表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
それが僕の歩いた道  作者: 本知そら
4/8

第三話 涙は温かくて

  第三話 涙は温かくて



「――っ! ――っ!」

 遠くで僕を呼ぶ声がする。それは僕の名前じゃない。それでも僕を呼んでいると確信できるのは何故だろう。自分でも分からない。

 猛烈な吐き気と頭痛を伴って意識が覚醒していく。口の中に血の味を感じつつ、ゆっくりと瞼を開く。ぼやけた視界のまま、目だけを動かしてあたりを見回す。

 白い壁と天井。それと同じくらい白い白衣を着た医者とピンク色のナース服を着た看護師。そして僕の手を握りしめたグレーの背広を着た男の人。

 誰だろう、この人は。ぼんやりとした頭で考える。体が思うように動かない。耳も遠いし、麻酔が残っているのかもしれない。

「ゆきちゃん!? ゆきちゃん!」

 男の人は僕と目が合うと、涙で濡れた顔をさらにぐしゃぐしゃにして僕を抱きしめた。何事かと混乱する僕を余所に、心の奧から得体の知れない感情が溢れてきた。

 なんだろう。あったかい……。

 今までに感じたことのない、その温かなものは、彼を視界に入れるだけで止めどなく溢れてきた。じっと彼を見つめ、そして気付いた。

 ……そっか。この人はこの子のお父さんなんだ。

 力を入れると僅かに動く細い手と彼を見て、僕は理解した。そしてそれは同時に、さきほどまでのやりとりが全て夢ではなかったことを意味していた。

 期待してたわけじゃないけれど、現実を知るのは辛いものがあった。

 僕が息を吹き返したことでにわかに騒がしくなる病室。そんななか、僕は彼に抱きしめられながら必死で涙を堪えていた。死んでしまったことが悲しくて、この世界に戻って来られたことが嬉しくて……。


 ◇◆◇◆


 この世界に戻ってきてから十日が経った。季節は冬から春になり、まだまだ肌寒い日が続くけど、窓越しに入ってくる太陽の光は日に日に温かくなってきていた。

 その間僕はほとんどの時間を病院のベッドの上で過ごした。彼女の怪我は軽傷と言えるものではなかったが、常人なら二週間も入院すれば松葉杖で退院できるくらいのものだった。ところがこの体は思った以上に病弱で、傷の治りが遅く、とくに足に負った傷が一向に治らないせいで、いまだ車椅子生活を余儀なくされていた。自由に動かない体に焦燥感は募る一方で、けれど高校の入学式までには退院できそうというのがせめてもの救いだった。

 仕方がないので、僕はこの暇な時間を使い、分かる範囲で今の自分のことを調べてみた。幸いにも目覚めた後に行われた診察で何も答えられなかった僕を担当医は記憶喪失と診断してくれたおかげで、「少しでも思い出してくれたら」と、この子の父親が持ってきた記録映像やアルバム、文集などの彼女のことを知るうえで役立ちそうな物が病室には揃っていた。それらはとても参考になった。ただ、なぜか最近の映像や写真がなかったのには首を傾げた。でもまあそういうものなのだろう。小さいときが一番かわいいと言うし。

 この子の名前は早雲雪花。来年度から千里学園高校に通うことになる一年生。頭は中の上といったところで、運動の方は病弱のためからっきし。いつも体育は見学している。性格は大人しく、大声を出すようなことはない。寂しがり屋で涙もろく、心配性。偏食で極度の甘党。辛いものは苦手。趣味はぬいぐるみ集め。一人称は『わたし』。服装は淡い色のゆったりしたものが好きで、ワンピースやロングスカートが多い。母親は五年前に病気で他界。現在は父親の早雲亮と二人暮らし。仲の良い友達は幼馴染みの西園寺志衣奈。彼女も同じく千里学園高校に通うことになっている。

 知り得たのはこんなところ。僕は頭を抱えた。なんて女の子女の子した子なんだろう。今時パンツルックの女性なんてそこら中にいる。それなのにワンピースやスカートばかりってどういうことだ。元男だった僕としては、あんな腰に布を巻いただけの服を着るなんて到底できそうにない。しかも趣味がぬいぐるみ集めって、高校生にもなって趣味がそれはどうなんだろう。普通なのか?

