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第19章 ☽わたしはだあーれ!?

第十九章 ☽わたしはだあーれ!?


《2019年1月6日 癸卯(みずのとう)の日 赤口 小寒/新月》


 わたしは唯一残された神戸・北野異人館(きたのいじんかん)のパラスティン邸が写っている写真を頼りに神戸市内のS駅へたどり着いた。そして、改札口を出てしばらく歩くと本屋があった。

 その本屋に入ると若い女性の店員がいて、その店員はレジのところで気だるそうに大きなあくびをした。客がほとんどといっていいくらいいないせいかのんびりしたもので、しまいにはその店員は眠りこけてイビキまで()いていた。後に噂で聞いたところでは、ここのオーナーはこの辺りの大地主だという。いい気なものだ。

 最近はインターネットで本が簡単に手に入る、あるいはデジタル書籍としてインターネットで本が読めるため、本屋の価値がなくなりつつある。嘆かわしい現状だが、大地主のせいなのか全くこの本屋には、店頭を華やかに飾るポップもほとんどなく、「本を売ってやるぞ」という意気込みもなければ危機感も見えない。これでは、腐ったミカンのようで、他の本屋も腐らしかねない。

 わたしは記憶を失っても本が好きだったようで、実際に本を手にするとその本のぬくもりが感じられ、立ち読みをしているとついつい本を衝動的に買ってしまう。本とは不思議なもので、一度手にするとページを(めく)りたくなる、その本に書かれているものがどんなものであるのかを知りたくなる。それは、まるで自分の記憶を手探りで辿る作業のようにも思えてならない。

 私は新刊本のコーナーへと向かった。ある書籍を何かに導かれるように手にした。その書籍のタイトルは『双子(ふたご)~ミキは生きていた』。その表紙には 家族写真と思われる一枚のモノクロ写真が載せられている。

 その家族写真を見た時、わたしはハッとした。その写真の中央に私が写っているのだ。世の中には自分に似た人が三人はいると言うが、この写真に写っているわたしのようなわたしでないようなその人物が何かを訴えているようで、わたしはその写真に引き込まれていった 。しかも名前がミキって。白ヒゲ先生に付けてもらった名前と同じじゃないの。だから、違和感がなかったのか。

 だが、本当のところ、わたしは自分が誰なのか記憶にない。わたしは自分の名前すら分からないのである。思い出そうとすればするほど頭が痛くなる。頭が激しい痛みに苛まれる。片頭痛(へんずつう)がして、眼に羞明(しゅうめい)を感じるほどなのである。

 わたしはその新刊本のページを(めく)った。さらさらっと(なな)()みしていると、あとがきに見入ってしまった。あとがき「この小説を書くにあたって」を何気なく読んでいると、とても可哀想な障碍(しょうがい)のある女の子が二人出てくる。その女の子の名前はカタカナで一人はナナ、もう一人はヒカルと書いてある。

 わたしは再び表紙にある家族写真を見つめる。わたしのようなわたしでないようなその人物が、その隣にいる車椅子に乗った女の子を抱き寄せている。きっと、その車椅子に乗った女の子はわたしのようなわたしでないようなその人物の娘ではないのかという疑問がふつふつと()いてきた。すると、どうしたことか、目頭(めがしら)が急に熱くなってきた。

 翌朝、わたしは神戸の街から長崎県・五島(ごとう)へ向かった。新神戸駅午前九時十八分発N七〇〇系の精悍(せいかん)な俳優の佐藤浩市(さとうこういち)顔をした「新幹線のぞみ」(十六両編成)に乗車して博多まで行き、そこからは八八五系の白いボディが印象的な「特急かもめ」(六両編成)の自由席に乗り替えて浦上(うらかみ)駅へ。そして、浦上電停からは路面電車に乗り大波止(おおはと)電停を下車。そこから歩いて約五分で長崎港フェリーターミナルに着く。港からはジェットフォイル「ぺがさす」で福江島(ふくえじま)の福江港まで行き、到着したのは午後四時を過ぎていた。その日は福江港そばにあるホテルに泊まった。ここで食べたい物がひとつあった。「かんころ(もち)」である福江港で売っていたのであるが、ホテルでは焼くこともできないと買うのを断念した。民宿にでも泊まれば良かったと少し後悔した。

