望蜀
十三
劉備が蜀を平定し、益州牧を劉璋にゆずられたと聞いて、孫権はおもしろくなかった。
周瑜の性急な蜀攻めを嫌って謀殺した孫権であるが、周瑜が劉備に蜀を攻めるといったとき、
「いま理のない出師をして蜀を攻めますと、糧食を万里のかなたへ輸送し、戦っては勝つということは困難です。孫子や呉起でも、成功しますまい。
同盟者(劉璋)を理由なく征伐するのは、曹操に戸を開閉する要を貸すようなもので、敵に隙をみせてつけこむ計というのは、上策ではありません」
と反対したではないか。
孫権は、せめて劉備に荊州を返還してもらおうと考えた。
中司馬の諸葛謹を呼び、
「益州を取ったのだから、荊州四郡を返還してもらいたい」
と交渉させるのである。いうまでもないが、諸葛謹は諸葛亮の兄である。
孫権は、荊州四郡はあくまで劉備に貸与しただけであるという認識をくずしていない。
諸葛謹は、成都に使者として到着した。建安二十年(二一五)のことである。
「孫権の主張は、いいがかりではないか」
劉備は、諸葛亮に諮った。
「そうですね……荊州の牧はそもそも劉琮であり、劉琮を降伏させた曹操が引き継いだと解釈するのが妥当でしょう。
それなのに、われらが自力で切り取った荊州四郡を返せとは虫がよすぎますね」
諸葛亮の返答こそ、正論というものであろう。いや、孫権はそのことを承知の上で劉備に荊州の返還を求めているのであるから、そのしつこさは異常である。
劉備が荊州四郡を得たあと、その承認を得るために孫権と会見したことが、孫権の強気につながっているのである。
(あのとき呉へゆかねばよかった)
後悔した劉備ではあったが、面と向かって諸葛謹にそれをいうわけにはいかない。
「曹操と対峙するには、涼州を得なければなりません。涼州を得たら荊州をお返しするでありましょう」
と遁辞をかまえた。諸葛謹は大人の風格をそなえた人物で、公式の場で弟の諸葛亮と面会しても私語をはさまず、劉備の返答をそのまま呉の孫権に持ち帰った。
「猾賊め、またわれを騙そうとしているな」
孫権は、激怒した。
「荊州を借りたまま呉に返さず、虚辞をもってその支配をひきのばそうとしている」
こういいはなった孫権は、長沙、零陵、桂陽の三郡に長史を派遣し、郡府を明け渡すように要求した。
荊州の総督は、関羽である。
孫権を毛嫌いしているのは、関羽とて劉備とおなじである。
「連中を、呉へ追い返せ」
その態度は傲慢そのものであった。
「劉備と関羽は、ひらきなおったぞ」
怒った孫権は、荊州奪回の軍旅を催すことにした。
呂蒙に二万の兵を率いさせ、晥城を落したあと、魯粛を横行将軍に任じて、長沙郡北部の巴丘に駐屯させた。その数一万で、その後長沙郡中部の益陽に移動した。
これで関羽軍は、縦横のうごきを封じられたことになる。
「碧眼児(孫権)め、ほんとうに軍を州内に侵入させおった」
関羽は劉備に事態の緊迫を報告し、援軍を乞うと同時に自軍を南下させた。関羽は一軍しか有しておらず、多方面からの呉軍による侵入に対応できない。
不利は早期に覆さねばならない、と関羽は考えている。
孫権自身は陸口まで軍を進めて、滞陣している。陸口はかつて魯粛が駐屯していた土地であると同時に、呉における軍の重要地点である。
「これで、戦わずに荊州南部を降すことができよう」
戦略がひらけたと感じた呂蒙は、荊州の長沙と桂陽の郡府に降伏勧告を送った。
長沙と桂陽の長官たちは、劉備の主力軍が益州に行ってしまい、関羽軍だけでは救援されぬと観念して、呉に降った。
長沙郡の長官を務めていた廖立は、郡が動揺して戦えぬと見て、呉軍と戦わずに劉備がいる益州に逃亡した。
事態を理解している劉備と諸葛亮は、廖立を責めることはなく、巴郡の太守に任命した。
長沙郡と桂陽郡だけでなく、零陵郡も策を講じて降した呂蒙は、意外な報告を聞いた。
「劉備が、すでに公安まで帰ってきているようです」