 僕は彼女になりきることを早々に諦めた。どう考えても無理だ。こんな子に僕がなれるはずがない。そりゃできる範囲で彼女らしく振る舞う努力はするけど、ぬいぐるみ集めとか女の子らしい服装は無理だ。そこはなしでいこうと思う。

「ゆきちゃんこんにちは、調子はどう?」

 僕がそんなことを考えているとも知らずに、今日も彼はやってきた。高校生には贅沢な個室のドアをノックして入ってきたのは僕、雪花の父親である早雲亮さんだった。

「こんにちは。はい、いいですよ」

 彼は毎日のようにここへやってきていた。作家である彼は自宅で仕事をすることが多く、それなりに融通の利く会社にいるため、今は少し仕事の量を減らしてもらって、その時間をお見舞いに費やしているらしい。やはり一人娘が心配なのだろう。

 ……って、またいつの間にか頬が緩んでいた。いけないいけない。どうして彼が来るだけで喜んでしまうのだろう。もしかして雪花ってファザコン?

 このように僕のものではない感情に満たされることが多々あるため、当初の僕は二重人格のようになってしまうのだろうかと一抹の不安を抱いていた。しかし死神の彼が言っていたように、僕がこの世界に戻ってきたときには、もう雪花の意識は消え去った後だったようで、この体は完全に僕の物になっていた。ただし彼女の全てが消えてしまったわけじゃなく、僕の中には彼女の記憶、そして想いが心の奥底にしっかりと残っていた。それらは僕の行動や心に影響を与えていた。

 両親を知らない僕が最近まで他人だった亮さんを見ただけで喜ぶはずがない。全て雪花が残していって記憶と想いが僕をそうさせているのだ。その証拠に僕はいまだ彼のことを「亮さん」と呼び、他人と同じく丁寧な言葉を使って話している。それは家族であるはずの彼を傷つけているのだろうけど、他人を「お父さん」なんて気安く呼ぶことは到底出来なかった。

 雪花が残していった物は僕の心を勝手に揺さぶってくる。それは困りものだけど、女の子らしい仕草や話し方、そして知識が自然と身につけられたことに関しては大いに役立った。おかげで車椅子に乗っても自然と脚を閉じて座っていられるのだから。

「腕の包帯取れたんだね。うん。跡が残らなくて良かった」

 彼が手を伸ばす。突然のことだったので、僕は腕を引っ込めてしまった。しまった、と思ったときには遅く、彼は悲しそうに僕の腕を見つめていた。

「ご、ごめんなさい」

 慌てて頭を下げる。僕の怪我を気にしてくれているのに、なんてことをしてるんだ僕は。

「ううん。僕の方こそごめんね」

 彼は手を下ろし、ベッドの傍の椅子に腰掛けた。上半身を起こしてベッドに座る僕と彼の距離は数十センチ。手を伸ばせばすぐ届く距離。それなのに僕も彼も口を開くことはなく、俯いたまま痛いくらいの沈黙が流れる。

 な、何か話さないと。だけど何を話せばいいのか分からない。僕は彼と出会ってまだ十日しか経っていない。そんな彼と話をしてボロが出たらそれこそまずい。当たり障りのない……そうだ、「今日はいい天気ですね」はどうだろう。……他人行儀過ぎる。

 あーだこーだと考えていると、先に彼が動いた。

「そうだ。ゆきちゃんが好きなケーキを買ってきたよ」

 大袈裟に手を打ち鳴らし、その手に持っていた白い紙の箱を差し出す。ケーキは雪花の大好物。自然とわくわくする自分を大人気ないなと思いつつ箱を開ける。中には苺のムースケーキとチーズケーキが入っていた。二つとも美味しそうだ。

「亮さんはどっちを食べますか?」

「僕はいらない。二つともゆきちゃんが食べていいよ」

 予想外の答えに驚いて彼のことを見つめる。ハッとして慌てて視線をケーキに落とした。

「え、あの、二つもいいんですか?」

「うん。ゆきちゃん、病院のご飯をあまり食べてないんでしょ? それを食べて早く元気になってよ。ばれると看護師さんに怒られるから内緒ってことで」

 食事を残していることが筒抜けだったことを知り、顔が熱くなる。仕方ないじゃないか。まさかピーマンやナスがあんなに苦いとは思わなかったんだ。

「そういえば飲み物買ってくるの忘れたんだった。今から買ってくるから、ゆきちゃん何がいい?」

「えっと、それじゃミルクティーを」

 彼が「ミルクティーね」と確認して病室を出て行く。その後ろ姿が見えなくなってから、僕は大きくため息をついた。ちょっと肩が痛いことに気付いて、自分が思っていた以上に緊張していたことを知る。

