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亡蜀記  作者: コルシカ
1/22

長阪

         一


 時は三国時代の蜀における炎興元年(二六三)の十一月。

 蜀の皇帝である劉禅は、夜中にもかかわらず油に火を灯し、机にむかっていた。

 劉禅、字は公嗣。群雄割拠時代の英雄で、蜀の初代皇帝である劉備の子である。この年、五十六歳になる。

 (明日で、この王朝は潰える……)

 配下の光祿大夫である譙周や秘書令の郤正たちと討議を重ね、首都の成都にせまる魏の征西将軍、鄧艾に降伏をすることに決定した。

 (四十二年か)

 父の劉備が章武元年(二二一)に即位して、蜀は四十二年の命脈を保ったことになる。

 ちなみに蜀は後漢を後継する王朝として建国されたので、公には国号を漢とよんでいる。

 劉禅は即位して四十年、いちども戦場に立ったことはない。

 軍事は丞相の諸葛亮、その死後は大将軍の姜維に委ねたきりであった。

 諸葛亮、字孔明は、先帝の劉備が三顧の礼をもって軍師に迎えた天才であった。劉備の死後四度宿敵である魏に北伐をおこなった。

 姜維、字伯約はなんと十一度におよぶ大小の北伐をおこない、彼の分別ない戦費の浪費が蜀滅亡の原因になったともいわれている。

 (しかし、今はもういい……)

 諸葛亮と姜維に戦を委ねたのは皇帝である劉禅であり、かれらが私欲で魏を討っていたともおもえない。

 魏との国力の差に、蜀は負けたのだ。

 当時三国の国力を十分割してみると、魏七、呉二、蜀一、となるといわれていた。

 蜀は益州一州しか領有していないにもかかわらず、その険阻な地形に拠って魏の侵攻をしのいできたのである。

 「成都の民を、戦にまきこみたくはない」

 劉禅は危急の事態に直面して、まずはそういった。

 まず成都から南中に避難することも討議された。しかし南中はいまだ治安が安定せず、劉禅自身が殺害される可能性もあり、却下された。

 つぎに、同盟国の呉に亡命する案も討議された。これについては譙周が、

 「呉は同盟国とはいえ、弱小であることに変わりはなく、強大な魏が呉を併呑することはあっても、呉が魏を併呑することはありえません。

 そうすれば、陛下は二度の恥辱を受けることになってしまいます。

 恥辱は一度うけるだけでよく、呉が存在する限り魏の朝廷における主宰者の司馬昭は、陛下を厚遇せざるをえません」

 と力説した。司馬昭に仕える鄧艾が劉禅を虐待するはずがなく、かならず降伏は歓迎されるといった。

 (たしかに無駄な抵抗は、理にかなっていない)

 劉禅も、納得して魏軍に降伏することを承諾した。

 使者のやりとりがおこなわれ、鄧艾も劉禅の降伏を、

 「よきご決断です。御身をおまもりすることはお約束いたします」

 と喜んで受け入れてくれた。

 劉禅は椅子から立ち上がり、先祖の廟にむかった。

 漢の歴代皇帝から父の劉備までを祀ってはいるが、漢は魏へ帝位を禅譲しているので、実質は父の劉備だけが祀られていることになる。劉備は、諡されて昭烈帝とよばれる。

 劉禅は、廟のまえにぬかずいた。

 心は渇いていたが、廟にぬかずくという行為で涙があふれてきた。

 (これが、皇帝であるということの重みか)

 劉禅は湿り気のあるこころで、ふたたび暗い廟堂を眺めた。

 父の劉備、その父の兄弟に等しかった関羽、張飛、趙雲、そして丞相の諸葛亮らは、じぶんの降伏を是とするかどうか。

 それに答えてくれるものは、もはやいない。

 (劉禅の禅は、禅る、の禅……)

 蜀政権末期に、宮中でそのような噂がひろがっていたことを、劉禅は知っていた。

 「今上陛下の諱は禅、つまり国をだれかに禅るというということだと」

 「昭烈皇帝(劉備)の諱は備……危急において備える、ということに対してか」

 「もともと先帝が、振威将軍(劉璋)から奪った国よ……漢から大権を譲られた魏に、わが国が帰するのは宿命であったのだ」

 辛辣な噂である。

 その魏も朝廷を主宰しているのは晋公の司馬昭なので、早晩魏から晋への禅譲がおこなわれるといわれている。

 (三国が晋に収斂してゆくならば、その流れはとめられぬ)

