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それが僕の歩いた道  作者: 本知そら
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第四話 君は悪くない

   第四話 君は悪くない



 最初は退屈でつまらないと思っていた病院生活も、看護師さんや担当医、時々お見舞いに来てくれた雪花の友達、そしてなにより亮さんのおかげでそれなりに楽しく過ごすことができた。とくにリハビリが始まった後半は夜の九時になると疲れて寝てしまっていたから、ぼーっと過ごす時間がほとんどないくらいに充実していた。気が付けばあっという間に三月も終わり、今日は四月二日。退院の日だった。

「ゆきちゃん。忘れ物はないかい?」

 病室の入口に立つ亮さんが部屋をぐるりと見回している。何度も確認したから、もう私物は残っていないはずだ。そう思いつつも、再度ベッドの下を覗き込んでいるあたり、我ながら心配性だなあと苦笑してしまう。

 今度こそ忘れ物がないのを確認して、ベッドの上のバッグを閉じて肩にかける。

「……っと。ふぅ」

 たったこれだけの動作だというのに、僕は大きく息をついていた。入院明けということを差し引いても、元々の体力がないこの体では、あまり中身の入っていないバッグを持つのも一苦労なのだ。

「ゆきちゃん、それ持とうか?」

 両肩に大きなボストンバッグをかけた亮さんが優しい言葉をかけてくれる。しかし僕は首を横に振る。

「いえ、大丈夫です。これくらいなら持てますから」

 リハビリを終えたばかりの両足にぐっと力を入れて、バッグを持って歩く。まだまだ完治とは言えないけれど、それでも退院までに車椅子も松葉杖もなしで歩けるようになったのはほんと良かった。

 亮さんの娘になる。そう誓った僕だけど、いまだ彼のことは亮さん、そして言葉遣いもそのままで変わることはなかった。お父さんというものがいなかった僕にその単語はとても言えるものじゃなかったし、一時期預けられていた親戚のおじさんにもこんな話し方をしていたから、そう簡単に変えられるものではなかった。

「辛そうだね。やっぱり持つよ」

「え、あの」

「いいからいいから」

 彼の手がバッグへと伸び、軽々と取られてしまう。

「……それじゃお願いします」

 それでも、僕の彼に対する態度は以前に比べて軟化し、彼の言葉を幾分素直に受け入れることができるようになった。

 僕の言葉にニコリと微笑み、病室のドアを開ける。病室を出ると、そこには顔見知りの看護師さんが数人並んでいた。

「退院おめでとう。はいこれ、お祝いよ」

「おめでとう、雪花ちゃん」

「あ、ありがとうございます」

 仲の良かった藍野あいのさんと高山たかやまさんから大きな熊のぬいぐるみと花束を受け取る。きっとそれらは拓哉の頃だったら喜ばなかったであろう贈り物。けれど雪花である今の僕にはとても嬉しい退院祝いだった。

 入院中、家にあるぬいぐるみをいくつか持って来ようかと尋ねる亮さんに、僕は邪魔になるだろうからと断っていた。そのためこのぬいぐるみが雪花になって初めて目にし、触るぬいぐるみだった。

 ぬいぐるみを触るのなんて何年ぶりだろう。それにしても……なるほど。うん。かわいい。ずんぐりとした形もいいけど、このつぶらな瞳が何とも言えない。触り心地ももふもふしていて気持ちがいいし、雪花がぬいぐるみ好きというのも分かる気がする。

「気に入ってくれて良かったわ」

 藍野さんの言葉でハッと我に返る。いつの間にかぬいぐるみに夢中になってしまった。これでも来週には入学式を控えている高校生だというのだからおかしなことだ。

「はい。大事にします」

 それでも、そういう高校生がいてもいいかなと、最近は思うようになってきた。いろんな人がいるから、この世界は面白いんだと思う。と、ちょっと偉そうなことを考えてみたり。

 ぬいぐるみを抱きしめる僕に微笑みかける看護師さん達。お世話になったみなさんに深くお辞儀をして、僕と亮さんは病院を後にした。


 病院から車で十分。どこにでもあるような住宅街の一角に佇む木造二階建ての一軒家。それが僕と亮さんの家だった。

「一応綺麗にしたつもりだけど、ゆきちゃんが掃除してくれていたときより汚れているかもしれない。汚かったらごめんね」

 申し訳なさそうに言って、亮さんが玄関の鍵を開けて中に入っていく。開け放たれたドア、僕がその前で躊躇していると、

「おかえり」

 靴を脱ぎ、振り返った彼が言う。期待するような目。彼が何を求めているのかは分かっている。親子であればなんでもない一言だ。けれど気恥ずかしかった僕は口元が見えないようにぬいぐるみをぎゅっと抱きしめてから一歩、家の中に足を踏み入れた。

 そして、

「ただいま」

 たった一言。たったそれだけなのに、亮さんはとても嬉しそうに笑ってくれた。

「ゆきちゃんの荷物は後で僕が持って上がるから、先に行って休んでていいよ。そのぬいぐるみ、結構重たいみたいだから」

 僕の身長の三分の一はあるそれを見て彼が苦笑する。あまり重そうに持ってたつもりはないのに、どうしてばれたのだろう。とにかく重いのは事実。ここは素直に彼に甘えよう。

 亮さんに軽く頭を下げて廊下を真っ直ぐ進んだ先の階段を上る。二階に上がるとすぐ左のドアを開いた。記憶に間違いはなく、そこは雪花の部屋だった。

 部屋の中には所狭しとぬいぐるみが並べられていた。勉強机と本棚が一つ、そしてクローゼット、それ以外はほぼぬいぐるみに占拠されているといってもいいくらいだ。これならぬいぐるみ好きと言われて疑いようはない。よくもまあこれだけ集めたものだ。

 部屋を見回して、勉強机の隣に少しスペースを見つけたので、そこに看護師さんからもらったぬいぐるみを置くことにした。スペース的にぴったりだった。

 やっと腕の力を抜くことができて、小さく息を吐きながらベッドの縁に腰掛ける。淡いピンクの花柄ベッドは女の子らしいかわいらしいデザインで、壁紙もよく見れば桜の花びらを模したものになっている。どこから見ても女の子の部屋だった。

 落ち着かないような、落ち着くような、変な気持ちで手足をぱたぱたさせていると、ふとベッドの上に抱き枕を見つけた。雪花が使っていたものだろうか、少し汚れている。寝るときは何も必要としなかった僕は抱き枕なんて使ったことがなかった。興味をそそられたのでためしに抱きしめて横になってみる。

 あ、これいいかも。大きさがちょうど良くて、抱き心地が……凄く……。

 …………はっ。危ない。危うく寝てしまうところだった。疲れているせいもあるだろうけど、この抱き枕の抱き心地があまりにも良くて、横になった途端にすうっと瞼が下りてきてしまった。そのまま寝てしまってもいいかなと一瞬思ったけど、今日はまだやることがあるのだ。

