敵を攻撃するという策は、孫子の兵法でも基本であり、いかに曹操軍諸将が動揺していたかがうかがえる。

 このような有効な策を次々献じることができる郭淮は、病を押して従軍しており、夏侯淵の出撃時にはそれを諫めることができなかった。

 (これ以上、将帥を死なせるわけにはゆかぬ……)

 郭淮は決して本調子ではない体調を押して、軍議で策を献じつづけた。

 一方渡河して曹操軍を攻撃しようとしていた黄忠は、

 「敵は陣を川から離れて敷いている。監軍はどうおもうか」

 と法正に訊いた。

 「おそらく渡河中のわが軍を襲撃する算段でしょう。ここはようすを見た方はよいかと」

 と進軍を止めさせた。

 「ふむ……敵に撤兵する意思はなさそうだな」

 黄忠は、劉備に現状を報告した。郭淮の度胸で曹操軍は崩壊の危機をまぬがれた。

 「張郃と郭淮はよくやってくれているが……われがみずから漢中に向かわねばなるまい」

 三月に曹操は長安を出発し、斜谷をぬけて陽平関に到着した。

 張郃には節があたえられ、郭淮はあらためて張郃の司馬に任じられた。節は独断専行がゆるされるので、将軍では最高位である。

 一方の劉備は、定軍山に本営を築いた。

 「曹操がみずから出陣したとて、何ができようか。われはかならず漢水(沔水)を守り抜いてみせる」

 劉備軍には兵站が確保されており、長期のにらみあいにも充分対応できる。

 曹操軍はとおい長安からの兵站がこころもとなく、長大な陣を築いて蜀軍をはげしく攻撃した。短期決戦をのぞんだのである。

 「敵はあせっております。ここは堅陣を保つだけで曹操は撤退するでしょう」

 護軍の黄権が自信をもって劉備に献言した。

 劉備はかつて曹操に厚遇されたため、曹操のことが嫌いではない。これまで曹操がじぶんで劉備を攻めてきたときは、かならず逃亡した。

 それは劉備がみせた曹操への礼というものではなかったか。

 今回の戦役も夏侯淵や張郃といった曹操軍とは戦ったが、曹操本人とは戦う姿勢をみせなかった。

 いたずらに月日は過ぎ、遠路はるばる攻めてきた曹操軍の兵士たちに脱走兵が続出しはじめた。

 ある日、曹操は軍議の際に諸将の前で、

 「鶏肋だな……」

 とだけいった。諸将はその意味を解せず、首をひねった。

 「魏王(曹操)がおっしゃった、鶏肋とはなんぞや」

 「鶏の骨のことではないのか」

 厳密には、鶏肋とは鶏のあばら骨である。

 諸将も一様に、曹操が発した謎にとまどうばかりであった。

 その中で丞相主簿の楊脩だけは、さっさと旅装に着替え、荷物をまとめはじめた。

 「徳祖(楊脩)、なぜ帰り支度をはじめた」

 張郃は楊脩の頭のよさをしっているので、直接訪ねてその理由を問うた。

 「鶏肋は棄てるには惜しいですが、食べるとなると身が少なく腹はとうていみたされません。

 漢中のことを鶏肋と魏王はおっしゃったのですから、漢中を放棄してご帰還になると解したのです」

 「なるほどな……」

 張郃は納得して、全軍に帰還命令を出した。

 楊脩の名は、この故事にもなった一事で不朽となったが、それを聞いた曹操は不快となった。

 (徳祖め、われのつぶやきを勝手に軍中に広げおって)