「なんだと……」
劉備は龐統を失ったとはいえ、諸葛亮や法正、黄権という軍師がいる。みずからも戦場の呼吸を身につけている劉備との息は、完全に合っていた。
「関羽は、益陽まで軍をすすめているようです」
このままでは、孫権軍と劉備軍の全面戦争に陥る。それで得をするのは、曹操だけである。
呂蒙からの書簡を受け取った魯粛は、
「関羽と、会見を開きたい。関羽は政治もわかる将なので、現状を話し合えばきっと妥協案に合意できよう」
と呂蒙に返書をしたためた。
魯粛からの書簡を熟読した関羽は、
「魯子敬のいうことも、もっともである。会見を承知した」
と魯粛からの使者に返答した。
魯粛がわずかの供をつれて関羽の本営にでかけようとすると、
「関羽が将軍を謀殺するかもしれません。お出かけにならぬ方がよろしいのでは……」
とまわりの将たちはとめようとした。
「今日の事態は、はやくたがいに胸襟をひらいて解決せねばならぬ。劉備がわが方に非があるのに、関羽はその非を重ねようとはせぬよ」
魯粛は温和な外見ではあるが、内面は豪胆である。関羽が、正義を行うことを旨としている将であることを理解している。
会見の場には、関羽と魯粛と諸将が刀をつけただけで対面し、話し合いがはじまった。
「赤壁の役では、劉益州(劉備)は兵卒とともに寝起きし、寝るときも甲冑を解かず、あなたたちと協力して魏を破ったのに、わずかな土地も与えられなかった。
今、劉益州が独力で得た荊州の地をあなたがたは取り上げようとしている」
関羽の方が、冷静に自説を展開した。
「それは違います。私が劉益州どのと長阪でお会いしたときは、その部隊は少なく前途は汲々としたものでした。
わが主(孫権)は劉益州どのを憐憫して、土地と吏員を与えて庇護し、その困窮を救ったのです。
それなのに劉益州はその恩を忘れ、ご自身のことだけを考えて、われらのよしみを損なおうなさっている。これはどうしたことでしょうか」
魯粛は、ここで語気を強めた。
「今益州の地を領有なさったのに、わが主に借り受けていた荊州をも詐取し、兼有するというのは凡夫でも及びもつかない愚行です。
利をむさぼり、義を棄てることは、かならず禍を受けるとわたしはきいています。
関将軍は重任にありながら、義と仁をなおざりにして力で事を決しようとされるのか。
よこしまな軍は衰弱してゆくだけですぞ」
関羽は、沈黙した。心中狼狽したといっていい。
かれは春秋左氏伝を愛読し、暗唱するほどの人物なので、正義や仁を重んじ、中華に安寧をもたらしたいと常日頃考えている。
その関羽を見かねたのか、主簿の廖化が、
「土地というものは、その土地に徳を施したものがもつものだ。おなじものが所有しつづけるものではない」
と声をあげた。
「だまらっしゃい」
魯粛は、激しく叱声した。これを見た関羽は刀をもって立ち上がり、
「元検(廖化)、ことばをつつしめ。なんじが何を知るか」
と廖化を退席させた。無礼な発言をなげかけられた魯粛への礼である。
そもそも呉に魯粛がいなければ、長阪で敗れた劉備に頼るべき場所はなく、劉備を孫権に仲介してともに今日の繁栄をあたえたのは、魯粛であった。
周瑜の益州侵攻をさまたげてくれたり、魯粛はいつも劉備の味方でありつづけた。
(劉備もせめて、魯粛には礼の書簡を出すべきであった)
関羽は、己と劉備が魯粛にしたことを恥じた。
(人の道を誤らせたのは、諸葛亮である)
諸葛亮が劉備の軍師になってから、劉備は人の土地を奪うような目先の利益を追うようになってしまった。
(いつか、われが独力で正義を行ってやる)
関羽はこの頃、劉備からの独立を模索している。
「ご意見はたしかに受け取った。成都の主に書簡でお知らせする」
関羽の礼を受けた魯粛は、
「どうか呉と劉益州との間にあらそいをおこさぬよう、お取りはからい願いたい」
と礼をもって返答した。
「魯子敬には、悪いことをした」
