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子供は親を選んで生まれてくる

作者: 鈴木美脳

■ 子供論


「子供は親を選んで生まれてくる」

 全ての創作はこの考え方を発展させたものである。


「子供は親を選んで生まれてくる」

 この考え方について、どちらかといえば「快」の感覚を感じる人もいれば、どちらかといえば不快に感じる人もいて、快にも不快にも感じないという人もいる。快にも不快にも感じない人を便宜的に省いて考えるならば、つまり、肯定的に感じる人と否定的に感じる人とがいるということである。

 そのことは、創作について、「面白い」と感じることと「面白くない」と感じることに対応している。


 つまり、

「子供は親を選んで生まれてくる」

 という考え方は、非常に小さな創作だと言える。その創作を面白いと思う人々がこの考え方を支持する。

 一方で、小説などのいわゆる創作は、もっとずっと複雑でそれぞれの創造性に満ちた構造を持っている。しかし、その構造が快を伴って感じられる時に「面白い」と印象されるという意味で、それは規模の違いでしかない。


「子供は親を選んで生まれてくる」

 という考え方に触れた時、ある人々は、「素敵な考え方だな」と思う。

 また別の人々は、「気持ちの悪い考え方だな」などと感じる。

 それぞれがそう感じる理由はある。


■ 外部効果


 この考え方を「気持ちが悪い」などと感じる人はなぜそう感じるのだろうか?

 それは例えば、児童虐待を正当化しかねない考え方だからではないだろうか。


 つまり、「子供を幸せにする見通しを持って子供を作るべきだ」とか、「子供を持ったからには幸せに育てるために愛情を注ぐべきだ」とか、「親自身の幸せのためではなく子供の将来のために親が時間を割くべきだ」とか、慣習的に存在してきた社会的通念はある。

 一方で、「子供は親を選んで生まれてくる」という考え方を持てば、これらの「べきだ」をいくらか無視することができる。

 つまり例えば、性格にだらしがないところがあり子育てを世間ほど真面目にはやりたくないと感じる親がいたとして、子供がそんな親のそんな性格をあえて選んでそこに生まれてきたと考えるなら、親が自省的であるべき必要性は減る。親が、悪い意味で「ありのまま」であることがかえって子供のためだとすら考えられる。

 つまり、「子供は親を選んで生まれてくる」という考え方が事実かどうかという論点とは別に、その考え方によって誰が得をしているかという論点がある。

 親がその考え方によって「快」を得る代償に子供の現実の人生に「不快」つまり苦しみや不幸が生じているのではないか。「気持ちが悪い」と感じる人々の中には、そういった考えゆえにそう感じる人々が少なくないだろう。


■ 構成3要件


 そのような視点から考えてみると、

「子供は親を選んで生まれてくる」

 という考え方は次の3つの条件を満たしている。


【妄想条件】 論理的に考えると実際には事実ではない。

【快楽条件】 支持する人々が快楽を得ている。

【有害条件】 快楽の代償に本人以外が不利益をこうむっている。


 厳密に言うと、

「子供は親を選んで生まれてくる」

 という考え方が妄想条件を満たしているかは疑わしい。

 つまり、もし生まれる前の霊魂云々と言われると、その議論自体は絶対に事実でないとは言えない。

 しかし、その考え方が快楽条件を満たしていることは観察できる。つまりその考え方を支持する人々が支持したいと考える動機は存在する。しかもその陰では有害条件が疑われる。それゆえに、その考え方が事実かどうか、つまり妄想条件が問われるわけである。そして、快楽条件や有害条件に関する意味においては、妄想条件が確かに成立していると言いうる。

 つまり、子供の虐待を正当化しようとしていると見なす意味では「子供は親を選んで生まれてくる」という主張の事実性を否定できる、とは言える。

 事実の観測から生じた「事実」への認知ではなく、(有害な)願望から生じた「事実」への認知であると観察されたならば、その「事実」の事実性を否定できるということである。

 霊魂云々などと言う文面が一見無害でニュートラルだったとしても、人間の心理が事実としてニュートラルであることはほとんどない。ほとんどの場合、いかなる信仰にも何らかの動機が潜在している。


