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それが僕の歩いた道  作者: 本知そら
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プロローグ

   プロローグ



 眼前には少女がいた。

 鏡に映るその少女は、腰まである色素の薄い茶色で長い髪を櫛で梳いていた。櫛を通す度に、寝起きでボサボサになっていた髪が素直に整えられていく。一通り梳き終えてから首を右左に振り、右手で後頭部を触る。うん、大丈夫。小さく頷いて再び正面を向く。

 透き通るような白い肌。見方によっては病的にも思えるあまりの白さに、精巧な人形なんじゃないかと疑いたくなるが、うっすらと朱に染まった頬が彼女を血の通った人間に見せていた。小さな顔には大きな瞳と小ぶりな桜色の唇。華奢な体には女性らしい曲線があり、特に胸のあたりには特徴的な二つの膨らみがある。世間一般的に見れば標準よりもやや小さいようだが、それでも十二分に存在を主張していた。

 それが鏡に映る少女、早雲雪花はやくもせっかだ。

 雪花は白いブラウスの上にベージュのブレザー、赤のチェックのプリーツスカートに黒のニーソックスを穿いている。それは千里学園高校の制服であり、胸元の白い校章から、彼女が一年生だということが分かる。

 二ヶ月前までは僕もそこに通っていた。ただ、以前の僕は伊月拓哉いつきたくやという男で、もちろん男子の制服を着ていた。

「それがまさか女子の制服を着ることになるなんてね」

 自嘲気味に鏡の少女に呟く。すると雪花の唇が声に合わせて動き、眉尻を下げて困ったように薄く笑った。

 鏡を見て再認識する。これは夢ではなく現実。気分がどんよりと暗くなる。しかし、あのまま消えてしまうよりは良かったと、自分に言い聞かせて納得させる。

 そうして再度服装をチェックして洗面所を出た。まったく同じタイミングで鏡を離れた、今の僕を横目に見ながら。

 洗面所を出てリビングに行くと、パジャマ姿のまま台所に立つ男の人の姿があった。

「おはよう、ゆきちゃん」

 振り返り挨拶する彼は雪花の父親の早雲亮はやくもりょうさん。職業は作家だと言うが、詳しくは聞いていない。

 真新しい彼のエプロン姿はお世辞にも似合ってなくて、常日頃からキッチンに立っているわけではないことが分かる。フライパンを持ったまま振り返って挨拶する彼の手元がとても危なっかしい。

「おはようございます。亮さん」

 返事すると、彼は少し寂しそうに笑った。

「そんなに他人行儀にすることないよ。いつも言ってるだろ?」

「……あっ。ごめんなさい」

 ハッとして慌てて謝った。

 まったくその通りだ。彼からしてみれば、どうして実の娘に敬語を使われないといけないのだと思うのは当然のことだろう。しかも「お父さん」ではなく「亮さん」だなんて。他人行儀にも程がある。

 しかし僕(伊月拓哉)からしてみれば彼は赤の他人であり、そんな人を「今日からあなたのお父さんです」と突然紹介されても、はいそうですかと受け入れられるわけもなく、二ヶ月経った今でも彼への接し方が変わることはなかった。ただ、僕の中に残された雪花の記憶と思いが、彼を父親だと認識だけはさせていた。

「謝ることはないよ。僕は君のお父さんなんだから」

 言いながら僕の頭に優しく手を乗せる。

「……はい」

 その手は大きくて、そして優しかった。自然に頬が緩むことに内心驚きつつ、これが親というものなのかと強く実感する。

 そのまましばらく彼の暖かい手を感じていると、ふと焦げ臭い匂いが鼻をついた。彼が「あっ」と声を漏らして僕から離れた。もう少しそのままでいたかった僕は寂しさを覚えるが、すぐに頭を振ってなかったことにする。

「うわ、焦げちゃったな……」

 キッチンへと戻った彼がフライパンを覗き込んでいる。もくもくと白い煙が上がる様子から、フライパンの中のものは食べられるような状態ではないのだろう。

「ごめん、ゆきちゃん。今日もパンでいいかな?」

「はい」

 昨日と同じ台詞に思わず笑いがこみ上げてくる。作っていたのはスクランブルエッグだろう。あまりにも不器用な父親だけど、その心遣いはとても嬉しかった。

 フライパンを流しに置いて、ダイニングテーブルに焼いたばかりのトーストが並ぶ。中央にはマーガリンとイチゴのジャム。僕は迷わずイチゴのジャムを取った。

「ゆきちゃんはほんとイチゴのジャムが好きだよね」

 高校生の親にしてはかなり若く見える彼が言う。実際学生結婚をしてすぐ雪花が生まれたので、今年でまだ三十六歳らしい。

「甘くて美味しいですよ?」

「僕は甘いのはちょっと」

 そう言ってマーガリンを手に取る。昔の僕なら同じくそっちを選ぶのだろうが、雪花はかなりの甘党のようで、イチゴのジャムが口に合っていた。前に一度マーガリンを塗って食べてみたのだけどちっとも美味しくなかった。

