益州
十二
帥将である龐統の死によって、雒城の包囲は乱れた。
雒城から将兵が攻撃に撃って出て、黄忠らは塁塹を盾に防戦一方となった。
龐統戦死の報を聞いた諸葛亮は、
「戦の勢いを削ぐことは、許されません。さっそく益州にむかいます」
と劉備に返事した。
(時機としては、大軍をうごかしても問題はない……)
と諸葛亮は考えている。
曹操は馬超を破り、漢から国を与えられたようで魏公になった。曹操の出身地が沛であることを鑑みれば、漢の国の中に魏という公国を建てることを許されたということである。
また長安に駐屯している夏侯淵は韓遂と戦っているようであり、曹操が荊州に兵を向けることはなさそうである。
とはいえ、荊州の要である関羽を益州平定に向かわせると、樊城にいる曹仁が南下してくるであろうから動かせない。
ゆえに諸葛亮は、益州へ張飛と趙雲を従えて征くつもりである。
益州にはこの二人に匹敵する将は、だれもいないであろう。
荊州の政務は、藩濬に任せることにした。
藩濬の行政能力は卓越している。また倫理観も強く、不正や汚職を許さないであろう。
諸葛亮は藩濬を呼んで、
「荊州の政務をたのみます。曹操と孫権がここ公安を急襲することはありえないと考えますが、万一の時には関将軍に救援を要請してください」
と懇ろに依頼した。
「ご武運を」
藩濬の気負いのない反応に安心した諸葛亮は、軍を発した。
(草廬を出て七年か)
劉備が無位無官の諸葛亮を隆中に訪ねてから、七年の年月が経過している。
そのとき諸葛亮は、荊州と益州を併せて、曹操と孫権に対抗すべきと説いた。
当時劉表の賓客になっていた劉備は、劉表の死にあたって、荊州を乗っ取ることができたはずだったのに、
「劉荊州(劉表)の御恩をおもえば、しのびぬ」
と諸葛亮にいった。
(あのお方は、ものごとの表層をごらんになっているわけではないのだな)
諸葛亮は回想と現状を突合させて、実感している。
(天が、われと劉備に天下三分をなさしめようとしているのだ)
諸葛亮は、前を向いた。
荊州軍は江水に沿って西にむかい、益州に侵入した。巴郡の郡府がある江州県にむかっているが、そうとうに遠い。
しかし先鋒を任されているのは、張飛である。
途中まったく抵抗を受けずに、突風のように各県を降伏させていった。
しかし郡府である江州県だけは違った。
城門を固く閉じ、抗戦した。守将は、巴郡太守の厳顔である。
「ここにきて、ようやく骨のある将がでてきたな」
張飛は城壁を見据えて、豪快に笑った。
関羽に次ぐ猛将である張飛は、兵の訓練もみずから行い、その軍は精強である。
厳顔も益州ではひとかどの人物で、剛直として認知されていたが、張飛の猛攻には圧倒された。
城から逃亡する兵が増え、ついに城門が張飛軍に突破された。
悠々と城内を占拠した張飛の前に、なんと守将の厳顔が捕縛され、引き立てられてきた。
張飛は、意外に感じた。
「これまでの益州の将軍は皆逃げていたのに、厳顔は最後まで逃げなかったのか」
張飛の前でも傲然と頭を上げたままの厳顔に、張飛は好感をもった。
それでも、勝者の威は面前でしめさねばならない。
「まずはひざまづけ。われらの大軍を前に、降伏せず抗戦したのはなにゆえぞ」
張飛の怒号が、城内に響き渡った。それでも厳顔は、立ったままで吠えた。
「なんじらは無礼にもわれらが州に侵入してきて、民と領土を強奪している。
益州には首を斬られる将はいても、降伏する将などはおらぬ」
これは、厳顔の強がりである。法正や李厳をはじめ荊州軍に降伏する将はあとをたたず、そのことを知らぬはずのない厳顔は、己の心意気を大きく示したのであろう。
そもそも厳顔は劉備をつかって張魯を討つことは反対であり、
「これはまさに、奥深い山に独座して、虎を放ってみずからを守るような愚行だ」
