エピローグ 春色の世界
エピローグ 春色の世界
真っ白な廊下。僅かにピンク色に染まった壁は清潔感があり、けれど消毒液の匂いがするこの場所はあまり好きには慣れなかった。
名前も覚えた看護師さんとすれ違いざまに会釈を交わし、手前の角を曲がる。一番奥まで進んだ個室のドアの前に立ち、数回深呼吸。よしっ、と小さく気合いを入れて三回ノックして、ドアを開けた。
「こんにちは」
「ああ、透君か。こんにちは」
亮さんに挨拶をして、ここへ来る途中で買った花束を渡す。彼はいつもの優しい笑みを浮かべて受け取った。
「ゆきちゃん、透君が来てくれたよ」
亮さんがベッドの上の雪花に話しかける。しかし雪花は窓の外を向いたままの無反応。いつものこととは言え、見ていてキツイものがある。
「それじゃ、僕はこれを活けてくるから、ゆっくりしていって」
「はい。ありがとうございます」
亮さんが静かに部屋を出て行く。それを見送ってから、ベッドの傍の椅子に座り、彼女を見る。
雪花は窓の外を見ていた。ここは四階。窓の外に見えるのは遠くに見える街並みだけ。それなのに、雪花は飽きることもなく毎日外を見ていた。まるで心がないかのように。
毎度一言目が緊張する。今日であの日からちょうど四ヶ月も経つって言うのに、いまだに慣れない。情けない自分に腹が立つ。
「よ、よお。今日も窓の外なんか見て、なんか面白い物でもあるのか?」
努めて気さくに話しかける。そんなことをしても無意味だと思っていても、そうせずにはいられない。
声をかけてからしばらくして、ゆっくりと雪花が振り向く。無表情だった顔が少しだけ、ほんの少しだけ綻ぶ。
「こんにちは、雪花。今日も機嫌がよさそうだな」
桜咲く四月の病室。
そこには変わらず、雪花の姿があった。
◇◆◇◆
「外は気持ちいいだろ? あんな部屋の中に籠もっていたら治る物も治らないしな」
戻ってきた亮さんの了解を得て、俺は雪花と共に病院の中庭へとやってきた。自力では歩けない……いや、歩こうとはしない雪花を車椅子に乗せて、外の空気を吸いに来たのだ。
「今日は暖かいし、絶好の花見日和だな」
雪花からの返答はない。しかし、俺が話しかけると僅かに表情を変える。父である亮さんでさえ何も反応を示さないことから比べたら凄いことなのだという。
結論から言えば、雪花は死ななかった。十ヶ月が過ぎても、雪花は生きていた。ただし、今の雪花が『雪花』だと言えるのならばの話だが。
十ヶ月前のあの日。たしかに雪花は死んだ。ただし、死んだのは雪花の中にいた拓哉の魂のみ。雪花の中に残っていた雪花の心と記憶、そして雪花と一体となった後の拓哉の魂の欠片はこの世界に残ったのだ。
死神の言った十ヶ月という約束は拓哉にだけ適用される。雪花の話を聞いた俺はそう確信して死神に確認したところ、俺の考えは的中した。死ななければならないのは拓哉のみ。雪花と、雪花になった拓哉の一部は死ぬ必要がないのだ。だったら拓哉だけの魂を切り離し、それを死神に持っていって貰い、残った魂で雪花が生きていくことが出来るのならば、雪花は死なずに済むと俺は考えた。実際死神は魂を分割する術を有しているのは雪花の話で立証済み。問題はそれが現世で行えるかどうかだったが……死神はなんなくやってみせた。後は残された魂だけで雪花が雪花として生きていけるかどうかだ。
また、その過程で雪花の魂が完全に肉体から離れたわけではなく、僅かながらもその体に残っていたことも、死神との会話で知り得たことだ。それを伝えると、拓哉は涙を流すほどに喜んだ。何故拓哉が泣くほどに喜んだのかは分からないが……喜んでくれたのなら、この際どうでも良かった。
そうして約束の日。予告通り拓哉は完全に死に、残ったのは雪花となった拓哉の魂の欠片と、雪花の魂の欠片。その二つの欠片で今の雪花は生きている。正直、残されたどちらの魂も、欠片と言うのもはばかれる残り滓のような物。二つが合わさっても一人前の魂には到底及ばない脆弱な物。おかげで今の雪花の有様だ。俺以外には反応しない、廃人となった雪花。これでは生き残ったことの方がむしろ辛いのかもしれない。
しかし死神は最後にこう言っていた。魂とは肉体同様に成長するものだと。一つとなった魂はいつしか成長し、一人前の魂に成長したその時、雪花は目覚めるだろう、と。それは明日かもしれないし、数年後かもしれない。もしかすると一生このままかもしれない、と。
目覚めてくれればもちろん嬉しい。しかし俺は、もし一生このままだとしても、それでもいいと思った。
「そうだ。明日は久しぶりにデートでもするか。最近デートしてなかったからな。お前の好きなところに連れてってやるぞ」
雪花の肩に手を置きながら、後で明日の外出許可を取らないといけないなと考える。結構手続きが面倒なのだ。
「どこへ行きたい? またゲーセンでも行くか? この前覗いたらお前の好きそうな新しいぬいぐるみが入ってたから、それ取ってやるよ」
俺の声が届いたのか、はたまたきまぐれなのか。雪花が俺の手に自分の手を重ねてきた。初めて見る反応。俺は内心驚愕しつつも、努めて冷静に振る舞い、その手を握りしめた。
死んでいたかもしれない親友が、死んでいたかもしれない心から好きだと言える人が、今もこうして傍にいる。それだけで俺は誰よりも幸せだと思えた。
「明日、晴れると良いな」
話しかける声に、いつか返事がくることを楽しみにして、今日も俺は彼女の傍にいる。これからもずっと。