「こんなことでこれからどうするんだろ」

 天井を見上げて呟く。ここを退院すれば否が応でも彼との二人暮らしが始まる。今のままではまったく上手くいけそうな気がしない。

『もちろんそれは君次第だよ』

 頭の中で声がした。驚いて視線を上げ、辺りを見回す。

『久しぶり、と言っても僅か十日ばかりだけど』

 黒い布を纏った彼は病室の隅に立っていた。フードを深く被っているため表情は見えない。

「へぇー。死神さんはこんなところにも来られるんですね。それで、私に何のようですか?」

 雪花である今は彼を相手にしてもその影響が出てしまう。自分のことを私と呼ぶのは違和感を覚えるけど、それ以外はとくに気にならないのでそのまま続ける。

「もしかして、もうお迎えですか?」

『冷たいなあ。だけど、それだけ軽口が叩けるのなら大丈夫そうだね』

 彼の言葉に目を丸くする。まるで僕のことを気にしてたみたいな言い方じゃないか。

『今回は特殊なケースだからね。それに関わった以上、一定のフォローをするのは当然だろ?』

「ふーん。てっきり私が早死にしないよう監視に来たのかと思いました。私が早く死ぬと困るんでしょ?」

『……君は本当に面白いね。僕にそんなことを言ったのは君が初めてだ』

「ありがとう。悪いことばかり続くと人はこうなるらしいですよ」

 気持ちで負けると本当に負けてしまう。だからどんなに震えていても強がってみせる。それが僕の処世術だ。たまに無理な時もあるけどね。

『さて、それじゃ僕は戻ろう。もし何か困ったことがあれば僕を呼んでみるといい。内容によっては来るかもしれないよ』

「そうならないことを祈ります」

 死神に用があるなんて、いいことなはずがない。

『僕もだよ』

 そう言うと彼は霧のように消えてしまった。

 あっという間の出来事だった。彼は何しに来たんだろう。もしかして、僕を元気づけに来てくれたとか? まさかね……。

 窓の外を見る。空は快晴だった。

「君次第、か……」

 たしかに彼の言うとおり、わずか十日しか経っていないけど、亮さんは僕を雪花として、自分の娘として大切にしてくれているのがひしひしと伝わってくる。その彼と上手くやっていくには、僕が素直にそれを受け入れられるかどうか、信頼できるかどうか……つまりは僕次第ってことだ。

「どうしよう、兄さん」

 僕の呟きは誰に聞かれることもなく、誰に届くこともなかった。


 ◇◆◇◆


 インドア派、アウトドア派かと聞かれたら、中学までスポーツ少年だった僕はアウトドア派だと答えるだろう。今の僕はどう見てもインドア派にしか見えないだろうけど。

 そんな僕が雪花となって二週間が経った。その間どこに行くこともなく、何もない病室でじっとして過ごしていた僕はその日ついに我慢の限界に達した。運動は無理でも、せめて街を散策したい。僕はこっそり外出することを決意した。

 本当なら堂々と正面から外出したいのだけど、入院中の身で病院の外へ行くには外出許可というものが必要であり、さらにそれを得るには誰かの同伴が必要らしい。亮さんなら快く承諾してくれるだろうけど、彼と一緒じゃ行く意味がない。僕は溜まりに溜まったストレスを発散したいのだ。

 とは言え、とくにこれと言った脱出計画も考えていなかったので、人混みに紛れて正面玄関から出ることにした。この病院で僕と顔見知りなのは数人の看護師さんと担当医ぐらいなものなので、この個室のある四階で彼らに出会わなければ連れ戻されることはほぼない。回診も巡回もさっき終わったばかりで当分は誰も来ないはずだし、亮さんも珍しく今日はお見舞いに来るのが遅くなると言っていた。外出するなら今しかなかった。

