第三話
北側にある下社神社の前で、茅野と別れた。
最後に、僕は彼がクラスメートと一緒に祭りに行くことを聞いた。
「ゴシップ女も徘徊していると思う。人が多いから鉢合わせる事は滅多にないと思うが……」
気遣わしげに言う茅野に、僕は大丈夫と答えた。
「僕も友人と一緒に花火大会に行くだけだから」
「……そうか、そうだよな」
それじゃあまた、と茅野と別れた。
笑いながら去って行く彼に、僕は心の中でお礼を言いながら見送る。
そして僕は次にやるべきことを考え、携帯のアドレス帳に書かれている名前をじっと見つめた。はたして、彼女は電話に出てくれるだろうか。
まず電話に出てきてくれたら、昨日の事を謝ろう。彼女の気持ちを踏みにじる事を言ってしまったのだろうから。ただ、仲直りもしたいことを伝え、お詫びも含めて花火大会に誘ってみよう。
と、頭の中で整理をしが、これで上手くいくだろうか。仲直りとお詫びに誘うのはチャラついているのではないか。それならば、なんと話せば良いだろうか。
考えるだけで、小時間つぶした気がした。その場で立ち尽くしている僕に、通りがかりの熟年男性が声をかけてくる。僕はなんでもないですと言って、その場を移動した。
その場から一番近い公園に着いて、僕はベンチに座った。再び携帯を取り出す。
悩んだってなにも始まらないだろう。僕はええいままよと、登録している電話番号に発信した。
とるるるる、と無機質な効果音が繰り返される。やはり彼女は出てきてくれないのではないだろうか。
八回ほど繰り返され、留守番電話サービスに転送されそうなとき、ふいに効果音が出てきた。
「……はい、もしもし」
聞こえてきた声は、普段の東風谷さんとは違うような、別人と思うくらい、声が低かった。否、この声は明らかに別人だった。
かけ間違えてしまったか、混乱して声が出せなかった。電話先の相手はもう一度、もしもしと言った。
慌てて、何か声を出す。言葉にならず、あの、とか、その、とか言っていると、電話先の相手はどちら様ですかと尋ねてきた。
僕は自分の名前を伝えた。
「すみません、東風谷さんの電話かと思って電話しましたが、間違っていたようで……」
「東風谷?あぁ、間違いないよ。これは早苗のけえたいだ」
「そうでしたか。あの、東風谷さんは……」
「部屋で寝てしまっているよ。あんた、もしかして今朝も電話したかい?」
電話先の相手は、随分とフランクに僕に話しかけてくる。電話に出られた時、相手は怒っているのかと思ったが、どうもそうではないようだ。しかし得も言われぬプレッシャーを感じ、気持ちが張りつめていく。
僕は電波になって届く謎の威圧感を感じながら、答える。
「はい。少しお話したい事があって、電話しました」
「そうか、そうだったかい……悪いけど、今ふて寝をしていてねぇ。代わりと言ってはなんだが、私が直接出向いて聞いてやろうじゃないか」
「えっ……あなたがですか」
僕は思わず失礼な返しをしてしまう。
しかし相手は気にしてなかったようで、待ち合わせの話を続けた。
「場所は、湖から南に向かったところにある博物館がわかりやすいかしら。そうさねぇ……着替えなければならないから、一時間後で良いか」
「は、はあ……では、そこで」
生返事をした僕に、じゃあよろしくと一言返し、電話は終了してしまった。
名前のわからない相手と、待ち合わせをした。いったい誰なのだろうか──
正体不明の相手と待ち合わせの約束をした博物館は、県道に面しているにも関わらず、誰も立ち寄ろうとはしない。
駐車場には車が二台ほど、自転車も同じ数だけ駐輪されていた。
「すまないが、ちょっと取り込んでいてな。到着が遅れるから中で涼んでいてくれないか」
先ほどの相手から、再び電話があった。名前を尋ねる暇もなく電話を切られ、僕は言われるがまま施設の中に入ることにした。
施設の中はクーラーが十分にきいていた。夏休みの期間だから子供も涼んだりくるものだと思ったが、冷たい風を十二分に感じるくらい、博物館の中はすいていた。
この博物館の展示内容は郷土的資料が多く、湖周辺の遺跡から出土された石器や土器、考古資料が展示されていると共に、地域にまつわる七不思議や伝説について説明されている。この地域にまつわる神話はかつて東風谷さんに教えてもらったものもあり、展示品とその説明文を読むたびに彼女の声が聞こえてくる。
展示室を巡っていると、ひときわ綺麗な装飾が目に留まる。確か、昔の上着のようなものだと聞いた。織り込まれている図柄は梶の葉で、神紋とされていたそうだ。
「これは、かつてこの地域の神に仕えた大祝が着ていた装飾だ」
僕に語り掛けたその声は、幻聴による東風谷さんのものではなく、もっと低い、先ほどの電話で聞いた声によく似た声だった。
声の主は、僕が予想していたよりももっと幼い容姿をしていた。
「おおほうり?」
「なんだ、早苗から聞いていなかったのか」
僕はその少女に、聞き慣れのなかった言葉を繰り返すと、少女はあきれた様子で僕に聞き返した。
東風谷さんのことを知っている。やはり先ほどの電話の相手は、この少女で間違いなかったのだろうか。
「神職……神に奉仕し、祭祀に従事していた者のことだ。一般には祝とだけ呼ばれるが、おおほうりはこの地域の社の最高位の役職として、仕えさせていた」
「この地域は、やっぱり神様と一緒にいたんですか」
「あぁ、そうだ。この街は元来、自然と共に暮らしてきた」