 抱き枕を脇に置いたところでコンコンとドアがノックされた。

「ゆきちゃん、入るよ」

「はい、どうぞ」

 ゆっくりとドアが開き、亮さんが部屋の中に――

「ゆきー!」

「へ? わわっ!?」

 彼の脇をすり抜けてきた何かが僕に飛びついた。それを受け止めることができず、僕はベッドに押し倒された。

 誰? と混乱するものの、僕に覆い被さる彼女を見て、ああなんだとすぐに理解し、苦笑した。

「退院おめでとー!」

 満面の笑みの彼女は、雪花の幼馴染みで親友である西園寺志衣奈だった。

「ありがとう、しいちゃん」

 雪花は彼女のことをしいちゃんと呼んでいた。亮さんのことはお父さんと呼ぶことはできなかったけど、彼女のことをそう呼ぶのはそれほど抵抗はなかった。もちろん最初病室で会ったときは一般的な感じに「志衣奈ちゃん」と呼んだ。しかし彼女はそれを聞くと頬を膨らませて怒ってしまった。仕方なく「しいちゃん」と呼び直したところ、すぐに彼女は機嫌を取り戻した。そんな経緯があり、今ではしいちゃんと呼ぶのが当たり前になっている。亮さんの時もこうしてくれていれば、「お父さん」って今頃呼べたのだろうか。なんて考えてしまうけど、あの亮さんが頬を膨らませて怒っているところを想像して、それはないかなと笑ってしまった。

 しいちゃんに手を引かれて体を起こす。

「あれ、しいちゃん午後から来るって言ってなかった?」

「一刻も早く愛しのゆきに会いたくてフライングしちゃった」

 てへっと小さく舌を出す。その仕草は彼女に合っていて、不覚にもかわいいなあと思ってしまう。

「でもお昼ご飯どうするの?」

「それはもちろん……おじさんお願いします!」

 しいちゃんがベッドの上で土下座する。亮さんがプッと吹き出した。

「うん。いいよ。なにが食べたい?」

「やった! あたしはなんでもいいです」

 二人がこちらに目を向ける。

「私もなんでもいいよ」

「うーん……よしっ。ここはゆきに決めて貰おう。ほら、インスピレーション的な何かがキュピーンときて、食べたいものが思い浮かんだりしない?」

「え、えぇっと……」

 突然お昼の決定権を与えられ、必死に頭を巡らせる。あ、そういえば昨日テレビでラーメンの特集を見て、退院したら食べたいなあって思ったんだった。

「ラーメンはどうかな?」

『ラーメン?』

 二人の声が重なる。退院直後にラーメンっていうのはおかしいのかな。

「ゆきにしては珍しいわね」

 ああそうか。雪花はあまりラーメンを食べなかったんだ。人の好みはそれぞれ。結構無難な線だと思ったけどそうじゃなかったらしい。

「ラーメンなら出前もしてくれるとこで美味しいところ知っているから、そこに注文しようか」

「はいはい。あたしは塩バターラーメンが食べたいです」

「ゆきちゃんは?」

「しょうゆラーメンでお願いします」

 テレビのラーメン特集がしょうゆ限定だったのだ。

「塩バターにしょうゆだね。たぶん今から注文したら届くのは五十分後くらいかな。それまでゆっくりでいいから荷物の片付けでもしててよ」

「はーい」

 僕より先にしいちゃんが返事する。なんで彼女が返事したのだろう。じっと見つめていたら、僕の言葉を待たずに亮さんは下に降りていってしまった。

「さてと、それじゃ片付けますか」

 しいちゃんがベッドから立ち上がる。慌ててそれに続く。

「し、しいちゃんは何か他のことしてていいよ。片付けは私がするから」

「何言ってるの。手伝うために今日は来たんだよ? お昼ご飯もごちそうになるんだし、これくらいは働かないと」

 言いながら亮さんが持ってきたバッグの一つを掴んだ。

「そ、それはだめっ」

 しいちゃんからバッグをひったくる。僕の行動に驚いた彼女が目をぱちくりさせている。

「あれ、なんで?」

「そ、その……これには下着が入ってるから……」

 しいちゃんから目をそらして言う。恥ずかしくて頬が熱い。それなのに彼女は僕を見て笑い出した。

「女同士で恥ずかしいって、二ヶ月前まで一緒にお風呂に入った仲じゃない。下着どころかその下まで――」

「わー! わー!」

 誰に聞かれるわけでもないのに、猛烈に恥ずかしくて彼女の口を押さえた。

「んー、んー」

「と、とにかく片付けを手伝ってくれるならあっちのバッグをお願い。いい?」

 コクコクと頷くしいちゃん。本当に分かってくれたのか怪しいので、このバッグはしいちゃんの手の届かないところで開けよう。口から手を離すと同時に彼女と距離を取る。不満そうにしていたけど気にしない。彼女に見えないようにして下着を衣類ケースに仕舞っていく。

「もー。ゆきは相変わらず恥ずかしがり屋だなー」

「いいからそっちお願い」

「はいはい」

 渋々といった様子で別のバッグに手を付ける。下着を全部片付け終え、残りをしいちゃんと協力してクローゼットに収めていく。

「あ、学園の制服だ」

 クローゼットにあったそれを見つけたしいちゃんが手に取り広げてみせる。たしかにそれは千里学園高校、通称『学園』の女子の制服だった。ベージュのブレザーに赤のチェックスカートという今時風なデザインは中学生の間では結構評判がいいらしく、これを着たいが為に入学を希望する人もいるのだとか。

「楽しみだなあ。ゆきと学園に通うの」

「……うん」

 楽しみなのは間違いない。けれど僕の場合はそれ以上に、女の子としてちゃんとやっていけるかどうかの方が問題で、緊張でお腹が痛くなりそうだ。

「同じクラスだといいね」

「うん」

 入学式まであと一週間。そこには透もいる。雪花と透の関係を知ったうえで、僕は彼とどう向き合えばいいのか。いまだその答えを見つけられずにいた。


 ◇◆◇◆


 まどろみから目を覚ますと、そこは見慣れた病室の天井とは違い、白い生地に桜色の花びらがプリントされていた。

 ねぼけた頭に疑問符が浮かぶ。ここはどこだろう、と。数秒後、そこが自分の部屋、正確には雪花である自分の部屋だと気付いて安堵する。

 抱き枕を持ったまま上半身を起こす。欠伸をして周りを見回すと、数え切れないほどのぬいぐるみと目が合った。よくこんな部屋でぐっすり寝られるものだと我ながら感心する。

「おはよう」

 ためしに挨拶をしてみた。何がためしになのか分からないけど、なぜかそうしてみたかった。もちろん返事が返ってくることはない。

「……なにしてるんだろ」

 気恥ずかしくなって抱き枕に顔を埋める。と、その時けたたましい電子音が部屋中に響いた。ビクッと体を震わせ、急いで目覚まし時計を数回叩く。すぐに部屋はしんと静まりかえった。

「びっくりした……」

 まだ胸がドキドキしている。しかしおかげで目が覚めた。んっと伸びをして、抱き枕を脇に置き、ベッドから這い出る。クローゼットを開き、中から制服を取り出す。スカートのそれは幾度となく見た制服だけど、着ることはなかった千里学園の女子の制服だ。

「見る分にはいいんだけどね」

 まさかそれを着ることになるとは思ってもいなくて、知らず知らずため息が漏れる。

 まあ、先に朝ご飯を食べよう。入学式はお昼を過ぎてからだ。

 制服を姿見にかけて、僕は部屋を出た。

 四月八日。今日は私立千里学園高等学校の入学式の日だ。


「ほら、次あたし達の番だよ」

「しいちゃん、そんなに慌てないで」

 しいちゃんが僕の手を引く。彼女は人前であろうと関係なく僕と手を繋ぎたがる。男の頃ではありえないスキンシップだ。

 入学式は一緒に行こうと家まで迎えに来たしいちゃんは、玄関を出てからずっと僕の手を握りしめていた。振り解こうにも僕の力じゃどうしようもないし、なにより「ゆきはまだ本調子じゃないんだから、あたしが面倒ないと」とお姉さん風を吹かされては何も言えなかった。今の僕では「一人でも大丈夫」とはとても言えなかった。