と胸を叩いて嘆いた。果たして事態はそのようになった。
「ぬかしたな。のぞみどおりつれてゆき、首を刎ねよ」
張飛は怒気を発して、左右の者に命じた。
立ったままの厳顔は、張飛の目を見据えたまま、
「首を刎ねたいのなら、さっさと刎ねるがいい。何を怒ることがある」
といった。刑場に連れて行かれる厳顔は、張飛と同年代の四十代に見える。演義小説で老将と描写されているのは、史実では張任であり、厳顔と入れ替えている。
(ますます、殺したくない)
厳顔の剛直な気質に感じ入った張飛は、
「よし、待て待て」
といい、みずから厳顔の縄をほどいた。
「あなたと私は、同世代だ。あなたの心意気に感服したので、殺しはしない。
降伏したくないのであれば放免するが、できれば私の客になってもらえまいか。どうか私をよき方向に導いてくれ」
片膝をつき、拝礼する張飛を見た厳顔は驚いて張飛の手をとった。
「張将軍、どうかお顔をお上げください。
あなたの志は通じました。微力ながら、私を張将軍の配下にお加えください」
なまぐさい戦場に、涼風が吹くような光景であった。
このことを聞いた諸葛亮は、
「征虜将軍(張飛)はいよいよ武だけではなく徳まで兼ね備えるようになった。その功績は絶大であると主もお認めになるだろう」
と感嘆した。
さて、主力を率いた劉備は、防戦一方となった雒城の包囲陣に急行した。
黄忠や卓膺、陳到の顔によろこびがよみがえり、合力して雒城を一気呵成に攻めた。
均衡が崩れていた戦場は、荊州軍に流れが変わり、あれほど堅固な防備をみせていた雒城も、夏にはあっけなく落城した。
主将であった張任が、捕虜となって劉備の前にひきすえられた。
「忠勇の臣よ。わが軍に降ってともに益州をよき国にしようぞ」
劉備の温情に対して、張任はかたくなであった。
「老臣は、二君に仕えることはできぬ」
張任は惜しまれつつも、斬首された。
守将の劉循と冷苞は、降伏した。
冷苞は、劉璋の子である劉循を守るために死を選ばなかったといえる。
「あれだけの堅牢な籠城をみせた劉循とは、いかほどの人物か」
黄忠や卓膺、陳到らが劉循と会見を望んだ。
「敗軍の将は、兵を語らぬものです。私の身柄は、すでに劉豫州へまかせました」
茫洋とした中にも、芯が感じられる。
「孝子よな……」
諸将は、率直な劉循に感心した。劉循が益州の牧であれば、今日のようなことはおこらなかったかもしれない。
ついに劉備軍は、益州の州都である成都を包囲した。
成都城は巨大であり、中にいる劉璋は少なくとも五万の兵を擁しているであろう。
諸葛亮、張飛と趙雲の軍が到着して、籠城戦となれば両軍に死者が出て、これからの益州経営に影を落すことになる。
そう考えていた劉備のもとに、なんとあの馬超から投降したいとの密書が届いたのである。
※
以前曹操に敗れた馬超は、涼州の漢陽郡に逃げ帰り、冀県にいる涼州刺史の韋康を攻めて殺害した。
長安から韋康を救出しにきた夏侯淵の軍をも撃破した馬超は、ふたたび威勢をとりもどし、涼州を支配するとともに、幷州牧と征西将軍を自称した。
ところが瓦解の要因は、またしても馬超の傲慢と油断から起こった。
韋康の配下であった楊阜と姜叙は、馬超に仕えていたが、ひそかに韋康の仇を討とうと計画していたのである。
まず楊阜が鹵城において、馬超に叛旗を翻した。馬超はいつもの余裕で、
「楊阜ごときに、何ができる。出撃してすぐさま捕殺してくれよう」
と冀城を出た。のこった姜叙が、馬超のいない冀城で叛き、馬超の家族を皆殺しにして城門を閉じた。
「きやつらめ、面従腹背をきめこんでおったか……」
家族を殺された馬超は、思いもかけない危地に立たされた。楊阜のいる鹵城を落すために率いてきた兵は、三千しかいない。