劉備は、素直に己を恥じた。関羽と魯粛の会談の内容からして、みずからに正当性がないことを自覚した。
荊州は先に述べたとおり、占有の正当性をもつのは劉琮から降伏を受けた曹操にあり、劉備と孫権はただ私欲による領土争いをしているにすぎない。
劉備が益州に率いてきた兵は、五万である。
今魯粛と呂蒙の兵は三万であり、戦えば勝つかもしれない。しかし、その後はどうか。
孫権は増援を出すであろうし、劉備もさらに益州から増援を出すとすれば、安定していない益州経営が破綻するのは必至である。
(それに、なにより曹操がな……)
曹操が、西行をはじめている。いわゆる張魯征伐である。三月には陳倉に達し、四月には陳倉から散関に出て、武都郡の河池県に駐屯しているという。
「曹操は、おそらく漢中の張魯を降すでしょう。そうなれば、その余勢を駆って益州に侵入してくることが予想されます」
諸葛亮の懸念も、そこにある。
「それから、韓遂が死にました」
「曹操と戦って、死んだのかな」
「仔細は不明ですが、馬超がわれらの配下に入った今となれば、西方における障害がなくなったわけです。孫権と戦いながら、曹操とも戦えますか」
劉備は、沈思した。
「それは、できまいな」
「ならば、早急に盪寇将軍(関羽)と魯粛のあらそいを解決なさり、成都にお戻りになるべきです。今は益州を安定させることが、第一の優先順位です」
諸葛亮は、現実を直視している。
劉備は、ため息をついた。
「先を見据えれば、魯子敬を敵に回すのはまずい。荊州の諍いを大幅に譲歩しても、魯粛との好誼を失うわけにはゆかぬ」
劉備は関羽に交渉を急がせ、大幅な譲歩を認めた。
つまり荊州を東西に分け、江夏、長沙、桂陽を呉の領土とし、南郡、武陵、零陵を蜀の領土とするというものである。
「劉備はこういっているが、零陵はすでにわが軍が占領しているではないか。それを返還せよとはどういうことか」
呂蒙は、不満を魯粛にぶつけた。
「そういうな。劉備ははやく成都に還って、曹操に対峙せねばならぬ。
曹操は、われら共通の敵よ。劉備の困難につけこんで呉と蜀が争えば、よろこぶのは曹操だけではないか」
魯粛は、つねに大局を把握しており、孫権を統一国家の元首に就任させたいと願っている。ゆえに荊州の一郡のあらそいで、孫権の格を落したくないと思っている。まさに魯粛は、信念の人であった。
陸口にいた孫権は、劉備の譲歩案を許諾した。孫権にも、荊州における交渉をいそいで決着させる必要があった。
合肥攻めである。
曹操は結局、劉備とのにらみ合いを避け、漢中の南鄭から撤退した。
孫権が総勢十万という巨大兵力をもって、合肥を囲んだからである。
合肥を守備しているのは、張遼、李典、楽進の三将であるが、この戦いにおいて呉の臣民までをも震撼させる強さをみせたのは、張遼であった。
張遼はある夜決死隊を募り、たった八百の兵で夜明けとともに孫権の営塁を急襲したのである。
あまりの兵の少なさに、呉軍は張遼の決死隊を脱走兵と認識した。
それに乗じた張遼は塁内を直進し、孫権がいる塁まで猛然と接近した。
「われこそは、合肥をあずかる張文遠なり。
孫権の首を頂戴しに参上した」
「いまの声は、なんぞ」
仰天した孫権は、しらずしらずのうちに、みずからの身をまもるために戟をもっている。
孫権の近衛兵たちも狼狽し、どこから張遼の声がとどいたのか、確認に追われていた。
そのとき張遼は、すでに営塁の壁を登り切ったところであった。
突如目の前に現れた敵の将軍におびえた兵たちは、張遼の戟によって薙ぎ払われた。
「将軍(孫権)、高いところにお逃げください」
近侍にうながされるまま、孫権は営塁を出て、近くの塚にのぼった。まわりをようやく落ち着きをとりもどした近衛兵たちが、かためるように集まってきた。
塚の下に立った張遼は、
「卑怯なり、孫権。降りてわれと戦え」
