いつか君にとって瞬く灯台のような標になるのであれば、僕は
「――お名前、なんですか?」
心臓が、ドクンと跳ねた。
菌 菌 菌 菌 菌
綺麗ごとはいつだって眩しくて、僕はつい目を背けたくなる。
それでも正しいことを貫くことがなによりも尊いことだと思ってきたし、人間に生まれたからにはその尊厳を持つことが、生きている証だと信じて疑わなかった。
「おいおまえら、やめろ」
「……あ? なんだてめぇは」
大義のために振りかざす拳と、欲望のために振り下ろす力の違いなんて考えたこともなく。
困難に立ち向かうことが正義だと信じていた。
「ただの通行人だ。それよりその子を離せ。怖がってるだろ」
「邪魔すんじゃねえよ!」
「かっこつけてんじゃねえ!」
「死ねやコラ!」
虐げられている者を助ける。
見て見ぬフリをすることはできない。
多勢に無勢であろうと。
負ける勝負であろうと。
持っている信念を曲げるくらいなら、死ぬ方がマシだと。
僕は、そう思っていた。
「……あっあの! ごめんなさい! だいじょうぶですか?」
不良グループに絡まれている女子を助けるためカッコつけて飛び込んで、結局ボコボコにされて道路に寝転がる。
時代にそぐわない、チープでレトロな光景だ。
「ああ、うん……痛っ」
「か、顔、腫れてます。ちょっとまっててください!」
腫れあがった頬におしつけられる少女のハンカチの冷たさだけが、その行動の報酬だと言わんばかりに心地いい。
つまり、結局、僕はどうしようもない馬鹿だということだ。
「おかえり……ってお兄ちゃん、また喧嘩したの?」
「喧嘩じゃない。名誉の負傷」
「うそ。どうせいつものカッコつけたがりの自己満でしょ? ほんといつまで経っても学習しないんだから。ねえ、聞いてる?」
「今日の晩御飯なに?」
「むー……肉じゃがとイワシの酢漬け」
「お、楽しみだな」
出迎えてくれた妹のふくれっ面をやりすごす。
うちは海外出張が多い両親の代わりに、妹が家事全般をこなしてくれている。容姿端麗で成績優秀、すこし運動が苦手なことくらいが唯一の弱点で、平平凡凡な僕と血が繋がっているのか疑わしいほどによくできた妹だ。
「お兄ちゃん、制服のままソファに寝転ばないで。しわになるでしょ」
「はいはい」
部屋着を投げつけられて、しぶしぶ着替える。脱いだ制服は妹がきちんとハンガーにかけていた。
僕はリビングでテレビを眺める。まだ少し口の中は血の味がする。
唇が腫れてないか触っていると、妹が救急箱をソファの上にドサリと置いた。
「消毒、してないでしょ」
「大丈夫」
「だいじょうぶじゃない」
「大丈夫だって」
「だいじょうぶじゃない!」
「……ちょっと。テレビ見えないんだけど。重いし」
「見なくてよろしい! 重くないし!」
向かい合うように、僕の膝の上に躊躇なく座った妹。小柄なほうだから確かに重くはないんだけど。
救急箱から消毒液を取り出して、綿にしみこませる。
それを乱暴に僕の顔に押し当ててくる。
「――っ!!」
「ほら、我慢して。男でしょ」
傷に染み込む痛みに、つい力が入る。
それでもなんとか妹が消毒を終えるまで、歯を食いしばって耐えた。
「これに懲りたらもう無茶な真似しないでねお兄ちゃん」
「善処します」
まったくもう、とため息をついて膝から降りる妹。
そのままキッチンに戻ろうとした妹は、流れているテレビ番組を眺めてふと止まった。そのまま食い入るようにじっと見つめる。
「どうした?」
「これ……きのう友達が噂してた。お兄ちゃん知ってる?」
番組では、最近流行りの都市伝説や噂を特集していた。
画面左上のテロップには『名前を答えたら呪われる!?』という文字が毒々しく浮かんでいた。
『――この呪いにかかった者は名前を失ってしまい、いずれ自分の名前だけでなく存在が消えてしまうと言われています。この呪いで死んだ者たちの亡霊が名前を持った人間を恨み、死の世界にひきずりこもうとして名前を聞いてくる、という噂で――』
「……。」
体をこわばらせてテレビを凝視する妹。
なにか言いたそうにしているが、僕はこの手の番組にあまり興味なく、
「はじめて聞いた」
チャンネルを変えるのだった。