■ 嫌なら読まなければいい論


 創作の例えば小説などについて、

「嫌なら読まなければいい」

 という考え方がある。

 誰かが苦労して作り上げ、ある人々が楽しんでいる作品に、あえて近づいて侮辱の言葉を投げるようなことは、人々の楽しみを阻害するばかりであるから、社会にとって有益ではない。だからこの考え方には一面の正当性はある。

 しかしこの考え方を普遍的な真理だとは言えない。

 つまり、「子供は親を選んで生まれてくる」という考え方も最小の創作であったが、それには有害条件があると疑えた。同様に、より複雑な構造を持つある創作が有害条件を備えている可能性はある。すると、「嫌なら読まなければいい」といった主張に客観的で普遍的な正当性があるという考えは、事実ではないということになり、つまり妄想条件を満たしてしまう。

 すなわち、妄想条件、快楽条件、有害条件を満たす。よって、「嫌なら読まなければいい」という主張を、(ある作品に対するある批判についてではなく、)全ての作品に対する全ての批判について言うことは、正しくない。


■ 誰にも迷惑をかけていない論


「子供は親を選んで生まれてくる」

 という考え方を「素敵な考え方だな」と思う人々はいる。

 考え方というのは自分の内側のことであるから、それ自体は誰にも迷惑をかけていない。

 にも関わらず、その考え方を「気持ち悪い」などと難癖をつけてくる批判者達は、素朴な支持者達からすると感情的に鬱陶しい。

「誰にも迷惑をかけていない」

 という感じがするものである。

「嫌なら読まなければいい」

 という考え方をする人々も、しばしば同じ感じをいだくものである。

 しかし、考え方や、特にその考え方の内部において自分自身を肯定するロジックは、現実社会での生活におけるその人の行動に影響する。極端には、児童虐待としてである。よって、

「誰にも迷惑をかけていない」

 ということを正しく言い切るのは、いかなる考え方についても、客観的には普通、非常に困難である。

 つまり、社会的な正当性と完全に無縁な創作は存在しない。


■ 主観的普遍性


 人間という生き物には、そういった心理的な傾向がある。よって、

「子供は親を選んで生まれてくる」

 といった考え方に「快」を感じている人々にとっては、その考え方の客観的な事実性、つまり妄想条件はほとんどどうでもいい。

 事実かどうか、つまり妄想条件を気にするのは、どちらかといえば、ある考え方に否定的な人々の側だろう。

 支持する人々においては、否定的な指摘といったものはほとんど眼中にない。

「子供は親を選んで生まれてくる」

 という「事実」が主観的に感じられればよいのである。

 しかし、その主観から見ると、そんな事実が実際に客観的に存在するかのように世界観はゆがみやすい。

 同様に、ある創作に対する「面白い」といった感覚も、主観的な嗜好であるよりも対象の客観的な属性であるかのように認知はゆがみやすい。


■ 芸術は進歩するか


 例えば、最近のヒット小説と昔のヒット小説を読んでみたとする。

 最近のヒット小説のほうが「面白い」と感じたとする。

 ここで、「最近のヒット小説のほうが面白く感じた」というのは客観的な事実だ。

 しかし、(そんな根拠だけで、)「昔の小説よりも最近の小説のほうが次第に面白くなっている」と考えるなら、それは事実ではない。それは言わば、「早まった一般化」と呼ばれる誤謬である。

「子供は親を選んで生まれてくる」

 という考え方が「面白い」と感じることと変わらないのだ。

 つまり、主観的にどんなに面白く感じられる創作についても、その面白さを外側から見て有害条件を感じる人々の中には、その創作を少しも面白くないと感じる人々がいる。美点よりも欠点が目立つと感じる人がいる。

