第二話 灰色の世界
第二話 灰色の世界
世界は突然加速するものだと、その時俺は初めて知った。
「……は?」
俺には彼の言っていることの意味が理解できなかった。
拓哉とファミレスの前で別れて家に帰った矢先、やけに焦った様子の親父に受話器を握らされた。
相手は拓哉の兄、隆広さんだという。何度か話したことがあるが、拓哉を介さず直接会話をしたことは一度もない。その彼が俺に一体なんの用だろう。
要領を得ないまま電話を代わると、電話口から聞こえたのはすすり泣くような音だった。
いつも気丈な隆広さんが泣くなんてただ事じゃない。俺は嫌な予感を覚えながら口を開いた。
「もしもし、透ですが」
電話越しに息をのんだのが分かった。すすり泣く音が途絶え、沈黙が続く。二分、いや三分だろうか。永遠に続くかと思うほどの静寂を破ったのは、到底聞き入れられない言葉だった。
『拓哉が……死んだ』
絞り出すような言葉。いつもの彼からは想像もつかないようなしゃがれた声は今の彼の心を如実に現わしていた。
「……は?」
冗談ですよね? そう言ったつもりだった。けれど俺の口から漏れ出たのはそれだけ。震える声でただ一言、彼の言葉が聞き間違いだったことを期待する、たった一文字の返事。
しかし俺の僅かな期待は無残にも引き裂かれる。
『拓哉が……さっき交通事故にあって……』
さっき? 拓哉ならさっきまで一緒にいたところだ。いつものように他愛のない会話。俺の悩みを聞いてくれて、いつものように手を振って「じゃ、また明日」と軽い挨拶をして別れたばかりだ。その拓哉が交通事故……?
『電話をもらってすぐに病院へ来た時には……拓哉はもう……』
その先は言うな! 思うように口が動かない俺は心の中で叫ぶ。
『息を……していなかった』
その言葉を聞いた途端、俺の体からサッと血の気が引き、足元がガラガラと崩れ落ちるような感覚に襲われた。
少しでも力を抜けば床にへたり込みそうになるのをなんとか踏みとどまり、両手で受話器をギュッと握る。泣くのは後だと自分に言い聞かせ、緩くなった涙腺を押さえ込み、隆広さんから病院の場所を聞き出す。その病院は俺の家からさほど遠くない距離にある市民病院だった。親父が俺に話しかけてきたが、それを振り切り家を出た。まだ雨が降っていたが気にならなかった。俺は傘も差さずに自転車に跨がり、病院へと急いだ。
全てが冗談でしたと、嘘でしたと、あるはずもない親友の言葉を期待して。
乗り捨てた自転車のハンドルが曲がったのも気にも留めず、フラフラとよろけながら病院の玄関をくぐる。エントランスでは俺のことを待っていてくれたらしい隆広さんが椅子に座って項垂れていた。ずぶ濡れのまま声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。その顔は憔悴しきっていて、まるで亡霊のようだった。今にも消えそうな彼は緩慢な動作で立ち上がると、「こっちだ」と呟いて歩き出した。俺は黙ってそれに続く。
たどり着いたのは手術室の前。重々しいドアが俺の前に立ちはだかるようにそびえ立っている。ここにきて初めて俺と視線を合わせた隆広さんが道を譲るように脇に逸れた。彼に一礼して、一歩前に出る。ドアの上に掲げられた手術中の赤いランプは消えていた。心臓がドクンと跳ねる。ぎゅっと手を握りしめてさらに一歩前に出ると、手術室のドアが左右に開いた。
嫌だ。入りたくない。心が叫び声を上げる。そんなはずがない。拓哉がここにいるなんて、そんなはずがない。俺は現実を受け入れることを拒否していた。
逃げることは簡単だ。しかし、逃げられなかった。足が後退しないのだ。何かに引っ張られるようにして、俺は歩みを進める。寒さか、それとも恐怖からか、震える脚を引きずるようにして、部屋の中央にある手術台へと向かう。
やがて見えたその姿に、ついに俺は膝を折った。
そこにいたのは紛れもなく拓哉だった。
血で染まった毛布にくるまれた彼は静かに目を閉じていた。
気付けば俺は看護師数人に羽交い締めにされていた。手の平や制服にはべっとりと赤黒い血がつき、目から溢れた涙は頬を濡らしていた。「やめなさい」と言う看護師を力尽くで振り払いながら、俺は彼の名前を何度も叫んでいた。
二月二十二日。この時期には珍しい雨の中。俺は唯一無二の親友を失った。
◇◆◇◆
数日後。拓哉の葬儀が行われた。元々親族間で邪魔者扱いされていたという伊月家を訪れる親戚はゼロに等しく、訪れるのは俺も良く知るクラスの奴や、中学校や小学校の頃の同級生ばかりだった。それでも長い列ができるほどの人の数に、彼がこれほど多くの人の心に名前を刻んでいたことを知って、枯れたと思っていた涙がまた溢れてしまった。
