第10章 ♁あ~~大変。お隣さんがついにやって来た
第十章 ♁あ~~大変。お隣さんがついにやって来た
《2016年11月12日 戊戌の日 仏滅 多民族フェスティバル》
ザァーザァーザァーザァー。
天気予報では降水確率が0%だったのに、なんということかこういう日に限って急に土砂降りの雨が降り始めた。
今宵はナナのお友達であるブーちゃん家族がやって来る日だというのに…。招待したのは夫の健ちゃん。ナナが健ちゃんにブーちゃんと友達になったと聞いて、「それなら今度の土曜日にでも家に呼びなさい」とその素性も聞かないまま決めてしまった。ただ厄介なことに、ブーちゃんがお隣さんの娘さんだと言うことを言えないまま今日に至ってしまったことだ。
「ピンポーン、ピンポーン」。ついにお隣さん家族が予定時刻の五分前に来た。
「ちょっと待ってください」。わたしは急な雨で洗濯物を取り込み片付けに追われていたので、大声を出して待ってもらうことにした。自分でも分かっているが、客を待たしてもへっちゃらというか、日本人の五分前行動が理解できない。いかにも大陸的なのだ。しかも、待たせるなら待たせるで一度は玄関先に行くのが日本における礼儀ってものだ。わたしも、それは知っているが実際問題となると「実」を選択してしまう。夫が中国出身だけに余計に楽な方へ楽な方へと流されてしまうのだ。
精神的な意味での日本人には程遠い夫は日本に来て二年以上も経つというのに、
「えらい早いな。こんなに雨が降っているというのに、日本人はどこへ行っても時間厳守なんやな。飛行機も、電車も、会社も、学校も、宅配便も、何でもかんでも時間にきっちりしすぎなんや。五分前行動だって、時間を気にしすぎるんだよな。ほんま、ストレスたまるよ。まじ、参るよ」なんてことをいまだに言っている。
ナナは健ちゃんに何か言いたそうにモジモジしている。わたしはナナの言いたいことがすぐに分かったが、わたしが言えば角が立つと思い、「ナナ、言いたいことがあったら言いなさい。誰も怒らないからね。ねえ、健ちゃん?」
「そうさ。言いたいこと言わないと病気になっちゃうぞ」と健ちゃんはナナを抱きかかえた。
「本当に怒らない?」
「怒るもんか」
「お父ちゃん、パンツ一丁は恥ずかしいです」
「うーん、分かった。分かった。ここは日本なんやな。こんなどうしようもない父ちゃんでゴメンな」と娘の頭をそっと優しく撫でる。
「健ちゃん、とりあえずこれ着ていてね」とわたしは今しがた取り込んだ上着とジーパンを健ちゃんに手渡した。
「お前、お客さんを待たせたまんまやぞ」
「すっかり忘れてた」
「お母ちゃん、あたし見てくる」
「ナナ、お願い」
♁
「ハイカラさん、こんばんは。何か問題でもあったの?」と心配そうに訊ねるお隣さんのブーちゃん。
「ブーちゃん、それから皆さん、お待たせしてどうもすみません。どうか、お入りください。ところで、ブーちゃん、おばちゃんとおじさんは?」
「お父ちゃんがちょっとタバコを買いに行ったら土砂降りの雨が降ってきて、お母ちゃんが傘を持って迎えに行ったんだ。もうすぐ来ると思う。こちらこそ、遅くなってゴメン」。ブーちゃんはナナに頭を下げていた。わたしはそれを見て「日本人は大人だけでなく子どもも礼儀正しい民族なんだなあ」とつくづく実感した。
「ブーちゃん、いらっしゃい。いつもうちのナナと仲良くしてくれてありがとうね。それから、ブーちゃんのご兄弟、どうぞどうぞ。お入りになって。狭いところですけど、どうぞどうぞ。ところで、お父さんとお母さんは?」
「お母ちゃん、おじさんとおばさんは、もう来るらしいけど」
わたしはその言葉を聞いて気分が楽になった。そして、ナナの耳に欹てた。「そういう人たちの方が、うちらとしてはいいのよ。健ちゃんはよく愚痴っているでしょ」。
「そうだね」と納得するナナ。
「皆、入って」
「失礼します、一郎です。ハイカラさんのお祖父さんって外務省OBって聞きましたが、本当ですか? 僕のなりたい職業が外交官なんです」。一郎は大阪府立天王寺高校三年生。水田部長刑事と違って実に賢そうな顔をしている。母親似なのだろうか?
