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第9章 ♁大阪マラソンの日の朝に

第9章 ♁大阪マラソンの日の朝に


《2016年10月30日 乙酉(きのととり)の日 友引 神吉日》


 「天高く馬()ゆる秋」とはよく言ったもので、この日も空は雲ひとつない空が高く感じられる程の穏やかな日和だった。最高気温が二十度とやや例年より高めには推移していたものの、マラソンをするには最高の日となり、大阪の一大イベントともなった「大阪マラソン」が開催された。 

 わたしたち家族三人もことしの五月から毎朝、近くの公園まで風を感じながら走っていた。                

 そう、わたしたち親子三人は意を決してことしの大阪マラソンに初エントリーしたのだ。目標は親子三人で一緒に手を(つな)いでゴールをすること。

そうだったのだが、当日のきょう早朝になって夫の様子がおかしいことに気づいたわたし。夫の額は汗だく状態で憔悴しきっている。夫が夜中にトイレへ何度も駆け込んだのは知っていたけれど、まさかという気がした。

 それで、わたしは「どうしたの?」と北京大学医学部出身の夫に()いてみた。

 夫の健ちゃんは「ゆうべ、外で食べた牡蠣(かき)(あた)ったみたいや」だって。まさかのまさか、食中毒よ。これで大阪マラソンへの参加も危ぶまれた。ただ、医学部出身の夫にもメンツがあったのだろう。「自分で何とかする。一時間後に戻ってくるから心配するな」と言い残して一時間ほど外出。夫が家に戻って来た時には何もなかったかのように晴れやかな表情になっていた。

 だから、わたしはてっきり夫の食中毒は治ったものと思って、親子三人仲良く大阪城公園前からマラソンをスタートさせたのだ。三人とも、三十四キロ関門の平林駅前交差点までは何事もなく順調に行っていた。

 ところが、その三十四キロ関門を突破したあたりから夫の様子が見る見る変わっていった。それまでのにこやかに余裕を噛まして走っていたのとは打って変わってお腹を押さえて痛々しく険しい表情に。ナナが「お母ちゃん、お父ちゃんが変だよ。大丈夫、お父ちゃん?」と心配している。ナナは夫が早朝に食中毒になったことを知らない。だから、娘は余計にビックリしたはずだ。

 この時、わたしは夫が一家の大黒柱として虚勢(きょせい)を張っていたことに気づき、「健ちゃん、健ちゃん、無理はしなくていいのよ」とテレパシーを送った。わたしはそれでもなお娘の手前もあってか必死で()えて走る夫の姿を横目で見て、思わずウルウルきちゃった。やばい。こんなところ、娘に見られたらと思ったが、娘は走りながら時々、夫を心配そうに見ていて、わたしのことなど眼中にはなかった。ちょっと寂しい気持ちになったが、致し方あるまい。そんなことをぼんやりと考えていると、自然と涙は止まった。

 夫は耐え切れない表情でこのマラソンの最大の難所である南港大橋(なんこうおおはし)を目前にして何かクスリを服用した。一瞬だったが、わたしはそれを見てしまった。何か夫に悪い気さえしていた。言い出しっぺはわたしだからだ。夫はすぐにマラソンへの参加にOKを出さなかった。その理由は明快だ。

        ♁

 夫もわたしも同じ境遇にある。生まれ育った国から亡命してきたというレッテルが生涯付き纏う身の上だ。作家だった夫は時の政権を揺るがす内容の執筆をしたことから、捕らえられる前に中国を脱出し、香港、タイのバンコクを経由(けいゆ)して日本へと亡命した。

 一方のわたしは、両親がスパイ容疑で捕まり、その日のうちに死刑を宣告されたことから身の危険を感じ、真冬の真夜中に中国との国境の(こお)りついた氷点下二十度の川氷(かわごおり)を死ぬ覚悟で渡った。

 しばらくはその国境で知り合った大阪太郎・花子夫妻の家がある長春(ちょうしゅん)で身を(ひそ)め、その後、北京、上海を経て、二年後に父親の親友である日本人外務省官僚・平野哲ひらのさとるのおっちゃんのお陰で日本へ亡命することができた。平野のおっちゃんには感謝しても感謝しきれない思いがある。それとは別に、父親が本当に日本の工作員だったのだろうかという疑問があり、上海にいた時に平野のおっちゃんに問い詰めたところ、「その話は遠慮してほしい。これから永遠に…。それをお父さんも願っておられた。娘の身を案じて私に託してくれたんだよ。私からひとつ言えることは、お父さんは北朝鮮の中では博識で立派な外務官僚だったことだ。だから、日本の外務省官僚である私がいまこうしてミキさんの前に立っている。どういうことか分かるよな」と言ってから、(ひざまず)いて(むせ)ぶような声で「あ~~、ミキさん。あ~~、本当に申し訳ない…。ああーー、先日、ご両親は他界(たかい)された。お亡くなりになったんだ。……力になれなくて本当に申し訳ない。心よりお悔やみ申し上げます…」と言いながら号泣(ごうきゅう)していた。この人は日本人なのに父親と深い絆で結ばれていた――そのことを知り得ただけでも幸いだった。両親の死は死刑を宣告された日に覚悟は出来ていたからか、この日は泣かなかった。