菌 菌 菌 菌 菌
翌朝、学校にむかう途中で気づいたのは、なにやら僕のあとをつけてくるやつがいるってことだった。
べつに警察官でも探偵でもスパイでもないかわりに、さして鈍感でもない僕はその不器用な尾行にすぐ気づいた。
背中に絡みつく視線に耐えかねて信号待ちのあいだに振り返ってみると、十メートルほど後ろの電柱に人影が隠れているのがわかった。
僕が振り向いたことに慌てたのかそいつはすぐ電柱の陰に隠れたけど、一瞬だけ顔が見えた。
……昨日、助けた女の子だ。
同じ学校の制服だった。
僕が鈍感なら、なにか言いたいことでもあるのかと足を止めて図太い神経で質問で攻めたてるところだが、生憎そんな無神経な性格はしていない。
彼女が手に持っていた和菓子屋の紙袋がちらりと視界に入ったから、だいたい予想がついた。
とはいえ自分から歩み寄るのも変だろう。
僕はすこしだけ歩みを遅くして、学校まで歩いた。
「う~ん」
「……どうした? アホみたいな顔して」
なかなか、シャイな子のようで。
放課後になるまで待っても、今朝の子は来なかった。おそらく下級生……ときどき教室の前にきてはドアの隙間からこっちを覗いていたけど、誰かに声をかけられたら慌てて逃げていくシーンを三回くらい見た。
こっちから声をかけるべきなのか。
それはそれで、なんか違う気がする。
「顔はもとからこんなんだよ」
「そうか。今日はなんか顔が薄いような気が……」
僕の顔をまじまじと見つめてくるクラスメイト。
顔が一日かそこらで変わってたまるか。
「まあいいや。帰ろうよ」
「ちょっとまて。俺たちもあっち混ざろうぜ」
「……さっきからみんなで集まってなにしてんの?」
「都市伝説の検証。ほら、昨日のテレビのやつ」
十人くらいが教室の隅で固まって静かに話していたから、進路のことででも悩んでるのかと思ったんだけど。
「やめとく。興味ないから」
「そうか、お前らしいな。……まあでも一応言っとくぞ。知らないやつに名前聞かれても、絶対に答えるなよ」
「え?」
やけに真剣なクラスメイト。
ただの都市伝説の話のはずだ。そんな深刻そうな顔、似合わない。
「どういうこと?」
「あの都市伝説、元ネタがあるんだよ。『のっぺらぼう殺人事件』って知らないか? 二十年前にあった有名なやつ」
「名前くらいは覚えてるけど」
「その事件、殺された被害者の首から上が見つからなかったんだけどな、それよりも不可解だったのが犯人の目撃情報のほうなんだよ。これ、昔からネットで有名な話なんだけど……」
「だけど?」
「……白昼堂々の商店街の道端で起こった猟奇事件で、犯人は顔を隠してなかったんだ。目撃者は大勢いたのに、全員が口をそろえてこう言うんだよ。『犯人の顔はあまり覚えていない』って」
のっぺらぼう。
顔のない人間。
「でも目撃者の何人かは、犯人が被害者を殺す前に言葉を聞いたんだ。それが、『アナタの名前はなんですか?』だったんだって。これがあの都市伝説の元ネタ。その事件は被疑者不明のまま、迷宮入りだって……」
「そうだったのか」
たしかに不可解な事件だ。
ほんとうにのっぺらぼうが起こした事件なのかどうかはわからないし、犯人が捕まってない以上はクラスメイトたちが心配するのもうなづける。
「……まあ、気を付けるよ」
とはいえ、また犯人が同じ事件を起こすのは考えにくいだろう。
僕はそのまま鞄をひっさげて、教室から出たのだった。
菌 菌 菌 菌 菌
「元ネタ、か……」
学校から家までは歩いて三十分ほど。
自転車通学は認められてないし、車酔いするからバスは好きじゃない。急いでもないかぎり歩いて登下校するのが僕の日常だ。
公園のベンチでジュースを飲んで一休みしながら、僕はスマホでさっきの都市伝説を調べていた。クラスメイトが言う通り、元ネタは十年前の『のっぺらぼう殺人事件』で間違いなさそうだ。
その殺人事件についてはいくつも憶測が出回っていた。集団催眠にかかった、犯人が特殊なマスクをつけていた、平凡すぎる顔立ちをしていたせいで覚えられなかった、など。
どれも否定できない説だけど、いまひとつ説得力にかける。
そのなかで僕が気になったのは、アクセス数も少ない小さな個人サイトだった。