 学園の校門の支柱に立て掛けられた入学式の看板。そこは入学記念にと写真を撮る友人家族で人がいっぱいだった。僕達もその中の一組で、今やっとその順番が回ってきたのだ。

「あ、ゆき、リボンが曲がってる」

 しいちゃんが胸元に手を伸ばす。こうされていると、本当にお姉さんのようだ。

「これでよし」

 しいちゃんが少し離れて僕を見る。じろじろ見られるのは好きじゃない。しかも今着ているのは初めての制服だ。どこかおかしくないかと気が気で落ち着かない。

「ね、ねえ。変じゃないかな?」

「ぜんっぜん。似合っててかわいいよ」

 しいちゃんがグッと親指を立てる。それを聞いてほっとするものの、今度は羞恥心が沸いてくる。

「ゆき、あたしはどう?」

「へ? え、えっと……」

 視線を上下させる。靴紐は解けていない。スカートやブレザーに皺はないし、リボンも曲がってない。髪に寝癖もない。

「うん、大丈夫」

「あたしかわいい?」

「かわいいよ」

「ゆきの方がかわいいよっ」

 しいちゃんが抱き付いてくる。機嫌がいいのは分かるけど、こんな人前でやるのはやめてほしい。

「それじゃ、おじさんお願いしまーす」

 しいちゃんが手を振って合図を送る。

「はい。撮るよー」

 亮さんがカメラを構える。と同時にしいちゃんが腕を絡めてきた。ふにゅと柔らかな感触が腕から伝わってくる。

「し、しいちゃん!?」

「いいからいいから。ほら、笑って」

 しいちゃんがカメラを指さす。

「はい、ちーず」

 亮さんの掛け声とともにフラッシュが焚かれる。場所を空けるためにそこから離れて、デシカメの液晶画面を三人で覗く。そこには僕の腕に抱きついて笑うしいちゃんと、頬を赤くして口を半開きにした雪花が写っていた。

「もう、しいちゃんのせいで変な顔してる」

「いいじゃんいいじゃん、かわいいんだから。真面目な顔して立ってるよりよっぽどいいって」

「そうかなぁ……」

「そうそう。ね、おじさんもそう思いますよね?」

「うん。ゆきちゃんらしくていいと思うよ」

 これのどのあたりが雪花らしいのだろう。よく分からない。

「それより早く校内見て回ろうよ。クラス分けも早く知りたいし」

「ちょ、ちょっとしいちゃん引っ張らないで」

 しいちゃんに手を引かれて校門をくぐる。校門から昇降口へと続く道は、1年間通い慣れたはずなのにどこか違って見える。雪花と拓哉で身長に差があるせいだろうか。しかし左右の駐車場の脇に咲く桜からは懐かしさを覚える。

「街の真ん中にあるのに広いねー」

「うん」

 僕も一年前に入学したときに同じことを思った。学校の外は建物が乱立してごちゃごちゃしているのに、ここは街の中心部だということを感じさせない広々とした作りになっている。見上げてもそこには視界を邪魔する電線はなく、青い空が見渡せる。街の騒音も防音性の高い窓を閉めれば気にならないし、全室空調完備なので夏でも冬でも快適に授業を受けられる。さすが私立校。寄付金のおかげで学校の設備は公立校とは比べものにならない。

「ん? あそこに人が集まってる。なんだろ?」

 しいちゃんが昇降口の横にできた人だかりを指さす。大きなホワイトボードがいくつか並び、みんなはそれを熱心に見ている。

 思い出した。あれはクラス分けを張り出しているんだ。去年も僕はここで自分の所属するクラスを知ったのだ。

「たぶんクラス分けじゃないかな」

「なぬっ。早く見に行こう!」

 しいちゃんがまた走り出そうとする。その前に手を引っ張ってやめさせる。

「だから手を繋いだまま走らないで」

「ん、ああ、ごめんごめん。なんかテンション上がっちゃって」

 しいちゃんが笑い、今度はゆっくりと歩き出す。今度は僕に合わせてくれているみたいだ。

 ホワイトボードに張り出された紙にはずらっと名前が並んでいた。やはりクラス分けのようだ。この中から自分の名前を探さないといけないのだけど、これが大変だ。拓哉の時なら無理矢理人をかき分けて近くで見れたのに、今はそうもいかない。軽く走るのがやっとなこの体で、人混みの中に分け入るなんて恐ろしくてできない。もみくちゃにされるのがおちだ。

「あたし見てくるから、ゆきは安全なところに避難しておくよーに」

 そう言ってしいちゃんが人混みの中に消えていく。ここは彼女に任せよう。結構無理矢理進んでいったけど、大丈夫かな。

 言いつけ通りに数歩後ろに下がって、安全なところからしいちゃんが消えた先を眺める。しかし、しばらくすると人が増え始め、すぐに僕のいるところにまで人の波が押し寄せてきた。

 もうちょっと下がろう。そう思ってさらに数歩後ろに下がったとき、トンッと背中に何かが当たった。予想していなかった衝撃に足から力が抜け、その場にへたり込んでしまった。

「ごめんなさい。大丈夫?」

 頭の上から女の子の声がした。さっき当たったのはこの人のようだ。彼女の心配そうな声に申し訳ない気持ちになる。悪いのは後ろを見ずに下がった僕なのだ。彼女が謝る必要なんて何一つない。

「はい。大丈夫です」

 とは言ってみたけど、すぐには立てそうになかった。足に力が入らないのだ。

「あの、私のことは気にせずに」

 先に彼女の不安を取り除こうと思った僕は顔を上げて言った。

 彼女は長い黒髪に眼鏡をかけた、いかにも学級委員長をしてそうな容姿をした女の子だった。しかし肌は少し日に焼けているようで、何かスポーツをしているのかもしれない。胸元につけた校章が白いことから、彼女も一年生のようだ。

