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亡蜀記  作者: コルシカ
10/25

孫夫人


         十


 劉禅の母である甘夫人は、劉備の正室ではない。

 この時点での劉備の正室は、孫権の妹の孫夫人である。

 あいかわらず孫夫人の驕慢はとどまるところをしらない。ふだん男装をして、武装した侍女の集団をひきつれて宮室を往来している。

 とんだ花嫁を、劉備は孫権に押しつけられたというものであろう。

 しばしば孫夫人の話相手になっている諸葛亮と簡雍も、

 「このお方の奇癖は、荊州に来てもおさまらぬな」

 と嘆いていた。

 劉備でさえ、孫夫人に指一本ふれていない。

 それはそうであろう。寝室のまわりを武装した侍女たちがぐるりと孫夫人を警護しているのである。閨房のことどころではない。

 しかし孫夫人の機嫌を損ねると、すぐ兄の孫権にそのことが伝わり、孫権をも不快にさせる。

 それを、劉備と諸葛亮はおそれている。

 官衙にも平気で出入りしている孫夫人の横暴を、だれも止めることができないとなれば、秘密保持のためにとるべき方策は、

 (呉に返すしかなかろうな)

 と劉備は考えるようになったが、そうこうしているうちに益州に招かれて出兵する事態が到来した。

 (奥のとりしまりならば、子龍が最適か)

 劉備は趙雲を留営司馬に任命して、荊州に留守させることにした。

 本来趙雲は劉備の親衛隊長を兼ねていたので、孫夫人の暴虐も厳しく取り締まるであろう。

 「法を犯すものは、夫人でもかまわず処罰してよい」

 劉備が益州に向かう前、趙雲には念を押しておいた。それにしても趙雲ほどの名将を益州に連れて行けないのは、劉備軍にとっては大損失である。これほど夫の大事に迷惑をかける夫人は、稀であろう。

 「子龍を益州に連れて行けないとなると、だれがその代わりを果たしてくれるであろう」

 劉備が諸葛亮に問うと、

 「黄漢升(黄忠)どのが、適任でしょう」

 と即答した。

 「漢升か……たしかに豪の者ではあるが、歳をとりすぎていないかな」

 「ご心配は無用かと。漢升どのは、今でも健康で強弓を引き、肉を食べているようです。

 忠誠に関しても問題なく、主を尊崇しています。かならず功をあげるでしょう」

 諸葛亮の預言は、的中することになる。

 さて、孫夫人は劉備陣営に送り込まれた偵探であることもたしかであり、劉備が益州に出兵することを聞きつけると、さっそく兄の孫権に密使を出した。

 「劉備は、兄上に対しては劉璋を同族としてかばうふりをして、益州をじぶんのものにしようとしています」

 悪意を隠そうともしない、報告である。

 使者は、孫権があらたに首都とした建業に到着した。これまで呉を首都としてした孫権であったが、江水に近い秣陵に遷し、建業と改名したのである。

 提案者は張鉱であった。

 張鉱は孫権に帝王学を教授した補弼の臣であったが、遷都の年に亡くなっている。

 「益州に出兵した劉備は、漢中の張魯を攻めるのではなく、益州を奪うというのか」

 最初に益州攻略を提案したのは周瑜であったが、孫権はそれを諾とせず、周瑜を謀殺した経緯がある。

 劉備が益州を取るのはかまわない。

 しかし周瑜の謀殺までを、妹に情報開披する必要はないと孫権は考えている。

 ところが孫夫人は、劉備は孫権をあざむく悪人であると断定し、

 「兄上を騙して、人道に外れた劉備と離婚して呉に還りたいのです。どうか、船を公安によこしてください」

 と訴えた。

 (ききわけのない妹よ……)

 孫権は、頭をかかえた。

 せっかく劉備と紐帯を固くして曹操と対抗しようと思った縁組であったが、ここまで劉備を嫌いぬいている妹であれば、荊州にとどまることがよくないように感じてきた。

 (妹を引き取るか)

