プロローグ 翳(かげ)りゆく記憶のなかで
◎主な登場人物
▼わたし(広田ミキ/金美姫)
ピョンヤン出身/舞踏家/ニッポンへ脱北/ドジ・のろま/父外務省高官/母小学校教師/アカブチムラソイ/タンゴ/結婚・出産/子不知自殺未遂/記憶喪失/2児の母/コンビニバイト
▼健ちゃん(広田健三/陳健三)
広田家家長/中国遼寧省出身/農家三男/無戸籍/北京大医学部卒/元外科医/発禁処分作家/ボサボサ頭/ニッポン亡命/大正浪漫文化/竜宮の使い/大阪マラソン/母親白系ロシア人
▼ナナ(広田ナナ/チュッチュッ)
広田家長女/タイ難民キャンプ出身/ビルマ人/ニッポン亡命/悪戯好き/高田馬場/交通事故/あすなろ/児童養護施設/養女/道頓堀小/ハイカラさん/福山先生/失語症/車椅子
▼ヒカル(広田ヒカル)
広田家次女/大阪生まれ/天使のハートマーク/ダウン症/ルルドの泉/奇跡/明るい/笑顔/霊媒師アザミン/プリン・イチゴ好き/亡命家族を結び付ける接着剤/天体観測/流れ星
▼平野のおっちゃん(平野哲)
外務省官僚/福岡県八女市出身/両親を幼くして亡くす/ミキ・健三ら亡命者支援/ヒマワリ・サンシャイン/ミキの父・金均一の友人/ミキ養父/西行法師/吉野奥千本に卜居/満開の桜の樹の下で銃殺
▼洋子さん(平野洋子/旧姓有栖川)
平野哲の妻/旧皇族/奥ゆかしさ/ミキ養母/ミキと健三のヨリを戻す/ゆめのまち養育館/福山恵/奈良県・吉野/夫婦で早朝にジョギング、古都奈良散策/いけばな家元/みたらし団子/韓国ドラマ
▼アザミン(水田あざみ/斎木あざみ)
霊媒師/津軽イタコの家系/弱視/青森県・鯵ヶ沢町出身/10歳の時に村八分/大阪・梓巫女町/琉球ユタ修業/ミキの善き理解者/夫は水田豊部長刑事/2男2女の母親/直接的・間接的にミキを救う
▼塙光男(朴鐘九/河合光男)
北朝鮮の孤児/スパイ/金日成総合大卒/ニヒルなイケメン/新潟県可塑村村長の養子/同県大合併市市長/ミキの初恋の相手/北朝鮮、ニッポン乗っ取り計画首謀者/ミキを誘拐/親不知不慮の事故死
プロローグ ☽翳りゆく記憶のなかで
♪現在・過去・未来 奇蹟がいつか
起こること 信じて ルルドの泉
横切るアナタの姿 もう忘れたの
上海で見た アナタの1枚のフォトグラフ
神戸で見た 家族写真表紙の1冊のブック
記憶があるうちに そのノスタルジアへ
アナタといつか 国境の西へ
大瀬崎の空に わたしがいるの
うさぎのテッテッは月にいるの
チュッチュッはイタズラ大好き
チュッチュッは甘えん坊うさぎ
《2027年8月9日 庚申の日 友引 長崎原爆忌 ムーミンの日》
少しふくよかな身長百六十八センチの中年の女性は、オレンジ色の電車の中をひとり徘徊する。満員電車の中、人を掻き分けるようにして四両目、三両目、二両目と途方もなく歩く。
「あ~~。チュッチュッ、お母ちゃんよ。忘れてしまったの⁉」
その女性は、髪の毛を振り乱して視線が定まらない状態で必死にその言葉を連呼した。
彼女は右肩に不釣り合いな水玉模様のリュックサックを引っ担ぎ、右手にはこれまた年齢に相応しくない児童文学書をまるでキリスト者が聖書を抱えて持つように後生大事に携えていた。本のタイトルは『ビルマ野うさぎチュッチュッとテッテッ』。そして、左手には不思議なボールを握っている。これはゴム状の柔らかい「クッシュボール」と呼ばれる癒し系グッズのようだ。
しかし、周りの人々はほとんどがゲームを楽しんだり、好きな音楽を聴いたり、SNSに興じたりとスマホに釘付け状態にあり、その女性のことなど我関せずと見向きもしない。ひと昔前の世話好きな大阪のおばちゃんのような人は、もうここには存在しないようだ。
彼女は昼食後に飲んだクスリのせいでかウトウトし始めて、ちょうど空いた席があったので腰掛けた。横に座っている就活風の黒いスーツをビシッと着こなした若い女性にもたれ掛かっては、その若い女性に「クソッ。なんやねん、このオバハン」とうっとうしがられて撥ねのけられる。その若い女性もしばらくして立ち上がって電車から人込みで揉みくちゃにされながらプラットホームへと降りた。