「立てる?」

 差し伸べられた手を掴み立ち上がると、左膝のあたりに鈍い痛みが走った。座り込んだときに膝を地面にぶつけたらしい。

「あなた、血が出てるじゃない!?」

 彼女が大袈裟に驚く。視線を下げるとたしかに膝から血が少し出ていた。肌が白いから少し目立つ。

「早く保健室に行きましょう」

「大丈夫。こういうときのために絆創膏を持ち歩いてるから」

 取り乱す彼女を安心させるように、鞄から取り出した絆創膏を傷口に貼り、「ねっ?」と微笑みかける。そうしてやっと彼女の顔から緊張が消えた。

「私の方こそごめんね。ちょっと当たっただけで座っちゃって。後ろも見てなかったし」

「いいえ。こちらこそあなたが前にいることに気付いていたのに、ホワイトボードにばかり気を取られて忘れていたわ。ごめんなさい」

 お互いぺこぺこと頭を下げ、謝り合う。それが少しおかしくて、目が合った途端二人で笑ってしまった。

「そういえば自己紹介まだだったわね。わたしは兼森沙織かなもりさおり。沙織でよろしく」

「私は早雲雪花。雪花でいいよ。あ、でも友達からはよく、ゆきって呼ばれてるかな」

「じゃあわたしもゆきって呼ばせて貰うわ」

「うん」

 まだ自分のクラスも分かっていないのに同学年の知り合いができた。これは幸先のいいスタートだ。

「おーい、ゆきー」

 お互いの自己紹介を終えたところでしいちゃんが戻ってきた。凄く嬉しそうに手を振っていることから容易に結果を想像できた。

「聞いて聞いて! あたしたち、なんと同じクラ……ん? ゆき、この子は?」

 怪訝な顔をして沙織さんを見つめる。なんとなく空気が悪いのは気のせいだろうか。

「さっき知り合った兼森沙織さん」

「ふーん」

 明らかに態度が悪い。それを沙織さんも感じているようで、ニコッと笑顔を作って手を差し出した。

「兼森沙織よ。これからよろしく」

「西園寺志衣奈。ゆきの幼馴染み」

 沙織さんの手を取らず、ぶっきらぼうに挨拶する。あれ、なんでこんなにしいちゃん機嫌が悪いんだろう。

「そんなことより聞いてよゆき。あたし達同じクラスだよ!」

 さっきまでの不機嫌さはどこへやら、満面の笑みを浮かべて僕の両手を取り、上下にブンブンと振った。

「ほんと?」

「ほんとほんと! 写メも撮ったんだから!」

 しいちゃんがスマートフォンを取り出して見せてくれる。本当に雪花としいちゃんの名前が同じクラスにあった。

「……あ、わたしの名前」

 横から覗いていた沙織さんが画面を指さす。一番隅で半分くらいしか見えていないけど、たしかにそれは兼森沙織と読むことができた。

「沙織さんも同じクラスだね」

「ええ」

 喜ぶ僕と沙織さん。ただ一人、しいちゃんだけが不機嫌そうだった。


 ◇◆◇◆


 学校初日は滞りなく進んだ。入学式は特筆することもなく、ホームルームでは担任の先生が生徒に優しく評判のいい地理の山中先生だと知って安堵し、自己紹介では多少言葉を詰まらせたもののなんとか無難にこなすことができた。夜には僕と亮さん、しいちゃんとしいちゃんの両親とで小さなパーティを開いた。おめでとうという言葉に、僕は涙が出そうになった。

 翌日からはさっそく授業が始まった。しいちゃんは高校の授業は難しいと弱音を吐いていたけど、一度習ったことのある僕は復習をしているようなもので、苦ではなかった。

 学校ではしいちゃんは元より、席替えをして近くになった女の子と大抵の時間を過ごした。たとえ僕が元男でも、今は雪花という女の子であり、親友のしいちゃんがいることもあって、男子よりも女子と時間を共にすることが多く、自然と女子の輪の中に入っていった。しかしそれで女子グループとだけ仲がいいというわけでは決してなく、前の席の前野君とはよく話をするし、右斜め前の有間君にはノートを貸して、そのお返しにジュースを奢ったりしてもらったりと、それなりに交流していた。僕の記憶が確かなら、大抵男子と仲のいい女子というのは一部の女の子から嫌われたりするはずなのだけど、沙織さん曰く、

「男女分け隔てなく接するあなたを嫌うなんて、それはただの僻み。自分がちっぽけな人間だと言っているようなものよ」

 だそうで、特定の女の子から嫌われたりすることはなかった。おそらく元男だったことが功を奏しているようだ。

 こうして、蓮池高校に入学してから一ヶ月。僕の高校生活はさしたる問題もなく順調そのものだった。

 ただ一つ。あることを除いては。


 六限目の終わりを告げるチャイムが鳴り、遅れて先生が教室から出て行った。今日一日の授業が全て終了し、弾けるようにしてクラスのみんなが一斉に騒ぎ出す。どこにそんな元気があるんだろうと羨ましがりつつ、机に頬杖をつき大きく息を吐いた。

 疲れた。

 とにかくその一言。一日中ペンを走らせ続けた手は痛いし、頭は鉛でも入っているかのように重い。それに加え、今日はお腹もシクシクと痛い。疲労困憊。今の僕にはそんな言葉が綺麗に当てはまる。部活なんてするつもりはなかったけど、どうせこれでは到底無理だ。

「お疲れ、ゆき」

 ぽんっと肩を叩かれて、顔を上げる。朝と変わらず元気なしいちゃんがそこにいた。

「お疲れ様」

「うわっ、顔青いよ。大丈夫?」

「なんとか」

 ぎこちない笑みを浮かべて言うと、しいちゃんは顔を寄せて耳元で囁いた。

「……一日目?」

「う、うん」

 頬が熱くなるのを感じつつ、頷く。

「そっか。ゆきは重いから大変だね。たしか二日目が最悪なんだっけ。明日は学校休む?」

「たぶん動けないから、休むと思う」

 女の子同士なのだから、こういう話をするのは普通だって理解してはいるけど、自分の体の特徴を教えているようで恥ずかしい。

「明日はゆきいないのかぁ。つまんないないあ」

「ごめんね」

「ゆきが気にすることないよ。あたしが寂しがり屋なだけだから。それよりも一人で帰れる? なんなら送っていこうか?」

「えっと……」

 言い淀んで、視線だけを右にずらす。しいちゃんの肩にはラケットケースがかけられていた。

「今日はテニス部の練習あるんだよね?」

 僕の言葉にハッとして、ラケットケースを背中に隠す。今更そんなことしても意味ないのに。

「き、気にしないで。練習なんて出たいときに出ればいいんだし」

「駄目だよ。ちゃんと練習はしないと」

「でも」

「私のことは心配しないで。一人でもちゃんと帰れるから。もう高校生なんだよ?」

「……わかった」

 渋々としいちゃんが頷いた。これでいい。僕のことを心配してくれるのは嬉しいけど、それで彼女に迷惑をかけるようなことはしたくなかった。

 しいちゃんは親身になって僕の面倒を見てくれる。その優しさを入学当初はどう断ればいいか分からず、ずるずると甘えてしまっていたけど、今では彼女の性格も把握し、彼女にはできるだけ自分のことを優先してもらっている。しいちゃんは僕の意見を尊重してくれる。ちゃんと断ればそれに従ってくれるのだ。

「無理したら駄目だからね? 少しでも気分悪くなったら、遠慮せずあたしか、おじさんに電話するように」

「うん」

 返事をしつつ、内心苦笑する。これじゃ親友や幼馴染みというよりも、本当にお姉さんみたいだ。

「志衣奈さん。部活行きましょ」

 席替えで遠くになってしまった沙織さんがラケットケースを背負ってやってきた。彼女もしいちゃんと同じテニス部に所属している。小さく手を振ると笑顔で振り返してくれた。

「あたしはもう少しゆきと話していくから、一人でお先にどうぞ」

 しいちゃんは不快感を隠そうともせず、眉間に皺を寄せ、沙織さんを邪険に扱う。

「そう? じゃあわたしもゆきと――」

 しいちゃんの鋭い眼差しが沙織さんへ向けられる。沙織さんは口をつぐみ、小さくため息をついた。

「はいはい。分かりました。わたしは先に行くわよ。ゆき、また明日ね」

「あ……うん、また明日」

 明日は休む予定だとはこの険悪な雰囲気では言えなかった。僕が声には出さず「ごめんね」と口を動かすと、沙織さんも同じようにして笑った。たぶん「気にしないで」と言ったのだと思う。