と鬼のような形相で叫んだ。
「……」
孫権は、恐怖のあまり答えることができない。
親衛隊の長が、あつまってきた兵をもって張遼と数少ない兵を包囲しはじめた。
張遼と決死隊は、方陣のようなまとまりをつくり、必死に孫権の塚に登ろうとしたが、衆寡敵せずと見て、
「やむなし。退くぞ」
と退却していった。続いて孫権の破れた営塁を攻撃していた李典が、張遼と決死隊を収容した。
これにより、合肥城の士気は最高潮に達した。くやしい孫権は、十日間城を攻めつづけたが、もはや合肥城はびくともしなかった。
(十万の兵で、七千しかいない城を陥とすことができぬとは……)
落胆した孫権は、このような無駄な出師を切り上げるべく撤退したのだが、退却中にも夜間に張遼の奇襲を受けて、またも肝を冷やすことになる。
張遼は後日呉の捕虜に、
「紫鬚で胴が長い将軍がいたが、あれは誰かね」
と問うた。捕虜は驚いて、
「あ、それこそ孫会稽(孫権)です」
と答えた。張遼はしきりにくやしがって、
「あのとき、あと一歩で孫権の首をとれたのにな……」
といった。
合肥での勝利を聞いた曹操は、あたりをはばからず歓声をあげ、張遼を征東将軍に任命した。李典と楽進もそれぞれ戸数を加増された。
この戦いはのちの世まで伝説となり、十年後帝位についた曹丕は、
「合肥の役では張遼と李典は歩兵八百人を率いただけで、十万の賊を打ち破った。
古来よりの用兵で、このような例を聞いたことがない。今に至るまで呉賊の気勢を削ぎ、ふたりは国家の牙爪というべきだ」
と絶賛することになる。
たしかに三国時代が終わるまで、合肥は呉に陥落させられることはついぞなかった。
さて、合肥で孫権の大軍をしりぞけた曹操は、西方の掃討を画策した。
涼州の隴西郡に抱罕という県があり、小さな王国が存在していた。そこの王は「河首平漢王」と称した宋建という人物である。
はじまりは三十年以上前、黄巾の乱が勃発したとき、宋建は黄巾の賊と同調することなく、抱罕を中心に小さく堅実な防衛都市を建設した。むろん反政府を掲げていることはいうまでもない。
その小さな王国は建安十九年(二一四)まで存続し、なんと宋建が王であるのを筆頭に、百官を設けて王朝を名乗っていたのである。
しかしながら、この小国の滅亡するときがきた。
魏の西方における総督である夏侯淵が、抱罕を包囲し、宋建以下百官を捕斬したのである。
夏侯淵の副官である張郃は、さらに西行して河関を制圧したため、隴西郡のすべてを支配下におくことができたといっていい。
夏侯淵とともに西方鎮定を任された徐晃は、馬超に協力して曹操と戦った梁興を斬り、三千戸を降伏させた。
「これで、漢中の張魯を降すことができよう」
こう考えた曹操は、満を持して建安二十年(二一五)の春に軍を発した。
張魯の勢力は、宋建の王国とは比べものにならない。中央政府に恭順する姿勢をとりながらも、益州のなかの漢中郡と巴郡を支配している。
さながら新興宗教である五斗米道の独立国といえる状態でも、張魯は王を名乗らなかった。
こういう逸話がある。
あるとき漢中郡の農民が、地中から玉印を掘りだして、張魯に献上した。
張魯の群臣はそれを奇瑞とし、張魯に、
「ぜひ漢寧王として即位してください」
と請願した。
張魯もまんざらではない気分ではあったが、そこに苦言を呈したのが功曹の閻甫であった。
「漢中と巴の住民は、十万戸を超えています。また、その財は豊かで土地は肥えています。
この地と民を治めていれば、いずれ漢の天子を正して斉の桓公や晋の文公のようになれましょう。
それがかなわなくても、光武帝についた竇融のように富貴を失わずにすみます。
いまあなたさまは思うがままに命令をおこなうことができ、処罰できるのですから、わざわざ王になる必要がありましょうか。
どうか王を称することをおやめになり、先の禍をつくらないようにしてください」
