第五話 届かない
第五話 届かない
翌週の日曜日。
いつもなら平日の疲れを取るために家で休息を取るのだが、この日は約束があった。
朝早くに起きて、雪花の記憶を頼りに作ったお弁当と水筒を大きなバッグに詰める。四、五人前のおかずやらおにぎりやらサンドウィッチが詰まった重箱みたいなお弁当箱は見た目通り重くて、そこに水筒を三本も入れたもんだから雪花の細腕では到底持ち上がらない重量になってしまった。
どうしようと悩んでいると、インターホンが鳴った。
「おっはよう、ゆき」
「おはよう、しいちゃん」
挨拶を交わして中に招き入れる。ダイニングテーブルに置かれた大きなバッグを見てしいちゃんが目を輝かせた。
「おー、約束通りお弁当作ってくれたんだね」
「うん。でも私じゃ重くて……」
「そういうことはあたしに任せてよ」
しいちゃんが軽々とバッグを持ち上げる。男でも結構キツイ重さなはずなのに、彼女は特に顔色も変えずにストラップを肩にかけてしまった。僕じゃ全然持ち上がりさえもしなかったのに……ちょっと情けなくなる。
「ゆき、忘れ物ない?」
「うん」
「そんじゃ、いきますか」
バッグをひっさげてしいちゃんが玄関へと向かう。僕は日よけ用の日傘を持って彼女の後を追った。
学園の校門へ行くと、待ち合わせの三十分も前なのに、沙織さんが既に待っていた。
「あら、早かったのね」
「それはこっちの台詞」
文庫本から顔を上げて事も無げに言う沙織さんに、しいちゃんは苦笑して肩を竦めた。
今日は学園のグラウンドで蓮池高校とのサッカーの試合がある。それを応援しにきたのだ。一人じゃ寂しかったのでしいちゃんと沙織さんを誘ったところ、「お昼にお弁当を作ってきてくれたら行ってあげる」とのことだったので、それを交換条件としてきてもらった。
十日前のあの日。沙織さんと仲良くすることを約束してくれたしいちゃんは、翌日には沙織さんに、今まで冷たく当たっていたことを謝罪し、許してくれるなら友達になってほしいと頼んだ。沙織さんは笑って、「ぜひ」と答えた。今では一週間までが嘘のようにいつも三人一緒にいるくらいに、僕達は仲良くなっていた。
「グラウンドにいきましょうか」
沙織さんに先導されて校内に入る。休日特有の雰囲気を醸し出す学校は特別に見える。校舎は誰もいなくてしんとしているのに、グラウンドの方からは賑やかな声が聞こえてくる。
「さて、ゆきの愛しの先輩はどこかなぁ~っと」
「私まだその先輩見たことないのよね。どの人なの?」
「結構かっこいいよ。身長高くてイケメン。ゆきって案外面食いだったんだよ」
「あら意外。ゆきはもっと大人しそうな人が好みかと思ってた」
「実際そうなんだけどね。でも、その先輩とは中学の時に図書館でバッタリ会ってから、毎日のように受験勉強に付き合ってくれたらしいのよ。おかげでゆきのタイプってわけじゃないのにもうべた惚れ」
「ふーん。いい人なのね」
……何も言えない。というより恥ずかしい。僕としては親友の透を褒められて多少嬉しいってだけなのに、関係のないその他の感情まで湧いてくる。
「うわっ、ゆき顔真っ赤」
「ちょっと弄りすぎたかしら。ごめんなさい、ゆき」
「う、ううん。気にしないで」
頬に手を当てると熱をもっていた。これだけ熱いと、しいちゃんの言うように顔中真っ赤なのかもしれない。
校舎の脇を通りグラウンドへ。グラウンドのすぐ横にある芝生の生えた広場には多くのギャラリーが詰めかけていた。
「人多いなあ」
「学園と蓮池の交流試合は毎年欠かさず行われていて、伝統になっているのよ。ちなみにここ最近は蓮池が二連勝中」
「うち負けてるのかー。……沙織ってそういうのに詳しいんだね」
にやりと口角を上げたしいちゃんが沙織さんに目をやる。
「わ、悪い? 受験すると決めたときに学園のことはいろいろ調べたのよ」
「沙織ってのめり込むととことんまでやっちゃうタイプ?」
「そうね。ゲームでも関連書籍が出ると揃えたくなるわ」
「ゲームやるんだ。あたしとゆきはそっちの方はさっぱりだよ」
