第五話
どうして東風谷さんがこんな場所にいるのか、考えるよりも先に僕は彼女を追いかけるために部屋を出た。
隣の部屋は、先ほどの部屋と似た間取りで、走り去ろうとする少女はまっすぐに駆けていく。
僕はただ、彼女を追いかけることで精いっぱいだった。しかし、彼女との距離を詰めることは出来ず、延々と続く部屋を走っていた。
同じ間取りだと思っていた部屋が、次第に荒らされている光景に変わる。あたりにはゴミや物が散乱していった。それら障害物を避けながら追いかけ続ける。僅かな明かりを差していた窓辺にも、だんだんとゴミが重なり、また割れた箇所を板が打ち付けられて、防がれていく。
そんな不気味な場所を何度もかいくぐり、ひたすら東風谷さんを追いかけ続けた。無意識に僕は何度も彼女の名前を呼んでいた。
けれどもその距離は縮まるどころか、だんだんと離れていく。そして彼女と距離が離れていくうちに、視界もどんどん暗くなっていった。
だんだんと息苦しくなり、心が細くなっていく。震えた声で僕は彼女を呼び続けた。
「待って!」
そう叫び、僕は右手を伸ばした。
その右手には、確かに暖かな感触を感じ取った。
「あっ」
手に取った、その少女は小さな声を出した。
気がつくと僕は湖畔にいて、東風谷さんの膝の上に頭を載せてもらっていた。
「大丈夫ですか?」
気にかけて尋ねてくれたその少女の名前を僕はもう一度呟く。
「東風谷、さん……?」
「はい。東風谷早苗です。こんなところで寝ていると、風邪をひいてしまいますよ」
東風谷さんは笑みを見せながらそう答えてくれた。
どうやら、先ほどまでの出来事は夢だったようだ。
右手を見ると、僕はしっかりと東風谷さんの手を握っていた。それまで感じていた寒気など忘れてしまうほど、僕の顔が熱くなる。
咄嗟に右手を離し、身体を起こした。すぐに彼女に対面して、弁明を重ねようとしたが、そのほとんどが支離滅裂で会話の前後がかみ合っていない事が、発言者である僕にもよくわかるほどで、これでは余地もないと、最後にはただ一言ごめんと彼女に謝っていた。
弁明の仕方がよほどおかしかったのか、東風谷さんは吹き出し、僕のことを許してくれた。
「きっと、怖い夢を見ていたんですね」
東風谷さんは、僕が離した手にもう一度自分の手を重ねる。理由を尋ねるよりも先に、彼女は続けて僕に答えてくれた。
「偶然通りかかっただけですが、うずくまっている姿を見たものですから……それで、近づいてみたらうなされておりましたので」
何度か僕の名前を呼んでいたら、僕もそれにこたえるように何度も東風谷さんの名前を呟いていたようだ。無意識に彼女の手を握りながら、何度もずっと。
「このまま目が覚めないでいたらどうしたらと思っていましたが、ともあれ無事に起きる事が出来て良かったです」
東風谷さんがそう言う。こんな場所で寝落ちしてしまうなんて、よほど昨日の徹夜が響いたのか。確かに帰宅してからも興奮ですぐに寝付くことが出来ず、満足に眠る事が出来なかったので、ここで眠りこけてしまっても仕方がないのかもしれない。
ただそれよりも、幻想だと思っていた少女が再び目の前に現れてくれたという事実が、何よりも昨日の出来事が泡沫の夢ではないという証拠付けになり、僕の心から不安が消え去った。消え去ったその場所が暖かく感じ、安堵からか僕は目の奥が熱くなった。
そんな僕の様子を見て、再び彼女は体調を尋ねてきた。僕は下を見てから目を強く閉じ、目頭を左手で抑えた。無駄だと思いつつも僕はそうせずにはいられなかった。
「まだ少しだけ眠いかな……」
強がりの回答を、東風谷さんは許容してくれた。
「おやすみをされた方が良いと思いますが、今日は冷え込みます」
東風谷さんの言う通り、今日は昨日以上に風が強く、このままだと本当に体調を崩してしまいそうだった。
「では、今日はもう帰りましょうか」
沈みかけた太陽が、東風谷さんの髪を橙色に輝かせていた。このまま、また会えなくなってしまうのだろうか。
公園から出る間、僕は何も言葉が思いつかず、東風谷さんも何も喋らず、話が何も浮かばないまま、公演の出口まで来てしまった。
太陽はあっという間に姿を隠して、空には星が瞬き始めていた。諏訪湖周辺の道路は電灯があったが、少しでも道を外れるとその先が見えなくなるほど暗くなる。
「送って行くよ」
僕は東風谷さんに提案した。
「危ない目にはあわないから大丈夫です。それに、ここからは遠いですよ」
彼女は少し考えこんでからそう遠慮していたが、流石に暗い道を女の子一人に歩かせるわけにはいかないと主張した。なにより、僕自身このまままた彼女と別れたくないという思いがあった。
東風谷さんは、僕の主張を汲み取ってくれたようで、家の途中まで一緒に帰ることになった。
