第20章 ☽水田家と亡命家族の危機
第ニ十章 ☽水田家と亡命家族の危機
《2027年7月7日 丁亥の日 先負 七夕/小暑》
アザミンが珍しく日中にわたしの家を訪ねて来た。
「ミキ、いつも部屋は片付いているね。ウチの家はひどいもんだよ。今度、片付けに来て。指きりげんまんしようか?」
「どうするの?」
「小指を先ず曲げて絡ませて上下に振りながら、こう言うのよ。指きりげんまん、ウソ付いたら針千本飲ます。指切った。必ずだよ」
「きょうのアザミン、何か変?」
「ダンナと離婚したんだ」
「えっ、そうなの。どうして?」
「それは、そのうち分かるわよ。ところで、ミキ、私に聞きたいことがあったら今のうちよ?」
「どっか遠くへ行くみたい」
「そう、遠くへ行くんだ。イタリアとか、イタリアとかね」
「うらやましい。わたしもイタリアへ行くのが夢だったの」
「健三さんとでしょ?」
「よく知っているわね」
「そりゃ、そうよ。アナタの知らないアナタも知っているわよ。聞くなら今のうちよ」
「わたしの日記を読んでいて不審な点が二、三あったので、教えていただけませんか?」
「ミキ、何を畏まっているのよ」と言ってアザミンはわたしの肩に腕を組んだ。彼女なりの友情の証だ。
わたしは最初それに対して違和感を覚えたが、そうかといって彼女はレズビアンでもなく水田部長刑事をこよなく愛している。
わたしも無論レズビアンではない。だから、そういう関係ではない。あくまでもプラトニックな関係。
「あっ、聞きたいことってね。平野のおっちゃんがわざわざ養女にしてまでニッポンに亡命させたのかってこと。死人に口なしで最早当人に聞けないし、洋子お母さんに聞くのも失礼かもしれないし」
「その謎はちょっと複雑でショックなことだけどいいよね。アルツハイマーだから」
「いまの言葉、ちょっと傷ついたんだけど…」
「その程度で傷ついているんじゃねえ。アナタのお母さん、北朝鮮の崔江姫さんについて喋られないよ」
「いいから、喋って」
「分かったわ。話は戦後の前の話。ニッポン傀儡の満州国に崔江姫さんのご両親も住んでいたんだけれどね。ロシア兵がやって来て略奪や強姦等とんでもないことをし始めて、ご両親は満州を離れて朝鮮半島まで辿り着いたの。もうそこは生き地獄。そこで江姫さんが生まれたのよね。赤子とニッポンまで逃げることは出来ないと江姫さんの両親は、アナタのお父さんの従兄弟の家族に朝鮮人として引き取って欲しいと泪ながらに訴えて引き取って貰ったんだってよ」
「っていうことは、わたしのお母さんはニッポン人だったの?」
「そういうことね。そのお母さんの両親は長崎県の五島に戻って男の子を一人儲けたの。けれど、ご両親が不慮の事故で他界し、その男の子は孤児院で育ったのよ。その人物が平野哲さん。アナタが平野のおっちゃんって呼んでいた人。これで謎が解けたでしょう」
「……」。わたしはしばらく言葉が出なかった。
「あのぅ、それをなぜ平野のおっちゃんは言わなかったんでしょう?」
「彼は若い頃から命の危険に晒されていたのは聞いたことがあるでしょう」
「それで、いまの奥さんとも五〇代になって籍を入れたって。それに、おふたりのお子さんを児童養護施設に入れざるを得なかったっておっしゃっていたわ」
「おふたりのお子さんである福山先生が育った児童養護施設は、平野哲さんが育った孤児院で、そこで働いている人の多くが平野さんの友人や知り合いだったらしいわね。で、洋子さんはボランティアで時々行っていたらしいの。この写真見て。ビックリでしょう。洋子さんにちょっとお借りしたの」。その写真に写っていたのは幼い頃の福山先生と若き日の平野ご夫妻の三人。運動会で二人三脚をやってゴールした瞬間の写真だった。写真は相当に黄ばんでいてなぜか少し赤みがかっていた。写真の裏には日付と《愛する娘と愛してやまない洋子》と書かれた万年筆の文字が微かに滲んでいた。その赤みがかっていたのには理由があった。平野のおっちゃんが肌身離さずに黒のジャージのポケットに入れていたらしい。そして、銃弾に撃たれながらもこの写真を鷲掴みにしていたという。平野のおっちゃんが最期に見たのは満開の桜ではなくて、きっとこの写真だったのだろう。
しばらくの沈黙の後、
「ミキ、まだ聞きたいことがあるでしょう?」