ね? と同意を求めてくるしいちゃんに小さく頷く。僕も雪花もゲームはあまりやったことがない。ゲームセンターでクレーンゲームに硬貨を吸い取られるくらいだ。
「私もたくさんってわけじゃないわよ。シリーズ物をずっとやっているだけ」
「シリーズ物か……うんうん分かる。変な一発ものには手を出しにくいよね」
「何言ってるの。あなたはむしろゲテモノ好きでしょ? この前だってチョコレートプリン味だかなんだかのジュース買ってたじゃない」
「手を出しにくい、けれど出してしまう。そのスリルがたまらないっ」
「やっぱりゲテモノ好きじゃない。ね、ゆき」
「そうだね」
くすくすと笑う。しいちゃんと沙織さんが会話の主導を握り、僕が時折相槌を打つ。それが今の三人の関係だ。
グラウンドでは試合前のウォーミングアップが行われている。芝生の上に並んで座り、その様子を眺める。僕はその中から透の姿を探す。すぐに彼は見つかった。長い間練習を休んでいたようだけど、調子はいいようだ。動きのキレは三ヶ月前とほとんど変わらない。
と、その時、ふいに透がこちらを向いた。目がバッチリと合う。透は嬉しそうに笑い、手を振ってくる。同じように手を振ると、彼は指を三本立てて見せ、それから練習に戻っていった。
「槙納先輩、なんだって?」
「三点入れてみせるって」
試合前にやる彼のパフォーマンスのようなものだ。拓哉として応援していた頃も、彼はそう僕に宣言して自分自身を奮い立たせていた。
「ほぉ~……」
……ん、しいちゃんの様子がおかしい。彼女に目を向ける。
「いやぁ、心が通じ合っていますな~」
「へっ? いえ、あのっ」
にやりと笑うしいちゃんにしどろもどろになる。
「これはあたし達お邪魔だったかも?」
「そうね。そうかもしれないわ」
「いや絶対そうだって」
「も、もうしいちゃん!」
「あはは。ごめんごめん」
しいちゃんが笑いながら、僕から離れる。しいちゃんと沙織さんが仲良くなってくれたことは嬉しいけど、こうして毎日のように弄られるのは正直疲れる。
そうやって三人で戯れていると、グラウンドでは試合が始まっていた。
透はスターティングメンバーに選ばれたようで、ゼッケンをつけてフィールド内にいる。透はフォワードだ。果たして宣言したとおりに三点入れることができるかどうか、応援しつつ見守ることにした。
結果から言うと、善戦空しく学園三、蓮池四と、一点差で負けてしまった。今回は乱打戦になってしまい、攻撃陣の層の厚かった蓮池に軍配が上がったというところだろう。そんな中で透は二得点一アシストという成果を上げた。得点に絡んだという意味では公言通りの三点。さすが一年からレギュラーを勝ち取り、僕にサッカーを諦めさせた男だ。
「いやー、おしかったですねー」
「ええ。とくに最後の一点。一瞬の隙を突かれた、という感じでしたね」
試合終了後、それが当たり前というように僕の元へやってきた透に、しいちゃんはお昼を一緒にしないかと提案した。透は二つ返事で了承した。もしかしたらそういうこともあるかもしれないと、一、二人前多く作って持ってきてはいたものの、本当にこういう展開になるとは思ってもみなかった僕は、まさかのことに緊張しつつも透にお弁当を広げ、どうぞとすすめた。
心の奥から溢れてくる雪花の想いのせいで透の顔もろくに見れず、全然落ち着かない胸の鼓動にどうしていいか分からず泣きそうになってくる。それでもどうにか「食べられますか?」とか「美味しくなかったら遠慮しないでくださいね?」と声をかけることができ、返ってくる「うまい」という言葉に顔を綻ばせた。一生懸命作ったものを喜ばれるのは単純に嬉しい。料理をしてみるのもいいかもしれないと思った。作るのは意外に楽しかったし。
午後からは合同練習ということで、お弁当を食べ終える頃にはギャラリーもまばらになっていた。
「試合なら試合だけにして、練習なんてやめてほしいよな」
ごろんと横になった透が言う。
「まったくです。練習なんて週二か週三くらいでいいですよね」
「あなたの場合は練習がしたくないだけでしょ?」
「あ、ばれた?」