その駅は大阪で一番乗降客の多い「大阪駅」だった。乗っていた多くの人々がぶつかり合いながら下車し、またそれ以上の人々がその電車に溢れるように乗り込んでくる。発車メロディであるやしきたかじんの『やっぱ好きやねん』のサウンドがかき消されるくらいだ。その雑踏は、まるで引き潮が一気に満ち潮になった時のような激しさがあった。それはこの駅ではとても当たり前のようにくり返される出来事であって、傍目には中年の女性はその波に飲み込まれたウミガメの無数の卵のひとつのようにそのまま電車の中で座っているに過ぎなかった。
その喧騒に気づいたのか、中年の女性はパッと眼を大きく見開いた。「ここはどこなのだろうか?」。分かっていることは電車に乗っていることくらいで、この電車がどこをどう走っているのかさえ分かっていない。彼女はどの駅で降りれば良いのかなど、忘却の彼方へと追いやられていたのだった。彼女は若年性アルツハイマー(認知症)なのだ。
だから、こんな時のために、彼女は首からカードをぶら下げている。そこには顔写真に加えて名前「広田ミキ」と連絡先「大阪市天王寺区堂ヶ芝✕丁目✕✕番地 市営堂ヶ芝住宅A棟308号室 電話090-16✕✕-✕✕✕✕」が書かれているのだが、一瞬見ただけでは会社の社員証に見えなくもない。ほんの一部の乗客が「変なオバハンやなあ」と不思議に思うだけで、人情の厚い大阪と言っても所詮は他人事。目的地の駅に着けば、当然ながら降りるといった案配だった。
そして、電車は再び大阪環状線の一駅一駅に停車し、大阪駅から数えて八つ目の駅「桃谷駅」の2番線ホームへとゆっくりと滑らせた。
ドアが開くと、「桃谷、桃谷です。お忘れ物のないようにご注意ください」という爽やかな女性アナウンスの後に河島英五の『酒と泪と男と女』の軽快なメロディが流れる中、ひとりのキュートな三つ編みの髪に袴姿をした色黒の女子大生が電車にピョコンと飛び乗った。そして、その女子大生は「あ~ん、お母ちゃん、お母ちゃん」と泣き叫んだ。その切なげな声に、その車両にいた多くの人々の視線が一斉にその女子大生に注がれた。
★ ♁ ☽
その女子大生に猫背で妖怪「一反木綿」のようにヒョロリと細長い男が声を掛けた。「よう。広田ナナじゃないか。広田のお母さん、どうかしたのか?」。
「あっ、ネコくん! ネコくんじゃないの。あたしを助けてくれる?」。女子大生のナナは一反木綿のネコくんに涙目で訴えかけた。
「うん、そやなあ。ナナの頼みなら、もちろんOKやで。で、どうしたんや?」。ナナはネコくんに母親の病気のこと、スマホのGPSで確認して母親がこの電車の中に二時間以上も乗っていることなどを伝えた。
すると、ネコくんは同じ電車に乗っていた同じ関西大学の友人二人を呼び寄せて、「俺たちに任せろ。俺たちはこう見えても、関大の三銃士やからな。広田のお母さん、すぐに見つかるって。広田はココで待っていろよ」と自信満々に言い放った。まるで『ダルタニャン物語』(アレクサンドロ・デュマ著)に出て来る三銃士の一人であるアトスのように誠実で勇ましかった。
しかし、ナナはその3人の風貌を見て、「何が関大の三銃士よ。ただのノッポにチビとデブじゃないの。何ができるって言うのよ。とはいってもね、今回はアナタたちしかいないのよね。がんばってね」。ナナは究極の選択を迫られたようで、とても複雑な心境だった。ノッポとはネコくんのことだった。背がヒョロッと高くて猫背であったため、小学生の時からネコくんと呼ばれていた。
★ ♁ ☽
「チュッチュッはいるの? アナタ、ネコくんでしょう⁉」。中年の女性はようやく正気を取り戻したようだった。
「おばさん、僕のこと、覚えていてくれたのですね。光栄です。チュッチュッとは、もうすぐ会えますから。これから連絡を取りますので、心配しないでください」
ネコくんことノッポの仲本直はスマホでナナに電話をした。「広田、二両目の車両にオマエのお母さんが乗っていたぞ。よかったな。次の新今宮駅で一緒に降りるから、慌てずに降りろよ。じゃあな」。
「ネコくん、ありがとう」
「最初に見つけたのはチビの加藤秀吉やから。俺はなにもしてへんで」
「そうなんだ。さっきはノッポ、チブ、デブって言ってゴメン。関大の三銃士は勇敢で立派だよ。サイコー‼」。ナナは彼らを褒め称えた。
★ ♁ ☽