 そんなわけでさっそく準備に取りかかった。お金は亮さんからいくらか貰っていたからそれを持っていくとして、問題は着ていく服だった。病院にずっといた僕は一日中パジャマを着て過ごしていたため、いまだ一度も雪花の外行きの服を着たことがなかった。

 ベッドの下に仕舞い込んでいた紙袋を引っ張り出す。中には洋服が入っていて、それをベッドの上に広げる。亮さんのチョイスか、それともこんな服しか持っていなかったのか、

「全部スカートだ……」

 僕の調べた通り、雪花はワンピースやスカートを好んで着ていたらしい。眼前にはスボンの一本もなかった。……分からない。そんなにスカートというものはいいものなんだろうか。

 悩んでいても仕方ないので、あれこれと手にとっては一番大人しめなものを探す。このスカートは丈が短い。この緑のワンピースは丈は長いけど裾の長さが前と後ろとで違っていてちょっとオシャレを意識している気がして、着るのが恥ずかしい。水玉のはちょっと子供っぽく見えるし、ボーダーのブラウスは何と合わせて着ればいいのか分からない。女の子のコーディネイトというものがまだよく分かっていないので、ここは無難に一つで済むワンピースがいいのか……。

 うーん……あ、このピンクのブラウスとプリーツスカートのワンピースの組み合わせがかわいくていいかも。……って僕は何を考えているんだ! かわいいの選んじゃ駄目だろ。地味で目立たない服を探してるんだよ! まったく、邪魔しないでよ雪花。

 数分かけて選び出したのはベージュのレトロチックなワンピースだった。丈はそこそこあり、デザインも悪くない。なによりリボンやらフリルやらの装飾がないのがいい。ポケットがないので財布はポーチに入れて持っていくことにする。

 姿見がないかわりに手鏡を覗く。全体を見ることはできないけど……うん、悪くないと思う。長くて邪魔な髪をヘアゴムでポニーテールにして、思うように動かない足を引きずりベッドの縁に移動、ショートブーツを履いて車椅子に乗った。この車椅子は電動式で、力のない僕に看護師さんが「一台だけ空いてたから使って」と持ってきてくれたものだ。あの看護師さんにはほんと感謝している。これがなかったら外出しようなんて思わなかったから。

 車椅子の電池残量を確認。昨日ちゃんと充電したからメモリ一杯だ。これで準備完……っと、まだ最後にやることがあった。

 ベッドの横の引き出しからメモ帳を取り出し、一枚千切ってペンを走らせる。

『街へ行ってきます。探さないでください』

 これでよし。もし僕が帰ってくる前に誰かがここに来ても、これを見れば安心してくれるだろう。一応丸めた毛布を布団に仕込んで寝ているように見せかける。今度こそ準備完了だ。

 この体で初めての外出。しかも車椅子。不安材料は多いけど、それ以上に期待で胸が膨らんでいた。生まれてからずっといた街なのに、たった二週間離れていただけでこんなにも待ち遠しいなんて。

「それじゃ、初めてのおつかいならぬ、初めての散歩へれっつごー」

 おー。静かに声を上げ、僕は病室を後にした。


 拍子抜けするほど順調に病院を出ることができた僕は予定通り街へ向かうことにした。ここから街へは県道沿いに進むのが一番早い。しかしそのルートは川を渡る際に通る橋が結構な急勾配で、この電動車椅子では登ることはできそうになかった。だから僕はもう一つの市道沿いのルートを進むことにした。ただ、こっちはこっちで車道と歩道が近いという難点があり、死んだ原因が交通事故だったせいか、すぐ横の車道を走る車が少し怖い。こんな直線道路で歩道に乗り上げてくる確率なんて天文学的な数値なんだろうけど、万が一ということもあるので、できるだけ車道から離れたところを通ることにした。

 低い電動モーターの音を響かせながら進む車椅子。自転車より全然遅く、歩くより少し早いそのスピードは散策するのにちょうど良かった。

 横断歩道の信号機の厚みが、いつも通っていた横断歩道のものより薄いことに驚き、橋の下を流れる川に鯉を見つけて眺め、マンホールに何かのマスコットが描かれているのに気付き、歩道に沿って植えられた桜につぼみを見つけて春の訪れを予感した。