しいちゃんが笑い、沙織さんが肩を竦める。この中では僕だけが部活をしていない。ちょっと会話に入りづらくて寂しい。
お茶を飲もうとして水筒を持つと、いつの間にか空になっていた。
「飲み物買ってくるけど、ほしいのありますか?」
みんなに問いかける。
「あたしコーラ」
「私はオレンジジュースで」
「ああ、俺もいくよ。一人じゃ持てないだろ?」
注文を聞いたはずなのに、約一名、返ってきた答えが予想していたものと違っていた。透は僕が断る前に立ち上がり、とっとと先に歩いて行ってしまった。
「いってきなよ。ゆき」
どうしようかと迷っていると、しいちゃんがそう言って僕を後押しする。こちらを向いて待っている透を今更引き戻すわけにもいかず、僕は渋々彼の後を追った。
食堂近くにある自動販売機コーナーで飲み物を四本買う。全て持とうとする透に「それじゃ私が来た意味がない」と言って、二本奪い取った。
遠くのグラウンドから声が聞こえる。周りには人は誰もおらず、奇妙な静けさがあった。
「なあ、雪花ちゃん」
「はい、なんですか?」
隣を見る。透が足を止める。遅れて僕も立ち止まり、振り返る。
食堂前の広い中庭。それは『まさか』だった。
「好きだ。良かったら俺と付き合ってくれ」
「……え?」
突然の告白。最初僕は何を言われたか分からず、曖昧な笑みを返した。しかし、やがてその意味を理解したとき、僕は戦慄した。
……なんでだよ。なんでこんなタイミングで言うんだ? 言うならもっと場所とか雰囲気とかあるだろう? こんな不意打ちみたいな言い方。これじゃ逃げることも耳を塞ぐこともできないじゃないか。おかげでこの有様だ。
透が真剣な表情で僕を見つめる。僕の答えを待っているんだ。でも、言えるはずがない。僕は伊月拓哉だ。早雲雪花じゃない。雪花への告白に、僕が答えるわけにはいかないんだ。
僕からは、頷くことも、首を振ることも出来ない。しちゃいけない。だからそういう雰囲気にならないように、会うときは気を遣っていた。なのに、しいちゃんと沙織さんがやっと友達になってくれたから、それで気が緩んでしまった。人の少ないところで、彼と二人になるべきじゃなかった。
取り返しのつかないことをしてしまった自分自身に苛立ち、悔しくて目から涙が溢れる。ぐっと歯を食いしばる。それでも心の奥から溢れてくる喜びに、僅かに顔がほころぶ。きっと今の僕はもの凄い顔をしているだろう。
最初は頬を紅潮させていた透も、僕の様子がおかしいことに気付いたのだろう。怪訝な顔をして心配そうに手を伸ばしてきた。
「お、おい、だいじ――」
伸びてきた手を払う。だめだ。今透に触れられたら頷いてしまうかもしれない。お願いします、と言ってしまうかもしれない。それだけ雪花の想いは強かった。だから「ごめんなさい」と、断ることも出来なかった。
「……っ」
唇を噛んで、涙を拭い、彼を睨み付ける。胸がぎゅっと締め付けられるように痛む。
ごめん。透。
心の中でそっと謝って、僕はその場から走り去った。
君の想いは、もう彼女に届かないんだ。
◇◆◇◆
しいちゃんと沙織さんに何を言わず家に帰ってきてから一時間。僕を心配した二人からメールが届いた。
『何があったの? 大丈夫?』
二人から届いたのは、どちらも僕のことを案じる内容だった。それはとても嬉しくて、けれど今は一人にしてほしかった僕は、『今から家に行っていい?』と送ってきたしいちゃんに、『何でもない。気にしないで』と返事して断わった。
きっと明日には学校でそれとなく事情を聞かれるだろう。なんて答えよう。考えながら、電気のついていない暗い部屋の中、ベッドにゴロンと横になった。枕に顔を埋め、いろいろと思考を巡らす。しかし、すぐにそれが億劫になり、頭を空っぽにしてぼーっとする。そうすると少しずつ心が落ち着いていった。
……意地でも断ればよかっただろうか。いや、それはできなかった。あの時、喉から出かかったのは「私も好きです」という言葉。僕の想いではない、強すぎる雪花の想い。きっとあのまま、あと一分でもあそこに居続けていたら、間違いなく僕はその言葉を口にしていた。満面の笑みと共に。
