第一話
湖畔はいつもの様子からは想像つかないほど賑わっていた。
青年や子供たちによる神輿に加え、それに乗じるかのように囃し立てる子供たちの喧騒が、祭囃子のリズムに乗って盛り上がる。
日本人というのは催事という物がとても好きなのか、例えそのイベント元来の意味を知らなくともイベントを楽しむことが多い。東京にいた頃はハロウィンが特にそうだった。
一九七〇年代からハロウィンはあったらしいが、盛り上がるようになったのは、僕が生まれてからだったと思う。神奈川県でパレートをしたり、千葉県のテーマパークでもハロウィンイベントを実施していた。
そんな、にぎやかな人の雰囲気のなかでも、僕の頭の中では神奈子さんのあの一言がずっと頭の片隅に残っていた。
東風谷さんは、今でも人との関わりを避けている。
そう伝えられたあの日から今日まで、たまに思い出していた。
僕が東風谷さんに出会ってから、彼女の悪い噂話を聞かなかったのは、彼女が学校に行かずに大人しく過ごしているからだろう。茅野が言っていた、東風谷さんが怖いというのは、とても深刻な事なのだろう。
ただ、東風谷さんはそんなことを一度も僕に話さなかった。孤立しているのを知らなかった──否、正確には気づくことがなかった事をに胸が締め付けられる。
なんだかわからなくなって、彼女の家に向かう足は速くなっていた。坂を早歩きで登り始め、それでもはやる気持ちに煽られ走りだす。
東風谷さんの家に辿り着くと、彼女は家の前で待機していた。
「こんばんわ」
「こ、こんばんわ……」
笑顔で挨拶してくれた東風谷さんに、僕は息を切らして返した。
明らかに急いできた僕に対し、彼女は心配の声をかける。僕は腕を振り回して笑顔で大丈夫と答えた。
「今日は、浴衣なんだ」
僕は東風谷さんの姿を上から下までゆっくりと見ながら言った。彼女は照れくさそうに自身の両手をぎゅっと握った。
水色の生地にアヤメの草花が描かれており、ところどころに蛙が草にしがみついていたり、草花の隙間からヘビが覗いている。
それらはキャラクター的というより、デザインアートのように単色で描かれており、動物や草花が描かれているにも関わらず、少し落ち着いた印象を持てるデザインになっていた。
また、髪も普段と違い後頭部でまとめられており、加えて彼女は頭巾をかぶっていた。
「どうでしょうか……やはり不安で」
彼女はそう言っていたが、頭巾の意味は聞かなかった。聞かずとも彼女の意図は伝わった。それでも東風谷さんは僕と一緒に花火大会に行くことを選んでくれた。それだけで十分だ。
なにより、かぶっている頭巾も浴衣によくあった色合いのもので、よく整ったコーディネートだった。
「凄く似合っているよ、なんだか僕の恰好が少し恥ずかしいや」
普段の姿とはまた違った、自分よりも大人なお姉さんに見えて、自分の姿に恥ずかしくなった。
「大丈夫ですよ。甚平、よく似合っています」
東風谷さんは笑顔でそう言ってくれたが、やはり着せられている感が拭いきれない気もした。
この甚平は今日の為に、雰囲気作りも兼ねて勢いで買ったものだが、サイズ感等がわからずに買ってしまった為、体格に対し大きい物を買っていたようだ。先ほど湖畔を通っていた時に、周りの着ていたサイズ感に比べ自分がブカブカな物を着ていた事はよくわかった。
加えて、父が昔買ったまま一度も履かずに譲り受けた下駄をはき、髪型もいつも通りだ。
こんなことならもう少し慎重に、それこそ茅野に協力を仰いで用意した方が良かった。
祭りはまだこれからだというのに、心のなかではあとの祭りだと、後悔と自責の念でいっぱいだった。
しかしそんな念も、東風谷さんが僕の腕をつかみ、行きましょうと誘ってくれれば、どこかに消え去ってしまった。
既に湖周辺では人の渋滞が起きているようで、これ以上近づいてもあまり良い場所取りは出来ないといううわさが回っていた。
僕達はというと、腹ごなしにも模擬店を巡っていた。花より団子の精神があったわけではない。
さっきかけていったからか、はたまた東風谷さんの家からだいぶ歩いたからか、到着したときに漂ってきた焼きそばの香りに思わず腹の音がなってしまったので、仕方なくだ。
「屋台の食べ物って、どうしてこうも魅力的なのでしょうか……!」
模擬店で買った焼きそばを頬張りながら東風谷さんは言う。美味しいか尋ねると、彼女はとてもと、目を細めながら答えた。
いつも以上にとてもリラックスしているようで、僕の中でざわついていた感情がまたひとつ減った。
対して僕は、かき氷を買っていた。これもまた、お祭りの模擬店定番の品である。味はいつも通り、ブルーハワイにしていた。
こういった屋台で出てくるかき氷のシロップは、いわゆる市販のシロップで、それらに味の違いはない事はよく知っていたが、夏という気分を味わうためになぜかいつも青いブルーハワイのシロップを選んでいた。
「そういえば、青いかき氷は何故ブルーハワイと言うんでしょう?」
東風谷さんが珍しく疑問を僕に投げかけた。
いつも教えてもらうばかりの立場なので、なんだか新鮮だった。
「もとはカクテルのブルーハワイが由来らしいよ。かき氷のシロップも青色で、夏っぽいイメージから同じ名前を使うようになったんだって」
説明する僕に、東風谷さんは感心していた。その様子が、なんだか微笑ましくて笑っていると、彼女はむっとして僕に抗議した。
「なんですか。私にも知らない事はあるんですよ」
「あはは、そうだよね。ごめんごめん
」
僕は笑いながら彼女に謝った。そうだ、東風谷さんだって間違いなく女の子だ。知らない事だってある。
ふと、彼女は何か思い出したようにあっと声をあげた。どうかしたのかと尋ねると、彼女はどや顔で僕にひとつ告げた。
「ブルーハワイの意味は知りませんでしたが、かき氷の豆知識なら私もひとつ知っています!」
「へえ。どんな豆知識?」
僕がそう聞くと、東風谷さんはおもむろに僕が持っていた青い氷山の一角を削り取った。一瞬の出来事で固まっている僕をよそに彼女はかじり奪い取ったかき氷を味わっていた。
ごくん、と口に含んだものを飲み込んだあと、彼女は自分の顔を僕に近づかせ、べぇっと舌を僕に見せた。
「こ、東風谷さん?