 劉禅は、ぬかずいた廟堂から立ち上がった。

 そもそも、蜀は劉禅の国であったのか。

 父の劉備は亡くなるとき病牀で、丞相の諸葛亮に、

 「わが子(劉禅)に国を治める才がなければ、卿がとってかわれ」

 といったという。

 劉禅は劉備の子である以外に、皇帝の資質はなかった。

 それを知っているはずなのに、諸葛亮は死ぬまで帝位を簒奪せず、魏への北伐に明け暮れた。

 (われは、諸葛亮を好かぬ……)

 今なら劉禅は、この好悪を明確に自覚することができる。

 生前の諸葛亮は漢中に駐屯し、兵の訓練と北伐を繰り返すかたわら、成都にはじぶんの息のかかった蔣琬や費禕らを劉禅の補佐に残した。

 むろん劉禅には自己決定権などなく、万事蔣琬や費禕が諸葛亮の意を受けた政治を代行していた。

 劉禅がみずから政治を行おうとしたら、どうなっていただろうか。蔣琬や費禕らは、劉禅を病気と喧伝して幽閉し、太子の劉璿など傀儡になりうる皇帝候補を擁立していたことは、想像にかたくない。

 (諸葛亮は、やはり父の遺言どおり、わが国の主としてとってかわったのだ)

 劉禅は、ため息をついた。

 ふとみずからの生い立ちを振り返ったとき、じぶんがじぶんであったことは何一つないことに思い当たった。

 (すべては、あの長阪での戦からはじまったのだったな……)

 長阪での戦。

 まだ赤子であった劉禅を、股肱の臣の趙雲、字子龍がふところに抱いて、戦場を疾駆したのが、人からきかされた劉禅の一番古い記憶である。

         ※

 時は、後漢の建安十三年(二○八)。

 粉塵が濃くただよう戦場の中を、騎馬武者の影があらわれたと思うと、まわりの敵を槍で突き落としてゆく。

 まるで逃げ遅れた将のようにみえるが、鎧の胸に嬰児を抱いている。

 「まだ討ち取れぬのか」

 曹操軍の史渙が、配下を叱咤する。

 騎馬武者は泥と汗で顔が判別できない。

 あかたも劉備軍の後拒を、ひとりでおこなっているようにもみえる。

 「みごとな武者ぶりよ。名を名乗れ」

 曹操軍の小隊長が、格闘の輪に近づいて騎馬武者に声をかけた。

 「常山の趙子龍」

 騎馬武者がこう叫んだとき、趙雲と劉禅の神話がうまれた。

 「趙子龍……おそるべき将が劉備のもとにはいるな」

 史渙がそうつぶやいたとき、曹操からの使いがやってきて何事か伝言した。

 史渙は小さな笑い声をあげると、趙雲の名を聞いた小隊長に大声でいった。

 「趙子龍を追うな。あの嬰児は劉備の子かもしれぬ。見上げた忠臣ぞ」

 曹操が劉備の子を抱いて奮闘する趙雲を見て感動をおぼえ、逃がせと命じたのである。

 劉禅は、このとき二歳だった。

 趙雲は劉備より五歳年上なので、このとき五十二歳ではあるが、その溌剌たる槍さばきと騎乗は若者のそれと遜色ない。

 やがて曹操軍の包囲がゆるんだ隙をみつけた趙雲は、ただ一騎劉備のもとに向かった。

 劉備の夫人である甘夫人は、趙雲の配下が劉備のもとに送りとどけていた。

 趙雲が帰ってきた、ときいた劉備は馬からおりて趙雲に近づいてきた。

 戦場に引き返す趙雲を見た複数の家臣が、

 「趙子龍は、曹操に降伏しました」

 と告げたが、劉備はかれらを叱りつけ、

 「子龍とわれは、昨日今日知り合った間柄ではない。かならず子龍はもどってくる」

 といって趙雲を信じていたのだ。

 「主よ、よくぞご無事で……ご子息をお守していました」

 劉備は感に堪えない表情で趙雲に対していたが、当時阿斗とよばれていた劉禅を受け取ると、無関心で傍らの甘夫人にわたした。

 「たかが赤子のことで、かけがえのない子龍を失うところであったわ」

 趙雲は、そのことばに感動し、号泣した。

 劉備はこのとき四十七歳になるのに、若い夫人と二歳の劉禅しか家族がなかったということは、これまでの流浪と逃亡の半生において、いくつかの家族を失ってきたのであろう。

 劉備にとって、家族はあたたかみのある存在ではない。それより義侠のこころを強くもつ劉備にとっては、配下の将こそが宝であった。

 「ご子息が無事でなによりでした」

 劉禅を受け取って涙にくれる甘夫人に声をかけてなぐさめたのは、諸葛亮である。

 (主には、そろそろ得て保つ、ということを学んでもらわねばならぬ)