 つまり、(こう言ってしまうと当たり前だが、)面白さは相対的だ。何を面白いと感じるかはもちろん人それぞれだから。


■ ヒット作品の価値


 さらに、「多くの人が面白いと感じる創作」、例えば具体的には、売れた作品、ヒット作品がある。

 ヒット作品には一見、客観的な高い価値があるように見える。

 しかし実際には、

「子供は親を選んで生まれてくる」

 という最小の創作と構造は変わらない。

 つまり、仮に確かに深刻な有害条件が実在していたならば、ある考え方の支持者の多い少ないは、その有害性を正当化しない。

 つまり、いくら劇的に売れたたとえ伝説的な創作であっても、有害な、つまり、負の外部効果が快楽を上回るのであれば、その創作に、客観的に普遍的な価値があったとは言えない。

「子供は親を選んで生まれてくる」

 という考え方にプラスの価値があると感じるのとちょうど同じように、快楽条件さらには妄想条件の上にある主観的な価値にすぎないということになる。


■ 考え方の支持率


 創作にヒット作品があるように、全ての創作や考え方について、人々の支持率は色々である。

 10%の人々に支持されて90%の人々に否定される考え方もあれば、90%支持されて10%否定される考え方もある。

 そのような考え方が、0%、1%、2%、……、98%、99%、100%と並んでいると言える。

「子供は親を選んで生まれてくる」

 という考え方も、そのどこかにある。

「子供は親を選んで生まれてくる」

 という考え方を支持しない人もいるだろう。しかしそんな人も、別の何らかの考え方を支持している。

 そしてその人が支持する考え方は、もっと外側からは支持されない。

 つまり、世界には、多く支持されている妄想とあまり支持されていない妄想とがあるだけであり、人間の認知は客観的な事実とはほとんど完全に無縁である。

 圧倒的大多数者が支持する常識があったとしても、その常識が客観的な普遍的事実であることを意味しない。「常識」とは単に、人気がある創作である。処世術において効率的な認知であるにすぎない。


■ 抽象化


「子供は親を選んで生まれてくる」

 という考え方を略して「構造K」と呼ぶことにしよう。

 構造Kの構成要件は妄想条件、快楽条件、有害条件の3つであった。

 ここで、さらに一般的に考えるために、3つ目の「有害条件」を無視して、妄想条件と快楽条件のみを構成要件とするものを「構造J」と呼ぶことにしょう。

 よって、面白い創作は一般に、構造Jを満たしていることだろう。


■ 聖書の場合


 古典的な創作物を考えてみると、その一つはキリスト教の聖書だ。

 聖書を核とするキリスト教においては、

「神は自らに似せて人間を作った」

「人間が人間のために用いるべき存在として人間以外の動物を作った」

 などという文化的な思想を有していた。


 そのような意味で人間を特別なものだと考える思想は、

「子供は親を選んで生まれてくる」

 という考え方と変わらない。

 つまり、そう考えると気楽で好都合だからそう考えようという考えにすぎない。つまり快楽条件が満たされている。

 しかし、近代的な解剖学などの発展により、人間が人間以外の動物と連続的な存在であることは今や明らかだ。つまりキリスト教文化がかつて行ってきたその言明は、妄想条件を満たしている。よって構造Jである。

 有害条件を見いだすことも可能だろうか? 動物は人間の利益のために存在するという考え方が、家畜などの苦しみを増大させたという因果関係を見る意味では、そこに有害条件も見いだすことができる。

 よって、人間以外の動物の幸福に配慮せずに人間の利益のために消費してよい、という意味の歴史的なキリスト教徒の信仰は、構造Kである。


■ 独立宣言と憲法


 1776年のアメリカ独立宣言では次の文言がある。


「われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。」

(We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness.)