実質的に漢中の王である張魯がみずから王を名乗ると、漢王朝をいたずらに刺激することになる。
「そのとおりだ。王を名乗るのはやめにしよう」
師君とよばれている教祖の張魯は実質的な「漢中王」であり、なんの不都合もなく、曹操による咎めの対象になるのは、割に合わない。
張魯の現実的な姿勢は、のちに魏王朝で厚遇されることになる。
三月に右扶風西部にある陳倉に到着した曹操は、散関を経て涼州の武都郡に入り、氐族の居住地を突破して、漢中郡の陽平関に接近する策戦をたてた。
氐族といえば、一時あの馬超が保護されていた異民族である。
先行軍は、張郃と朱霊である。氐族は漢王朝に反発している異民族なので、両軍は激しく交戦した。
張郃と朱霊は、衰えていた氐族を一蹴し、捷報を聞いた曹操は主力軍を進めた。
翌月の四月には散関を出撃し、武都郡の河地に出た。河地は武都郡では比較的大きな県で、ここから先には氐族の王である竇茂が、一万の兵を従えて待ちかまえている。
曹操は六十をすぎているが、漢中を平定すると益州にいる劉備の喉元に刃を突きつけることができると思っているので、かえって溌剌さをみせて「山行千里」とよばれる悪路を踏破していった。
さらに翌五月、曹操軍主力と氐族は決戦を行い、竇茂の本拠地を陥落させた。
そんな気力が充実している曹操のもとに送られてきたのが、なんと韓遂の首である。
「文約(韓遂)……先年の戦で会ったばかりであったのに、このような姿でなあ」
潼関の合戦で馬超に協力した韓遂であったが、馬超に信用されず曹操と戦うことはしなかった。
韓遂は七十余歳であったといわれている。
曹操はむかし中央政府で韓遂と知り合いであったので、その首は礼をもって葬った。
韓遂の首を取ったのは、韓遂の配下の麴演と蔣石である。曹操が韓遂の本拠地である金城郡の金城県を攻略しようとしたので、保身のため主である韓遂を殺したのであろう。
「これで、陽平関を陥とせるぞ」
曹操は、気力あふれる声を出した。
氐族を排除した曹操の主力軍は、張魯の本拠地である漢中の入り口ともいえる陽平関に至った。
「曹操が、陽平関まで来たというのか……」
張魯は、狼狽した。
これまで張魯が戦ってきた劉璋より十倍は強いと考えられる曹操には、どうしても勝てそうな気がしない。
「戦う前に降伏しよう」
張魯は、群臣にみずからの意志を伝えた。
しかし、弟の張衛は強硬な意見をもっている。
「兄上、戦う前から負けると決めつけてはいけません。敵は遠路峻険な道をやってきて、疲弊しているのです。退けられないことがありましょうや」
五斗米道は独自の規律をもって王国を形成してきただけあって、曹操が中原の法で厳しい支配をするのは耐えきれない。
ゆえに、曹操の支配を拒んだ官民も多かった。気が乗らない張魯は、張衛ら武断派の意見を容れた。
張衛に賛同し、率いられた兵は数万もいたという。張衛は陽平関に到着すると山岳地帯に十余里の城を築いて、曹操を待ち受けた。
張魯は張衛たちが出陣した後、
「やはり漢中の地を、戦火にさらすわけにはゆかぬ。曹操に降伏したい」
と曹操に密書を送った。
「うけたまわった。しかし、漢中は二つに割れているのだな」
曹操は、複雑な表情で張魯の使者を見送った。張魯の降伏を容れるためには、前門の虎である張衛を打ち破らねばならない。
「陽平関は守りに難く、攻めるに易い場所です。らくに攻め取ることができるでしょう」
涼州の従事や武都で降伏した者がこういったが、現実にはなかなかの要害である。
「他人の推測と、われの意がおなじとはかぎらぬものだな」
曹操は、陽平関を眺めてそういった。
戦況もそのとおりで、陽平関につらなる山上に張衛が築いた城を攻めても、負傷者が増えるばかりでいっこうに攻め落とせる気配がない。
(ここはそうかんたんに突破できないな)
曹操の戦意は、急激にしぼんでいった。
ついには周囲に撤退をほのめかすようになった曹操に、西曹掾の郭諶が諫めた。
