第一話 勇者
ミルズ大陸に数ある国の一つ、ブレイヴ王国。ミルズ大陸中央北部に位置する大国であり、大軍を率いて度々渡海し、魔族の住むヘイム大陸へと侵攻を繰り返してきた歴史ある大国だ。
魔族に〈魔法〉という奇跡の力があるように、人族にも〈召喚〉という奇跡を起こす術がある。
だが、その奇跡を起こすには魔族の心臓ともいえる魔核、もしくはこの世界を人族・魔族と共に三分する一大勢力――魔獣から採取できる獣核が必要不可欠だった。
希少な魔族の魔核に対して、魔獣の獣核は魔力の生成能力に大きな差があったが、魔核に比べてサイズが大きく、それを加工する事により大量に生産することが出来た。
そして、ミルズ大陸の各国は自国の威信と武を示すため、また――数多の欲望を叶える為に召喚技術を高めた。
その終着点の一つが〈勇者召喚〉だ。
勇者とは、この世界とは別の世界――異世界より呼び出された優れた魔力の持ち主、魔族の魔法体系とは異なる異世界の魔法を操り、人族の召喚術を得て更なる高みへと到達することが可能な者。
だが、俺が知りうる限り——勇者には碌な奴がいない。
召喚されたての頃は臆病でひ弱、周囲の期待に圧し潰された勇者は数知れず。
やがて経験を積み、異世界の魔法を駆使する事を覚えると次第に傲慢となり、傍若無人な態度を取り始める。そして、利己的な主観で世界を見下し、欲望に忠実に動くようになる。
その結果何が起こるか?
とある〈勇者召喚〉を成功させた国は、勇者の傲慢を抑えきれず、逆に王族を一人残らず殺されて王政の崩壊を引き起こした。
またある国は、国家の基本的政策であった奴隷制度を勇者によって禁止され、突然解放されて野に放たれた無数の奴隷は行き場を失い、その多くが野盗や犯罪者となって国は荒れに荒れた。
勇者とは、なんと愚かで矮小な生き物か――。
ブレイヴ王国の王都――アヴァリティア。その東にジルパ湖という孤島を持つ大きな湖があった。その孤島に建てられた一軒の洋館。その主寝室で俺は、かつて勇者と崇められた少年の末路を見下ろしていた。
「だっ、誰だおまえは! 誰の許可をとってこの部屋に入って来た!」
「ふぅむ、さすがにこの姿ではわからないか……いや、見違えたのは俺も同じだぞ、勇者」
キングサイズを遥かに超えるメインベッドに横たわるのは、己の足で起き上がる事も出来ない程にブクブクと肥えた豚――いや、勇者の姿だった。
本当に人族の体なのかと思うほどに太く垂れた両腕には、意識を朦朧とさせて目の焦点が定まらない裸の女達が二人ずつ寄り添っていた。
ベッドの足元付近にも三人、気を失っている女達がいる。どの女も口元から涎を垂らし、痙攣を起こしながら股を濡らしていた――ベッドの下には小水を垂れ流す小娘までいる。
そして主寝室に漂う独特な匂い、これには覚えがある――ベッドの脇に立つサイドテーブルには香壺が置かれ、立ち上がる桃色の煙が視界に入った。
「この香は……そうか、四〇〇年ほど前に俺が人族の欲望を叶えてやろうとミルズに流した媚薬草か」
「お前が流した? 何を言ってるんだ小僧!」
小僧か……一六年前――この豚がまだ幼い少年だった頃、俺もそうやってこいつの事を呼んだ。だが、時が過ぎれば幼い少年は豚となり、魔族を五〇〇年率いた魔王は成人したばかりの小僧となったか。
「愚かな……実に愚かな結果だな。お前に俺が一度は滅ぼされ、戦いに負けたなどと考えたくもない。あの時の続きをしようではないか、今度は本気でな!」
「さっきからお前は何を――」
『我は命ずる――』
そこで豚の言葉は止まり、目を開いて俺が差し出した右手と、黒目から紅目へと変わる俺の瞳を見た。
右手の先に浮かぶのは闇属性の輪環魔法陣。俺が最も得意とし、数多の勇者を屠って来た属性だ。
そして普段は黒い俺の目が紅く変貌するのは、体内の魔核を活性化させ、より強力な〈魔法〉を行使する時の前兆だ。