 これは、「創造主」がどうなどと言っていて宗教的なので、いくら「自明のこと」と言っても自明では全然ない。つまり妄想条件を満たしている。

 人間が平等であるという考え方は、キリスト教などで昔から見られるが、近代的な言葉遣いで言えば、基本的人権のことである。基本的人権や人権一般というのは、論理的な根拠には危うさを持っている。つまりそれは社会を法律的に運営するためにあまりに根本的なので、実際に選挙を通して市民が選んだという経緯が希薄であったりする。なので自然権という考え方があり、キリスト教や独立宣言などに見えるその大筋の根拠は、神様が決めたということである。


 日本のような、立憲君主制や敗戦という歴史的な経緯がある国は、法の根本である憲法が国民による主体的なものであるかは余計に疑わしくなる。

 1947年に施行された日本国憲法の前文には次の文章がある。


「...、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、...」


 趣旨は分かるが、「人類普遍の原理」は言葉が大きい。言葉が大きい時はたいていは、論理的な根拠が薄弱な時である。


 人類の歴史は、キリスト教が拡大し、キリスト教文化圏から生じた近代経済学と民主主義が世界を覆ったという歴史である。それは一面では、概念的な平等性の拡大であった。

 つまり、社会的な階級的な権威の存在は次第に否定されてきた。

 経済的な実態はどうあれ、建て前の上では、人間はみんな平等になってきたのである。そのことは、市民各々が、他の誰にも劣らない尊厳が自分には(建て前や哲学としては)あるのだと自覚してきたのだと言える。

 しかし、平等性の論理的な根拠は実際には案外薄弱で、歴史的にはただの宗教になってしまう。


「全ての人間は生まれつき平等である」

 という創作が次第に人気を博してきた、というのが本質的な実態である。


■ 正義の相対性


 「正義」という言葉がある。

 正義は相対的である、という感じの思想が現代の市民には人気がある。


 正義なんて言いはじめたって何を正義として主観するかなんて人それぞれだし、主観する正義を正義だと信じて行動すると自分に好都合なだけで大迷惑になりかねないよね、だから正義なんて言葉はむしろ使わないほうが理性的な優れた態度でしょう、というくらいがその考え方の大義だと言える。

 でも「正義」な行為と不正義な行為が実在するという考え方を否定すると、行為についての「善悪」一般について存在を否定する考え方に繋がりかねない。

 すると、例えば児童虐待は悪ではないの?、みたいになる。いや、児童虐待も悪ではないけど、児童虐待なんてかわいそうだから世間や法律が許しませんよ、みたいな理屈も見られる。世間や法律が許さないって、でもそれが悪ってことじゃないの、みたいな、定義の甘さで議論がズタズタに散らかって発展しなかったりする。


 一方で、「正義」や「善」や「徳」、さらにはその属性を備えたものとしての人格の美しさや尊厳といったものは、歴史的に、現実問題に関する議論においても、創作のモチーフとしても大いに用いられてきた。

 恋愛は現代でも創作の主要なモチーフの一つだが、歴史的な創作において、男性向けのものでは、恋愛よりも正義こそが主要なモチーフであったような雰囲気もあると言える。

 そこにおける「正義」とは、強い相手に対し集団の利益を守るために恐怖に立ち向かい、個人としてはリスクや損失を背負うような態度であったと言える。

 一方で、現代的な創作は、ひたすらに「ストレスフリー」へと発展してきたと、大枠では言える。

 その意味で、集団の利益と自分の利益を天秤にかけるような精神的葛藤に立ち向かう意味での歴史的な「正義」は、創作の主要なモチーフではなくなった。

 求められるのは、感情移入の対象の能力が評価され、人々から肯定されるストレスフリーである。その結果、互いに肯定しあうことが「善」の属性になり、歴史的に感覚されてきた「善」と交換された。

 その価値空間においては、個人が利己的であることは否定されない。利己的に生きることを恥だと感じる責任はない。そのようなストレスフリーへと、創作は、数千年かけて向かってきた。

 利己的であることがマイナスの価値ではない世界観、すなわち、正義が消滅した世界観へと進歩してきた。


 その世界観はつまり、小市民が臆病であってもより勇敢な誰かに見下されることはないという世界観だ。

 そもそも、「見下す」なんて行為を自分に向けてくる人は「悪い人」なんじゃないか。だって人間の平等性は国の根本をなす憲法でだって保証されているのだ。

 しかしそうやって、歴史的な善悪の概念をどこまでも放棄してしまうことは所詮は病理だ。

 なぜなら、児童虐待を悪徳だと見なすことが人間社会を幸福に保つために合理性を保つように、集団としての合理性と集団の部分としての合理性の葛藤は、社会において常に実在する議題だからである。

「子供は親を選んで生まれてくる」

 という考え方も、親を満足させる代わりに子供の幸福を損なうリスクが危ういのである。同じ構造は、現代的なストレスフリー思想全てについて言えるということだ。


■ 平等性の偽善的両面性


 人類史のその大枠に気づいてしまったら、じゃあ憲法や宗教が保証してきた平等性って何だ?