少女は瞳を閉じて、物思いにふけるように語りだした。
「山に森に囲まれ、中央には大きな湖がある。これほど、自然が残り続けている場所も今ではないだろう。それこそ、今となっては昔の話かもしれないが、かつて人々はありとあらゆる物を神とあがめていたことは知っているか?」
「八百万の神ですか」
「あぁ、そうだ。農耕や漁を通じて、自然と密接に暮らしてきたのが日本人だ。彼らは自然の恵みにあやかっていた一方で、天災に怯え、脅威を感じていた。畏怖の気持ちも合わさり、それら自然現象は神の仕業と考えた。それはこの地域の人々も同じだった」
少女は、展示室の中を練り歩く。
「山に神がいる。森に神がいる。自分らの生活の側に神がいる。彼らはそれを確かに実感して生きていた」
そう語った少女の瞳は、いつかの出来事を懐かしんでいるように見えた。
今となっては、歴史の教科書に近代の日本として取り上げられるほどには昔の出来事だ。
「神事に関しては厳粛に行われていてな……毎年初めに起こる御神渡りでは、一年の吉凶を図っていた。上半期には狩猟成功祈願のための祭りを行い、下半期には豊作祈願の祭りを行った」
「一年を通して、神事を行っていたんですよね」
少女は僕の問いに大きく頷いた。
「さて、一通り説明を終えたところで、ちょいと昔話をしようじゃないか」
「昔話?」
「あぁ、早苗のことについて、な」
僕たちは博物館を出た。
暑い日差しがさす中、言われるがままに僕は少女についていく。
途中までは無言で歩いていたが、すれ違う人々の視線がなんだか気になって話しかけることにした。
「あの、君は東風谷さんとはどういった関係で……」
「ん?あぁ、親戚のようなものだよ」
彼女は笑いながら答える。
落ち着いた声と気さくな話し方は、その幼い容姿からは想像もつかない。
「申し遅れたな。私は神奈子という。いつも早苗が世話になっている」
神奈子さんは、僕の名前を聞いた時にピンときたらしい。というのも、神奈子さんは一緒に仲良く暮らしていて、出かけた時の事をよく聞いているらしい。その話題のなかで、僕のことを聞いたそうだ。
「郷土伝承に興味があるとは、珍しいね」
そういう少女に、僕は生返事を返した。
さて、どう返したものか。考えていると、彼女は僕の心を見透かしたかのように、告げる。
「邪な理由もあるようだが、純粋に興味もあるんだろう?」
神奈子さんはチラリと僕を見た。その一瞬の睨みが長く感じた。
「それは……」
「まぁ、いいさ。早苗に免じて多少は見逃してやろう」
「ありがとう、ございます……」
「それと、さっきから堅苦しいぞ。もっと気軽に接しても良いのだけれど」
僕は苦笑いを返す事しかできなかった。彼女から感じるプレッシャーに、敬語をやめずにいられなかった。
堂々とした話し方と仕草に見合うほどの気品を感じる。これに似た体験を、僕は今年の一月に受けた。
この人もまた、もしかすると、もしかするのかもしれない。そうすると、遠い親戚だと言った東風谷さんは何者なのだろうか。
神奈子さんが案内したのは、湖畔がよく見える運動公園だった。
「随分と歩かせてしまったね」
「いえいえ、それで東風谷さんの昔話とは……」
「あぁ、その前に出来れば、君の事をもう少し教えてほしい」
「僕の事ですか?」
「あぁそうだ。確かに早苗から話は聞いているが、そもそも君が何故早苗と交流しているのか気になっていてね。いや、疑いたくない気持ちももちろんあるんだが……」
僕は首を横に振って大丈夫ですと答えた。神奈子さんが言い淀む理由に、心当たりがあったからだ。
そして僕は東風谷さんと会った日の事から話し始めた。神奈子さんはそれを頷きながら静かにきいていた。
「僕が東風谷さんともっといたいと思ったのは、その方がきっと楽しいと思ったからです」
そこで僕は、神奈子さんに一月の出来事を話した。
当時、周りのクラスメートは僕の事を都会から来た無知なやつだとからかってくることが多かった一方で、東風谷さんはそんな事をしなかった。
御神渡りについて知らないと言った時も、東風谷さんは東風谷さんが信じている知識を教えてくれた。
「周りと違う認識だとわかっていても、僕の事を信じてくれたと思うと嬉しくて……」
「それで、もっと話したいと思ったのか?」
「もちろん、伝承に興味がわいたことも本当です。あの日見せてくれた御神渡りの光景は、今でも思い出せるくらい衝撃的で、そんなことがまだ沢山あると思うと知りたくなったんです」
「知って、それをもっと広めたいと、早苗にはそう言ったんだったな」
確認してきた神奈子さんの目は鋭かった。瞳孔は赤く蛇のように縦に細長い核を持ったその眼で、僕の事を見ていた。
「言っただろう?早苗とはよく話すって。昨日の事も、既に聞いているとも」
僕は息をのんだ。汗が止まらないのは、夏の暑さのせいだけだろうか。
このまま何をされてしまうのだろう。
張りつめていた僕の心とは逆に、彼女が次に口に出したのは謝罪の言葉だった。
「早苗の事は、本当にすまなかった。デリケートになっていた事とはいえ、わけも話さず帰ってきたようでな」
「い、いえそんな……わけも知らないのに軽率に話した僕も悪かったです」
まさか頭を下げられるとは思わず、腕を動かしまわして僕は答えた。
「やっぱり、昔に嫌な事があったんですか……その、伝承のことで」
「あぁ……いや、昔だけじゃない。早苗は今でも、人との関わり避けている」