それなら素直に雪花の気持ちを伝えれば良かったかといえば、それも駄目だろう。その場で嘘をつくのは容易い。自分を偽り、雪花の想いそのままに受け入れればいいのだ。しかし、その後に続くであろう透との関係をどうすればいいのか僕にはさっぱり見当がつかない。僕は拓哉だ。決して雪花ではない。見た目や記憶は彼女でも、考えて行動するのは僕なんだ。
断るのは無理。了承するのは駄目。そうなると残る方法は逃げること。耳を塞ぎ、目を閉じて、聞かなかったことに、見なかったことにすること。僕が今さっきとった方法だ。しかし、それが最善の選択とは到底思えない。ただ問題を先延ばしにしただけに過ぎない。だからといって他にいい手はと考えても浮かばない。結局、堂々巡りするだけだ。
そうしてベッドの上で思考の渦に飲まれてどれだけ経ったのだろう。ドアをノックする音で我に返った。
『ゆきちゃん、入っていいかい?』
「……どうぞ」
慌てて目尻を拭い、ベッドの縁に座る。少し間を置いて亮さんがドアを開けて入ってくる。先日のこともあり、できるだけ務めて明るく振る舞う。
「仕事早かったですね。帰ってくるのは夜になるって言ってたのに」
「うん。担当さんが都合つかなくなって、午後の予定がなくなったんだ」
そっか、と呟いて視線を落とす。足先を見て親指と親指をくっつける。離す。またくっつける。また離す。それを繰り返していると、ベッドが左側に沈み込んだ。ちらりと視線を向けると、そこには亮さんがいた。
「なにかあったのかい?」
「なにが、ですか?」
惚けてみせた。彼は苦笑する。
「僕はゆきちゃんのお父さんだよ。娘に何かあったことくらい分かるよ」
「娘、ですか」
棘のある言い方。彼は何も言わない。代わりにその手が伸びてきて、僕の目尻に触れる。泣いていたことがばれてしまっていた。
パシッ、と音がする。僕が亮さんの手を払い除けたのだ。
「……ごめん」
「なんで亮さんが謝るんですか」
「ごめん」
悪いのは僕なのに、亮さんは寂しそうに笑って謝罪した。それが僕を腹立たせた。
「だから、なんで謝るんですか」
「ゆきちゃんが悩んでいるのに、力にもなれない」
「私の問題です。亮さんが気にする事じゃありません」
「君の父親なんだ。力になりたいんだ」
瞬間、あの日の夢がフラッシュバックする。夢の中の彼と、目の前の彼。あまりにも違う姿。苛立ちが募る。
「今更になって、父親面ですか……」
「ごめん」
感情に任せて、最低なことを口走ってしまう。それでも、彼は怒ることはなかった。苛立ちが怒りに変化する。どうしてその優しさを雪花に与えなかったのか、と。
「……なんでそんなに優しいんですか」
「だから、それは僕が君の――」
「だったらなんであの時優しくしてくれなかったんですか! なんであの時私に構ってくれなかったんですか! なんであの時私を見てくれなかったんですか!」
彼の言葉を遮って、僕は声を上げた。
紡がれた言葉は、僕のものではなかった。構ってほしい、自分を見てほしいという、夢の中の光景の雪花の想い。それなのに仕事に夢中で見向きもしない亮さん。それが雪花のお母さんが死んでからあの日まで毎日のように繰り返された日常だった。でも今では、こんなに近くで雪花のことを見てくれている。心配してくれている。優しくしてくれている。
……遅いんだよ。
「本当にすまないと思ってる」
彼は娘に頭を下げた。あまりにも惨めで、目を背けた。
「あの時の僕は……逃げてしまったんだ。ずっとお母さんにゆきちゃんのことを任せっきりにして仕事ばかりに明け暮れていた僕には、思春期のゆきちゃんとどう向き合えばいいのか分からなかった。悩んだ末に、同僚から聞いた『年頃の娘に五月蠅く言うと嫌われる。ある程度は好きにさせたほうがいい』という話を悪いほうに鵜呑みにして、それを実行してしまった。本当はただ逃げただけだった。これで仕事に打ち込める、と。何度ゆきちゃんが呼びかけても、ゆきちゃんが辛い思いをしていることに気付いても、気づかないふりをして、目を背けてしまうほどに」