 しいちゃんは沙織さんが教室から出て行くまでずっと睨み付けていた。クラスのみんなもその空気を読んでなのか、教室のざわつきが静かになっていた。

 沙織さんが見えなくなると、しいちゃんはゆっくりと一度目を閉じてから僕に向き直った。その時にはいつもの彼女に戻っていた。

「し、しいちゃん。あの――」

「そうだ、ゆき。四限目の数学の宿題って教科書のどこからどこだっけ? 書いとくの忘れちゃってさ」

 強引にはぐらかされた。蒸し返すわけにもいかず、彼女の話に合わせる。このままでいいはずないのに、僕にはどうすればいいのか分からなかった。


 入学してからずっと沙織さんに対するしいちゃんの態度は変わらなかった。

 何もかも順風満帆、とはいかないようだ。


 ◇◆◇◆


「それは大変だな」

「そうなんですよ。もうどうしたらいいか分からなくて」

 ぐでーっとテーブルに上半身を預けて、大変さを体で表現する。実際体は怠くて、姿勢を正して座るのは少々辛かった。

 放課後。そのまま家に帰るのもどうかと思った僕は、いつものように図書館へと向かった。そこには待ち合わせをしたわけでもないのに透がいて、話の流れでプレナスへとやってきていた。

 話の内容はさっきのこと。しいちゃんと沙織さんの関係だ。

「沙織さんって子はしいちゃんと仲良くしたいわけだろ。それなのにしいちゃんはなぜか沙織さんにきつく当たる。理由はさっぱり分からない……か」

「はい。しいちゃん、沙織さんと出会ったときからああなんです」

「せめて原因が分かればなあ」

 ズゾーっと透が咥えたストローから音がする。

「先輩。音を鳴らさないでください」

「ん? ああ、悪い悪い」

 まったく。見た目は結構格好いいし、こんなふうに悩みも聞いてくれるいい人なのに、要所要所が残念な奴だ。

「そんなんだから女子にもてないんですよ」

「うぐっ」

 透がたじろぐ。曲がりなりにも一応の先輩に対してこれは失礼なのだろうけど、入学式から数日後に、

『本当に先輩になったからといって畏まることはないぞ。今まで通り気安く話してくれ』

 と透自らに改めるよう言われてしまったのだ。どうやら元々の雪花もこれくらいくだけた調子で話していたらしい。

「い、いいんだよ別に。俺は……」

 ごにょごょと口ごもり、またズゾーっと音をさせてストローを吸う。

 俺は……。そのあとに続く言葉は容易に想像できる。しかし、だからといって僕がそれに応えるわけにはいかない。僕は雪花じゃない。雪花の姿をした拓哉なのだ。たとえ亮さんの娘として振る舞うと心に決めても、それはあくまでふりをするだけ。亮さんを悲しませないように、心配させないように、そのために彼女のふりをしているのだ。心まで彼女になったわけじゃない。

 だから、透の想いを僕が受け取るわけにはいかなかった。容認することも、否定することも、どちらもしてはいけないんだ。

「そ、そうだ。来週の日曜に学校のグラウンドで試合があるんだよ。良かったら見に来ないか?」

「はい、ぜひ」

 焦った様子で話す透を見て胸が痛む。「僕は拓哉だ」と言えたらどれだけ楽だろう。しかし、それはできなかった。なぜなら、

「よっしゃ。久しぶりの試合だから、ヘマしないようにしないとな」

「あんまり頑張りすぎて、怪我しないようにしてくださいね」

 透は二週間前までサッカー部に顔を出していなかったらしい。僕には「怠かったから」と笑って説明したけど、透はそんな理由で練習を休む奴じゃない。間違いなく僕のせいだった。

「これで試合にもやる気が出るってもんだ。やっぱり試合は誰かに応援されないとな」

 以前ならその役目は僕と、まだ中学生だった雪花の二人だった。しかし僕が死んだせいで彼はサッカーから離れてしまった。それが二ヶ月経って、やっとまた試合に出るまでに立ち直ってくれたのだ。こんなタイミングで僕の正体を明かすことなんてできなかった。

「そんなわけでちょっと練習に力入れたいから、ここにはあまり来られなくなる。悪い」

「私のことは気にしないでください。元々会う約束もなにもしてなかったんですから」

「そういえばそうだったな。ははは」

 透が笑う。それを見られただけでも、こうして雪花となって戻ってきたことに意味はあったと思う。

「部活といえば、部活じゃその二人はどうしてるんだ?」

「別々の子と組んでやっているそうです。沙織さんからは何度も誘っているそうですが」

「うーん……なんなんだろうな。きつく当たってるのが沙織さんだけってことは、雪花ちゃんを他人に取られたくないから、ってわけでもないんだろ? ……もうこうなったら直接本人に聞くしかないんじゃないか?」

「ち、直接ですか!?」

「ああ。それしかないだろ」

 なんとなくそんな気はしていたけど、それだけは避けて通りたかった。しいちゃんを傷つけてしまうだろうから。でもこのまま二人が仲が悪いままというのも放っておけない。ここは彼が言うように、勇気を出してしいちゃんから事情を聞き、解決策を見つけるしかないのだろう。

「……そうですね。わ、わかりました。やってみます」

「おう。頑張れよ。俺も試合頑張るからさ」

 透の激励は相変わらず適当だ。でもそれだけでしいちゃんに真正面からぶつかってみようという気になれた。単純だな、僕は。


 ◇◆◇◆


 翌日はしいちゃんに伝えたとおり学校を休んだ。拓哉だった頃は皆勤賞とまではいかないまでも、年に一日か二日程度しか休むことがなかったので、まさか入学して一ヶ月で休むことになったのは少し悔しかった。

 頭が痛い。お腹が痛い。気のせいか脚まで痛い。特にお腹の痛みが酷く、のたうち回りたいほどなのだけど、そうする体力がなくて、起きてからずっと布団の中で丸くなっている。そのままじっとしていたいのに、時々トイレへ行かないといけないのだからほんと大変だ。もしこれが一回きりだというのなら別にいい。なんとか我慢できる。しかし、先月もこうだったし、先々月もこうだった。きっと毎月最低一日はこういう日があるのだろう。それを考えるだけで憂鬱になる。人によって症状の度合は違うとしても、こんな痛みを毎月抱えるなんて、女の人は凄い。同情を通り越して賞賛に値すると思う。とりあえず僕は我慢できそうになかった。

「ゆきちゃん。体の具合はどうだい?」

 ドアをノックする音の後に亮さんの声が聞こえた。ドアに背を向けていたので僕から彼の姿は見えない。

 彼には今の僕の姿を見られたくなかった。こんな辛い思いをしなくていい男に悟られ、心配されるのが嫌だった。だから彼にはどうして寝込んでいるのかは言っていない。しかし、それでも雪花の父親なのだ。きっと感づいてはいるのだろう。それがまた僕の羞恥心を煽り、いらいらとさせた。

「だい、じょうぶです。放っておいて、ください……」

 口を動かすのも体力を使う。恥ずかしいやら、同情されたくないやら、いろいろな感情がごちゃごちゃと頭の中を駆け巡り、口をついて出たのは拒絶だった。

「そ、そうか。ごめんね、今日は仕事でどうしても出掛けないといけないんだ」

 申し訳なさそうに彼が言う。僕としてはそっちのほうが都合がいい。彼がいるといらいらしっぱなしになってしまう。

「学校には休むって連絡を入れたよ。出来るだけ早く帰ってくるけど、たぶん遅くなる。何かあったら電話して。あとそれと夕方にはし――」

「分かったから、早く行って、ください。おくれますよ……」

「……ごめんね」

 ふいに何かが頭に触れた。それは僕の髪を撫でつけるように動く。優しく、包み込むように温かくて……

 気持ち悪かった。

 パシッと乾いた音が響いた。一瞬なんの音か分からなかった。しかし、左腕がひんやりするのを感じて、僕が彼の手を払い除けたのだと知った。

「……あ。……あぁ」

 声にならない声。僕は何をした? 何をしてしまった? いや、今はそれよりも彼に何か言わないと。一体何を?