 市民において正義の観念を衰退させるならば、「有害条件」を満たしてしまうことになる。ストレスフリーの心地良さを味わってしまっているなら、「快楽条件」を満たしてしまうことになる。そして人間が生まれながらに平等だという「妄想条件」、そんなものは最初から明らかに満たされている。

 よって、近代的な平等思想が少なくともその一面において構造Kであることは確かに示された。

 しかし法のもとの人権や平等には市民幸福のための明らかな合理性もが伴っている。それは分離されるべきものだ。人々の幸福を増加させていこうとするなら、人類の知性は、感情的な自己満足から、論理的な他者尊重へと進歩していくべきものだからだ。

 民主主義思想や人権思想や平等思想は、従来的な意味での正義を滅ぼすために使われるべきものではないし、自分に優しい嘘への自己欺瞞を助長させるために使われるべきものではない。それが誤用というよりも本来の用法だったとしてもである。しかし人類史は、そのような潜在的な不合理を確かに膨張させてきた。


■ 結論


 人類の歴史とはその程度のものだ。

 各時代の民衆が賞賛してきた思想とはその程度のものだ。

 創作の主要な役割は、歴史的な大筋を見れば、好都合な欺瞞を提供する以上ではない。

 「多くの人が面白いと思う」ということは、一面ではそんなことでしかない。


「子供は親を選んで生まれてくる」

 という考え方が生まれて人気を得ていく時代もあるかもしれない。

 全ての思想はそれと程度においてしか違わない。

 つまり、冒頭で言った、「全ての創作はこの考え方を発展させたものである」ということが証明できた。


 時代の民衆が求める価値観を超越して創作が人気を博すことは不可能だし、民衆が求める価値観は大枠では単にストレスフリーへと堕落してきた。結局、あらゆる独創性は構造Kに収まる運命にある。

 「面白い」という感覚の追求には、そんな限界がある。


■ 演繹と包含


 さらに言うならば、現代における金銭の尊重、物質的な幸福の尊重、私的幸福の尊重は、社会のためという正義の尊厳を滅ぼした上で存在する考え方にすぎない。

 一方で、正義の価値、善良な人格の社会的な尊厳、相愛の幸福は、各個にストレスフリーを追求する結果として忘れ去られてきた。

 つまり、上で創作について言えたことは、創作以外の全ての考え方、全ての人の全ての事実認識についても同様に言える。


 よって、人類も人類史もまた、構造Kだと示せた。

「子供は親を選んで生まれてくる」

 そう考えることが心地良いという人々について、そう考えることをやめさせることはできない。

 ゆえに、救われない子供は生まれつづける。その罪と無縁な者は地上にいない。

 しかし、人類自身の認知を構造Kによって限りなく分解していけば、分解した分だけ真実に近づける。真実に近づくということが、ストレスフリーの対極でしかないとしてもである。


「子供は親を選んで生まれてくる」

 示唆に富んだ素敵な言葉だ。

 しかし残念なことに、この言葉が示唆するところを十分に理解している人はまだ多くない。

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― 新着の感想 ―
[良い点] とても面白かったです。 [気になる点] 私は、気持ちが良ければ、それで良いと思います。 [一言] 私は無神論者ですが、聖書は読んでいて気持ちが良いです。 聖書の構造は、小説にもよく使われて…
[良い点]  子供は親を選んで生まれてくる この言葉が及ぼす影響がどんなものなのか、 淡々と語られていて、読んでいて、 どこか気が楽になった様に感じる。 [気になる点]  創作にも関わるということで、…
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