亮さんが自嘲するように笑う。
「間違いに気付いたのが、ゆきちゃんが大怪我をして病院に運ばれた時だって言うんだから、笑えないよね。死ぬかもしれないってときになって、やっと気付くなんて、遅すぎるよね……」
ああそうだ。遅すぎた。もう雪花はここにいないのだから。
「手遅れだと言うことは百も承知してる。でも、もう一度だけチャンスがほしい。許してくれなくてもいい。ただ、ゆきちゃんの父親としてできることをしたいんだ」
まっすぐな目。彼の本心。しかしそれは雪花に届いているようで、届いていない。彼はそのことを知らない。知ることはないだろう。
「自己満足ですか……」
「そう思ってくれて構わない」
「……私のために、今の仕事を辞めてくださいといえば、やめてくれますか?」
「ゆきちゃんが望むなら」
即答。しかし彼はきっと辞めないだろう。今時あれほど融通の利く会社はそうないし、今さら職種を変えるなんて難しい。結局今の仕事が環境的にもいいのだ。
僕はくすっと笑う。雪花になってから、彼女に、そして周りに振り回されっぱなしだ。感情が毎日のように激しく上下してとても疲れてしまう。しかし、これが家族というものなのだろうか。疲れるけど、ちょっと雪花が羨ましい。
そう思えば、亮さんへの怒りも幾分落ち着いた。雪花は優しい子だ。彼女が今の父親を見れば、きっとすぐに許していただろうから。
「冗談です。あの時のことは今も許せませんが、少しずつ自分の中で解決しようとは思っています。私も亮さんとは仲良くしたいですから」
途端に亮さんが目を潤ませて、ありがとう、と僕の手を握る。今度は振り払わない。その手は温かかったから。
まだ僕のことを心配する亮さんを部屋から追い出して、再びベッドに横になる。一時間くらいそうしてから起き上がり、机に向かう。手紙を一通書き、それを持って家を出た。
数十分かけてやってきたのは、伊月家のあるマンションの前。
悩んだ末の結論だった。
亮さんを見てて思った。雪花を取り巻く環境は、どれも片手間で対処できるようなものではない。それこそ本腰を入れて取り込まなければならないものばかりだ。
僕は雪花のふりをして、頃合いを見て兄さんや透に正体を明かし、感謝と謝罪をして、そして死んでいくつもりだった。でもそんなことは無理だった。片手間でできるほど、雪花のふりをするのは簡単なことじゃなかった。それにやっと気付いた。いや、気付くことにした。
元々こうして生きていられるのも奇跡なんだ。透や兄さんの姿だって、影ながら見ることができる。これ以上何を望むことがあるだろうか。
拓哉との繋がりである、兄さんとの関係をこの手紙で断ち切ろう。差出人の書かれていない手紙。一応拓哉の筆跡に似せたけど、それでも雪花の文字になってしまった。
『兄さん、本当にありがとう』
ただ一言だけ書かれた便せん。いたずらだと思われたらそれまで。もしも僕だと思ってくれたら儲けもの。それぐらいの軽い気持ち。軽い気持ちと思って、これを出すことにした。そしてこれを出すことで、僕は雪花となろう。彼女が生きていたら感じられたであろう世界を、僕が代わりとなって受け止めよう。そう遠くない未来で、彼女と会えたときに、色々と話せるように。
玄関の横にあるポストから、202号室のを見つける。中にはいくつかの郵便物が入っている。失礼だとは思いつつ、その中から一つ掴み、引っ張り出す。四ヶ月前まで見慣れた、兄さんの名前がそこにあった。兄さんはまだここに住んでいるようだ。
ポケットから手紙を取り出す。水色の女の子らしいデザインの封筒。なんでもっとシンプルなものにしなかったのかと苦笑する。今更遅いけど。
ポストに入れるため、手紙を右手に持ち直す。深呼吸をして、それを投函しようとした。
そのときだった。ふいに隣から腕が伸び、僕の手紙を奪い取った。一瞬何が起こったのか分からず、目をぱちくりする。すぐに我に返り、慌ててその人物に目を向けた。
「ま、槙納先輩……」
そこにいたのは透だった。
なぜここに透がいる? いやそれよりも、どうして僕の手紙を奪い取った?