「……病気説、か」
曰く、犯人は特殊な病気だった。
その病気は発症すればまず、自分の名前を忘れてしまい思い出せなくなる。次第に名前だけじゃなく自己を認識する機能が衰え、生物としての認識能力を失い、脳から死んでいく。やがて植物状態になり、最後には呼吸不全で亡くなるというものだった。
それが殺人にどう結び付くのかは謎だが、『名前を聞いてから殺し、首から上を持ち去った』ことには説得力が生まれる。名前を持つ者に対する羨望と憎しみが、犯人の行動に直結したのだろう。
サイトにはそう書かれてあった。
そしてその病に関しても少しだけ。
―――――
【ミノネット症候群】
ミノネット症候群とは、亜熱帯地域にのみ生息する植物が持つ特定の菌類を経口摂取し、かつ抗体を持たなかったときにのみ発症する可能性がある極めて稀な疫病の症状全般を指す。菌類が神経を伝達し脳に達した場合、脳の一部が異常活動を行うというもの。
粘膜接触または遺伝によって感染し、空気感染はない。現在において人間が生まれつき抗体を持っている確率はおよそ99%と言われているため、発症率は極めて低い。
ワクチン接種で100%予防可能だが、発症後に摂取しても効果はない。
世界的に見ても未だ症例が少なく、治療法はひとつのみ確認。
【※治療法については参考文献にて検閲削除されていたため、不明】
―――――
「ミノネットってどこかで聞いたな……どこだっけ」
思い出そうとして、やめる。
似たような言葉を勘違いしてるだけかもしれない。
僕はジュースの空き缶をゴミ箱に捨てて、立ち上がった。
公園を抜ければビルの建設現場がある。そのむこうの住宅街に家がある。
考えてることは顔にでるタイプだ。あまり余計なことを考えてたら、妹に心配される。
べつのことでも考えるか、と歩きだしたときだった。
「あ、あのっ!」
うわずった声に振り返る。
後ろに立っていたのはきのうの子だった。紙袋を抱きしめて顔を赤くしていた。
「きのうは、あの、ありがとうございました!」
押し付けるように紙袋を渡される。
やっと声をかけられた。
「気にしなくてよかったのに。でも、わざわざありがとう」
「え、えっと、ありがとうございますはこっちのほうで……す、すみません」
オロオロする女の子に、僕はつい笑ってしまった。
「えっと、あの、怪我は大丈夫ですか……?」
「ああうん。たいしたことないよ」
「それはよかったです」
ほっとした様子だ。
もしかしたら、それを聞くためにずっと僕に張りついてたんだろうか。
「甘い匂いだ……あんこ?」
「はい。ええと、わたしが好きな和菓子屋さんのあんころもちで……あ、嫌いじゃなかったですか?」
「うん。好きだよあんこ」
「よかったです」
僕はあまりお菓子は食べないけど、和菓子なら妹が大好きだ。
ありがたく頂戴しよう。
「それじゃあ僕は帰るから。君もまた変なひとたちに絡まれないように気を付けて帰りなよ」
「はい……あ、あのっ!」
背を向けた僕の服の背を、ぎゅっと握ってくる。
上目づかいで、恥ずかしげに。
彼女は言った。
「――お名前、なんですか?」
「えっ」
ドクン、と心臓が跳ねた。
「あの、わたしまだ、先輩の名前聞いてなかったので……」
頬を染めて、顔をうつむけた彼女。
――関係ない、はずだ。
都市伝説とはまったく関係ないはず。彼女は助けた僕の名前を知りたいだけで、どこをどう見ても都市伝説に関係あることはない。
気にすることなんてない。
さっき調べたばかりだから、ちょっと過敏になってるだけだ。
だけど。
僕はかすかに喉が震えた。
おそるおそる問いかける。
「えっと……君は?」
「あっごめんなさい自分から名乗らないと失礼ですよねごめんなさい。わたし、音無百合といいます。同じ学校の、一年二組です。……それで、先輩のお名前は教えていただけますか?」
……名乗ってくれた。
そりゃあそうだ。
自分の名前を失ったから名前がある他人に恨みがあるなんて。
そんなこと、考えるだけバカバカしい。
僕は安堵の息をついて、自分の名前を答えようとして――――
「…………あれ?」
僕の名前
なんだっけ?