隆広さんは強かった。最愛の弟を失い、俺なんかよりもよっぽど心に傷を負ったはずなのに、葬儀などの全ての段取りを彼一人で取り仕切った。
「いつまでも凹んでいたら、拓哉が心配するだろ? あいつは心配性なんだ。だから兄の俺がしっかりしないと」
目に隈のある彼はそう言って笑った。拓哉はいつも兄のことを俺に自慢していたが、その理由が分かった気がした。
俺はと言えば、心にぽっかりと穴が空いてしまい、学校に行くこともなく、家のベッドで一日中蹲っていた。拓哉が死んでから外へ出たのは、葬儀の時と隆広さんと拓哉の荷物整理をしていた二日間だけ。両親もそんな俺を察してか、学校を休んでも何も言うことはなく、学校側もその間は休学扱いにしてくれた。真っ暗な部屋で一人布団にくるまる俺は何をすることもなく、ただただベッドの上で膝を抱えるだけで、このまま衰弱して死んでしまうんじゃないかと、そんなことを考えたりしていた。
しかし人というものは案外強かった。いくら悲しみに暮れようが、時間が経てばその思いも少しずつ薄らいでいった。
拓哉が死んでから二週間後。俺は復学して、普通に授業を受けていた。
親友を失った俺にクラスのみんなは以前よりも優しく接してくれた。それはとても有り難かったが、そんな風に気を遣われる自分が情けなかった。
授業は受けられても部活に出るほどの気力はなく、放課後は友達の誘いを全て断り、あてもなく街をぶらぶらと歩いた。商店街、ゲームセンターから漏れる賑やかな音、休日によく待ち合わせした公園、二人だけで六時間も歌い倒したカラオケ屋、珍しい歌手のも置いてあるCDショップ。それは拓哉とよく行った場所ばかりで、気付かぬうちに彼の面影を探していた。
世界は何も変わっていないのに、親友を失っただけでこんなにも色を失ってしまうとは。
商店街を抜け、歩道を歩く。たちまち人の数は少なくなり、すぐ傍の車道を通る車ばかりが目につく。それをなんとはなしに眺めていると、車道を挟んで向かい側に警察署を見つけた。そこに掲示された数字を見て俺は驚愕する。
『先月の交通事故による死亡者数 一件』
一。そこには数字しかないが、俺には拓哉と書かれているように見えた。
お前達がもっと取り締まっていれば、拓哉は死なずに済んだかもしれない。
所詮仮定の話だ。終わったことを言っても何も変わらない。手の平から鋭い痛みを感じて視線を向ける。強く握りすぎたせいで爪がささり、血が滲んでいる。それは拓哉が死んだ時のことを思い出させた。俺は血を舐め取り、また歩き始めた。ここから出来るだけ遠くに行きたかった。
しばらく歩き続けてたどり着いたのは、二週間前までほぼ毎日のように通っていた県立の図書館だった。三階建てのその建物は至る所に亀裂が入り、お世辞にも綺麗とは言えない造りだった。蔵書の数も俺達が必要とする分野に絞って言えば、千里学園高校の図書館の方が多いだろう。それでもこちらの方が空いていて静かなことから、勉強するにはいい環境だった。
ここに拓哉との思い出はない。だったらどうして俺はこんなところへ来たのだろう。
思案しつつ、階段を上がる。正面の読書スペースには木製の長机が並んでいる。放課後だというのに誰もいない。俺は自然と一番右奥の椅子に目を向けた。
そして思い出した。あの場所はいつも彼女が座っていた場所。無意識に俺は彼女を探していたのだ。何故かは分からない。ただ、彼女の姿をひと目見たら元気になれる。そんな気がしたのだ。
しかしそこに彼女の姿はなかった。今日こそは彼女が来ているような気がしたが、そんな都合のいいことがあるはずもなかった。
帰ろう。予想以上に落胆している自分に苦笑しつつ、踵を返した。その時、
「きゃっ」
間近で女の子の声がした。
「す、すみません」
慌てて謝りながら一歩下がる。視線を下げ、彼女を見た。
そこにいたのは――
「いえ、私の方こそごめんなさい」
腰まである長い茶色の髪をポニーテールにした小柄な女の子。ベージュのワンピースを着た彼女は車椅子に乗っていて、少し痩せたように見えるが、それは間違いなく俺が探していた早雲雪花だった。
「エレベーターから降りるのに夢中で……」
胸を押さえ、ほっとした様子でゆっくりと顔を上げる雪花ちゃん。数週間ぶりに会った彼女からはいつもの甘い匂いではなく、消毒液の匂いがした。
「久しぶり、雪花ちゃん」
聞きたいことはいろいろあった。どうして今まで来なかったのか。どこか体が悪いのか。高校は合格したのか……。それでも口をついて出たのはありきたりな挨拶だった。
彼女は俺を見て驚いているようだった。大きな目をさらに大きくして見つめている。しかしすぐにいつもの彼女に戻ると、ふんわりと柔らかく微笑んだ。
「お久しぶりです。槙納先輩」
灰色だった世界に、少しだけ色がついた。