 次の日、バスに乗ってニッポンの西の最果(さいは)ての地・五島(ごとう)玉之浦(たまのうら)にある井持浦教会のルルドの泉へ向かった。福江午前八時十三分発の玉之浦方面行きに乗車して、ルルド前で下車。所要時間は約一時間二十分(一日六往復)。ルルドの泉は、奇跡を起こすことで知られている。そこにある立て看板には、こう書かれてある。

 「信じない者には説明は無駄である。信じる者には説明は無用である」と。

 わたしは奇跡を信じた。信じる者は救われる。それから次の日も、また次の日もと、藁をもつかむ思いで奇跡を信じて、日々足繁(あししげ)くこのルルドの泉へと通った。わたしができることはこれしかなかったからだ。それが徒労(とろう)に終わろうとも、ほかになす術がない。悲しい性なのかも知れない。

 それから四か月後のある日、例の新刊本の表紙に写っている家族写真の人々がやって来た。このルルドの泉に。その中には、わたしと瓜二つの女性はいなくて、別にどこかで見たようなインパクトのある夫婦らしいふたりがガイド役でいた。

 わたしはその人たちとすれ違った。しかし、わたしに気づかなかったようだ。その時のわたしは頭に前つばのあるウール素材でグレーのマリンキャップを被っていた。恐らく、それで気づかなかったのだろう。ただ乳母車(うばぐるま)に乗った女児だけが不思議そうにわたしの顔をジロリと眺めている。この児は、わたしが産んだ子どもなのか。あの本のあとがきに出て来る女児のヒカルなのか。そう思うと、胸が張り裂けそうになって、意識を失った。

 目が覚めると薄汚れた白い天井が遠くに見える。病院の一室のようだった。ベッドの横には、ルルドの泉で見かけたインパクトのある夫婦らしい二人が椅子に腰掛けていた。

 「ミキさん、目が覚めましたか?」。エクボの女性がわたしに尋ねてきた。ミキってわたしのことなの。頭がまた痛くなってきた。

 わたしは、「あなた、誰なの?」と言うのが精一杯だった。

 「大丈夫ですか?」

 「俺が医者を呼んでくるよ」

 「ナースコールは?」

 「看護師しか来ないじゃん」

 「じゃあ、任せるわ」

 「任せとけって」

 そう言って、うだつのあがらなさそうな男が走って病室を出た。 

 しばらくして、そのうだつの上がらなさそうな男が血相(けっそう)を変えて走って戻ってきた。

 「医者はどこなの?」

 「医者は本土に用事があって、今夜はこっちには戻って来ないって。それで、ハイカラさんのお父さんに電話して頼んできた。ハイカラさんが言っていた『お父さんが元外科医』っていう話は本当だったよ」

 「そうなの。それで、患者が奥様だってこと言ったの?」

 「いや、言っていない。電話の傍にハイカラさんもいたようなので」

 「ありがとう。さすがは年の功ね」

 「それ、見た目じゃん。俺の方が若いのに」

 わたしはその夫婦らしい会話を聞いて「ハハハハハア。ご主人、冗談がキツいよ」と笑ってしまった。

 「あの、冗談じゃないんです。それより、記憶を失ったって本当なんですか?」

 「冗談じゃないんですか。それは失礼しました。ところで、わたしが記憶喪失だってこと、どうして分かったんですか?」。わたしは疑問をぶつけた。

 「ここの医者が問い合わせておりました。奥様が持っていたクスリの袋に書かれていた病院に連絡して分かったって。奥様、よりによって新潟県だったんでしょうか? 私の生まれ故郷なんです、新潟県柏崎(かしわざき)