耳鳴りがした。
「――ぐぇっ」
「せんぱい!?」
吐き気が押し寄せてきた。
なんだこれ。
なんだこれ。
答えられない。
自分の名前が……わからない。
「おえええっ」
ビチャビチャと胃の中のものを吐き出す。
息がつまり、頭のなかが絵具を混ぜたようにぐるぐると渦巻き、澱んでいく。
ありえない。
そんなこと、ありえない。
「あ、えっと、どうしようっ」
少女が慌てながら、僕の背中をさすってくる。
やめてくれ。
触らないでくれ。
「うええええっ」
「えっと、救急車、そうだ救急車!」
嘔吐物に血が混じる。
少女が携帯電話を取り出した。
誰か呼ばれるのか。
……イヤだ。
イヤだ。
「せんぱい!?」
僕は逃げだした。
「せんぱい! まって! せんぱい!」
後ろから呼ぶ少女の声。
その声から逃げて逃げて逃げて、走った。
いつもみたいにうまく走れない。もつれそうになる足を必死に動かして、息絶え絶えに、がむしゃらに逃げようとした。
なにが起こったのかわからない。
自分の名前を思い出せなかった。
自分の顔も……思い出せない。
ビルの解体工事をしている音が、頭のなかに響いてぐるぐると回る。袋小路のような狭い道で、僕は膝を震わせながら灰色の壁に手をついて立ち止まった。
「せんぱい……なにがあったんですか……?」
「来ないでくれ!」
わけがわからない。
彼女には近づいて欲しくなかった。触れてほしくなかった。自分の顔も名前も思い出せない。どんな性格だったのか思い出せない。周りのみんなことは覚えてるのに、僕だけが記憶のなかから薄れていた。まるで世界から自分だけが消えていくような感覚。自分だけが色を失うような気味の悪い感覚。
この震える自分の手が、他人の手になったみたいだった。
「……ミノネット……症候群」
僕はハッとしてスマホを取り出す。
さっき見てたページを開いた。
――治療法は、載ってない。
全身から力が抜けていく。
フラフラと足が勝手に動いた。
工事現場の壁に手をつきながら来た道を戻る。
意識が宙づりにされたまま、誰かがマリオネットのように僕を操っていた。天から伸びる糸が僕に絡みつく幻覚。神経と筋肉と脳がブチブチと音を立てて離れていくような幻聴。
静かに狂っていた。
首の後ろが熱かった。
獲物を追い込んだ蛇が首をゆっくりともたげるように、何かが僕をじっと見つめていた。
言い知れぬ寒気が背中にべっとりとまとわりついていた。
うなされるように、僕は立ち尽くした。
「僕は誰だ……僕は――」
「あぶないっ!」
どん、と背中を押された。
押された、というより殴られたに近いだろう。
前につんのめりながら振りむいた。
少女が腕を突きだしながら、切迫した表情で、上を眺めていた。
恐怖に凍りついた表情……そんな喩えすら生温いような、血の気の失せた青い顔だった。
一瞬だった。
轟音が、視界を埋め尽くした。
空から墜ちてきた巨大な鉄の塊が、少女の全身を貫いた。
足もとが揺れ、僕は倒れる。
視界いっぱいに赤い絵の具を溶かした水をぶちまけたような映像が広がる。
土煙が立ち込める。
コンクリートに突き刺さる鉄骨。
広がる血だまり。
潰れたカエルのように、鉄とコンクリの間でぐちゃぐちゃな少女。
「……え、おい……」
パックリと裂かれた少女の腹から臓物が飛び出していた。頭蓋骨が削ぎ取られ、脳が半分見えていた。下半身は完全に潰れて見る影もない。
僕は声にならない声で、生きているはずもない、その少女の名前を呼ぶ。