疑問が頭を駆け巡る。しかしその答えはすぐに出た。彼は僕に断りもせず、封筒を開けたのだ。
「……そういうことか」
手紙をクシャッと握りつぶし、僕を睨み付けた。その表情を雪花は知らない。知っているのは拓哉である僕だ。
「……拓哉」
彼が僕の名を呼ぶ。四ヶ月ぶりに聞く僕の名前はまるで他人のようで、けれど僕の涙腺を刺激した。いろいろな感情が僕を責め立てる。その中から、一番今の自分に素直な感情を表に出すことにした。
首を傾げ、彼の顔を覗き込む。
「やあ、久しぶり、透。気付いてくれて嬉しいよ」
◇◆◇◆
「……ふう。やっとついた」
額に滲んだ汗を拭う。息を吸い、吐き出して、ちらりと後ろを見やる。そこには憤然とした表情の透が息を切らすことなく立っていた。それが今の僕と彼の間にできてしまった溝のように思えて、チクリと胸が痛んだ。
でも、ちゃんと付いてきてくれて良かった。ここへ来るまでの間、透は一言も喋らず、僕ばかりが喋っていたから、もしかすると途中で帰ってしまうんじゃないかと心配していたのだけど、良かった。……まあ、僕が透の質問に何も答えずにここへ誘ったのだから、彼が勝手に帰るなんてことはないんだろうけど。
「ここに来るのも久しぶりだね。六、七年振り?」
相変わらず返事はない。苦笑して前に向き直り、奥へ進む。返事はなくとも付いてくる。そのことにほっと胸を撫で下ろし、そしてまた胸が痛んだ。
ほんの三ヶ月前まで住んでいたマンションから徒歩五分のところにある公園は、小さい頃よく遊んだ馴染みの場所であり、その時の唯一の遊び相手だった彼と二人でこうしてやってきたのは小学校低学年の頃以来だった。
僕が住んでいたマンションは山裾のあたりに立地し、平地に建つ学園や雪花の家よりもそれなりに標高の高いところにある。公園はそこからさらに高い場所に位置しているせいで、伊月家からでも結構急な上り坂を歩かないといけない。おかげで体力のない雪花の体ではたった五分ほどの道のりのはずなのに酷く遠く感じた。
「あの鉄棒でどっちが先に逆上がりが出来るようになるか、競争したよね。あっちのぶらんこでは靴の飛ばし合い。あれ、回旋塔がなくなってる。砂場も使用できません、かあ……」
誰もいない廃れた公園に哀愁を感じつつ、透に語りかける。返事はきっと返ってこないだろうことは分かっているのに、静寂が怖くて、僕はバカみたいにひたすら口を動かし続けた。
やがて公園の一番奥にたどり着いた。木製の手すりに手を置いてそこからの景色に目を細めた。
眼下に広がるのは見慣れたはずの町並み。遠くには学園が見える。この公園は高台になっていて、街を見下ろすことが出来た。
昔より発展した、いち地方都市の街。変わったはずなのに、こうして遠くから見ると、あまり変わったようには見えない。街の輪郭がそのままだからだろうか。それとも大都会のような高層ビルがないせいだろうか。
「ああそうだ。透、知ってる?」
立ち止まっても、僕は話し続けた。
「小学生だった頃に良く通った駄菓子屋さんがこの前なくなったんだよ。別に売れなくなったわけじゃないけど、そこのおばさんがもう歳で店番がしんどくなったんだっ――」
「拓哉」
心臓が跳ね上がる。声がつまり、思わず喉のあたりを手で押さえた。
名前を呼ばれただけ。ただそれだけなのに、胸が詰まるくらいに嬉しくて……怖くなった。
「ん、なに?」
街を見下ろしたまま、後ろにいる透に背を向けたままに返事する。僅かに震える手でぎゅっと手すりを握りしめる。
「本当に、拓哉なんだな?」
「うん。今更隠さないよ。だからここへ来たんだし」
雪花の記憶にこの公園はない。一度もここへ来たことはないのだろう。存在自体知らないはず。
ここは僕と透の思い出の公園なのだ。
「そうか」
数秒の沈黙のあと、それだけ言ってまた透は静かになった。代わりに聞こえるのは風の音。それと時々遠くから聞こえる車のクラクションの音。風が吹いていなかったら、きっと僕はこの沈黙に耐えられなかっただろう。だから、透の次の言葉まで、なんとか待つことが出来た。交通事故で死んだ僕には、クラクションの音は聞くに堪えなかったから。
「……どうして教えてくれなかったんだ」
透は絞り出すように言った。振り返ることのない僕には、今透がどんな顔をしているのか分からないけど、きっと怒りに満ちた顔をしていることだろう。
「どうしてって言われても、ね」
「お前――っ」