 ぐちゃぐちゃだった頭の中が真っ白になる。真っ白になりすぎて、何も考えられない。

「……ごめんね。いってきます」

「あの……まって……まってください!」

 重い体を持ち上げて、彼に向けて叫ぶ。叫んだつもりだった。しかしその声は扉の向こうに行ってしまった彼まで届くことはなかった。


 ◇◆◇◆


 ねぇ、お父さん。ご飯できたよ。

 そうか。後で食べるから置いといて。

 うん。


 ねぇ、お父さん。この前の試験で私百点取ったんだよ。

 そうか。その調子で次も頑張りなさい。

 ……うん。


 ねぇ、お父さん。明日学校で文化祭があるんだけど……。

 そうか。頑張って。

 うん。そ、それでね、良かったらお父さんも――

 悪い、ゆきちゃん。お父さん明後日までにこの仕事終わらせないといけないんだ。ご飯は置いといて貰えれば後で食べるから。

 あの……うん。お仕事頑張ってね。


 ねぇ、お父さん。明日暇?

 そうだな……明日は特に用事もないかな。

 ほんと? 私、見たい映画があるんだ。ホラー映画なんだけど、一人じゃ怖くて……。

 ゆきちゃん、そういうのは友達と見に行きなさい。親と映画なんて、学校の友達に笑われるんじゃないかい?

 そんなこと、私は気にしな――

 僕に気を遣わなくていいから。志衣奈ちゃんを誘いなさい。

 ……はい。


 ねぇ、お父さん。私、第一志望の千里学園に受かったよ。

 そうか。頑張ったな。

 う、うん! 私、凄くがんば――

 振り込み用紙が届いたら持っておいで。お金のことは心配しなくていいよ。ああでも、もし一人暮らしがしたいというなら、少し相談しようか。

 え? 別に私は一人暮らしなんて……。

 遠慮しなくていいよ。高校生にもなれば家を出て一人で暮らしたくなってもおかしくない。僕がいいところを探してあげるよ。ただし、それなりに条件は付けさせて貰うけどね。

 …………。


 ねぇ、お父さん。ご飯できたよ。

 そうか。後で食べるから置いといて。

 ……し、仕事終わるまで待ってるから、一緒に食べよ? ……一人は寂しいよ。

 ゆきちゃん。もうすぐで高校生なんだから。

 でも、私ずっとお父さんと一緒にご飯食べて――

 ごめん、ゆきちゃん。仕事の電話だから向こう行って貰えるかな。

 …………っ。


 ◇◆◇◆


 ぼんやりとした意識がゆっくりと鮮明になって、目を開けるとそこは朝と同じベッドの上だった。

 夢、か……。

 断片的に覚えているのは、雪花である僕が亮さんの仕事部屋の前に立ち、彼の背中を見て話しているところ。僕は振り向いて欲しくて話しているのに、決して彼は手を休めることはなく、振り返ることはなかった。それはとても寂しかった。

 頬のあたりがひんやりとして、触ってみると濡れていた。枕も凄いことになっている。寝ている間ずっと泣いていたようだ。

 頭と目と胸とお腹が痛い。頭とお腹はさっきよりだいぶマシになっていた。目はずっと泣いていたせいだ。胸の痛みはよく分からない。

 喉が渇いた。何か飲もう。

 体を起こし、ベッドから這い出る。ベッドの脇に置いてあったグラスの水はもうない。寝る前に薬と一緒に飲んでしまった。

 床に足を付け、ゆっくりと立ち上がる。けれどすぐにへたり込んでしまった。

「はあ、はあ……」

 まともに動けてもいないのに、すでに息は上がっていた。冷蔵庫のあるリビングは一階。ここは二階。いつもなら数秒の距離も今は果てしなく遠く感じる。

 とにかく休もう。ベッドに戻るのも億劫でその場に横になってしまう。床が痛かったけど体を起こす気にはなれなかった。

「亮さん。声、元気なかったな……」

 朝のことを思い出す。触れてきた手を払い除けた時の彼の表情、それは今にも泣きそうだった。

 別に頭を撫でられるのは嫌じゃない。むしろ嬉しいくらいだ。心が温かくなる。それなのにさっきはなぜか、とにかく気持ち悪かった。触れてほしくなかった。声も聞きたくなかった。そんなこと思ってはいけないのに、思ってしまった。きっと情緒不安定なせいだ。そうに違いない。それでも、僕は彼を悲しませてしまった。娘としてあり得ない行為だ。

「……っ」

 また涙が溢れてきた。寝る前にあれだけ泣いて、寝てる間も泣いたのに、まだ涙は出るらしい。

 亮さん。ごめんなさい。

 心の中で何度もその言葉を呟く。彼が帰ったときに、ちゃんと詰まらず言えるように。


「……っ! ……っ!」

 誰かが呼んでいる。僕じゃない僕を呼んでいる。うっすらと目を開けると、それは見知った顔だった。

「ゆき! ゆき!? 良かった、起きたのね……」

「あれ、しいちゃん? おはよう……」

「まったく、人を心配させないの」

 僕はしいちゃんに抱きしめられていた。ここは……僕の部屋? そうか。さっき床に寝転んだまま寝てしまったんだ。

 しいちゃんに抱えられてベッドに戻される。布団をかけられ、額を触られる。

「熱は……ちょっと熱いかな。もう、なんで床なんかで寝てたの。五月だからって風邪引くよ? ゆきはただでさえ風邪を引きやすいんだから」

「あはは……ごめんね。寝るつもりはなかったんだけど、ちょっと疲れちゃって」

「なんで疲れて床で寝てるの?」

「喉が渇いたから飲み物取りに行こうとしたんだけど……ベッドから出るのが精一杯でした」

 あまりにも情けなくて自嘲するように笑う。

「なるほど。はあ……あまり無理しないようにね。飲み物なら……はい、お見舞いのイチゴミルク」

「ありがとう、しいちゃん」

「おっと、ちょっとまって、ストローさすから。……はい、今度こそどうぞ」

 しいちゃんから紙パックのイチゴミルクを両手で受け取り、ストローを咥える。甘くて美味しい。そんな僕をしいちゃんはじっと見つめていた。

「ゆきって小動物みたいだよね」

「どういう意味?」

「見てると癒やされる」

「――っ!? こほっ、こほっ」

 しいちゃんが変なことを言うから、驚いて器官に入ってしまった。涙目で胸を押さえると「大丈夫?」と彼女は背中をさすってくれた。呼吸を整えてため息をつく。

「病人を見て癒やされるって」

「いやいや今だけじゃなくて、いつでもどんなときでも、ゆきがそこにいるだけで癒やされるんだよ。あたしは」

「また大袈裟な」

「大袈裟じゃないよ。きっとクラスのみんなもそうだよ。それと、槙納先輩も」

 しいちゃんが口角を釣り上げ、目を細くした。驚愕し、同時に顔が熱くなった。

「えっ、えぇっ!? し、しいちゃん、先輩のこと知ってるの!?」

「知ってるも何も、中学の時一緒にサッカーの試合見に行ったじゃん。あたしは別にいいっていうのに、ゆきがどうしても一緒に行って欲しいって……あっ、そっか。ゆき、昔の記憶がところどころないんだよね。ごめん」