 冷めた目で、諸葛亮は劉備と趙雲を見ていた。

 得て保つ、とは領地のことである。

 趙雲の側には、関羽と張飛も駆けつけ、劉備も含めた四人で談笑している。

 「あの人は、阿斗よりもいつも雲長どの(関羽)、益徳(張飛)どのばかりで……阿斗の行く末が不安でなりませぬ」

 甘夫人が劉備に対する不満をいうと、諸葛亮が、

 「いずれ遠くない未来に、阿斗さまが至尊の地位にお就きになれば、主もお考えを改められるとぞんじます。それまでは、ご辛抱を……」

 といった。

 「至尊の地位……阿斗が、ですか」

 「はい。私はいつも夫人と阿斗さまのお味方でございますゆえ、ご安心を」

 そういって、諸葛亮は関羽と張飛らを一瞥した。

 諸葛亮が劉備に三顧の礼を受けて配下になったとき、曹操と孫権の支配が及ばない益州と荊州をあわせて劉備が領有する策を献じた。

 いわゆる、天下三分の計である。

 そこで劉備が王位、もしくは皇位につけば、阿斗は王太子か皇太子になる。

 劉備より二十歳若い諸葛亮はまだ二十八歳である。次代の政権における主宰者は、

 (私しかいない)

 と信じている。今は諸葛亮の脳内にしかない展望を知るものは、劉備をおいて他にはいない。

 (関羽と張飛……かれらは主に近すぎる)

 劉備を頂点とする組織を形成するうえで、曹操の配下である程昱が、

 「関羽、張飛はそれぞれ兵一万人に匹敵する」

 と畏れられている二人だが、諸葛亮は遠からずじゃまになるときがくると感じている。

 「孔明(諸葛亮)どの、ここでもたつくことはできませぬぞ。急いで孫将軍のもとに向かいましょう」

 こう諸葛亮に声をかけた人物がいる。

 魯粛、字を子敬という。

 江東の孫権の謀臣で、荊州刺史の劉表が病死してその弔問に向かう途中、曹操が荊州を無血降伏させたことを知った。

 曹操はすでにこのとき河北と荊州を領有し、それに抗するのは江東の孫権と益州の劉璋だけである。

 (孫権を曹操に降らせてたまるか)

 魯粛は、つよい決意をもっている。

 曹操と戦い続けている劉備を孫権の味方につければ、孫権陣営に根強い曹操に降伏すべしという勢力をおおいに牽制できる。

 魯粛は、慧眼の持ち主でもある。

 劉備主従とともに荊州から逃亡している最中に、

 (最も劉備の信頼を得て、意見できるのは諸葛亮だな)

 ということを見抜いていた。

 孫権陣営には、諸葛亮の兄の諸葛謹が仕えている。このことも魯粛と諸葛亮の距離を近づけた一因である。

 「子敬どの。そのとおりです。一刻もはやく、われらは孫将軍のもとにむかわねばなりません。それにつきましては、いかがでしょう、私が子敬どのと一足先にゆきませんか」

 諸葛亮の冷静なことばに、豪胆な魯粛もおもわず身をただした。

 「主(孫権)が曹操と戦うべきだと、説いてくださるのか」

 「はは、子敬どのならば話ははやい」

 諸葛亮は、そういって笑った。

 (おそるべき若者よ……)

 孫権が曹操に降れば、弱小の劉璋も戦わずして曹操に降る。そうなれば曹操は中華を統一することができる。

 しかし、孫権と劉備が連合して曹操軍に勝てばどうであろう。

 (孫権がやがて益州を取り、天下を二分することができる)

 魯粛の脳内は、諸葛亮の天下三分ではなく、このようになっている。

 また諸葛亮と魯粛は、徐州の生まれである。

 曹操はかつて徐州刺史である陶謙の部下に父を殺されたことがあり、徐州の住民を大虐殺した過去がある。

 若き諸葛亮と魯粛は、そのときの憎しみを今もおぼえている。

 理性的な曹操の生涯で、この虐殺は唯一といっていいほどの瑕疵であるが、それが二人の智者によって天下統一をさまたげられる誤算になってかえってこようとはおもわなかったであろう。