 それに加えて、この後、衝撃的とも思える運命の人に遭遇したから、泣く余裕さえなかったのかも知れない。その運命の人というのは、現在は夫となった健ちゃんのことだ。

        ♁

 夫は、このマラソンで最大関門の「南港大橋」を上目遣(うわめづか)いで眺めながら、苦し紛れに「あと一歩、あと一歩」とぜえぜえ言いながらも掛け声を出した。娘もその「あと一歩、あと一歩」のあとに「ソレソレ」と合いの手を入れた。そのあとに、わたしも「健ちゃん、あと一歩、あと一歩」と大声で健ちゃんを応援した。沿道には「広田ファミリー、頑張れ!」の横断幕が続けて五つほど見えて、「ハイカラさん、ファイト。ナナチャン、ファイト」の甲高い黄色い声援(ハイカラさんとは、大正浪漫(たいしょうろまん)文化に恋焦がれるナナの愛称)。その声がする先には、ナナと同じクラスの子どもたちがいた。モンチッチやプリンちゃん、ブーちゃん、サラダさん、バクくん、モジモジくん、ポテトッチ、ネコくん、総理、ボンボン、博士(はかせ)、さっちゃんらクラス十五人全員だ。

 ナナは沿道の声援に(こた)えるように「ありがとう。おおきに」と大声で叫んでいる。ナナも車椅子を押す手がかなりきつそうだ。

 残り約5キロの地点に地獄の傾斜地「南港大橋」が待っていた。

私たち家族は限界に達していた。そこは大黒柱の健ちゃんが「1,2,3,4,2,2,3,4……がんばれ、ナナ。がんばれ、ミキ。がんばれ、ケンチャン」と大声を再び出し始めた。南港大橋のアップダウンは半端(はんぱ)なく凄かったが、健ちゃんの「がんばれ、ケンチャン」という自分を後押しする声を聞いて、わたしとナナは笑ってしまい、その余韻(よいん)で大橋を乗り切り、ゴール地点のインテックス大阪が見えてきた。あとは平坦(へいたん)な道のり。わたしはフラフラしながらナナと一緒にトイレへ行った健ちゃんを待っていた。ナナは待ち切れなくてイライラしていたので、「ナナ、総理がいるよ」と言ってあげた。

 「どこ、どこ、お母ちゃん」

 「あっちにいるでしょ」 

 「えっ。あれ、ほんまもんやん」。そこにいたのは日本国の総理大臣であって、ナナが好きなクラスメイトの総理ことキラキラネームの星歩夢(ほし・あゆむ)ではなかった。ナナは肩を落とした。

 「ハハハハア」。わたしは暇つぶしに娘をからかってやったのだ。

 そこへタイミングよく夫が現れ、三人で手を(つな)いでゴールイン。何とかかんとか、親子三人完走できた。「ヤッター!」。

 その時、わたしはナナが一瞬、車椅子を持たずに立ち上がったように見えたので、ゴールインした後にナナの手を離した。ナナは、ふら付きもせずに立っている。

 「ナナ、スゴい。立っているよ」

 「あ、あ、あっ」。ナナは自分の状況が信じられず声を震わせた。

 健ちゃんは「よかったな、ナナ。ほんま、よかった」と感極まって泪を流しながら、大喜びしている。

 そして、健ちゃんはナナを肩に担いで、グルグルと回り始めた。ナナは「きゃあ、きゃあ」と大はしゃぎ。わたしはボーっと二人を見ていたら、次の瞬間、記憶が飛んでいた


◎主な登場人物

▼わたし(広田ミキ/金美姫)

ピョンヤン出身/舞踏家/ニッポンへ脱北/ドジ・のろま/父外務省高官/母小学校教師/アカブチムラソイ/タンゴ/結婚・出産/子不知自殺未遂/記憶喪失/2児の母/コンビニバイト

▼健ちゃん(広田健三/陳健三)

広田家家長/中国遼寧省出身/農家三男/無戸籍/北京大医学部卒/元外科医/発禁処分作家/ボサボサ頭/ニッポン亡命/大正浪漫文化/竜宮の使い/大阪マラソン/母親白系ロシア人

▼ナナ(広田ナナ/チュッチュッ)

広田家長女/タイ難民キャンプ出身/ビルマ人/ニッポン亡命/悪戯好き/高田馬場/交通事故/あすなろ/児童養護施設/養女/道頓堀小/ハイカラさん/福山先生/失語症/車椅子

▼ヒカル(広田ヒカル)

広田家次女/大阪生まれ/天使のハートマーク/ダウン症/ルルドの泉/奇跡/明るい/笑顔/霊媒師アザミン/プリン・イチゴ好き/亡命家族を結び付ける接着剤/天体観測/流れ星

▼平野のおっちゃん(平野哲)

外務省官僚/福岡県八女市出身/両親を幼くして亡くす/ミキ・健三ら亡命者支援/ヒマワリ・サンシャイン/ミキの父・金均一の友人/ミキ養父/西行法師/吉野奥千本に卜居/満開の桜の樹の下で銃殺

▼洋子さん(平野洋子/旧姓有栖川)

平野哲の妻/旧皇族/奥ゆかしさ/ミキ養母/ミキと健三のヨリを戻す/ゆめのまち養育館/福山恵/奈良県・吉野/夫婦で早朝にジョギング、古都奈良散策/いけばな家元/みたらし団子/韓国ドラマ

▼アザミン(水田あざみ/斎木あざみ)

霊媒師/津軽イタコの家系/弱視/青森県・鯵ヶ沢町出身/10歳の時に村八分/大阪・梓巫女町/琉球ユタ修業/ミキの善き理解者/夫は水田豊部長刑事/2男2女の母親/直接的・間接的にミキを救う

▼塙光男(朴鐘九/河合光男)

北朝鮮の孤児/スパイ/金日成総合大卒/ニヒルなイケメン/新潟県可塑村村長の養子/同県大合併市市長/ミキの初恋の相手/北朝鮮、ニッポン乗っ取り計画首謀者/ミキを誘拐/親不知不慮の事故死


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