 見るからに気持ちが沈んでいくしいちゃん。僕は首を横に振ると、もう一度「ごめんね」と言ってから、いつもの彼女に戻った。

「今も槙納先輩とは会ってるんでしょ?」

「う、うん」

「ゆき、大事にされてるんだね。いい先輩だよ。うんうん」

 しいちゃんが腕を組んで頷く。僕はそこに違和感を感じた。透に対してはこんなに肯定的なのに、どうして沙織さんにはあんなにきつく当たるんだろう。

 ちょっと卑怯だけど、聞くなら今だと思った。二人きり。そして僕は病人。しいちゃんならきっと僕を置いてどこかに行ってしまうことはない。なぜかそう確信できた。

 少し鼓動が早くなったのを感じつつ、勇気を振り絞って声にした。

「ねぇ、しいちゃん――」

「沙織のこと?」

 目を見開く。僕よりも先に彼女の口からその名前が出て来るなんて思いもしなかった。

「何年一緒にいると思ってるの? ゆきの考えていることぐらい分かるよ」

 しいちゃんが寂しそうに笑う。「んーっ」と伸びをして僕を真正面から見据える。

「沙織っていい子だよね。あんなにあたしが辛く当たってるのに、まだ傍にいるんだから。知ってる? あの子部活でも毎日あたしに練習しようって声かけてくるんだよ? 睨んだり無視したりしてるのに、普通ありえないよね。あたしならすぐにこんな奴と仲良くなれるかーって怒って、二度と近寄ることなんてないのにさ。たぶん平手くらい出てもおかしくないと思う」

 しいちゃんの言葉が信じられなかった。いつも沙織さんをあんなに敵意をむき出しにして睨んでいたのに、その彼女を「いい子」だと、自分よりもずっといい子だと、しいちゃんは言ったんだ。あんなにきつく当たっているのに、沙織さんのことを認めていたんだ。

 じゃあどうしてそんなふうに辛く当たるのか。当然の疑問が湧いてくる。あんなことをしても、僕にもしいちゃんにも、沙織さんにも、誰にもメリットはない。いや、もしかしたらあるのかもしれないけど、僕には思いつかなかった。

 だからそれを尋ねるようとした。でも、その前にしいちゃんが手を前に出して制した。

「今日はね、ゆきのお見舞いに来たんだけど……半分は違う。もう半分はね、謝りに来たんだ」

 謝る? 何を? しいちゃんが謝るようなことなんてない。むしろ僕が迷惑をかけて謝ることならたくさんある。

 しいちゃんは大きくため息をついた。

「……もう、沙織にあんな態度取るの、疲れちゃってさ。みんなの視線は痛いし、胸はズキズキするし、何よりゆきの泣きそうな顔が……ってそれは違う。またあたしは人のせいにしてる。はあ……どうしようもないなぁ。あははは」

 しいちゃんの乾いた笑いが部屋に響く。僕は何も言えない。彼女が何かを背負っているのは分かった。でも、それがなんなのか分からない。上っ面だけで彼女を慰めるのは失礼だと思った。

「もう嫌なことに嫌なことを重ねたくないんだ。何もかもぶちまけて、すっきりしたいんだ、あたしは。……自分勝手だよね」

「自分勝手でいいと思う。私は、少し人のことを振り回すくらいのしいちゃんの方が好きだよ」

「……ゆきはかわいいなあ。あたしが男だったら絶対惚れてるよ」

 僕は苦笑する。元男の僕が、女の子に「あたしが男だったら」なんて言われるとは思わなかった。

「……話を聞いたら、きっとゆきは後悔する。ゆきは優しいから、あたしを恨むことはないと思う。でも、せっかく忘れられたことをほじくり返されて、またゆきの心が傷ついてしまう。ゆきを泣かせたくないのに、泣かせちゃうかもしれない。あたしが弱いせいで……」

 しいちゃんが俯く。ぎゅっと握りしめられた手は白くなっていて、小刻みに震えていた。

「ゆき、やっぱり――!」

『ゆきが泣いたら、泣き止むまでぎゅっと抱きしめてあげる』

 僕の言葉を聞き、しいちゃんの目が見開かれる。それは遠い昔、雪花としいちゃんが幼稚園に通っていた頃に、泣き止まない雪花にしいちゃんが言った言葉だ。こんな小さかった頃の記憶を、雪花は鮮明に覚えていた。きっとその言葉は、雪花にとって宝物に等しかったのだろう。

「私が泣いたら、泣き止むまでいてくれるんでしょ? それなら大丈夫だよ」

 僕はベッドサイドに置いてあったぬいぐるみの中から、大きなウサギを選んでしいちゃんに渡した。

「話しにくかったらそれを抱いて話してみて。落ち着くよ」

「このぬいぐるみ、初めて見たけど」

「この前亮さんとぬいぐるみの専門店に行ったときに買ってもらったんだ」

 しいちゃんは「へぇ~」と小さく声を上げて、ぬいぐるみを見つめる。そして膝の上に乗せて後ろから抱きしめた。

「……うん。話しやすいかも」

 しいちゃんがやっと笑ってくれた。けれどすぐに顔を引き締めて、じっと僕を見つめる。数度深呼吸を繰り返し、やがてゆっくりと口を開いた。

「……これは中学三年の頃の話。ゆきが事故に遭うちょっと前のことだよ」

 それは僕の知らない、雪花の記憶にもなかった、ほんの数ヶ月前の話だった。


 ◇◆◇◆


 ゆきがおじさんとのことで悩んでいるのは知っていた。

『お父さんが私にかまってくれない』

 あたしの前でも気丈に振る舞っていたゆきが、たった一度だけ漏らした弱音。

 それは一般的な中学三年生、思春期真っ只中の女の子が悩むようなもんじゃない。むしろ親なんて目の敵だと言わんばかりに反抗しても不思議ではないような、友達からも「いまだ親に甘えているのか」と馬鹿にされても仕方ない、そんな時期。しかし、姉妹のように仲の良かったおばさんを二年前に亡くして、家族がおじさん一人だけになったゆきにとっては、それは心を病んでしまうほどの悩みだった。

 毎日俯きがちなゆき。それでもあたしやクラスの友達の前ではいつもの笑顔を見せてくれた。それは凄く自然で、ゆきが無理に強がって見せていることに気付いたのはあたしぐらいだったと思う。だからあたしにはとてもじゃないけど、見ていられなかった。

 幼馴染みのあたしでさえ、そんなゆきを見るのは初めてで、親友のあたしでさえも、相談に乗るのを躊躇い、目を背けたくなる姿だった。

 ……いや、実際あたしは目を背けた。おばさんが死んでから、それまで以上にゆきと遊びに出掛けることが多くなったのも、ゆきが落ち込まないようにというのを建前にして、本当はゆきの本音を聞きたくなかったからだ。そんなあたしだったから、ゆきの上辺しか見ていなくて、あの時も、ゆきがおじさんのこと"だけ"を悩んでいるのだと勘違いしてしまった。