 「へえ、そうなんですか? 原発しかないって白ヒゲ先生が言っていました」

 「アナタ、マヌケな質問したわね。そんなこと分かっていたら、記憶喪失じゃないんじゃない」

 「そっかあ。ところで、白ヒゲ先生って、もしかして」。その男の顔が見る見るうちに赤くなっていった。大きな窓から射し込む夕陽とともに紅く紅くなっていった。

      ☽     ☽     ☽

 しばらくして病室にボサボサ頭の男が入って来た。その男は病室にいるじっちゃん先生と呼ばれている男に「患者さんはどこだい?」と訊ねた。じっちゃん先生は「ビックリしないでくださいよ。私はちょっとトイレに行ってきます。失礼します」と言った矢庭(やにわ)に早足で病室から出て行った。

 その様子を見ていた福山先生という女性は「本当に仕方のない人だわ。ハイカラさんのお父さん、うちの人ったら無責任で申し訳ありません。患者さんのことですけど、ちょっとお話がございますので少々廊下までお願いできますでしょうか?」とわたしに向かって後ろ向きになりながらわたしが横になっているベッドのカーテンをサーッと閉めて言った。

 ボサボサ頭の男は「はい」と言って、福山先生と一緒に病室を出て行った。

 それから五分後、先程のボサボサ頭の男が神妙な面持ちで病室に入って来て、わたしの顔を(のぞ)き込んだ。飼い主に再会した忠犬のような今にも泣きそうな顔をしている。「あの、記憶がないとのことですが、私の顔に見覚えはありませんか?」とわたしに(たず)ねるのであった。

 わたしは率直に「見覚えがあるかですか? あるような、ないような。分かりません。ところで、アナタはこの本も書かれたのですか?」と曖昧な答えを出し、逆に尋ねた。白ヒゲ先生から頂いた本『ビルマ野うさぎチュッチュッとテッテッ』をベッドの片隅から取り出し、この男に見せたのだ。

 「ええ、そうです。読んで頂いたのでしょうか」。嬉しそうな顔のボサボサ頭の男。

 「はい、何回も読み返しました。本当にステキなお話ですね。感動しました。チュッチュッという野うさぎがかわいそうで、かわいそうで……」とわたしはその本への思いの丈を述べた。

 「チュッチュッというのはキミの娘を題材にしているからな。ちなみに、チュッチュッは俺の娘でもある。いまはナナと名乗っているがな」とボサボサ頭の男が言うのだ。チュッチュッがわたしの娘であり、この男の娘でもあり、いまはナナという名前であるということは、わたしと彼は夫婦なのか。やはり、以前見た本の表紙に写っていたわたしのようなわたしでないようなその人物はわたしであったのか。わたしは彼に何て言えばいいのか分からず黙ってしまった。

 すると、彼は「いまのキミにこんなことを言ったところで理解できないだろう。記憶がないのだから。もし、よかったらで良いんだが、俺たち家族と同居するって言うのはどうだい。そしたら、記憶も早く取り戻せるかもしれない。俺は元医者で、その立場で客観的に考えて言っているので、気を悪くしないでほしい」と切ない表情で淡々(たんたん)と語った。

 「そう言って頂けると気が少し楽になりました。ありがとうございます。不束者(ふつつかもの)ですが、どうぞよろしくお願いいたします。わたしのいまの名前は高松美姫(たかまつみき)と言います」とわたしは元医者で現在は作家先生の彼に身を(ゆだ)ねることにした。

 「えっ、何だって。いまもミキなのか⁉」と彼はわたしの名前に驚いた様子だった。

 「入院していた病院の白ヒゲ先生に付けていただいたのよ」

 「そうかあ。偶然か」

 「わたし、美姫っていう名前に最初から違和感がなかったのよ。不思議とね」。わたしは美姫と名付けられた当時の状況を振り返ってありのままに彼に伝えた。

 「そういうことって往々にしてあるのかもしれないな。それを潜在意識とか無意識とかって言ったりする。要するに、『ミキ』という言葉にキミの脳が反応しているんだよ」と彼は答えを導き出してくれた。