 孫夫人を憐れんだ孫権は、密使を復命させ、呉に還るための船をよこすであろうと、ついに密書を妹に渡した。

 「やっと呉に帰ることができる」

 宮室で孫夫人は、声をあげて喜んだ。

 「これで憎い劉備に復讐することができる……いえ、兄には手みやげをもっていったほうがいいわよね」

 自己愛が強い孫夫人は、一度もじぶんの宮室にこなかった劉備を憎んでいた。それは彼女が武装した侍女をはべらせ、劉備を拒んでいることが原因であるとは思いもしなかった。

 一方、孫夫人の監視を劉備にいいつけられている趙雲は、急に静かになった孫夫人と侍女たちに疑念を抱いていた。

 公安の警察署長を兼務しているのは、張飛である。

 「益徳どの、夫人と孫権の間に不穏なうごきはないですか」

 趙雲の問いに、張飛は首をひねった。

 「あいかわらず、書簡のやりとりは頻繁におこなっているようだがね。厳重に封をしているので、逐一中身を検閲しているわけではないよ」

 「そうですか……」

 趙雲は、張飛の返答ももっともだと感じた。

 孫夫人と武装侍女たちは孫権からの公式密偵のようなものであり、情報統制は趙雲がおこなっている。

 その間にも孫夫人の呉への帰還準備は、秘密裏におこなわれていた。

 やがて孫権が遣わせた船団が、公安に到着した。

 「夫人に主(孫権)から服飾品を届けにまいりました」

 公安の港にいる吏員は、いつものことなので、なにひとつその理由をあやしむことをしなかった。

 そして呉の使いが持参した酒や珍味そして服飾品が、宮室につぎつぎと運び込まれた。その夜は劉備の側室たちを呼んで、宴会が開かれる。

 趙雲と張飛には、ことさら吏員から報告があがることはなかった。

 翌朝、孫夫人は侍女の平服に着替えた。

 孫夫人はふだん男装をし、きらびやかな鎧をつけていることもある。

 それが平服を着て、化粧を地味にするだけでだれも孫夫人が呉への船に乗り込んだと気づかなかったのである。

 船は、出発した。

 孫夫人はふたたび自慢の男装に着替え、化粧を直して、

 「これで、呉に帰ることができる。せいせいしたわ。これ、そこの箱を開けてみい」

 と背伸びして侍女に命じた。

 大量に積載された箱のひとつを、孫夫人が指さしている。それを開けた侍女は、

 「きゃあっ」

 と小さな叫び声をあげた。

 中に幼児が入っていて、蓋を開けられると、不安げに船室内を見回しはじめたからだ。

 「こ、こ、この子はいったい……」

 侍女がおそるおそる孫夫人に問うと、

 「劉備の子よ。兄上の人質になってもらう」

 孫夫人は哄笑した。

 劉備の子、とは嫡子の劉禅で、この年五歳である。

 諸葛亮はその朝、公安の庁舎に入り、事務の決裁を行う文書を熟読していた。

 そこに趙雲が、蒼白な表情を隠そうとせず駆け込んできた。

 (何かあったな)

 わるい予感がした諸葛亮は、

 「奥の部屋へ」

 と趙雲を誘った。あきらかに憔悴しきっている趙雲は、

 「申し訳ございません。夫人と御曹司の姿が消えました」

 といきなり詫びた。

 「なんですと……」

 諸葛亮も、驚愕した。このようにうろたえた趙雲を見たのははじめてで、事の重大さをものがたっている。

 「夫人が船で御曹司を拉致したのでしょう。

 江夏に入ってしまうと手が出せない……子龍どのは、陸路で至急こちらの船が出せる港へ急行してください。

 益徳どのにも軍船で急追してもらいます」

 凶事であっても、諸葛亮の頭脳は明晰であった。

 すぐさま張飛がやってきて、

 「なんという悪妻よ。無断で帰国するだけならいざ知らず、主の御曹司まで人質にするとは」

 と怒気をかくそうともせず、すぐさま船を出して孫夫人の後を追った。

 残された諸葛亮は、孫夫人のいた宮室に行った。

 (根がわるいお方ではなかった)