「ここでの撤退はよろしくありません。張魯は降伏しているので、弟の張衛がおなじ意見ではないとはいえ攻めるべきです。
ここから離れて戦っている軍を、敵地に深く侵攻させれば、勝利を得ることができます。
逆に撤退すれば、退路を敵に攻撃されて敗北はまぬがれません」
「そういうな……戦いたくても兵糧が尽きてしまえば戦えぬ」
この時点で遠征を行っている曹操軍は、険しい山地により兵站が途切れつつあった。
そういった曹操は、夏侯惇と許褚を呼んで山上の城を攻めている兵を下山させることにした。
ところが、戦場は千変万化の地である。
夏侯惇と許褚が山上に登って、味方の兵卒を降ろそうとしているとき、それは起こった。
山城を攻めている将は、高祚である。
「わかりました。夏侯将軍と許将軍に援護してもらい、下山します」
撤退時には敵に気づかれぬ用心が必要なので、高祚は深夜に兵を下山させようとした。
その際多数の兵の移動に驚いた山中に住む鹿の大群が驚いて走り出し、張衛の陣営を突き破ったのである。その数、数千頭であるから張衛の陣は大混乱に陥った。
「敵襲か」
張衛は夜中の暗い営所から、少ない兵を率いて出陣した。そこに退却のため移動中の高祚と遭遇したのである。
驚いたのは、高祚とて同様である。
「敵が城から出てきたぞ。鼓角を鳴らして全軍に伝えよ」
「曹操が、山上までたどりついたか」
高祚の鳴らす鼓角を聞いた張衛は、絶望して陽平関を棄てて逃げた。配下の将兵も張衛の後を追って逃げたので、わけのわからない高祚は、労せずして陽平関を占拠したのである。
夜が明けて、山上の風景は一変していた。
陽平関とそれに連なる城には曹操軍の旗が翻っているではないか。
「官兵がすでに陽平関を占領しました。賊は逃走した後です」
侍中の辛毗と劉曄が、高祚を助けて撤退しようとしている夏侯惇と許褚に伝令を飛ばした。
「うそを申すな。そのような都合の良いことが……」
伝令の報せにいぶかった夏侯惇と許褚は連れだって山上に近づくと、たしかにそのとおりではないか。
「難攻不落の要塞と数万の兵が、一夜にしていなくなるとは」
驚きかつ喜んだ夏侯惇と許褚は、下山して曹操に復命した。
「これは、天がわれに漢中を取れといってくれているようなものよ」
曹操も高祚の報告を聞いて、おおいに喜んだ。高祚は、遭遇戦で敵将の楊任を斬ったという。
曹操軍は意気揚々と陽平関を越えて、益州の漢中郡に入った。
「これで、ようやく曹操に降れるぞ」
そもそも張魯は劉備を嫌悪しており、
「魏公の奴隷になっても、劉備の賓客にはならぬ」
とまでいっていた。五斗米道の教義は、
「至誠であり、詐欺を行ってはならぬ」
というもので、張魯からすれば劉備の生き方は、裏切りと詐欺に満ちていると見える。
その点、曹操は魏公となり漢の丞相でもある。いずれ滅び行く漢王朝から、曹操またはその嫡子が国を譲られることになるであろう、と張魯は予感した。
漢中郡と巴郡の二郡を保ち、独立不羈を保ってきた張魯は、その土地と人民を曹操に譲るときがきた、と決断した。
忠臣の閻甫が、ここで助言した。
「曹操軍に迫られて降伏するというのでは、主の価値は下がります。
国庫に封印をしていったん南に避難すれば、曹操は恭順の誠意を認めてくれるでしょう」
これに納得した張魯は、
「われはもともと国家に帰命するつもりであったので、いまから南下するのは魏公に抵抗するわけではない。
国庫にある財宝は、国家に返上するものとする」
といい、倉庫に封印して郡都の南鄭から去った。
南鄭に進軍した曹操は、すぐに張魯の誠意を察し、
「張魯は、善意あるものである。安心して南鄭にお帰りになるとよい」
と張魯のもとに使者を発して、双方の意志を理解した。
「魏公ならば、劉備と違ってわれを欺くことはあるまい」
安堵した張魯は、十一月に入ってから、家族と全兵士をつれて曹操に恭順した。