 「そうなんだ。ありがとうございます、広田健三(ひろたけんぞう)さん」

 「水臭いな。健ちゃんでいいよ。俺はキミのことをミキって呼ぶからな。ミキ」

 「じゃあ、お言葉に甘えて。健ちゃん!」。わたしは少し照れ臭かったけれど、何となくしっくりきたのを感じ取っていた。これって健ちゃんが言っていた潜在意識なのだろうか。

 「それでいいのさ」。彼は小さくコクコクと頷き満足そうな顔をして、「子どもたちがお腹空かしてホテルで待っているから、きょうはこれで帰るな、ミキ」と言って立ち去ろうとする。

 わたしは呟くように「健三さん、さよなら」と言った。

 彼は後姿のまま右手を上に挙げて大きく左右に何度か振り、何か歌を口ずさんだ。どこかで聴いたことがある。数日後、その曲が『星に願いを』だったことを知る。彼が持っていたわたしの父親の形見らしい日本製のICレコーダーに入っていた。『星に願いを』が、父のお気に入りの曲だったらしい。だから、どこかで聞き覚えがあったのだ。

      ☽     ☽     ☽

《2019年5月6日 癸卯(みずのとう)の日 大安 立夏》

 それから二日後に退院したわたしは広田家族と大阪へ戻る。

 長女のナナには私の病気のことを伝えたようだが、ナナは陽気に振る舞ってくれた。「お母ちゃんがいなくなってから、お父ちゃん頑張って日本語で小説を書いたんだよ。お母ちゃんは読んだ?」

 「『ビルマ野うさぎチュッチュッとテッテッ』だよね」と言って、バッグの中から本を取り出した。

 「お父ちゃんのサイン入りやん。ハハハァ」。ナナのその愛おしい笑い声がわたしに生きる勇気を与えてくれた。わたしは思わずナナをぎゅっと抱きしめた。「お母ちゃん、温かい」とナナは言いながら泣きべそをかいた。よっぽど寂しかったのだろう。わたしはナナの頭を撫で撫でした。「お母ちゃん、チュッチュッってあたしのことなの」とナナがボソッと言った。

 「健ちゃんから聞いたよ。苦労したんだね」

 「お父ちゃん、本当に長距離電車に乗ると必ず良く寝るね。ヒカルと一緒にグッスリ寝ているね」

 「寝る子は育つって言うけど、寝る大人は何て言うのかしらね」。わたしはふと思いつくままに言った。

 「寝る大人は落書きされるんだよ、お母ちゃん」。ナナはそっと立ち上がって窓際に掛けていた赤と青の水玉模様のナップサックから赤と黒のマジックを一本ずつ取り出し、健ちゃんの顔に落書きを始めた。黒のマジックで(まぶた)に大きな眼を描き、鼻の下にちょび(ひげ)黒子(ほくろ)を入れた。

 「まあ、この娘ったら。ハハハア」。わたしは腹を抱えて笑った。こんなに笑った記憶がない。ふとそう思った。

 「お母ちゃんも前の時のように落書きしてよ」とナナははしゃいで赤色のマジックをわたしに手渡した。

 「じゃあ、こんな感じかしら」とわたしは健ちゃんの両方のホッペに渦巻きを描いてやった。

 「お母ちゃん、やるやん」。

 「面白いね」

 「そういう時は『オモロー』って言うねんで」

 「そうなの、初耳」

 「ははっはははっ。お母ちゃん、オモロー。それ、お母ちゃんに教えてもらったのに」

 「そうなの」。わたしは記憶がないとはいえ、少し恥ずかしくなった。

 その時、健ちゃんが起き出して大きな欠伸(あくび)をした。「なんか楽しそうやな。クンクンクン」とインクの臭いをかいで、「また、やりやがったな。ナナ、お尻ペンペンやぞ」と怒鳴った。

 「あたしだけじゃないよ。お母ちゃんもやで。アッカンベー」。憎いやら可愛いやら。ナナは良くも悪くもサービス精神が旺盛(おうせい)だ。

 「ナナ、お母ちゃんにもやらせたのか。それはよくでかした。えらい、えらい」と言って健ちゃんが今度は(てのひら)を返したようにナナを褒めちぎった。

 健ちゃんは上機嫌になっていて、「じゃあ、三人でしりとりをしよう。いいな」と言った。

 「はーい。じゃあ、言い出しっぺのお父ちゃんから」

 「オレからか。しゃーないな。()()()()()()()()