 それが、孫夫人の世話係をしてきた諸葛亮の感想であった。すこしでも気づかれるのを遅らせようとしたのか、宮室はふだんのとおり整然と塵一つおちていない。

 「夫人が御曹司をつれて逃げたとは、まことかや」

 諸葛亮と交代で孫夫人の話相手になっていた簡雍も、あわててやってきた。

 「まことです。いま子龍どのと益徳どのに、夫人の乗船している船を追ってもらっています」

 「御曹司は、殺害されておらぬだろうな」

 「それはない、と思いたいですがわかりません……ここに遺体がないということは拉致したと考えたいところです」

 簡雍は腕を組んで宮室を歩き回ったあと、

 「仮に……御曹司が孫権の手にわたったら、孫権は御曹司を人質にするだろうか」

 と諸葛亮に訊いた。

 「それはございますまい。妹を叱責して、丁重に送りかえすと思われます。

 主は、何度も妻子を棄てることを躊躇しない人です。脅迫の効果がないことは、憲和(簡雍)どのもご存じのはず」

 「それもそうだな……」

 劉備は妻子に執着をもたない人格なので、孫権からの脅迫は無意味であろう。むしろ、今劉禅を追っている趙雲の方が、長阪で劉禅を救出した過去があるので、愛着は劉備より強い。

 趙雲は、昼夜兼行で陸路を急いだ。

 江水に沿った道がないことを、趙雲は恨んだ。

 (益徳どのが、なんとか夫人をとめてくれないかな……)

 そんな弱気さえ抱いた趙雲だが、

 (いや、御曹司を天がわれにふたたび救えと命じている)

 と弱気を振り払った。

 夜が明けて、軍船を用意している駐屯地に駆け込んだ趙雲は、

 「至急の用がある。船を出せ」

 と命じた。兵たちは趙雲の命令を受けて、あわてて軍船を江水にうかべた。

 船上の人となった趙雲は、まもなく呉に向かう船団を発見した。

 (こちらに気づいたな)