ついに涼州から追い出された馬超は、いちど漢中に逃げ、ふたたび兵を集めた。
「これで、ふたたび涼州を取り戻すことができるぞ」
馬超は、冀県の南に位置する祁山まで兵を進めた。
迎撃するのは、ふたたび夏侯淵である。
以前韋康を見殺しにしてしまい、馬超に敗れた雪辱に燃え、曹操に通報せず独断で出撃した。
副将は張郃で、五千の騎兵を率いて右扶風の陳倉から先行して馬超に相対した。
「これでは、勝負にならぬ……」
馬超は、うめいた。
張郃の五千の兵だけでなく、後軍には二万の兵で兵糧を監督している夏侯淵がいる。
馬超の兵は、二千に満たない。味方につけた氐族の兵を併せても、数が著しく劣る。
「漢中の張魯をたよるか」
馬超は従弟の馬岱を連れ、張魯をたよった。
「馬超は、漢の伏波将軍だった馬援の末裔であろう。
あの精強な男を配下に加えれば、わが教団も安泰よ」
張魯は、五斗米道という新興宗教の教祖を兼ねていて、配下の将兵はその信者たちが多い。さっそく妻子を喪った馬超に、みずからの娘を嫁がせて都講祭酒(張魯の次席)に任じようとした。
ところが、倫理に敏感な配下の信徒たちには、馬超の評判はすこぶる悪い。
「馬超は、かつて父の馬騰や弟たちを、今度は妻子を見殺しにしました。
このように家族を愛さない者が、他人を愛せるはずもありません」
このような意見が相次いだので、張魯は馬超に娘を嫁がせ高位に就かせるのを、やめた。
「張魯の器の小ささは、話にならぬ」
馬超は独尊の人なので、たちまち不機嫌になった。
「従兄上、よくない噂を耳にしました」
馬岱が、蒼白の表情で馬超の部屋に入ってきた。
「よくない噂とは、なんぞ」
「はい。楊白が、従兄上は害にしかならぬと兵をあつめ、殺害をくわだてているそうです」
「なんだと……」
「一刻もはやく、張魯のもとから逃亡せねばなりません」
馬超は、ふたたび流浪の身となった。
自分に従ってくれている氐族のもとにかくまってもらったはいいが、氐族も先ほど夏侯淵に大敗してからというもの、かつての勢いは見る影もない。
「われは、まだ若い。再起して曹操を倒し、天下に己の名を知らしめねばならぬ」
「そのことですが……」
もはや唯一の身内となってしまった馬岱が、馬超に助言をおこなった。
「いま益州の劉璋が、成都で荊州の劉備に包囲されているとのことです」
「ふむ……」
「ここで劉備に降伏すれば、従兄上を重んじてくれるのではないかと」
馬超は、そのことばを聞いて熟考した。
劉備は曹操の仇敵であり、益州を統治するようになれば関中での対決がおこなわれるであろう。潼関で曹操をあと一歩のところまで追い込んだ馬超の実績を、劉備は買ってくれるにちがいない。
「そうだ。劉備は中山靖王劉勝の末裔を名乗っている。わが祖先の馬援は勤皇の士であった。われらが劉備に臣従することに、なんら矛盾はないではないか」
馬超は、劉備に降伏したい旨の密書を使者にもたせた。
※
「馬超が、われに降伏を願い出てきたぞ」
劉備は意外さを感じはしたが、じぶんならこの汗馬を乗りこなすことができるという自信ももっている。
「馬超は落ちぶれたとはいえ、その勇名は天下にしられております。
ぜひこの降伏をお受けになりますよう。そうすれば成都は戦わずして陥落しましょう」
龐統の代わりに軍師の役割を果たしている護軍の法正が、劉備に献言した。
「よし。馬超を受け入れよう」
劉備の決断は、早い。その日のうちに馬超の使者は復命のために出発した。
「なんじのいうとおりであった。これで、われの首もつながったぞ」
馬超は馬岱と使者をおおいにねぎらい、勇躍して多くない兵を率いて劉備のもとに参上した。
「これは、馬孟起どの。さっそく面会がかない、うれしい思いです。