 「お父ちゃん、いまの何?」

 「アカブチムラソイっていうのはだな、ミキのことだ」

 「えっ、わたしのこと。魚の名前っぽいけど」

 「そうだ。ミキに似ている魚の名前だ」

 ナナはスマホで検索して、「ギョギョ、確かにお母ちゃんに似ている。これよ、お母ちゃん」とこの娘ったらわざわざわたしに見せるのよね。「眼の辺りが似ているといえば似ているかしら。でも、(とげ)はないわよ」。

 「うん、そうだな。そういうことにしとこう。じゃあ、次はナナの番」

 「あたし。うーん、イタリアンジェラート。お母さんの大好物だよね。夏には欠かせないって毎日食べていたよ。だから、いまはあたしの大好物でもあるの」

 「そうなの。思い出せないなあ。次、わたしね。ト、トリカブト」

 「おいおい、物騒だな」

 「トリカブトって何?」。ナナがスマホを取り出すと、「そんなことを調べるんやない」と健ちゃんは血相を変えてナナからスマホを強引に奪って「ナナは(しばら)くスマホ没収な」と有無とも言わせない態度を取った。それに対して、ナナは何か言いたそうにしていたが口を(つぐ)んだので、わたしが言った。「トリカブトって毒のある植物よ」。

 「どうしてミキがそんなことを知っているんだよ」

 「そんなに怒らなくてもいいじゃないの。これからきちんと説明するから。落ち着いてよ」

 「分かった。ついつい興奮して。すまない」

 「新潟でお世話になった白ヒゲ先生と飛来刑事さんとで退院前に運動がてら近くの山に登ったのよ。その時、キレイな紫色をした花を見つけて、白ヒゲ先生はこう言ったのよ。『キレイな花には棘があるって言うが、その花はトリカブトという棘じゃなく毒がある植物なんじゃ。くれぐれも気を付けるんじゃよ』って」

 「いま、飛来刑事って言ったよな」

 「ええ、そうだけど。それが何か?」

 「飛来刑事って名前が信で、背が高くてソース顔のイケメンじゃなかったか?」

 「そうだけど。どうして知っているのよ?」

 「ナナも知っているよな」

 「ウン。よく知っているよ。アタシの友達のブーちゃんの家に入り浸っているって言っていたよ。刑事だったの⁉ それは知らなかった」

 「これがそいつの名刺だ。〈大阪府警察本部刑事部捜査第一課巡査 飛来信(ひらいしん)〉こいつじゃないのか?」

 「たぶんね。関西弁喋っていたし。わたしが貰った名刺はコレ。〈新潟県警察本部刑事部捜査第一課巡査 飛来信〉」

 「きっと、俺たちを尾行しているに違いない。恐らくこの車両のどこかに潜んでいるはずや。間違いない。ミキのスマホは誰からもらった?」

 「今の時代、スマホがないと不便だからって、飛来刑事さんに山に行く途中で最新型のスマホをプレゼントしてもらったの」

 「恐らくGPS機能が付いていて、ミキのいる場所を把握しているはずや。ってことはこの車両のどこかに潜んでいてもおかしくない。ナナ、“探偵ごっこ”開始やぞ。犯人を見つけた時は、どう言うんやったか覚えているな。飛来と水田どっちか見つけた時に大きな声で叫ぶんやぞ。分かったか」と健ちゃんは探偵にでもなりきっているのか。すぐさま大型のスーツケースから取り出した鹿討ち帽を目深に被り、二重マントを羽織った。変装好きとは聞いていたが旅先にもきっちり用意していたようだ。これで葉巻を(くゆ)らせばシャーロック・ホームズではあるまいか。