 鶏肋とは曹操の本心であったとはいえ、正式な帰還命令を出す前に勝手に解釈して拡散したのは、臣下の分限を超えている。

 楊脩はもともと曹操の後継争いを繰り広げて敗北した曹植の親友であったので、この年の十月に王朝の不穏分子とみなされて処刑されることになる。

 「われは、長く生きすぎたよ」

 とはそのときの楊脩の遺言であった。

 結局曹操は陽平関の陣を払って、五月長安に帰還した。

 この戦以降、曹操と劉備は直接戦うことはなかった。

 世代が交代しつつあった、ということもあろう。そういう意味では、漢中攻防戦は時代の分岐点だったといえるかもしれない。

 張郃が撤兵後、陳倉に駐屯しているとはいえ、劉備はうごきを止めなかった。

 漢中郡の東南部に上庸があり、そこを守備している申耽を劉封、孟達、李厳を派遣して降伏させた。

 これにより漢中郡は、ことごとく劉備が領有することとなった。

 群臣つまり諸葛亮を筆頭として、劉備を曹操のように王にしよう、という機運が高まった。

 「曹操が魏王ならば、主は漢中王というのはどうか」

 諸葛亮は、法正に問うた。

 「それはよろしい。漢中王という称号は漢の高祖(劉邦)がはじめて王になった称号です。中華の正義を糺すには、ふさわしいといえましょう」

 法正も、諸葛亮の提案に賛成した。

 魏という国は、もともと春秋時代に晋という周の王国内にできた覇権国が韓・魏・趙の三国に分かれた国の称号で、周の天下を代わって経営するという印象がつよい。

 周の天下を簒奪しようとした魏に対して、漢中は漢の劉邦が楚の項羽を倒すはじまりの地なので、倫理的にも風とおしがよい。

 益州と荊州を領有する劉備が王になろうとするならば、後漢王朝の献帝に任じられた左将軍と宜城亭候の印を返還し、詔を得なければならない。

 群臣のおもだった百二十人の中で、代表して上表に名を連ねたのは、馬超、許靖、龐羲、射援、諸葛亮、関羽、張飛、黄忠、頼恭、法正、李厳である。

 連名は形式にのっとったものなので、関羽のように荊州にとどまったまま、漢中にいなくてもかまわない。

 かれらは沔陽に壇を築き、兵を整列させた。

 関羽を除く十名は、整列して上表を読み上げ、劉備に王冠をかぶらせた。

 (ようやく、ここまで……)

 劉備よりも感無量なのは、軍師将軍の諸葛亮である。劉備に乞われ荊州の草庵を出てから、十二年の月日を経て劉備は曹操にならぶ王になった。

 このことは、傀儡となった後漢王朝に代わり、劉備の王国が正統であるという宣言でもある。蜀王ではなく、漢中王と名乗ったのは、先述した漢の高祖をならってのことだからだ。

 成都に還った劉備は、王朝を開くために政府を再整備した。話題となったのは、漢中の太守をだれにするかということである。

 「それは、盪寇将軍(張飛)であろう」

 群臣がそう予想する中、抜擢されたのは、牙門将の魏延であった。

 魏延は都督に任命され劉備から、

 「なんじはこの重任にどう対処するかな」

 と抱負を聞かれた。魏延は気負うことなく、

 「曹操が天下の兵を挙げて押し寄せて来たならば、大王のためにこれをふせぎます。

 曹操の武将が十万の兵で攻めてきましたら、大王のためにこれを呑み込む所存です」

 と答えた。魏延は一兵卒から将軍になるまでのぼりつめたたたき上げであるから、戦場の呼吸というものを知り尽くしている。

 劉備も群臣も、魏延の勇壮な返答に感心した。

 また忘れてはいけないのは、荊州をひとり任されている関羽である。

 劉備は関羽を前将軍に任命し、節と鉞をさずけた。鉞とはマサカリであり、軍事の独断専行権である。

 前将軍とは蜀における劉備の次席であるものの、実際の権限は「荊州王」と呼ぶにふさわしいものであった。

 「これでわが正義を実行できようぞ」

 関羽は鉞を得たと同時といっていい時期に、曹仁が守備する樊城を攻めるべく出師をおこなった。

 この軍事行動は、劉備の意思というよりは、関羽が日頃抱いてきた理想と正義を実行にうつしたものだったのである。


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