亡きお父上(馬騰)とは、ともに漢を復興しようと志した者同士です。これから、われをおおいにたすけてくだされるか」
本営で馬超を迎えた劉備の厚遇に、馬超は感激した。
「厚き雲が払われ、青空を仰ぎ見た気持ちです」
流浪の豪傑である馬超は、ついに劉備の傘下に入った。
「ば、馬超までが、劉備に従ったというのか……」
劉璋をはじめ、成都城にいる将兵たちは戦慄した。
「外には、馬超のみならず、関羽と張飛、趙雲までがいるというではないか」
「これでは、もう戦えぬ……」
厳密にいえば関羽は荊州の留守をあずかって、楽進と交戦中である。
しかし前後して到着した諸葛亮、張飛、趙雲、そして黄忠といった錚々たる面々に、成都の戦意は急降下した、といっていい。
それにしても張飛のはたらきは抜群であり、賓客となった厳顔が道案内をし、各城の守将が、
「あの厳顔が心服した張飛ならば、降っても安心であろう」
と次々戦わずして降伏していった。
「征虜将軍は、天駆けて成都にまで来たかのようだ」
と劉備は、義弟にひとしい張飛を絶賛した。
趙雲は江陽を経て、迂回しつつ成都に到着したので、やや時間がかかったが、じつに堅実な戦をしてきた。
馬超、張飛、趙雲、黄忠といった猛将が揃った今、力攻めで成都を陥落させるのは簡単である。
しかし諸葛亮は、
「戦は、おさめかたが肝要です。益州の人材もこれからおおいに抜擢せねばなりません。
そのためには、劉璋を説得して降伏させるのです」
といった。劉備も諸葛亮の意見に異存はない。
「文和(簡雍)を、城内に遣らせるか」
簡雍は、外交の天才である。
荊州四郡を降したときは、長沙郡の韓玄を説得して降伏させた。
(これがわれの仕事の集大成になるであろう……)
などと、簡雍は考えもしない。
飄々とした風格を漂わせ、供も連れず、一人で劉璋と謁見した。
最初は警戒していた劉璋も、簡雍の豊かな諷刺となまぐさい政治の話をしないその話術に、少しずつ笑顔を取り戻した。
「文和どのと話をして、これほど愉快な気分になったことはない」
劉璋はひどく簡雍を気に入り、数泊させて対話した。
それでも簡雍は、実家にいるようなくつろいだようすで、劉備のもとに帰りたいそぶりもみせない。
「あなたは劉備に命令されて、私を説得しにきたのではないのか」
劉璋は、簡雍に問うたことがあった。
「私は玄徳(劉備)とは涿郡からの幼なじみで、いちども命令されたことはありません。
このたびも、劉益州とお話をしてきなさいと依頼されただけで、降伏させよなどという命令は受けておりません」
劉璋は笑って、
「では、いつまでもこの城でわれの話相手をしてくれ、と頼めば聞いてくれるのか」
と問うと、簡雍はいたってまじめな表情で、
「無論のことでございます」
と返答した。
劉璋は、粛然とした。劉備の底知れぬ恐ろしさを見たような気がした。
劉備は益州を強奪して官民から怨みをかうことをせず、いわば熟した果実が樹木から落ちるのを待っているのである。
「しかし……劉備がいつまでもこの城を攻めぬことは、ありますまい」
「どうですかな。玄徳は帝から曹操を暗殺せよ、との密詔を受け取っても曹操を殺さずに逃亡しました。
劉表が死んだときも、荊州の郡府である襄陽を攻め取れば荊州を得ることができたのに、また逃亡……あなたさまを涪県で暗殺できたのに、それをせず、いまだに益州を得られない……鈍重な男です。
ここで曹操に密書を送れば、玄徳を追い払えるかもしれませんよ」
簡雍は説客であるにもかかわらず、劉璋に降伏を説得するようすはまるでない。
劉璋は、頭を垂れた。
たしかに、曹操に密書を送れば涼州で猛威を振るっている夏侯淵が南下して成都に至り、劉備は軍を荊州に撤退させるであろう。
それでも、そうなれば劉璋は曹操に臣従しなければならず、屈辱をあじわうことになる。