「よく、おこしになられた」
曹操は親しく張魯の手を取り、その場で鎮南将軍に任命し、閬中候に封じた。
張魯は弟の張衛も引き連れており、
「このたびは、弟が不徳の行動をいたしました。お許しいただけるでしょうか」
と詫びた。曹操は一笑して、
「このめでたい日に、過去の過ちをあえて責めようか」
と張衛を昭義将軍に任じ、いっさいの罪を問わなかった。張魯の五人の子と閻甫も、列侯に封じられた。
漢中郡と巴郡を手にしたことで、曹操と劉備は益州でも領土を接することになった。
ここでひとりの人物が、曹操に献言をおこなった。
主簿の司馬懿、あざなは仲達である。
「漢中は山深く、何度もこの地まで攻め入ることができません。
成都の劉備は劉璋を欺いて虜にしたため、蜀の民はまだ劉備になついておりません。
しかも劉備自身は江陵を呉に奪われたくないので、呉と戦っています。この機を逃してはなりません。
いま魏公が漢中において権威をあきらかになされば、かならず益州全体が震撼します。
その動揺に乗じて兵を成都に進撃させれば、かならず劉備の軍は崩壊します。この勢いこそ大功をなす勢いといえましょう。
聖人も、時勢にさからうことはできません。いや、聖人だからこそ時勢にしたがうとも申せましょう」
益州の官民は、まだ劉備に恭順していないと司馬懿は観察している。その劉備がいま不在であるときこそ、蜀を攻める絶好の機会である。もしここで軍を引き返せば、ふたたび蜀を攻めるためにどれだけの軍費と時間が費やされることになろうか。
今成都にむけて進軍すれば、そのときの数分の一の軍費と時間で蜀を攻略できるのである。
しかし、曹操は司馬懿を一瞥しただけで、その進言を容れなかった。
「人の欲にはかぎりがない。われはすでに隴右を得た。そのうえ蜀まで得ようとは望まぬ」
司馬懿は曹操のことばを後年まで思い出し、くやしがることになる。
「すでに隴右を得て、また蜀を欲せんや」
という曹操のことばは名言として後世まで語り継がれた。
人の欲にたいする自制心を表現した、至言であろう。このことばは後漢初期の光武帝がいった「望蜀」ということばを引用したものであるが、司馬懿は曹操に、光武帝のように天下平定をこそ望んだのである。
しかし曹操はつねづね、
「われは、周の文王でよい」
と周囲に語っていた。つまり周の文王の息子である武王が殷王朝を滅ぼしたように、じぶんの子が天下を平定すればよいということである。
曹操は漢中郡の南鄭に夏侯淵と張郃を守備させることにし、軍勢を撤退させた。
曹操が鄴に帰還したのは、翌年の建安二十一年(二一六)二月であった。
それと同時に張郃に巴郡の平定を命じ、軍を南下させ、巴郡北部を得ることに成功した。
また、武都に居住している氐族五万人を漢陽郡に移住させ、巴郡北部の住民を漢中郡に移住させた。
これは劉備軍の進出に備えた策である。
では、曹操の手がみずからの喉元まで迫っている状況で、劉備は何をしていたのか。
劉備は孫権と荊州分割統治の交渉と、その後の新しい人事行政に忙殺されていたのである。
劉備が成都に帰還したのは、十一月であった。しかしそのとき漢中の張魯は曹操に降伏している。
龐統の死後、諸葛亮や法正とともに新たな軍師になった護軍の黄権は、帰還した劉備にはげしく献策をおこなった。
「もし漢中を失えば、三巴(巴西郡、巴東郡、巴郡のこと)はふるいません。それは蜀にとりまして、股肱を裂かれるにひとしいこととなりましょう」
「しかし、張魯はすでに曹操に降伏してしまった」
劉備は、後悔の色をみせた。黄権に臆する気配はない。
「私に兵をさずけていただければ、かならず張郃を駆逐してごらんにいれます」
(黄権が、張郃を……)
劉備は、黄権の軍事における才能を知悉していない。比するに敵の張郃は、曹操の五将と評される強敵である。