」
僕は当惑した。
突きつけられた下は、決して他の人の舌をまじまじと見た事があるわけではないが、普通よりも長く見え、例えばそれに人差し指を差し出せば、ぐるりと半周巻きつけられるのではないかと想像してしまった。
不埒な妄想が頭の中でぐるぐると回る。
今、この場で彼女にそういう期待をするのは不謹慎で失礼極まりないのは、中学生の僕でも十分自覚していた。だがそんな大人びた理性とは裏腹に、思春期の本心は非現実的な甘い期待をしてしまう。
無駄な妄想を断ち切ってくれたのは、現実の東風谷さんだった。彼女が舌を戻すことで、ようやく僕は我に返る事ができた。
「どうでしたか?」
僕の胸中など一切知る事のない東風谷さんは、どや顔を再開し僕に聞いてきた。
ところで彼女は僕に何を伝えたかったのだろうか。数秒考えても答えが思いつかず、ギブアップだと降参してみせると、東風谷さんもまた訝し気に首を傾げた。
「うーん、見せればわかると思ったのですけれど……」
期待外れな結果だったようで、東風谷さんは落ち込んでいた。
そういえば、彼女の舌は健康的なピンク色をしていた一方で、ほんのりと一部が青く染まっていたような気がした。
「もしかして、かき氷のシロップで舌の色が変わるってやつ?」
「そうです!どうでしたか?」
「どうって……」
当ててもらえた嬉しさと、知っていた事によるどや顔で彼女の口角はにんまりと上がっていたが、一方で僕は返答に悩んでしまった。
シロップの色が舌にうつることは知っていたから、というのもあるが、それよりも差し出された舌に必要以上に意識してしまっていた。
いつのまにか鼓動が早くなっていた。かといって、率直な感想を言ってしまうとセクシャルハラスメントで訴えられかねない。
「お、驚きだったなぁ……」
僕は笑いながらそう答えた。かき氷を食べていたはずなのに、喉はとっくに乾いていた。
「それにしても、凄い人の量だね」
半ば無理矢理に話題をそらす。
どこの花火大会もこれだけ人が集まるものなのだろうか。東京であれば、江戸川やら隅田川やら、いろいろな場所の花火大会が毎度毎度人込みが問題になっていると聞いていたし、実際に行った時も友人とはぐれてしまうほどだったが、この街の花火大会もなかなかなものだ。
並大抵なイベントではここまで集まらない。例えば、アメリカから大物スターが来日してこの街に訪れたとすれば、同じくらいの人込みになるだろう。
「そうですね、離れないよう気を付けないと」
彼女は四方から無規則に流れてくる人込みの圧に耐えながらそう呟いていた。
その時だった。どこかの人込みで流れが変化したのか、僕と東風谷さんの間で人の流れが大きく変わった。互いに正反対の方向に流れようとする。
東風谷さんが咄嗟に声をかけてくれたおかげで、僕もすぐに手を伸ばすことができた。
あと一歩遅かったら離れ離れになってしまうというところで、なんとか彼女の手を握ることができた。東風谷さんの姿が見えづらくなるほど人込みは密度を上げていく。掴んだ彼女の手を頼りに、僕は流れに逆らっていった。
互いに名前を呼び、無事か確認しあう。すみません、とすれ違う相手一人ひとりに謝罪をしながら、ようやく東風谷さんと再会することができた。
「大丈夫?」
「はい、ありがとうございます」
ようやく目の前に東風谷さんが現れた時、自然と安堵の息が漏れた。しかしそれもつかの間、今度は背中から押される圧力に負けてしまう。
東風谷さんをつぶしてしまわないよう、僕は咄嗟に背後にいた男性の背中に手をあててしまう。じろり、と鋭い眼光をさされ、すかさず僕は謝った。男は舌打ちして、こちらを向かなくなった。
「ちょっと怖かったですね」
男との間に人が数人割り込んできた、それから暫くして東風谷さんがそう呟いた。僕は静かに頷いた。
流れは依然、なだらかになる事をしらず、我先に進もうとする人がどんどん押しやる。このままだとまたいつ逸れてしまわないか、心配していると突然東風谷さんが僕の身体にしがみついた。
「ど、どうしたの?」
少し上ずった声で僕は尋ねた。東風谷さんは下を向いたまま答える。
「こうすれば離れる事もないと……少しでも油断すると、また離れ離れになってしまいそうで」
彼女の問いに、僕はあぁそうかと冷静さを取り戻した。それでも、彼女の顔が赤かった理由を聞くことも出来ず、それを読解することも出来なかった。
ただ、彼女から漂う優しい香りや温もりに、胸の鼓動を抑えながら鼻の息が荒くならないようこらえる事で精いっぱいだった。