 以前なら見て見ぬふりをしていたどうでもいいことがやけに目につく。でも楽しい。もしかすると、二度と見られなかったこの景色をもう一度こうして見ることができた、その思いが世界を二割増しに素晴らしく見せているのかもしれない。

 しかしそれもあと九ヶ月。死神の彼の言うことが本当なら、僕は九ヶ月後に今度こそこの世からいなくなってしまう。僕はまた死ぬ。考えるだけで手足は震え、夜も眠れなくなる。でもそれに囚われて、大切な時間を失うのは絶対に嫌だった。怖くて泣くのはもっと後でいい。今は今を楽しもう。まだ少し震える手を握りしめて僕はそう思った。

 久しぶりに訪れた商店街は少し寂しげだった。時計を見るといつも放課後に来る時間より少し早かった。なんだ、人が減ったんじゃなくて、来るのが早かっただけだ。

 車椅子は少し目立つらしく、いくつかの視線を感じた。気にしても仕方ないので、見慣れた風景を楽しむことにする。よく待ち合わせに使った公園に、何度も通ったカラオケ屋、予約するときに使ってたCDショップ。あ、ケーキ屋さん発見。

 時間をかけて商店街を進み、抜けると立ち止まった。いつも用事があるときにしか来なかったけど、用事もなくぶらぶらするのも楽しいもんだ。さて、次はどこに行こう。キョロキョロと辺りを見渡しつつ思案する。すると脳裏にいくつかの映像が浮かんだ。それは何度か透と行ったことのある県立図書館だった。なんでそんなところが頭に浮かんだのだろう。雪花のいつものルートだったとか? 図書館がいつものルートって、まるで透のようだ。

 他に行く宛も思いつかなかったので図書館に行ってみることにした。せっかくだし、病室での暇つぶし用の本を借りるのもいいかもしれない。

 商店街から西へ進み、交差点で北へ曲がった先にそれはあった。三階建ての少々古くさい建物。コンクリートで出来ているようで、壁を叩いたら硬くて痛かった。手動のガラス戸を力一杯押して中に入り、エレーベーターを探す。一基だけのそれを見つけ、上を向いた矢印のボタンを押す。ちょうど一階にあったエレベーターはすぐに開き、車椅子をぶつけないよう慎重に乗り込む。それが少しゆっくりしすぎたらしく、勝手に閉まり始めたドアに車椅子の後ろが挟まれてしまった。慌ててやってきた職員の方がドアを押さえてくれて、顔が熱を持つのを感じながらお礼を言い、手伝って貰った。それを教訓に、二階で下りるときは少し急いで下りてみることにした。エレベーターの境でちょっと挟まってしまったけど、なんとか今度は一人で下りることができた。ほっと胸を撫で下ろしながらエレベーターのドアが閉まるのを見届けて前に向き直った。

「きゃっ」

 目前に人がいた。突然のことに悲鳴を上げてしまう。

「す、すみません」

 その人はすぐに一歩下がり僕に謝った。声の調子からして男の人だ。

「いえ、私の方こそごめんなさい。エレベーターから降りるのに夢中で……」

 前方不注意だった僕も悪い。僕からも謝罪して、視線を上げる。

 そこにいたのは――

「久しぶり、雪花ちゃん」

 白のカッターシャツにベージュのブレザー、ボーダーのネクタイにグレーのスボン。そして中身のなさそうな薄い鞄。千里学園の制服を着た僕の親友、槙納透だった。

 彼は黒い短髪の頭をかきながら、はにかんで言った。

 やっと会えた。会ってしまった。突然のことに僕の思考は止まり、彼をまじまじと見つめてしまった。

 彼とは僕と亮さんの問題が落ち着いて、千里学園に入学した後に話をするつもりだった。もちろん本心はすぐにでも会って話がしたかった。ここにボクがいると言いたかった。しかし今の僕は昔の僕じゃない。早雲雪花だ。そんな僕が彼に会って「僕が伊月拓哉だ」と名乗って誰が信じるだろうか。タチの悪い冗談にしか聞こえない。最悪雪花である僕と透の仲が険悪になる可能性もある。だから慎重に言葉を選んで彼と話し合い、ゆっくりと時間をかけて信じて貰うしかない。そんなふうに考えていたのに、まさかこんなに早く出会ってしまうなんて。