「劉備は、曹操よりすぐれているのかな」
劉璋は、簡雍に訊いた。
「そうですね……玄徳は曹操と戦えばいつも負けていますが、あの高祖(劉邦)も項羽に百戦して九十九敗し最後の一戦で天下を得ました。ですが、玄徳ははたしてそうなるでしょうか」
柳に風のような返答であった。
「われが降伏するといったら、劉備はわれの身柄をどうするであろうか」
劉璋の心配は、それである。
「それはわかりません。玄徳はあなたさまの足下を見るような男ではありませんが、卑屈になる必要はないでしょう。
なぜなら城内には兵が三万人もおり、糧食は一年分もある。急いでことを決すると買いたたかれますよ」
簡雍は、もはやだれの配下であるかわからない。劉璋は寂しく笑った。
「わが配下には、憲和どののような人物は一人もいなかった……それだけでも、われは劉備におよばない」
劉璋はある深夜、ひとりで廟堂にぬかずき、父の劉焉ら祖先にむかって拝礼した。
劉備への降伏を、決断したのである。
翌朝群臣をあつめた劉璋は、
「われら父子は二十年益州を治めてきたが、官民に一度も恩恵をあたえなかった。
その官民を三年もの長い間戦に駆り立て、草野に屍をさらさせたのは、われ一人の罪である。
その罪を贖うためには、劉備と戦わずに降伏し、官民を託すことによるしかないときめた」
といった。群臣は、劉璋がどう考えても劉備に勝てないのはわかっていたので、その決断に安堵した。
劉璋は簡雍を呼び、
「よくぞ、わが頑ななこころを氷解してくれた。ともに劉備のもとに行ってくれるか」
と頼んだ。簡雍も、
「ご英断です。微力ながら益州さま(劉璋)のお身柄を保全してもらうよう、玄徳に頼み込みます」
と了承した。
劉璋と簡雍はおなじ輿に乗って、城門を出た。
「城門が、開いたぞ」
「劉璋が、降伏したのか」
兵士たちの声を聞いた劉備も、いそいで輿を出迎える準備をした。
「あれは益州牧の輿です。劉璋は降伏したのです」
法正が、目に涙をためていった。親友の張松を喪って、長年の労苦が報われたのである。
「となりに乗っているのは、憲和(簡雍)だな」
劉備も、感に堪えない表情である。
将兵の大歓声の中、劉備軍の本営に通された劉璋はおだやかな表情で、
「不徳の私が苦しめた官民を、劉豫州なら救ってくださるでしょう」
といって、おごそかに印綬を差し出した。
「益州をゆずってくだされるのか……ことのなりゆきでこのような日をむかえてしまったが、どうかゆるされよ」
劉備は、困惑したように益州牧の印綬を受け取った。
「玄徳よ」
簡雍が、友人に声をかけるような気軽さで、劉備に目くばせをした。
「おお、そうであった。さきの益州どの(劉璋)におかれては、荊州の公安にわが宮室があります。
そちらで、安寧な日々をすごされますよう」
劉璋は、安堵した。そして約束をまもった簡雍に心の中で感謝した。
のちに劉璋は子の劉闡とともに、荊州の公安に移住した。
雒城で堅守を見せた劉循は、劉備に気に入られ、益州で劉備に仕えることになった。奉車中郎将に任ぜられた。
劉備の成都入城は、正史三国志でも日時があきらかではない。閏五月にそれがあったのではないか、と推測されている。
ともあれ、晴れて益州牧になった劉備は、将士をねぎらい、大きな酒宴を催した。
「ご気分がすぐれませんか」
劉備の横に座る諸葛亮が、劉備の異変に気づいた。
劉備は、涙ぐんでいるのである。
「うむ……かつて涪県を落したとき、このような大宴会を催したことがあった。
そのときにな、士元(龐統)に大げさすぎる宴会はいかぬ、とわれは叱られた」
諸葛亮もそれを聞いて涙を落し、
「そうでしたか……かれはそのようにもうしましたか」
といったあと、
「しかし、それはあなたのいいたいことでもあったのですね」