「今日は何時頃に帰ってこれそうなんだい?」

「えっと、たぶん四時までには帰ってこれると思いますが、しいちゃんがどこかに寄りたいって言ってたような……あ、でも門限までにはちゃんと帰ってきます」

 心配されないようにと慌てて付け加えたのに、彼はうーんと唸ってしまった。

「その門限はゆきちゃんが決めたもので、僕は一人で危ないところに行きさえしなければ、少し遅くなってもいいと思っているのだけど」

 退院してこの家に来たときに僕自身が決めた門限。両親というものを知らない僕が彼を不安がらせないようにと思って、十七時を門限にしようと提案したのだ。高校生にしては少しばかり早い気もするが、部活に入る予定はなかったし、人より病弱なこの体ではそんなに夜遅くまで活動できるとは思えなかった。そしてなにより、今の僕は雪花という女の子だ。しかも一人娘。帰りが遅いと彼も心配するだろうと思ったのだ。

「そのために遅くなってもいいようにと携帯を買ったんだし」

「携帯はありがとうございます。でも、ちゃんと決めておかないとそれに甘えてしまいそうで」

「……そうか」

 彼がそっと目を閉じる。何か変なことを言っただろうか。

「あ、あの」

 声をかけようとした僕を、彼は手の動きで制する。

「ちょっと母さんに報告していただけだよ。ゆきちゃんはいい子に育っているよ、ってね」

 僕は黙ったまま亮さんから目をそらした。彼の言葉は僕の心を暖かくする。しかしそれは僕じゃない、僕の中に残った雪花が喜んでいるのだ。でもその彼女はもういない。真実を伝えたら彼はなんて言うだろう。

 ピンポーンとインターホンが鳴った。トーストを詰め込みつつ、時計を見る。いつもと同じ時間。間違いなくあの子だ。

「きっとしいちゃんだね。帰ってくるの何時になりそうか分かったらメールで教えて」

「はい」

 もぐもぐと口を動かして、牛乳で一気に流し込む。コホコホとむせる僕を見て、亮さんがわざわざ席を立って背中をさすってくれた。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 玄関まで見送ってくれた彼に小さく手を振る。少し恥ずかしいけど、返ってきた言葉と笑顔に自然と顔が綻ぶ。

「おっはよう、ゆき」

 玄関を出ると、予想通りそこには雪花の親友である西園寺志衣奈さいおんじしいなが門のところで大きく手を振っていた。

「おはよう、しいちゃん」

 今朝も元気なしいちゃんは僕が挨拶を返すとすぐさま門を開けて駆け寄ってきた。そして僕の手を取るとぎゅっと握りしめた。

「今日もゆきの手は冷たくて気持ちいいねっ」

 何が楽しいのか、しいちゃんは歯を見せて笑いながらぴょんぴょんとその場で跳ねた。肩にかかるぐらいの赤茶の髪が揺れている。

「よし、行こうか」

 しいちゃんが僕の手を引いて歩きだす。それはあまりにもゆっくりで、次々と後から来る人に抜かされていく。運動神経のいい彼女がこんなにもゆっくりと歩く必要はない。僕に合わせてくれているのだ。

「ねえ、しいちゃん。今日どこか帰りに寄りたいって言ってたっけ?」

「うん。この前見かけた服を買いに行きたくてさー。あ、まさか用事があるとか?」

 僕は首を横に振る。

「亮さんが今日何時に帰ってくるのかって聞いてきたから。服を買いに行くって事は街に行くんだよね? だったら帰るのは六時かなあ」

「もう少し早いかも。買う物は決まってるし」

 僕は携帯電話を取りだしてさっそくメールを打つ。

『街へ買い物に行きますが、遅くても六時には帰れます』

 送信するとすぐにメールが返ってきた。

『それなら六時に商店街の入口で待ち合わせしよう。今日は外でご飯だよ』

 外食なんて何年ぶりだろう。何処に行くかは書いてないけど、今から楽しみだ。

「ほー。おじさんと二人で外食ですか。羨ましいですなー」

 しいちゃんが携帯電話を覗き込んで言う。

「しいちゃんも来る?」

 しいちゃんと亮さんは知らない仲ではない。雪花の記憶を辿ると、彼女は何度となく早雲家を出入りしているようだ。しいちゃんが来てもきっと彼は喜んでくれるはず。

「家族水入らずに水を差すような野暮なことはしないよ。でもまあ、ゆきを取られるのは癪だから……」

「取られるって」

 小さく苦笑する僕に、しいちゃんが肩がぶつかるくらいに寄ってくる。

「よしっ、買い物済ませたらすぐにでも解放するつもりだったけど、そういうことなら時間ぎりぎりまであたしに付き合ってもらおう」

 頭一つ分僕より身長の高いしいちゃんが前屈みになって僕の顔を覗き込む。にやりとした彼女は悪戯っ子みたいな表情をしている。

「あー、今から放課後が楽しみだなあ。そうだ。今から学校ずる休みして遊んじゃおっか」

「それはダメだよ」

「だよねー」

 しいちゃんが声を出して笑う。つられて僕も笑った。

 今日も一日が始まる。

 本当ならもうこの世にはいないはずの僕が、まだこうしてここにいて、環境は違うけど、それでも以前と同じか、それ以上の幸せな時間を過ごしている。……過去を捨て、今を生きることは、少なからず僕の心に針を刺すけど、それを抱えてでもここにいたいと思わせるものだった。

 こんな毎日がずっと続けばいいのに。そんなことをふと思ってしまう。


 でも、僕に残された時間は、そんなに多くない。

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