 どうしよう。そればかりが頭の中を駆け巡る。しかし僕の心の方は様子が違っていた。何故か彼を見て落ち着いている。それどころか亮さんの時と同じような、温かい何かが奥底から沸いてくるのだ。正確には微妙に違うけど、同類の感情なのは理解できた。

 理由は知らないけど、彼の言葉と僕の状況から、雪花は透のことを、透は雪花のことを知っていた。それは僕を安心させた。そして、

「お久しぶりです。槙納先輩」

 自然と零れたその言葉になんの疑問も抱かずに、彼に微笑みかけた。


 ◇◆◇◆


 館内でお喋りするのはマナー違反だということで、僕達は場所を移すことにした。

 やってきたのはプラナス。商店街の中にあるファミレスだ。ここは入口にスロープがあり、店内も広いから車椅子でも人の手を借りずに入ることが出来る。近くの公園でいいという僕に「まだ寒いから」と、彼に車椅子を押され、なかば無理矢理に連れてこられた。僕の体を気遣ってくれたのだろう。相変わらずの強引さだ。しかし雪花である僕は仮にもまだ中学三年生。しかも入院中ということでお金をそれほど持っていない。何か頼めるだけの分を持ってきたかなと、テーブルに通されるまでの間にこっそりとポーチから財布を取り出して中身を確認する。お札はなし。ただし五百円玉が二枚と百円玉が四枚あった。うん、これだけあれば大丈夫。でもあとで亮さんに怒られるかもしれない。「無駄遣いはしないように」と言われていたから。

「金なら俺が出すよ。連れてきたのは俺だし」

 思いもしなかった申し出に驚いて顔を上げる。

「そんな、悪いですよ」

「いいからいいから。まあ俺もバイトやってるわけじゃないから、あんま高いのは無理だけどな」

 頭を掻きながら彼が笑う。しばらくして店員に通された窓際のテーブルに向かい合って座る。奇しくもそこは二週間前に僕と透が座ったテーブルと同じ場所だった。

「雪花ちゃんはパフェが好きなんだっけ」

「えっと……はい」

 たぶん。パフェなんて食べたことないけど。

 透が店員を呼ぶ。そしてドリンクバー二つとチョコレートプリンパフェ、フライドポテトを注文した。店員が注文を繰り返し、早足で厨房へと消えていった。

「ありがとうございます」

「いいって。気にすんな」

 彼が手を振る。僕は冷たい水をちびちびと飲みつつ視線を彷徨わせる。どうしよう、もう言ってしまおうか。僕は伊月拓哉だって。いやいやだめだ。感情にまかせて突っ走るとろくなことがない。これはとても大事なことなんだ。もっと慎重に……。とにかく今は雪花と透がどういう関係なのか知ることが重要だ。

 胸に手を当て深呼吸する。その様子を変に思った透が首を傾げる。

「どうした?」

「へ? な、なんでもないです」

 彼と目が合い、すぐさま視線をそらす。

 ……なんだろうこれ。透と目を合わせていられない。しかもさっきまではふんわりと心が温かくなる感じだったのに、今は凄くドキドキしている。風邪でも引いたのかな。

「最近図書館に来ていなかったけど、もしかしてそれが原因か?」

 透が車椅子を指さす。デリケートな話題を堂々としてくる彼におもわず苦笑が漏れる。しかし彼の言葉がひっかかった。彼は僕に「最近図書館に来ていなかった」と言った。やっぱり雪花は図書館に定期的に来ていたということなのだろうか。要領を得ないけど、とりあえず同意しておくべきだと思った僕は「はい」と答えた。納得のいったという顔をして彼は数度頷き、それから怪我の具合を聞いてきた。

「調子はどうなんだ?」

「足の怪我の治りが少し遅いですが、入学式までには間に合いそうです」

「それなら良かった。それで、高校はどこに行くことにしたんだ?」

「千里学園高校です」

 雪花は千里学園高校を受験した数日後に事故に遭った。千里学園はいくつか受験しようとしていた中で一番最初の高校。つまり千里学園以外どこも受験していないのだ。もし千里学園に受かっていなかったら、二次募集の学校を受ける羽目になっていた。二次募集はかなりランクが下がるので、ほんと千里学園に受かっていて良かったと思う。

「そうか! 受かったのか!」

 透が目を輝かせて声を上げた。突然の彼のテンションの上がりように体をビクッと震わせる。

「いやー良かった。ずっと心配してたんだよ。あれだけ毎日図書館で勉強してたからさ。第一志望に受かってほんと良かった!」

 興奮した様子で透が話す。なるほど。雪花の第一志望が千里学園だったのか。たしかに学園はこの街でも一、二を争う有名な進学校だ。雪花がそこを狙っていても不思議はない。あの図書館なら静かだし、必要な参考書は揃っている。勉強するもってこい……って、あれ?