 「それではナナは前の車両との間のトイレに五分行ってから戻って来い。その時に新聞紙で顔を隠そうものなら例の言葉を言えばいい。俺は後ろの食堂車へ行くフリをして小銭を落として様子を伺うことにする。では先にナナから行け」。ナナは真っ直ぐ前だけを見てトイレへと駆け込んだ。その様子をじーっと眺めていた健ちゃんは、「次は俺の番だ。緊張するなあ」とボソッと呟きつつも立ち上がって、五、六歩後ろに行った辺りで小銭を落とし、チャリンチャリンと音がしてほとんどの人が音のした方へ振り向いたが水田部長刑事も飛来刑事もいなかったようで首を傾げた。 

 一方のナナは五分が経ち、ドアを開け、横目で左右を睥睨してある瞬間ピタッと視線が止まり、その視線の先の方へ猛牛のように突進してゆくと、案の定、新聞紙で顔を隠した。ナナは叫んだ。「この人、痴漢ですぅ」。

 「何を言っているんや。ワシや。水田のおっちゃんやで」 

 ナナのいる場所に急いで駆け付けたのが健ちゃん。「お騒がせしました。うちの子どもの悪戯です。申し訳ありませんでした」と大金声を張り上げて陳謝した。そして、ナナの耳元に「ナナ、よくやったぞ。お母ちゃんの所に戻っていなさい。あとはお父さんに任せなさい」と(ささや)いた。ナナは両手でハートマークを作って軽くウインクして、わたしの方へ戻って来た。

 ナナは開口一番(かいこういちばん)。「スッキリした。モヤモヤしていたものが晴れた気分」。ナナも感じていたようだ。誰かにいつも尾行されているようだと。「お母さん、あたしたちをどうして尾行していたの?」

 「健ちゃんがいま聞いているから、直に分かるはずよ。お母さん、疲れたから少し寝るね」。わたしは、再び深い眠りに就いた。深い深い地底を()うようにして魂はわたしの身体から離れて行った。幽体離脱なのか。それとも、わたしは幼児を置いたまま死んでしまったのだろうか。 

 そこへ霊媒師アザミンが白装束姿で現れ、呪文を唱えた。

 「アナタハマダココヘクルヒトジャナイ。イマスグモドリナサイ。テンノカミ、チノカミ、ヤマノカミ、ウミノカミ、アークリーシャフッダ、ブッダーラプタ、アークリーシャフッダ、ブッダーラプタ……」

     ☽     ☽     ☽

 わたしは、その言霊を聞いて、ハッとこの世に逆戻りした。「アザミンがわたしを救ってくれたのよ。アザミン、ありがとう」と新幹線の窓から空を見上げようとしたが、走行スピードがあまりにも速くて空をじっくりなど見られなかった。

 ナナが不思議そうに聞いてくる。


 「UFOのようなものかしら?」と娘に鎌を掛けてみた。

 「お母ちゃん、そんな大事なこと独り占めしないでよ。あたしもUFO見たかったなぁ」とナナは少ししょげ返った。最近、ナナは親友のブーちゃんの影響でオカルト関係に興味を持ち出したという。

しかし、ナナはUFOどころか幽霊や怪奇現象にも遭遇していない。

 わたしは、このナナとちっちゃなヒカルを置いて死にたくない。

ただ最近のわたしは記憶自体が薄れてゆくようでコワい。これはただ単に記憶喪失の問題ではなかった。若年性アルツハイマー症という痴呆なのだ。そうはっきり分かったのがそれから半年後のことだった。

     ☽     ☽     ☽

《2019年12月7日 戌寅(つちのえとら)の日 先負 大雪》

 記憶喪失の次は若年性アルツハイマーか。過去の記憶を失い、いまある記憶さえ数時間後には忘れ去ってしまうのだろうか。

今置かれているわたしの存在って何だろうか。わたしはまだ四十二歳。それなのに、愛する健ちゃんやナナやヒカルを忘れ去ってしまうのだろうか。既にその兆候が出てきている。夫の名前が出なくなるときがある。そんな時はボサボサ頭と言って誤魔化す。娘のン前も出なくなる時がある。そんな時はハイカラさんって呼ぶ。どうもあだ名の方が記憶には残りやすいみたいだ。だから、下の娘にあだ名を付けた。「エンジェル・ハート」。項に天使のハートマークがあるからだ。ヒカルはダウン症なのでかわいそうな娘だ。それでも、いつも元気に振る舞ってくれるのは嬉しいことだ。人間に完璧な人間など存在しない。みんな、ああでもないこうでもないと試行錯誤をくり返しながら成長してゆくものだ。