努めて明るく振る舞ったのが駄目だったのか、はたまた背を向けたままの僕の態度が悪かったのか、
「俺や隆広さんがどれだけ悲しんだと思ってんだ!」
僕の態度が透の逆鱗に触れたようだ。彼の怒声が僕の胸に突き刺さる。思わずぎゅっと胸を押さえた。
予想できたことだ。これくらいなら耐えられる。
「うん。それは知ってる。葬式とかいろいろ。その後の面倒なことも手伝ってくれたみたいで、ほんとありがとう」
それでも、僕は態度を改めない。背中を向けて、なんてことはないように呟く。それが今の僕の精一杯だった。
「そうじゃない! なんでそんな他人事みたいに言えるんだよ!」
「そうは言っても、今の僕は雪花だから」
「お前は拓哉なんだろ!?」
「そうだよ。でも今は雪花なんだ」
「ぐっ……。お前はそうやって、今までずっと雪花のふりをして騙してたのかよ。俺や隆広さんのことを黙って見てたのかよ!」
パキッと背後で音がした。ただ木の枝が折れただけだ。それだけなのに肩がビクッと震えた。
「……うん。そうだよ。今の僕にはそれしかできないし」
声が震えている。透にばれただろうか。
「んなことないだろ!」
良かった、ばれてないようだ。
「……いつからだ?」
「何が?」
「いつからお前は雪花ちゃんになってたんだ?」
「車椅子で図書館で会ったときだよ。僕が事故に遭ったとき、彼女も事故に遭っていた。彼女も僕と同じくその時死んだんだ。そして、信じられないかもしれないけど、僕は死神に会ったんだ。そして、死神は言ったんだ。雪花としてなら生き返ることができるって。そうして、僕は生き返ったんだ」
震えてしまいそうな声を懸命に抑えて、あの時のことを思い出しながら、僕は透に伝えた。できるだけ客観的に、冷静に。そうしないと、死んでしまった彼女のことを想って泣いてしまいそうだった。
「雪花ちゃんが……」
か細い声。もしかしてと思い僕は振り返った。予想に反して透は泣いていなかったけど、拳を固く握りしめて俯いていた。泣くものかと、ぎりぎりのところで堪えているように見えた。
こんなところで伝えるべきことじゃなかったかもしれない。後悔していたその時、ふいに透は顔を上げ、僕を睨み付けた。
「お前は雪花ちゃんの体まで奪っておきながら、俺達にそれを隠し、一人のうのうと過ごしてたのか!?」
「のうのうって、別に僕は――っ!」
透が僕に近寄り、両肩を掴んだ。彼の手はあまりにも大きく、その力はとても強かった。思わず顔を歪める。
「お前が死んでから、俺がどれだけ悲しんだか知ってるか!? 親友のお前がいなくなって、体から大事な物が抜け落ちたみたいに、何もする気がおきなくて、家に籠もって、学校にも行かずにベッドの上で蹲って、ずっとお前のことばかり考えて……。それがなんだよ! 生きてたならすぐに言えよ! なんで隠してんだよ!? 俺を嘲笑ってたのか!?」
「――っ!」
それはあまりにも酷い。彼が言うように、いくら僕が雪花の体を奪ったからと言って、透や兄さんを嘲笑うために隠してたわけじゃ決してない。
もう我慢の限界だ。言い返してやる。別に隠してたわけじゃない。僕だって言える物なら透と初めて会ったときに言っていた。でも今の僕は雪花だ。きっとあの時の透じゃ信じてくれなかっただろうし、雪花に好意を寄せていた彼に言えるはずもなかった。兄さんも同じだ。そうして言う機会を逃し、日が経つ毎に言いづらくなり、今日まで来てしまったんだ。他にも雪花としいちゃんや、雪花と亮さんとのあれこれがあって、結局ついさっき、これからは雪花として生きていくことを決めたばかりで、やっぱり透と兄さんにはこれからも隠していくことを決めたばかりで……
「……た、拓哉?」
「なに?」
言い返そうとしたその時、透の声に顔を上げると、何故か彼は怪訝な顔をして僕を見ていた。
いや、それよりもいつの間にか僕は俯いていたようだ。そのことに驚いていると、
「なんでお前が泣くんだよ」
「……っ」
泣いてなんかない。そう答えようとして口を開いたのに声が出なかった。手を喉へと持っていく。するとポタリと何かが手の甲に落ちた。視線を下げる。それは透明な液体だった。ゆっくりと両手を頬に当てた。
僕は泣いていた。
「うぐ……ひっく……うぅ……」
一度気付いてしまうともう駄目だった。一度決壊したダムをせき止めることはできないように、一度流れ出した感情と涙を止めることはできなかった。
「お、おい。拓哉」
「うっ……えぅ……っく……」