 そこで何かがひっかかった。何だろう。とても重要な気がする。

 話をまとめてみよう。雪花は学園を第一志望として、図書館で毎日勉強していた。そのことを透は知っていた。そして無事学園に合格。彼は自分のことのように喜んだ。

 透の話からして、雪花が勉強している間、彼も図書館にいたのだろう。それで二人は顔見知りなのだ。

 ……あれ、そういえば透って、学園志望の中学生の女の子に勉強を教えていたはず。その彼女とは半年前に出会い、学園の試験日から数日後、ぱたりと図書館に来なくなったとか。そして透のこの喜びよう。

 ……そうか! 透が言っていた女の子は雪花のことだったんだ! それなら全て辻褄が合う。辻褄というか、もう雪花しか考えられない。

 まいった。これは大変なことになった。僕の予想ではあるけれど、十中八九で彼は雪花のことが好きだ。これは間違いないと思う。以前に彼も「守ってあげたくなるような女の子が好みだ」と言っていた。まさに雪花はそれに当てはまっている。それは別にいい。問題は、『今の雪花はこの僕だ』ということだ。それはつまり、とてもとても考えたくないことだけど……

 透は僕(雪花)のことが好きなのだ。

 突如降ってきた難題にいよいよ混乱がピークに達した。どうしよう、ほんとどうしよう。ただでさえ僕が拓哉だと伝えにくいのに、そこにさらに恋愛感情的なものまで加わってくるとは。さらに僕のことを言いづらくなってしまった。まさかこれを見越したうえで、死神の彼は僕をこの子にしたのだろうか。もしそうだとしたら、今度彼に会ったときは一言言ってやらないと気が済まない。手が出てもきっと誰も文句は――

「お待たせしました」

「ひゃい!?」

 思考の渦の中にいたせいで店員にまったく気付かなかった。変な声を上げてしまい、頬が熱を持つ。

 テーブルにフライドポテトとパフェが並ぶ。どっちも美味しそうだけど、とりわけパフェは輝いて見える。比喩ではなくほんとに輝いて見えるのだから絶対美味しいに違いない。

 そこでやっと透がいなくなっていることに気付く。慌ててあたりを見回すと、すぐ近くに彼の姿を見つけた。

「コーラでよかったよな?」

 その手にはグラスが二つ。飲み物を取ってきてくれたようだ。礼を言って彼からコーラの入ったグラスを受け取り、一口飲む。

「――っ!? けほけほっ」

「お、おい。大丈夫か?」

「はい、ちょっと器官に入っちゃって……」

 なんだこれ。全然美味しくない。いや、美味しくないと言うより、炭酸を体が受けつけていない?

 ためしにもう一口飲んでみても結果は同じだった。雪花は炭酸が苦手なのだ。そういえばたしか亮さんも飲み物買ってくるときに一度だけ「炭酸は嫌いだったよね?」と聞いてきた覚えが……。じゃあなんで透は『コーラでいい』と、知っていた風に言ってきたんだ?

 瞬間、脳裏に映像が浮かぶ。それは図書館にいる雪花が透から缶ジュースを受け取るシーンだった。様子からして二人がまだ会って間もない頃のようだ。雪花は透からコーラを受け取っていた。不安そうな彼に対して、雪花はとても嬉しそうだ。その時にもらったコーラの空き缶は今も自分の部屋に飾ってあるらしい。

 …………え、飾ってる? 捨てるのを忘れてるんじゃなくて、飾ってる?