「えっ、誰から聞いたの? まあ、頑張って」
「妹から聞きました。なあ、美香?」。美香とはブーちゃんの名前。
「一郎兄ちゃん、それはナイショだって言ったはずなのに」とKYな一郎に業を煮やした。一郎は勉強が出来るものの、ちょっと抜けたところがあって、高校でのあだ名は「ヌケ作」。
「そうやったっけ。ごめん、ごめん。おばさん、どうもすみませんでした」
「一郎君が謝る必要はないわ。できたら周りにはナイショにしてね」。ナナは最近お喋りで困る時があるけれど、下手に怒れないもどかしさがある。せっかく失語症が治ったのに、逆戻りは御免被りたいから。
「こんばんは。ウチの母ちゃん、ババけてるけれど、ハイカラさんのお母さんはチョー美人っすね。次男の二郎っす」。二郎は、道頓堀小学校五年一組の学級委員長でソフトボールをやっている。
「二郎君ね。嬉しいこと言ってくれるわね。ありがとう」
「おばさん、はじめまして。長女のミサトです。よろしくお願いします」。ミサトは大阪市立道頓堀中学校二年生。部活はダンス部。身長一七〇センチと背が高い。スリム体系。
「美人さんね、ミサトちゃん。よろしくね」
そうしていると「ピンポーン、ピンポーン」と鳴った。刑事さん夫妻のお出ましだ。
「わたしが出るから、ナナは台所に準備してある食事を出してくれる」
「ハーイ、OK牧場」
「まあ、この子ったら」。わたしが緊張しているのが分かったのかしら和ませてくれる。
ドアを開けると美女と野獣夫婦だった。水田部長刑事は前回初めてお会いした時よりは見た目の怖さは半減したけど、どう見ても奥さんは刑事さんよりひと回り以上若く見える。
「こんばんは。どうぞお入りください。あの、すみませんが、うちの旦那には刑事さんの職業ナイショでお願いしたいんですが…」
「それは良いんですが。この前、名刺を渡しておりますけど」
「それが、虫の居所が悪くて名刺を見ておりません。どうもすみません」
「そうですか。分かりました。こいつは家内のアザミです」
「アザミです。どうもお久しぶりです。覚えていますか?」
「いいえ、初めてじゃないんですか?」
「一年前に『また、すぐ会いますから。そういう運命なんですよ』と申し上げました」。平然と言ってのけたアザミ。
「あー、あー」。わたしは背筋がゾーッとした。
「あなた、先に部屋の方へ行ってくださるかしら」とアザミは夫の水田部長刑事に促がした。
「分かった、分かった」
「それじゃあ、失礼しますよ」
「あっ、どうぞどうぞ」。わたしはすっかり動揺していた。
「ミキさん、心配しなくて大丈夫ですよ。秘密は守りますから。気になさらずに、楽しくいきましょう」。この言葉をとりあえず信じるしかない。お隣さんは部長刑事と霊媒師夫婦だった。畏るべし。この状況を救ってくれるのは平野のおっちゃんしかいない。明日、健ちゃんが仕事に行ってから電話をしよう。
部屋へ行くと水田部長刑事が「奇遇ですな。おたくもキリスト者だとは知りませんでした。差し出がましいようですが私が食前の祈りを捧げてよろしいでしょうか?」と言ったところ、健ちゃんは「どうぞ、どうぞ。短めでお願いします」と前回のことがなかったかのように笑顔でこたえている。
そこへブーちゃんが「明日は長くていいからね」って言うと水田ファミリーは爆笑。わたしもつられて笑いそうになったので、グッと堪えたのに、笑い上戸の健ちゃんが高笑いした。「ガハハハハァ」。この笑いが逆に功を奏した。笑いの対象が、水田部長刑事から健ちゃんに替わったのだ。その時、再び、この笑いのエネルギーが皆に伝播した。ナナ、ブーちゃん、一郎、二郎、ヒカル、アザミ、そして、わたし。わたしもついに「アハハハハ」と笑ってしまったのだ。
すると、水田部長刑事は「年長の私から一言。笑うのが健康に一番いいのです。ワハハハアア。ですから、時には笑われる対象となることも必要なのです。ワハハハハアア」と場を和ませてくれた。部長刑事さんに感謝。
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日本に住む人の多くは無神論者でイベント好きだ。
そのため、宗教は文化的行動として存在すると言っても過言ではない。正月は神社に参拝し、結婚式はキリスト教の教会で挙げ、お葬式は仏教に則ってお寺のお坊さんがお経を上げ、クリスマスではケーキやフライドチキンを食べて祝い、大晦日には寺で除夜の鐘の音を聴く。