と劉備の手を取った。劉備はうなずいて、
「そうであるな……かれがいわねば、われがいっていたであろう」
といって表情をゆがませた。
劉備は、城中にある金銀を取り出して、将士にわけあたえた。
漢の左将軍、豫州太守と益州牧を兼務することになった劉備は、さっそく論功行賞をおこなった。
関羽 襄陽太守、盪寇将軍、董督荊州事
諸葛亮 軍師将軍、左将軍府事
張飛 巴西太守
馬超 平西将軍
趙雲 翊軍将軍
黄忠 討虜将軍
法正 揚武将軍、蜀郡太守
許靖 左将軍長史
糜竺 安漢将軍
孫乾 平秉将軍
簡雍 昭徳将軍
伊籍 左将軍従事中郎
董和 掌軍中郎将
劉巴 左将軍西曹掾
馬良 左将軍掾
陳震 蜀軍北部都尉
劉封 副軍中郎将
孟達 宜都太守
李厳 興業将軍、犍為太守
劉琰 固陵太守
魏延 牙門将軍
費詩 督軍従事
黄権 偏将軍
特筆すべきは、関羽である。
関羽はもともと襄陽太守と盪寇将軍に任じられていたが、このたび追加された「董督荊州事」という地位は、荊州の軍事監督である。
益州牧の劉備の次席、となったわけである。
益州の人材で高位に抜擢された者といえば、許靖である。
かれは汝南郡の出身で、あざなを文休という。若い頃に中央政府に仕えた許靖は、人事を司る吏部尚書に所属し、暴虐のかぎりをつくす董卓を追放しようとした。
密謀が露見して董卓に殺されそうになった許靖は、揚州さらに交州と流れつき、ついに益州へとたどりついた。
劉璋からはその名声を買われて、蜀郡太守にまでなった。
劉備が成都を包囲したとき、
「劉備は黄巾の乱から董卓の横暴にまで立ち向かった英雄であるから、投降しよう」
と決意し成都城の城壁を越えて、逃亡しようとした。
劉備が益州牧になって人事を行ったとき、はじめ許靖を、
(城から逃げようとした男か)
と軽侮して重職に就けようとしなかった。
それを諫めたのは、法正である。
「天下には虚偽の栄誉を得ながら、実質のない人物もいます。それが許靖です。
しかし主は大業をはじめられたばかりであり、すぐさま天下の一人一人にその内容を理解させることは困難です。
そこで、許靖の名声を抜擢なさいませ。かれを礼遇すれば、主は天下の人々に賢人をもちいる名君として知られるようになりましょう」
劉備もこれに納得し、許靖を厚遇した。
つぎに劉巴の名を見いだした人は、運命の皮肉を悟るであろう。
劉巴はかつて曹操に命じられて、劉備が荊州四郡を平定するのをさまたげようとした。
結局諸葛亮との知恵比べに負けた劉巴は流浪の身となり、益州に流れ着き、劉璋に仕えていた。
劉巴は、劉璋が劉備を招き入れて漢中の張魯を討つと聞いたとき、すぐに諫言した。
「劉備は梟雄です。張魯を討たせるために益州に入れることは、虎を山野に放つようなものです」
劉璋は、それを聞き入れなかった。
(われは結局劉備に殺される運命のようだ)
劉巴は絶望し、門を閉じて病と称した。
ところが、劉備と諸葛亮はその劉巴に好感をもっていたのだから、おもしろい。
「劉巴に害を加えようとする者は、三族まで罰する」
と命じて劉巴を招聘した。
事の成り行きに驚いた劉巴は、素直に劉備のもとに出頭し、
「過去のあなたさまへの罪は、赦されたということなのでしょうか」
と問うた。諸葛亮はやわらかい表情で、
「あなたは、あなたの節をつらぬいたのです。なんの罪がありましょうか」
といって、罪を問わなかった。劉備は諸葛亮の推薦を容れて、劉巴を政権中枢に置いた。
また一兵卒から見いだされ、黄忠の属官として活躍した魏延、あざなを文長も裨将軍して名が見える。
魏延は関羽、張飛、馬超、趙雲、黄忠亡き後の蜀軍をささえる将軍となる。
こうして劉備は、諸葛亮と草廬で対話した壮大な構想を、着実に現実のものとしていったのである。