ただ、家に帰るその道でも、会話のネタ探しにはとても苦労した。
女の子と二人きりでいるという機会そのものが生涯で滅多になかった為、それだけでさえ心臓が跳ね上がりそうに高鳴っていた。
それでいて、東風谷さんに関しては昨日の会話の事もあり、あまり昔の事とかを聞くのはタブーな気もして、かといって適当な身の内話を聞くのも失礼な気がした。とにかく、僕はこういうときの会話力というのが皆無だった。
「昨日は、大丈夫だった?その、パトロール中のお巡りさんに」
やっとの事で出てきたその質問も、口に出した途端に訂正したい気持ちでいっぱいになる。
一方で東風谷さんは、僕の拙い質問にもしっかりと答えてくれた。
「ええ、問題なく帰路につくことが出来ましたよ」
笑顔でそう話す東風谷さんに僕はホッとしたが、会話はそこで途切れてしまい、再び沈黙が続く。
冬のなか街中を歩く物好きは少なく、車の通り過ぎる音ばかりが響く。何か話題を出せればと思うのだが、家の事を聞くのは野暮な気がした。
ならば他に話題があるとするならば、昨日の出来事くらいだろうか。僕は、少しだけ遠ざかってもなお見える湖を見ながら、東風谷さんに尋ねた。
「そういえば、昨日は御神渡りがあったんだよね」
「えぇ、そのようですよ」
東風谷さんはくすりと笑いそう答えた。目の前で見ていたはずなのに、まるで人から聞いたかのような口ぶりがおかしかったようだ。普段だったら、こんな変な話し方しないのに。僕は僕が思っている以上に、人と会話するのが下手くそなようだ。
頭の中で一度自省してから、僕は彼女に弁明した。
「いや、昨日の出来事が嘘だと思っているわけじゃないんだ。ただ、今まで体験したことのない出来事だったから……」
「夢でも見たのかと思ったのですね」
優しく尋ねてきた彼女に僕は頭をかきながら頷く。
「先ほどお目覚めになられた際も、まるで幽霊を見たかのような顔をされていましたものね」
「そんな顔してた?」
「はい。まるで、昨晩の御神渡りをご覧いただいた時のような、そんな顔」
東風谷さんは優しい表情をくずさなかったが、僕の対応は決して良いものではなかっただろう。
僕は一言、彼女に謝った。
今日の出来事を打ち明けるなら、今だろう。
「昨日のこと、クラスの皆に話そうとしたんだ」
東風谷さんの家路の途中、僕がそう告げると東風谷さんは立ち止まってこっちを見た。
一台の車が通り過ぎるだけの沈黙が、とても長く感じた。続きを話すのに少し勇気が必要だった。彼女は続きを聞こうとしてるようだった。
「まぁ、彼らは僕の話を聞こうともしなかったけど」
僕は今日の彼らの様子を思い出していた。
はじめから彼らは僕を弄ることだけが目的だったのだろう。僕が御神渡りを見に行っても行かなくても、からかって笑ってそれで終わり。御神渡りはその手段として使われただけだった。
クラスの皆は、御神渡りを天候による現象だと話していた。今の時代、そう思うのが当たり前なのはよくわかっていたし、僕自身も昨晩の出来事を体験しなければ彼らを同じ立場にいただろう。
「ただ、彼らの様子を見ていると、反対に僕が体験した事が嘘のような気がして、信じられなくなっていたんだ」
「そうだったんですね……」
彼女は少し苦しげな表情をしていた。
きっと彼らが冷ややかな視線を僕に見せた理由を、東風谷さんは知っているだろう。だが、それを今この場で尋ねるのは良くないことだとわかっていた。
だから僕は、明け透けなく彼女に自分の気持ちを伝えた。
「東風谷さんに再び会えて安心した」
自分の見たものが、不確かだと思っていたけれど、隣で一緒に見てくれていた人がいる。
「僕は昨日の出来事を、幻だと思わない」
ひとつずつ、僕は東風谷さんに伝えていく。自分の気持ちが本当であることを少しでも証明できるように、彼女のそのペリドットのような瞳を見つめながら。
思えば、彼女との出会いは偶然に等しかった。
クラスメートにからかわれ気になった僕はたまたまあの日諏訪湖に赴き、たまたま寝そべっている彼女を見つけた。
そんなたまたま出会った僕に東風谷さんが何故、昨晩の出来事を御神渡りの伝承の実在性を伝えようと思い至ったのか。
それは、その時の僕にはわからなかったが、それでも彼女が伝えたかった真意を知りたいと、そして彼女のことを信じたいと思っていた。
「昨日は御神渡りのことを教えてくれてありがとう」
昨晩、言うことが出来なかった言葉を、ようやく彼女に届ける。
「昨日の出来事のおかげで、僕は新しい世界を見ることができた。それがとても嬉しかったんだ。だから、他にもこの街の魅力があるから知りたいです」
僕のお願いに、東風谷さんは笑みを浮かべながら了承してくれた。