 さて、諸葛亮を幕下にくわえた劉備は、かつてただ逃げるだけだった集団ではなくなっている。

 関羽に数百艘の船を用意させ、人と荷物を乗せて沔水を下らせた。

 さらに亡くなった劉表の長子である江夏郡の太守劉琦は親劉備派であったので、一万余の兵を率いて劉備に合流した。

 劉備は劉琦の大軍に守られて、またもや曹操という難敵から逃げ切った。

 軍を顎県にある樊口にとどめ、劉琦は江夏郡の軍府がある西陵にもどった。

 「孫権を曹操に降らせてはなりません。私が子敬どのと呉に先行いたしましょう」

 諸葛亮の進言にうなずいた劉備は、呉に帰る魯粛に諸葛亮を随行させた。

 しかし、劉備のもとを去らなくてはならないものもいた。

 徐庶、字を元直。諸葛亮を劉備に推薦した英才である。

 徐庶の母は長坂での乱戦で曹操軍に捕らえられ、当時親への孝行が至上とされていた価値観にあらがえない徐庶は、曹操の陣営に仕えることになったのだ。

 「劉将軍とともに覇業を図ったのは、この一寸四方の地です」

 徐庶はそういって、みずからの胸を指した。

 一寸四方とは、古来より胸の広さをいう。

 「しかし、私は老母を失って、一寸四方の地は乱れています。ここで劉将軍にお別れしなければなりません」

 「われの一寸四方も張り裂けんばかりに乱れているぞ」

 劉備と徐庶は、ともに涙にくれた。

 (孔明がいれば、われは無用であろう)

 徐庶の心情をひとことであらわすと、それにつきる。

 徐庶は若い頃義侠の徒で、殺人を犯し荊州に逃亡して劉備に仕えたが、孔明とは学問における同窓である。

 徐庶は撃剣の使い手で、軍事の才があったが劉備にそれを活かす組織がなかったゆえ、曹操のもとに去ることとした。

 「しかし、劉将軍。わたしは受けた御恩はかならず返します。曹操に仕えても、その内情は逐一将軍にお報せするでありましょう」

 「……やってくれるか」

 「はい。それを孔明が、かならず役に立つ策にかえてくれるでしょう」

 徐庶は曹操に仕えながら、劉備のために間諜をするといっているのである。

 (私のできることは、ここまでだ)

 諸葛亮という臥龍を眠りから起こし、劉備の覇業に翼をあたえた徐庶は、老母との安穏な生をえらんだ。

 それは諸葛亮の巨大な曹操への復讐という私怨に、おのれが参画したくないという嫌悪でもあった。

 さて、孫権のもとにむかった諸葛亮と魯粛である。

 若い孫権は、袁紹や劉表のように優柔不断さはなく、溌剌としている。

 みずから軍を率い、江水をさかのぼって、荊州との州境ともいえる柴桑まで来て魯粛の帰りをまつとともに、荊州の実情をさぐっていた。

 「劉備の使者が来ているのか」

 復命した魯粛と会った孫権は、内心の喜びを隠していった。

 孫権陣営内では、まだ曹操軍に降伏すべきであるという勢力がつよい。

 「子瑜(諸葛謹)どのの弟で、諸葛亮という軍師です」

 魯粛が孫権にそう伝えると、

 「そうか……」

 と孫権はすこし失望した。

 孫権の容姿は紫鬚碧眼、と称されるように異国の血がややまじっているのかもしれない。

 このとき孫権は諸葛亮より一歳年下の二十七歳である。二十一も年上の劉備が寸土の領土ももたず漂泊していることへの失望がないわけではない。

 しかし希望もある。

 劉備には天下の人望がある。

 厚遇された曹操に後ろ足で砂をかけるように裏切った劉備だが、反曹操の象徴として各地の群雄たちに受け入れられてきた。

 それにしても、諸葛亮という若者は無位無冠で天下に知られていない。

 そのような人物を重要な同盟をむすぶ使命を帯びた使者として、派遣した理由はなんだろう。

 (魯粛は主戦派で、劉備の使者であるからには曹操と戦いたいのであろうが……)

 孫権は、曹操に降伏するきもちはない。

 ゆえに使者の人選に、困惑したのだ。

 「会ってみよう」

 ついに孫権は、諸葛亮との会談に合意した。

 柴桑にある本営内に、諸葛亮は魯粛に案内されて通された。

 上席には孫権が端座し、錚々たる孫権軍の群臣たちが諸葛亮の発することばを待っている。

 諸葛亮が、歴史の表舞台に登場した最初のときであった。


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