 それってつまり……あれだ。うん。あれだ。なんというか、その……好きでもない炭酸を、透が買ってくれたからというしょうもない理由で我慢して飲み、その空き缶を捨てることなく飾っておくほど、雪花も彼のことを好きだったということだ。


 つまり二人は両想い。


 ……。

 あーもう。なんかさらにややこしいことになってきた。どうするんだよ、どうすればいいんだよこれ。いやどうもできないけど、これから僕は透にどう接すればいいんだよ。

「ほら、溶ける前にどうぞ」

「へ? あ、ありがとうございます……」

 差し出されたパフェは美味しかった。美味しいけど、ほんと困った……。


 その後学園のことについて饒舌に語る透は終始ご機嫌だった。話すこと全てをすでに知っている僕は、さも今知った風に装いつつも、頭の中はぐちゃぐちゃで、けれどパフェは美味しくて、その手を休めることなく相槌を打つ作業を繰り返した。

 今度プラナス行った時も食べよう。そして透とのことはまたそのうち考えよう。

 病院の近くまで見送ってくれた透と別れた途端にどっと疲れが押し寄せてきた。久々に体を動かしたから全身が重い。戻ったらすぐに寝よう。亮さんには悪いけど。

 電池残量の少なくなった車椅子を操作して病室へと戻る。慣れていた消毒液の匂いが鼻をついた。

 あと何週間ここにいればいいんだろう。でもこのまま早雲の家に行ってもなぁ……。

 問題が山積みでため息が漏れる。面識のない看護師さんが僕を見て首を傾げたので、大丈夫ですと取り繕う。

 最後の角を曲がって病室が見えたとき、思わずげっと声を上げてしまった。僕の病室のドアが開き、そこに担当医と数人の顔見知りの看護師さんが立っていたのだ。一様に表情は固く、いなくなった僕の安否を案じているのが見て取れた。

 僕に気付いた看護師さんが駆け寄ってくる。怒られると思った僕はいつでもごめんなさいと言えるように準備した。それなのに看護師さんは怒ることなく後ろに回り込んで車椅子を押し始めた。病室の入口に立っていた看護師さん達が左右に割れて道が出来る。よく分からないまま中に入ると、そこには亮さんがベッドの脇にある椅子に座っていた。彼は僕を見て目を見開いた。

 今度こそ怒られる。おじさんに殴られたことを思い出して、きつく目を閉じた。

 しかしいつまでたっても予想していた痛みが来ることはなく、かわりに力強く抱きしめられた。

 なんで? と状況が飲み込めない僕の頭に大きな手が添えられる。

「おかえり」

 優しい笑顔。しかしその瞳は涙で揺れていた。

「あ、あの……」

 今頃になって、自分がやってしまったことの重大さに気付いた。一人娘が入院中に書き置きを残して失踪。それがいかに父親である彼を心配させたか。それは両親のいなかった僕にも容易に想像できた。

「わ、わたし、ずっと病室にいたから、外へ出たくて……。テーブルにも、書き置き残して……」

「うん、うん」

 見苦しくも言い訳をする僕に何も言い返すことなく、さらに抱きしめる。そこに込められた力は強くて痛かったけど、それ以上に心が痛かった。

「そっか。ずっと病院の中じゃつまらないよね。ごめん。気付いてあげられなくて」

「ちが――」

「今度一緒にどこか行こうか。そうだ。ゆきちゃん、ぬいぐるみ好きだったよね? 先月隣の街のショッピングモールにぬいぐるみの専門店がオープンしたんだよ。退院したら行ってみようか」

 彼の言葉が心に響く。それは波紋のように広がっていって、全身を包み込む。

 もう抑えることはできなかった。

「……なさい」

 僕の呟きに、亮さんが少し体を離す。それを追うようにして、彼の胸に顔を埋める。

「……なさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

 あふれ出る涙は留まることを知らず、頬を伝っては彼の服を濡らしていく。しかし彼はそれを気にすることはなく、優しく僕を抱きしめて、その大きな手で頭を撫でてくれた。

 僕は馬鹿だ。亮さんはこんなにも雪花のことを思ってくれているのに、雪花になりきるなんて無理だと諦めて、自分の都合ばかり考えていた。悲しいのは僕や兄さんだけじゃない。亮さんだって一人娘が事故に遭ってしまって、僕達と同じくらいに悲しかったはずなのに……。

 亮さんの娘になろう。なりきることは無理でも、そうなるように精一杯努力しよう。

 声が涸れるまで謝り続けながら、僕は思った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