「わかった。では巴西太守(張飛)に、護軍(黄権)をつけて、張郃を追い払ってもらおう」
張飛と黄権は一万の兵を与えられ、張郃討伐にむかった。
一方の張郃は、巴郡の住民を移住させつつ南下し、盪石という土地に至ったとき張飛軍と遭遇した。
張飛と張郃の軍才はたがいに拮抗しており、両軍がむかいあったまま、五十日も交戦を行えなかった。年が明け、春となった。
張飛には黄権がついているので、兵站の心配はない。張郃も兵糧をうまく運用しているようで、にらみあいは膠着状態をむかえている。
「このままでは、埒があかぬな……」
焦りを見せた張飛に、黄権が献策した。
「別の道から、張郃を攻めるのはいかがでしょうか。張郃もそのように考えていることは予想されますので、早いほうがよろしい」
「それは、いいな」
気力を充実させた張飛は、黄権が指摘した山道を使ってひそかに張郃の陣に近づいた。
張郃は巴郡の地理に明るくないので、一歩その道を見つけるのが遅れた。
その時差が、勝敗を分けた。
「やあ、護軍(黄権)の策があたったぞ」
そのおなじ狭い山道を進んでいた張飛は、ちょうど張郃軍と遭遇した。
山岳戦に強いのは、蜀軍である。
張郃は思わぬ場所で張飛に出会ったことに動揺しており、その心理が兵たちにまで伝播した。
狭い山道をぐんぐん押される張郃軍は、ついに張飛軍に打ち負かされて、撤退を開始した。
大敗である。
軍が崩壊したことを知った張郃は、馬を棄て、鎧も脱いで山伝いに逃亡した。したがった兵は十余人にすぎない。
間道を通って張飛の追撃をかろうじて振り切った張郃は、生き残った兵をまとめて漢中郡の南鄭に引き上げた。
「益徳が、やったか」
劉備は巴郡を得て、よろこびを隠そうとしなかった。張飛を関羽とおなじ盪寇将軍に昇進させ、黄権にも褒賞をあたえた。
一方の巴郡を失った曹操であるが、五月に爵位を進められて「魏王」となった。
漢帝国の中に、みずからの王国を持たされたということである。
献帝の詔によると、
「冀州の牧であると同時に、丞相も兼任すべし」
とあるので、漢の丞相と魏王国の王を兼任することになった。曹操は魏王に封ぜられるのを上書により三度にわたり辞退しているが、これは形式というものである。
八月には、魏国の相国を鐘繇に任命した。
鐘繇は軍事ではかつて馬超に敗れるなどの履歴があるが、董卓に焼かれた洛陽を復興するなど行政の達人である。
翌建安二十二年(二一七)には、孫権軍をしりぞけ、鄴へ帰還後に、天子の旗をかかげて出入りに警蹕(かけ声で人を進退させる)を称してよいと許された。
十月には十二旒の冕と六頭立ての金根車、さらに五時の副車がゆるされた。
冕とは礼祭用の冠であり、旒とは冠から垂らす飾りの玉である。十二の旒を冠から垂らすことができるのは天子のみである。
金根車と五色に彩られた副車も天子にしか使用が認められないことから、曹操は漢の献帝と同等の扱いを受けた、ということだ。
御史大夫には、華歆を任命した。
魏の太子には、嫡男の五官中郎将である曹丕とした。
曹操には二十五人の男子がいるが、太子の決定を三男の曹植にするか最後まで悩んでいた。
古来からのしきたりを重んじる曹操は、側近の意見も聴取したうえで、長子の曹丕を太子にしたのである。
曹操が魏王に任じられ、魏王朝を樹立したことは、蜀に割拠する劉備にとっては、漢からの簒奪行為に他ならない。
蜀郡太守の法正は、
「曹操は魏王となりその王朝は盤石のように見えますが、正月(建安二十三年・二一八)に許で叛乱が起きましたように、その足下は動揺しています。
どうか漢中に兵をお進めになるべきです。
守将の夏侯淵と張郃など、おそるるにたりません」
といった。劉備も、ここでの出師は大義がある好機とみなした。
「よし。漢中を攻めてみよう」
劉備は諸葛亮を成都にのこし、張飛、黄忠、趙雲ら将軍たちと、法正を監軍に、黄権を護軍に任命し、漢中攻めを開始した。