「きょうのところはもういいわ」
「分かったといいたいけど、いま言わないといけないことがあるのよ。聞いてくれる?」
アザミンがそこまで言うのには何か理由でもあるのだろう。
「じゃあ。手短にお願いね」
「うん。あのね、アナタの初恋の相手だけど、アナタのお父さんが執拗に別れさせようとしたのには理由があったのよ」
「それは、わたしもずっと腑に落ちなかったのよ」
「それがね、驚かないでよ。ちょっと複雑なんだけど、さっきの話と関係するのよ」
「さっきの話って、わたしの母親の話?」
「そうそう。アナタのお父さんの従兄弟の家族に引き取って貰っていた子どもはふたりだったの。その上の子も女の子で、十年後にロシア兵に連れて行かれて、それから五年後に戻って来た時には身籠っていて男の子を産んだのよね。『子どもには罪はない』と言って。しかし、そのお母さん、産後の肥立ちが悪くて亡くなったの。その男の子は孤児院に入ったのよ。だから、その男の子とアナタには血縁関係があったから、お父様は反対されたのよ。分かった?」
「そうだったの。あの男、わたしの日記ではわたしがヒカリを産んですぐに誘拐したって書いてあったけど、その後の日記が何枚か破けていて、よく分からないの?」
「それは知らない方がいいと思って誰かがしたのね。善意ある悪意かな」
「誰がそんなことをしたの?」
「アナタのことをずっと監視してきた人ね」
「それって誰?」
「そんなに知りたい。ゴメン、ミキ。私たち家族六人。本当にゴメン」
「どうして、そこまで?」
「私たち家族は政府に雇われた特殊部隊だったの。でも、私はミキを親友だと思っているわ。村八分にされてから初めて仲良くなった親友だってね。アナタの命はもうそんなに長くないの? だから、罪滅ぼしに何かさせてくれる?」
「わたし、死ぬの・・・・」
「うん。これは運命で、産まれた瞬間に決まっているのよ」
「アザミンは初めて会った時もそう言ったって日記に書いてあったわ。確か。アザミンはいつも一貫している。理性を失ったのはきょうが初めて?」
「そうかもね。ちょっとミキをハグしていい?」
「えっ、いいわよ」
わたしは、ラズベリーの香りに包まれたアザミンの豊満な肉体に吸い付くように抱き寄せられた。アザミンの心臓が激しく脈打ちバクバクしている。わたしはその鼓動に何か不思議な興奮をかきたてられた。次の刹那、アザミンがわたしの首筋に舌を這わせる。わたしは身体中が火照って来るのを感じずにはいられなくなった。サディスティックにアザミンはしなやかに身体をくねらせてわたしを虜にさせる。こんなに近くにいるのに、どこか遠く何万光年も先にいるような気さえしていた。「わたし、本当に死ぬの?」、「死ぬのがコワいのね」、「そう、みたい」、「正直ね。私がアナタを死に導くのなら、コワくないでしょう。私が守ってあげるわよ。心配しないで」、「アザミン、ありがとう」。
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アザミンはその日の七夕の夜、帰らぬ人になった。ブーちゃんが驚いて、ナナを呼びに来た。
「ハイカラさん、お母ちゃんが起こしても、起こしても全然起きないんだよ」
「お父さんは?」
「いない。昨日、離婚したって。それから、お姉ちゃんは仕事から帰って来たのが遅かったから爆睡中」
「とにかく、ブーちゃんは落ち着いて。わたしが様子を見に行くから、ブーちゃんはここにいて。家のカギは開いている? カギは持っている?」
「おばちゃん、カギは開けたままで、カギは下駄箱の上に置いてあるよ」
「分かった。ナナ、ブーちゃんを頼んだわよ。それから、健ちゃんが起きたら、スマホのLINEにメッセージを入れてって言ってよ。電話はダメだからって。分かった?」
「ハイ、お母ちゃん」
「ナナはお利口さんね」とナナの頭を撫でる。そして、泣いているブーちゃんを抱きしめた。
「いってきまーす」
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アザミンは死んでいるようでもあり、生きているようでもあった。彼女の声が聴こえる。「ミキ、私がアナタの道標になるからね。アナタは心配することはないのよ。気を楽にして。死は来世への扉でもあるの」。