止めるすべを知らない僕はただただ泣き続けた。喉が詰まり、感情を声にして発散することができない分、それは涙となって頬を伝い落ちた。
それでも何か言わないといけない。強迫観念のようにそればかりが頭の中をぐるぐると駆け巡る。
そうしてようやく、僕の気持ちが言葉となる。
「……僕だって、雪花になりたくてなったわけじゃない。そうじゃないと僕は死ぬしかなかったんだ!」
涙は溢れたまま。決して格好は付いていないだろう。それでも言うしかなかった。
「僕が拓哉だって、言えるものならすぐにでも言いたかった。でも、そんなこと言えるわけないだろ!?」
「拓哉……」
何を思ったのか、透が手を伸ばす。その手が頬に触れそうになったところで払い除けた。
「雪花は透のことが好きで、透も雪花のことが好きで、でも雪花は僕で、しいちゃんは沙織さんと喧嘩するし、亮さんとは仲良くなれないし」
「拓哉」
「言えるわけないじゃないか! 僕が拓也だって、言えるわけないじゃないか! 言ったらきっと――」
「拓哉!」
僕の名を叫ぶ透の声。同時に力強い、けれど暖かい何かが僕の体を包み込んだ。
「はっ、はなしてよ!」
精一杯の力で暴れる。それなのに透はさらに力を込めて僕を抱きしめた。溢れた涙が彼のシャツに吸い込まれていく。
「はなして! はな――!」
「……悪かった」
透が耳元で囁く。短い謝罪の言葉。たったそれだけなのに、僕は雷に打たれたかのような衝撃を受けてしまう。突き放そうとしていた腕をだらんと下げて、透の胸に額を当てる。
「……っ」
「ごめん。お前のこと、何も考えてなかった。そうだよな。俺なんかより、お前の方がよっぽど辛かったんだよな。……悪かった」
透の腕が僕の頭を抱えて引き寄せる。悪かった、ごめんと呟き続ける彼の言葉に、涙腺はさらに緩み、彼のシャツの色を変えていく。
「うぅ……透、透……」
「ごめん。そしてありがとうな。戻ってきてくれて」
もう駄目だった。その言葉が合図となった。
「うわあああぁぁぁぁ!!」
透に抱きしめられ、きつく握りしめた両手を彼の胸に押しつけて、僕は子供のように泣きじゃくった。
◇◆◇◆
それは数分か、それとも数十分なのか。
どれだけ時間が経ったのかも分からないくらいに泣く僕を、透はずっと抱きしめてくれていた。僕が泣き止むまで、僕が目を擦り、顔を上げるまで、その大きな腕で優しく包み込んでくれていた。
落ち着いた僕は、あの交通事故から今日までのことをかいつまんで話した。僕が交通事故に遭った日に、雪花自身も事故に遭い、亡くなっていたこと。死神に会い、まだ僕は死ぬべき時ではなかったこと。しかし生き返るには雪花になるしかないこと。そうして僕は雪花として生き返ったこと。
とても信じられない、非現実的な話なのに、透は疑うことなく信じてくれた。
「僕が嘘を言っているのかもしれないよ?」
そう言っても透は
「お前は間違いなく拓哉だよ。その拓哉がこんなときに嘘を言うはずがない」
と真っ直ぐに僕の目を見て言った。姿が変わってしまった僕をなお信用する透に、久しく忘れていた親友という二文字の言葉が浮かび、緩くなった涙腺からまた涙を流しながら、ありがとうと、心からの感謝を伝えた。
そして、
「透には悪いけど、君にばれても、やっぱり僕はこれからも雪花として過ごしたいんだ。雪花は死んでしまったけど、その記憶や心は今もこの体に残ってる。雪花の友達のしいちゃ……志衣奈さんや沙織さん、それに雪花の父親の亮さんに心配はかけさせたくない。死神の話はどうであれ、僕は一度死んだんだ。だから――」
「分かった。隆広さんには何も言わない。俺もお前のことはこれからも雪花ちゃんだと思って接することにする。それでいいんだよな?」
「……うん」
正直、兄さんに何も伝えないのは心が痛い。でも、やっと立ち直ったであろう兄さんにぬか喜びをさせるわけにはいかなかった。だって僕の命はあと……。
「……お前がそう決めたのなら、俺もそれに従う。けどよ、こうして二人の時くらいは、お前のことを拓哉だと思ってもいいよな?」
「それくらいは別に良いよ。ただし、どこからばれるか分からないから、拓哉って呼ぶのはなし。表面上はちゃんと僕のことを後輩の雪花として扱うこと」
「ああ、それでいいよ」
頷いた透がやっと笑う。僕もそれに釣られて笑う。しかし、僕の笑みはぎこちない。
結局僕はこの時、透に言えなかった。
僕に残された時間が、そんなに多くないことを。