 それは些細なことから始まったのかもしれない。

 肩が触れた。足を踏まれた。声がうるさかった。挨拶をしたら無視された。傘の水滴がスカートに付いた……。

 理由は分からない。いつから始まったのかも分からない。ただ、あたしが気がついた時には、もうそれは始まっていて、あたしの知らないところでゆきを苦しめていた。

 ゆきはいじめられていた。

 話しかけても無視される。すれ違いざまに肩をぶつけられる。消しゴムやシャーペン、傘がなくなり、別の場所から発見される。陰口を叩かれる……。

 いじめは些細なものだった。もちろん、いじめる側からの視点において、という言葉が付け足されるけど。そのせいで、ゆきがいじめられていることは、誰にも気付かれることはなかった。

 しかしゆきは強い子だ。そういうところはあたしよりもしっかりしている。きっといつものゆきだったら、少しは我慢したとしても、ちゃんと自分で言い返していたはず。それでいじめは終わり。そうなるはずだった。

 けれど、おじさんとの関係で深く悩んでいたゆきは心身共に弱っていた。そんなゆきに言い返すような余力があるはずもなく、一人で耐えて、一人で抱え込んで、周りには何でもないと空元気を振りまいて、さらに傷ついていった。

 それでもゆきは受験勉強を続け、第一志望の千里学園高校に合格した。

 いじめのことなんて何も知らないあたしは単純に喜んだ。バカみたいに一人で、また同じ学校に行けるねと喜んだ。

 それから数日後。ゆきは事故に遭った。

 目撃者によると、ゆきはふらふらと一人で危なげに歩いていて、そのまま赤信号の横断歩道を渡り始めたところを車にはねられたらしい。

 ゆきが生死の境を彷徨うその時になって、あたしはようやくゆきがいじめられていたことを知った。

 あたしに泣きながら謝罪した彼女達を、あたしはぶん殴った。自分の手が痛くなるくらいに、本気で殴った。殴ったあたしも、彼女達と同罪だというのに。

 あの時相談に乗っていれば。あの時いじめに気付いていれば。あの時いつもと様子が変だったゆきに付き添っていれば……。

 後悔したところでもう遅かった。あたしは、親友を助けることができなかったのだから。


 ◇◆◇◆


「と、言うわけ」

 話し終えたしいちゃんはにこりと笑って、肩を竦めて見せた。

「ほんと笑っちゃうよね。親友だ親友だと言っておきながら、親友らしいこと何もしてないんだから」

 でも、それは僅か数秒のことだった。

「あたしは……あ、あたし、は……」

 眉をひそめ、唇をきつく噛んで、肩を震わせて、そして一度閉じて開いた目から、涙を溢れさせた。

「……ごめん。ごめんねゆき。気付いてあげられなくて。相談に乗ってあげられなくて。ゆきが辛いの知ってたのに、気づかないふりしてごめんね」

 堰を切ったように溢れ出る涙は止めどなく、目尻から流れて頬を伝い、床にポタリ、ポタリとこぼれ落ちた。

 いじめの記憶。しいちゃんが話してくれたことで、僕は朧気ながらそのときのことを思い出していた。いや、正確には雪花が残した記憶の中から掘り起こされた。

 しいちゃんが言うように、あの時雪花はいじめられていた。はじめはたいしたことがなかったが、それは少しずつ雪花を追い詰めていき、やがてあの事故へと繋がった。もちろんしいちゃんのせいなんかではない。そうなるまで抱え込んでいた雪花のせいだ。しかし、しいちゃんが言うように、あの時彼女が何らかの行動を起こしていれば避けられたのも事実。もし彼女が勇気を出して動いていれば、きっと今もこの体には本物の雪花がいたに違いない。もう、全て終わってしまったことだけど。

 しいちゃんが両手で顔を覆う。声は枯れ、時々喉を引きつらせながらも、ごめんね、ごめんね、と謝り続ける。

 雪花はもういない。彼女が今のしいちゃんを見てどう思うのか。許すのか許さないのか、それ以前の問題なのか、今になっては聞くこともできない。

 ただ、僕にでも分かることはある。それは、最後の最後まで雪花はしいちゃんのことを一番の親友だと思っていたこと。それを理解したとき、やるべきことは決まっていた。

 僕は両手を伸ばし、しいちゃんを引き寄せ、抱きしめた。胸に抱き、頭を優しく撫でた。

「しいちゃんは何も悪くないよ」

「――っ!?」

 しいちゃんが肩を揺らし、ゆっくりと顔を上げる。彼女の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。

「で、でもゆき、あたしは……」

 しいちゃんの瞳が不安に揺れる。

「悪くないんだよ」

 しいちゃんが安心するように、精一杯微笑む。涙を拭ってあげて、小さな子供をあやすように、背中をぽんぽんと叩く。

「だから泣かないで。ねっ? 私は笑っているしいちゃんが好きなんだから」

「…………っ」

 せっかく収まりかけた涙がまた溢れてくる。僕は苦笑する。

「もう、泣かないでって言ってるのに」

「でも、でも――」

「しいちゃんは今も私の親友だよ。昔も今も、ずっと」

「……ゆき。ゆきっ!」

 その言葉が引き金になったのか、しいちゃんは今まで以上に声を上げて泣いた。雪花の名前を何度も呼びながら、瞳からポロポロと涙を溢れさせながら。

 しいちゃんを抱きしめて、目を閉じる。

 これでいいんだよな?

 心の中にある温かいものに語りかける。返事はない。けれど、なんとなく、これで間違っていないことだけは確信できた。


 結局、しいちゃんが沙織さんにきつくあたっていたのは、彼女には沙織さんがあの時雪花をいじめた女の子と被って見えたせいだった。雪花をいじめた女の子も、一年の頃に同じクラスで、沙織さんのように声をかけてきたらしい。しいちゃんは今度こそ雪花を守ろうと、雪花から沙織さんを遠ざけようとした。しかし、沙織さんとその女の子が同じであるはずがなく、雪花どころか自分にも我慢強く接しようとする彼女を見て、いつしかきつく当たり続けることに苦痛を感じるようになった。そして今日、たまっていたものが決壊したのだ。

 私は大丈夫。落ち着いたしいちゃんに言うと、涙で濡れた瞳のまま、やっと笑ってくれた。沙織さんともこれからは仲良くすると言ってくれたので、僕の悩みも解決しそうだ。

 帰り際。しいちゃんはドアに手をかけたまま振り返った。

「ゆき、迷惑かけたついでにもう一つ、言づていいかな」

「うん。なに?」

 涙は止まったけど、赤く腫らした目のままでしいちゃんは言う。

「おじさんにね、『あの時はきついこと言ってごめんなさい』って」

 しいちゃんが頬を赤くしてはにかむ。僕は「分かった」と頷いた。

「ゆきも、早くおじさんと、昔みたいに仲良く出来たらいいね」

「……うん」

 お互いにまた明日と手を振って、しいちゃんは帰って行った。

 誰もいなくなり、しんと静まりかえる部屋。ベッドに体を横たえて、目を閉じる。

 昔みたいに。

 その言葉が頭の中に響く。今でも十分雪花に優しい亮さん。しかし、やっぱりしいちゃんの目には違って見えるのだろうか。

 昼間見た夢を思い出す。亮さんの背中を見つめる雪花と、一度も振り返らなかった亮さん。今とは全然違う二人の関係。おそらく事故がきっかけで変わったのだろうが、何が彼を変えさせたのかは分からない。

 雪花になりきろう。そう思ったのに、雪花も僕と同じくらいに、難しい人生を歩んできたようだ。

「……僕はどうすればいいんだよ」

 呟きは、誰に届くこともなかった。

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