それから、彼女はわたしのためにこの世とあの世への幽界を彷徨っている。
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わたしは次第に記憶を失う。一昨日の楽しかった家族団欒の思い出も、昨日の養母・洋子さんとのウインドショッピングも、わたしの日記の中には存在しても、もうわたしの記憶の中から消去されてしまっている。僅か一日、二日しか経っていないのにも関わらず……。
それほどまでに、わたしの病状は日に日に悪化。加速度的に進行していたのだ。家族は、その姿に悲哀と失望を感じながらも手を離すことなく共に歩んでくれている。
五月のとある日曜日、わたしたち家族はピクニックへ行った。
長女のナナが「♪ランララーン。ピクニックと言えばサンドイッチ!」と張り切り、午前五時に起きて支度をした。わたしもナナに起こされて手伝う羽目になった。ナナは手先が器用なのかサンドイッチとかケーキとかを作るのが上手い。わたしはアジア系の料理を作るのは得意だが、欧米系のケーキ類は苦手だ。ナナとは正反対だ。「お母ちゃん、ハムがはみ出しているよ」。「あらまあ。わたしったら……」。わたしは、はみ出たハムを勢いよく食い千切った。「お母ちゃん、大丈夫?」。
その日行った場所は鹿がいることで有名な奈良公園東側の若草山。 吹く風が心地よく、東大寺大仏殿など奈良市街地を一望できる。
わたしたち家族は芝生の上に水玉模様のシートを広げ、柔らかな日差しを浴びながらのんびりと過ごした。
ナナと次女のヒカルがふたりでバドミントンをしている。その様子をわたしと健ちゃんは眺めていた。
健ちゃんは腕を組みながら「ふたりとも大きくなったな」と感慨深げに呟いた。
「そうなの。わたしは記憶喪失とアルツハイマーで記憶にはないのよ。なんで、わたしばっかりこんな目に遭うのかしら。なんで、わたしばっかりなん」。わたしは健ちゃんに愚痴をこぼした。
健ちゃんはわたしの両手を握り締めて「ミキには家族がいるやないか。俺たちがミキの記憶係になるから。心配するな。ミキの心を俺たち家族に預けさせてくれ」と言った。
「ありがとう、健ちゃん。わたし、しあわせだよ」
「俺も」
わたしたちの横を鹿が通り過ぎ、わたしは驚いて健ちゃんにしがみ付いた。
◎主な登場人物
▼わたし(広田ミキ/金美姫)
ピョンヤン出身/舞踏家/ニッポンへ脱北/ドジ・のろま/父外務省高官/母小学校教師/アカブチムラソイ/タンゴ/結婚・出産/子不知自殺未遂/記憶喪失/2児の母/コンビニバイト
▼健ちゃん(広田健三/陳健三)
広田家家長/中国遼寧省出身/農家三男/無戸籍/北京大医学部卒/元外科医/発禁処分作家/ボサボサ頭/ニッポン亡命/大正浪漫文化/竜宮の使い/大阪マラソン/母親白系ロシア人
▼ナナ(広田ナナ/チュッチュッ)
広田家長女/タイ難民キャンプ出身/ビルマ人/ニッポン亡命/悪戯好き/高田馬場/交通事故/あすなろ/児童養護施設/養女/道頓堀小/ハイカラさん/福山先生/失語症/車椅子
▼ヒカル(広田ヒカル)
広田家次女/大阪生まれ/天使のハートマーク/ダウン症/ルルドの泉/奇跡/明るい/笑顔/霊媒師アザミン/プリン・イチゴ好き/亡命家族を結び付ける接着剤/天体観測/流れ星
▼平野のおっちゃん(平野哲)
外務省官僚/福岡県八女市出身/両親を幼くして亡くす/ミキ・健三ら亡命者支援/ヒマワリ・サンシャイン/ミキの父・金均一の友人/ミキ養父/西行法師/吉野奥千本に卜居/満開の桜の樹の下で銃殺
▼洋子さん(平野洋子/旧姓有栖川)
平野哲の妻/旧皇族/奥ゆかしさ/ミキ養母/ミキと健三のヨリを戻す/ゆめのまち養育館/福山恵/奈良県・吉野/夫婦で早朝にジョギング、古都奈良散策/いけばな家元/みたらし団子/韓国ドラマ
▼アザミン(水田あざみ/斎木あざみ)
霊媒師/津軽イタコの家系/弱視/青森県・鯵ヶ沢町出身/10歳の時に村八分/大阪・梓巫女町/琉球ユタ修業/ミキの善き理解者/夫は水田豊部長刑事/2男2女の母親/直接的・間接的にミキを救う
▼塙光男(朴鐘九/河合光男)
北朝鮮の孤児/スパイ/金日成総合大卒/ニヒルなイケメン/新潟県可塑村村長の養子/同県大合併市市長/ミキの初恋の相手/北朝鮮、ニッポン乗っ取り計画首謀者/ミキを誘拐/親不知不慮の事故死