それから約一分後、ミキとナナ、そして関大の三銃士が乗った電車は「新今宮駅」に到着。電車の自動ドアが開き、五人は新今宮駅のプラットホームに降りた。「関大の三銃士」の二人――デブの高木豚吉とチビの加藤秀吉は用事があるといって南海電車の乗り場へと向かった。この駅は、どことなくションベン臭いにおいが漂う。駅のすぐそばに中国人のゲットーと化したドヤ街の釜ヶ崎が控えているからなのだろうか。
五両目にいたナナが一目散に母親のいる方へと駆け寄ってきた。
「お母ちゃん、お母ちゃん」と涙ながらにミキに抱きついた。
「チュッチュッ、どこへ行っていたのよ。ずっと捜していたんだから」。ミキはアルツハイマーになってから、ナナを昔のビルマ名のチュッチュッと呼ぶことが多くなっていた。それはミキの夫が書いた大人のための童話『ビルマ野うさぎ・チュッチュッとテッテッ』の影響による所が大きい。
「ゴメンね、お母ちゃん」
ネコくんは「おばさん、お疲れでしょうから、こちらのベンチにお座りになってください」と言って、さりげなくベンチのシートを白いハンカチで拭いた。〈なによ、あたしの席は拭いてくれへんの。ガックシ〉とナナの心の声。
「ネコくん、いつもチュッチュッを見守ってくれてありがとうね。これからもチュッチュッをお願いします」と頭を下げるミキ。
「お母ちゃんったら」。母親の言葉に照れるチュッチュッは顔が赤くなった。
ネコくんは、「チュッチュッはこれからも僕が守りますから、お母さんは心配しないでください」とキザに斜に構えて豪語した。〈ホンマかいな。いつもの八方美人と違うん〉とはナナの心の声。
ナナは心の中では満更でもなかったが「ネコくん、こんな時に何言っているのよ」と言葉では突き放した。
すると、ミキは「ネコくんって地味だけど、いつもアナタのことを小学生の時から見守ってきたのよ。お母さんよく知っているの。だから、高校も大学も同じだったでしょう」とネコくんのこれまでのことを代弁した。
「ネコくん、そうだったの。確かにあたしよりずっと成績が良かったのに、あたしと同じ高校・大学に進学したから不思議に思っていたのよ」。この時のナナの心の声は〈やだわあ。ネコくん、ずっとあたしに気があったんやないの。それならそうと言ってくれなきゃ〉と天にも昇る勢いだった。
そんなナナの心の声が不思議と聴こえるネコくんは、「うん」と頷いただけだった。
母親のミキはネコくんの肩をポンと叩いて、「チュッチュッを頼んだわよ」と言って笑顔になった。
「今日のお母ちゃん、何だか変だよ」
「ごめんね、チュッチュッ。わたし、親友のアザミンに呼ばれたの。そろそろ行かなくッちゃ」。アザミンとは隣に住んでいた霊媒師で、その娘のブーちゃんはナナと小学生の時から仲の良い友人で、大学も同じ関西大学文学部に在籍している。
「ブーちゃんのお母さんってこの前、死んだじゃない。お母ちゃん、どこへ行くっていうのよ」と驚きと悲しみの表情のナナ。
「お母さんも星になるのよ。アザミンがその道標になってくれるのよ。ありがたいじゃない。ブーちゃんにもよろしく伝えといてね」
「お母ちゃん、行っちゃダメ。どこにも行かないでよ」と泣きべそをかくナナだった。
「そうしたいんだけどね。あっ、それから健ちゃんとヒカルを頼んだわよ。健ちゃんはわたしがいないと…ダメな人だけど。特に寝癖ね。チュッチュッがフォローしてね。お願いね。それから、健ちゃんにこれ渡してくれる? 渡せば分かるから。そして、障がいのあるヒカルが心配だけど、チュッチュッがいるから大丈夫よね。可愛がってやってね……。お母さん、眠くなってきた。チュッチュッとネコくん、おやすみ」。そう言ってミキは笑顔の表情のままで首をうな垂れた。
「お母ちゃん、お母ちゃん。起きてよ」。ミキの身体を必死で揺り動かすナナ。その様子を見て驚いたネコくんは、急いで救急車を呼んだ。
★ ♁ ☽
それから一時間後、霊媒師で親友であるアザミンが現れてミキは命を引き取った。だが、それでこの物語は終わらない……続いていくのだ。
この物語は、北朝鮮から脱北した金美姫(キム・ミヒ。のちの広田ミキ)が語る亡命家族の人生なのだ。それでは、第1章は時間を巻き戻して二〇一〇年にタイムトリップしてみよう。