 呉の船団の方が、趙雲の率いる船団より数が多い。おそらく張飛の追跡でも止められなかった孫夫人を、じぶんは止められるのか。

 「船を寄せよ」

 豪胆な趙雲は、困難に直面しても臆したことはない。

 もっとも華やかに装飾された楼船に孫夫人がいる、と直感をはたらかせた趙雲は、楼船を停止させ、そこに乗り込んだ。

 船員は趙雲の姿をみて、ひるんだ。

 「われは、常山の趙子龍である。孫夫人はおられるか」

 趙雲の大声が、船内にひびきわたった。

 「あれが、長阪の英雄の趙雲か……」

 「もう逃げられぬ」

 うろたえる船員をかきわけて、きらびやかな男装に身をつつんだ孫夫人があらわれた。

 「主におことわりなく突然のご帰郷、私どもはおおいにあわてました」

 趙雲の怒気を抑えた挨拶に、孫夫人は冷笑をもって返した。

 「主……おもいやりのかけらもないあの人の元から去りたかったのです。

 そのさまたげをするのであれば、子龍といえどもゆるさぬぞ」

 趙雲は、ため息をついた。

 「あなたのご帰郷をさまたげはいたしません。しかし、無断で御曹司を連れてゆかれることを、ゆるすわけにはいきません。御曹司はいずこですか」

 「そのようなことを、するはずがあるまい」

 「では、船内をくまなく捜査させていただきますぞ」

 趙雲は、配下の者を手分けして船内にある部屋や荷物をあらためが、一向に劉禅を見つけることができない。

 そこへようやく、張飛の船団が追いついた。

 「どうだった。御曹司は見つかったか」

 張飛も憔悴の色を隠そうとしない。

 「いえ……もしかしたら別の船に隠されているのかも」

 趙雲の反応を見た張飛が、孫夫人や呉の吏員に向けて吠えた。

 「われは燕人、張益徳だ。御曹司を隠そうとすれば、この船ごと焼き沈めてしまうぞ」

 「趙雲だけでなく、張飛もだと……」

 「隠しきれぬ」

 一人の吏員が、甲板に出て、笛を吹き鳴らした。一隻の軽船が、はじかれたように停船団を離脱し、高速で発進した。

 「ちっ」

 孫夫人の憎々しげな表情を見た趙雲は、

 「益徳どの、ここは任せた。われはあの逃げた船を追う」

 「おう、そうせよ。ここは任せておけ」

 趙雲はみずからも軽船に乗り込み、逃亡した呉の軽船を追った。

 (速い。追いつけるのか)

 呉の軽船は思いのほか速く、趙雲の軽船を引き離そうと必死である。

 (子龍……)

 そのとき趙雲の思念に、劉禅の声が聞こえた。

 (そうだ。御曹司はわれが守らねば、だれが守るというのか)

 長阪の戦場で、劉備に置き棄てられた劉禅である。趙雲が救出しなければ、歴史の闇に沈んだ他の劉備の子たちと同様になるに違いなかった。

 (御曹司……)

 趙雲は、みずから櫂を漕いだ。

 「御曹司は、あの荷台のいずれかにおられるぞ。矢を放て。船頭を射殺してもかまわぬ」

 趙雲の気魄と、兵の矢による威嚇によって、みるみる呉の軽船は戦意を喪った。

 速度を落し、ようやく船を並べた呉の軽船に、趙雲は先頭を切って乗り込んだ。

 「われを、常山の趙子龍と知っての狼藉であろうな」

 張飛を凌駕する怒声を放った趙雲に、呉の船員たちは思わずひれ伏した。

 「さて……」

 趙雲は兵たちと荷を改めたが、いっこうに劉禅は見つからない。

 (さきほどは、まちがいなく御曹司がわれを呼ぶ声を聞いた。かならずこの船におられるに違いない)

 趙雲は、目を閉じた。

 すると船底から、光る気が立ち上るところが見えた。

 「御曹司は、船底の荷におられるぞ」

 趙雲はみずから船底に降りて、光る気を発している荷を開けた。

 「子龍か」

 そこには、泰然自若とした幼い劉禅がいた。

 「御曹司……よくぞ、ご無事で」

 劉禅を荷箱から抱き上げた趙雲は、目に涙をためていた。

 「子龍が助けに来てくれるとおもっていた」

 「もったいなきおことばです……」

 後世賛否ある皇帝となった劉禅であるが、趙雲にとってはあるいは劉備以上に忠誠を捧げた人となる。

 「せっかくの兄上への馳走が、子龍のおかげで無駄になったわ」

 みずからの悪事が露呈した後でも、孫夫人は悪びれたところがなく、あの張飛ですら唖然とした。

 呉の船団が係留から外され、帰国した後も趙雲は劉禅を肩に乗せて、張飛とともにそれを見送っていた。

 (考えてみれば、不憫なお人ではあった)

 劉禅の生母である甘夫人が亡くなったあと、孫夫人が劉禅を善導し、後宮をまとめていれば劉備陣営に呉の一大勢力が出現していたはずである。

 しかし、孫夫人はおのれの狭量から荊州になじむことを拒否した。

 それは徹頭徹尾、劉備という夫を好きになれず、いやがらせをすることで自尊心を保っていた児戯にすぎない。

 復命した諸葛亮は、

 「子龍どの、益徳どの、このたびのお働きは、一軍を撃破したことにおとらない」

 と安堵した表情で激賞した。諸葛亮としても、孫夫人の行動は予想がつかず、裏をかかれたので、反省しきりであっただろう。

 諸葛亮は、益州に兵を入れた劉備にも、詳細を書簡でありのままを告げた。このあたりが己の失策を隠さない、諸葛亮の誠実さといえるであろう。

 「あのじゃじゃ馬がな……」

 劉備は書簡を読んで、苦笑しただけであった。あいかわらず劉備には、家族へのあたたかさを感じることができない。

 劉備の目は、益州しか見えていない。


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