 親友で霊媒師のアザミンがある時こんなことを言ってくれた。

 「ミキが記憶を失ってもご主人や娘さんたちはミキをいつまでも記憶に留めていてくれるんだよ。いまやミキの家族はミキを中心に回っているからね。それに比べたら私の家族って部長刑事のダンナが中心で、いまや私は家政婦扱い。『めし』、『風呂』、『着替え』。この三つの単語以外に会話はゼロ。冷めた恋ほど虚しいものはない。夫が定年になったら、離婚するオンナの気持ちがよく分かるの。だから、アナタは記憶喪失になってアルツハイマーになったけど理解ある家族に恵まれているってことを忘れないでよ。アナタ、ずっと日記書いていたわね。それは、どんなことがあっても続けなさい。それがアナタの記憶ノートなんだからね。もし、記憶ノートで抜けているところがあったら、わたしに聞きなさい。私はこう見えても優秀な霊媒師なんだからね。親友としてアナタの助けになりたいのよ」

 アザミン、この言葉は父の形見でもあるICレコーダーに入れて、毎日聴いている。


◎主な登場人物

▼わたし(広田ミキ/金美姫)

ピョンヤン出身/舞踏家/ニッポンへ脱北/ドジ・のろま/父外務省高官/母小学校教師/アカブチムラソイ/タンゴ/結婚・出産/子不知自殺未遂/記憶喪失/2児の母/コンビニバイト

▼健ちゃん(広田健三/陳健三)

広田家家長/中国遼寧省出身/農家三男/無戸籍/北京大医学部卒/元外科医/発禁処分作家/ボサボサ頭/ニッポン亡命/大正浪漫文化/竜宮の使い/大阪マラソン/母親白系ロシア人

▼ナナ(広田ナナ/チュッチュッ)

広田家長女/タイ難民キャンプ出身/ビルマ人/ニッポン亡命/悪戯好き/高田馬場/交通事故/あすなろ/児童養護施設/養女/道頓堀小/ハイカラさん/福山先生/失語症/車椅子

▼ヒカル(広田ヒカル)

広田家次女/大阪生まれ/天使のハートマーク/ダウン症/ルルドの泉/奇跡/明るい/笑顔/霊媒師アザミン/プリン・イチゴ好き/亡命家族を結び付ける接着剤/天体観測/流れ星

▼平野のおっちゃん(平野哲)

外務省官僚/福岡県八女市出身/両親を幼くして亡くす/ミキ・健三ら亡命者支援/ヒマワリ・サンシャイン/ミキの父・金均一の友人/ミキ養父/西行法師/吉野奥千本に卜居/満開の桜の樹の下で銃殺

▼洋子さん(平野洋子/旧姓有栖川)

平野哲の妻/旧皇族/奥ゆかしさ/ミキ養母/ミキと健三のヨリを戻す/ゆめのまち養育館/福山恵/奈良県・吉野/夫婦で早朝にジョギング、古都奈良散策/いけばな家元/みたらし団子/韓国ドラマ

▼アザミン(水田あざみ/斎木あざみ)

霊媒師/津軽イタコの家系/弱視/青森県・鯵ヶ沢町出身/10歳の時に村八分/大阪・梓巫女町/琉球ユタ修業/ミキの善き理解者/夫は水田豊部長刑事/2男2女の母親/直接的・間接的にミキを救う

▼塙光男(朴鐘九/河合光男)

北朝鮮の孤児/スパイ/金日成総合大卒/ニヒルなイケメン/新潟県可塑村村長の養子/同県大合併市市長/ミキの初恋の相手/北朝鮮、ニッポン乗っ取り計画首謀者/ミキを誘拐/親不知不慮の事故死


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