ですから、日本でお隣同士がキリスト者の家庭というのはそう多くない。歴史的に布教活動が盛んだった長崎県や鹿児島県といった特異な地域を除いて。だから、お隣同士が同じキリスト者と言うだけで親近感が湧くのも当然だろう。昨日の敵も今日は味方になるくらいに。
で、キリスト者の家庭では、食事の前に祈りを捧げる。わたしの家は北朝鮮では珍しくキリスト教で、夫は中国人の多くがそうであるように無神論者だったので、キリスト者になったのだ。娘は初め食前の祈りの長さに抵抗があったみたいで「『いただきます』の代わりだから『アーメン』だけでいいんじゃないの」って言っていたのが、今では率先して祈りを捧げるようになった。
水田部長刑事「天にいます私たちの父よ。長男の一郎が学年でトップの成績を取りました。感謝致します」
一郎「僕はいつものことだから。それより外交官になれるように祈ってよ」
水田部長刑事「お前は欲望が強すぎる。もっと謙虚にならないと」
ミサト「あたしはスルーでいいよ」
水田部長刑事「分かった。次は二郎だな。二郎は学級委員長でありながらクラスの仲間と喧嘩をしました。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」
二郎「お父さん、そんなこと、他人の家で言わないでください」と二郎は顔を赤くしている。
一郎「二郎は分かりやすいんだから。ハイカラさん、うちの弟をよろしくお願いしますね」
二郎「お兄ちゃん」と膨れっ面をしてトイレへと駆け込んだ。
一郎「何も逃げなくてもなあ」
水田部長刑事「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」
ブーちゃん「お父ちゃん、あたしをまた忘れている」
水田部長刑事「美香はダイエットしなさい。友達のナナちゃんを見てご覧なさい。親として心配だから……」
ブーちゃん「お父ちゃん、空気呼んでよ」
水田部長刑事「そうかあ。健三くんとミキさん、それからナナちゃん、ご招待を頂きながら、ちょっと気まずい雰囲気になってしまいすみません。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。父よ、あなたのいつくしみに感謝してこの食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心と体を支える糧としてください。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」
一同「アーメン」
◎主な登場人物
▼わたし(広田ミキ/金美姫)
ピョンヤン出身/舞踏家/ニッポンへ脱北/ドジ・のろま/父外務省高官/母小学校教師/アカブチムラソイ/タンゴ/結婚・出産/子不知自殺未遂/記憶喪失/2児の母/コンビニバイト
▼健ちゃん(広田健三/陳健三)
広田家家長/中国遼寧省出身/農家三男/無戸籍/北京大医学部卒/元外科医/発禁処分作家/ボサボサ頭/ニッポン亡命/大正浪漫文化/竜宮の使い/大阪マラソン/母親白系ロシア人
▼ナナ(広田ナナ/チュッチュッ)
広田家長女/タイ難民キャンプ出身/ビルマ人/ニッポン亡命/悪戯好き/高田馬場/交通事故/あすなろ/児童養護施設/養女/道頓堀小/ハイカラさん/福山先生/失語症/車椅子
▼ヒカル(広田ヒカル)
広田家次女/大阪生まれ/天使のハートマーク/ダウン症/ルルドの泉/奇跡/明るい/笑顔/霊媒師アザミン/プリン・イチゴ好き/亡命家族を結び付ける接着剤/天体観測/流れ星
▼平野のおっちゃん(平野哲)
外務省官僚/福岡県八女市出身/両親を幼くして亡くす/ミキ・健三ら亡命者支援/ヒマワリ・サンシャイン/ミキの父・金均一の友人/ミキ養父/西行法師/吉野奥千本に卜居/満開の桜の樹の下で銃殺
▼洋子さん(平野洋子/旧姓有栖川)
平野哲の妻/旧皇族/奥ゆかしさ/ミキ養母/ミキと健三のヨリを戻す/ゆめのまち養育館/福山恵/奈良県・吉野/夫婦で早朝にジョギング、古都奈良散策/いけばな家元/みたらし団子/韓国ドラマ
▼アザミン(水田あざみ/斎木あざみ)
霊媒師/津軽イタコの家系/弱視/青森県・鯵ヶ沢町出身/10歳の時に村八分/大阪・梓巫女町/琉球ユタ修業/ミキの善き理解者/夫は水田豊部長刑事/2男2女の母親/直接的・間接的にミキを救う
▼塙光男(朴鐘九/河合光男)
北朝鮮の孤児/スパイ/金日成総合大卒/ニヒルなイケメン/新潟県可塑村村長の養子/同県大合併市市長/ミキの初恋の相手/北朝鮮、ニッポン乗っ取り計画首謀者/ミキを誘拐/親不知不慮の事故死