足元より吹き荒れる魔力の奔流が周囲に漂う香の煙を吹き飛ばす。
『――四指の理をもって顕現せよ。一つは弾丸、一つは虚無、陣を複製し、連続行使――』
四本の右手指に灯る魔力の理。魔法に長けている者ほど同時に灯せる数が増えるが、平均的な能力をもつ魔族でせいぜい三つ同時に灯すのが限界。だが、俺ならその上の数を同時に灯すことも容易い。
『――寂滅の闇閃』
呪文と共に魔力を籠めた四本の指を輪環魔法陣の中へと差し入れる――空白だった輪環魔法陣の中に四つの理を示す紋様が刻まれ、魔法陣が暗滅して奇跡を顕現させる。
「ま、魔法! まさかお前、魔族か! しかもそれはッ!」
「思い出したか勇者――俺の仇よ。その肥えた醜い欲望と共に、魂まで永遠の虚無へと堕ちるがいい」
「こ、来い! 俺様のヒーロー! ギャラク――」
右手に纏う魔法陣が無数に複製され、俺の周囲に浮かび暗滅する――そして、魔法陣から放たれたのは無数の黒閃。
数多の閃きと共に黒い弾丸が放たれ、豚の白い肉に着弾するとその周囲が虚空へと吸い込まれて消滅する。
分厚い肉が瞬く間に削れ、かつて勇者だった者の膨れ上がった腹が消え、胸が消え、驚愕の表情を浮かべたまま頭部が消失した。
ベッドの上に残ったのは太く垂れた腕と足のみ。そのベッドすらも中央が消失し、意識を朦朧とさせている女達と共に中央へと崩れ落ちた。
「お見事でした、ラグナ様」
背後から聞こえたのはリーデの声――邸宅の主人である豚が死んでも、淫欲に溺れた女達がそれに気付くことはなく、開いた口から零れるのは涎と言葉にならない愛欲の呻き声のみ。
「終わってみれば呆気ないものだ。リーデ、島に侵入していた暗殺者共は?」
「処理いたしました」
「そうか、ならもうここに用はないな――帰るぞ」
ブレイヴ王国が一六年前に召喚した勇者は、魔王討伐と言う大成果をもって国へと帰還した。しかし、強大な力と誰にも成しえなかった大成果を持ちかえれば、その心は魔王討伐を志した時とは全く違うものへと変質する。
逆らう者のいなくなった王国で、全ての願いが思いのままとなれば、少年の心が醜く歪むのにそう時間はかからなかった。
ヘイム大陸より帰還した勇者はすぐに自分の土地、自由にできる都市を欲し――政の真似事、商人の真似事を始めたらしい。
だが、元をたどれば異世界の子供、政や商売に関して知識も理解もなく、一言あるわけでもなかった。
次々に施行される新たな法、新たな枠組み、新たな組織は、与えられた都市だけでなく国全体を混乱させ、国家の崩壊すら引き起こしそうになる。
そして、度重なる王家からの進言によりなんとか危機を脱出するも、与えられた都市は崩壊し、廃都となった。
その後勇者はこの孤島の邸宅に引きこもり、王都に生活の保護と遊戯の相手だけを求めるようになったという。
その結果がこれだ。
〈勇者召喚〉は何時でも何度でも行える奇跡ではない。その奇跡を実現するためには、魔族の心臓ともいえる魔核――それも魔王級の魔族が持つ皇魔核が触媒として必須だった。
貴重な皇魔核がいくつも手に入るはずもなく、新たに〈勇者召喚〉の奇跡を呼び起こすには当代の勇者を殺し、その心臓――皇魔核を引き抜くしかなかった。
しかし、この国も使い物にならない欲望の塊となった豚を、よくもまぁ一六年も飼っていたものだ。
それがどうして突然暗殺しようなどと思ったのか? リーデの報告では、この部屋で白濁まみれで涎を垂らしている女どもの一人が、この国の軍務大臣の一人娘なのだとか。
殺す理由すら愚か。
媚薬草で焚いた香を吸い、肉欲に溺れた女は二度と再起しない。その快楽を体が、細胞の一つ一つが、心が覚えて忘れる事はない――そうなるよう、俺が作ったのだ。
せめてこうなる前に勇者を殺せば、皇魔核も、娘も、永遠に失う事はなかっただろうに。
割れたベッドの残骸に転がる、一際大きな深紅の宝石――皇魔核を拾い上げ、俺とリーデは王都アヴァリティアの隠れ家へと向かった。