動かない少女。
はるか頭上では、クレーンにつりさげられたロープがぶらぶらと揺れていた。
まだそのロープには何本もの鉄骨が絡まっていた。いまにも落ちてきそう。
逃げないと。
はやく逃げないと。
でも、僕は動かなくなった少女の残骸に引き寄せられていた。
自分じゃない誰かが、僕の足を動かしていた。
「名前……」
声は枯れ、涙があふれた。
……なのに。
僕は。
少女の割れた頭部に、吸い寄せられるように手を伸ばし、
「うおああああああああっ!?」
意識が飛んでいた気がした。
誰かが叫ぶ声に、失っていた自己を取り戻していく。
視界が明確になっていく。
靄がかかっていた頭のなかがクリアになっていく。
僕の横には、コンクリートに突き刺さる鉄骨。少女の残骸。
少し離れたところで叫んだのは、僕を見て歯をガチガチと鳴らして腰を抜かしている男。男は黄色いヘルメットをずり落としながら僕を凝視して震えていた。
「……なに?」
なにか顔についてるんだろうか。
僕はとっさに顔をてでぬぐった。
温かい液体が、顔にぬめりついた。
「えっ」
それは赤かった。
臭かった。
それ以上に、美味しかった。
「く、くくく食って……!?」
僕はポケットからハンカチをだして、口元をぬぐった。
血が口の周りを――いや、口のなかまで染まっていた。
僕は悟る。
いま、僕がなにをしていたのか。
心臓が踊るように早鐘を打っていた。
だけど煮えたぎるように熱い体とは正反対に、頭の中はやけに静かだった。
取り落としていた荷物を手に取り、腰を抜かした男には目もくれず路地を抜ける。
遠くから救急車の音が近づいてきた。
自分が自分じゃないような感覚はもう感じない。
はやくここから、離れなければ。
僕は静かな住宅街を足早で通り過ぎる。
誰にもすれ違わなかったのは幸運だっただろう。
耳鳴りだけがずっと続いていた。
家を見つけたとき、ほっとした。
たどり着けばすべてが救われると、そんなふうに根拠もなく思った。
扉を開けて、抱えた荷物を落としながら家に入る。
「あ、帰ってきたんだ。おかえ――ってお兄ちゃんなにそれ!?」
裏返った妹の声に、僕はかすれた声でなんでもないと顔を伏せる。
玄関で靴を脱いだ僕。鏡には、顔も服も赤く染めた自分が映った。
「なんでもないわけないでしょ……それ、どうしたの? 大丈夫なの?」
妹は汚れた僕の顔を両手ではさみこんで、無理やり目を合わせてくる。
朧げにある記憶は、自分じゃない誰かが少女の脳を喰らい血を啜り、それを僕が上から見ている映像だった。臓物の潰れるような咀嚼音が耳の中に木霊して、鼻腔では強烈な刺激が暴れまわる。
なんでそんなことをしたのか――僕はもうわかっていた。
自分の名前を、思い出せるから。
「治療したんだ……ただそれだけなんだ……それだけ……なんだよ」
妹にはわからないだろう。
だけど僕は失いかけた自分を取り戻した。
少女の脳を食べることで、僕は僕でいることができた。
食べる前に感じていた凍えるような喪失感は綺麗に消え去り、自分の鼓動が暖かく感じた。生きるというのはこういうことなんだ。だから僕は後悔なんてしていない。僕を助けた少女の脳を食べて、今日、僕は二度助かったのだ。少女は自ら僕を生かした。だから後悔なんてしていない。吐き気なんて感じない。泣いてなんかない。震えてなんかない。死ぬのが僕だったらよかったなんて思ってない。僕は望んで生かされた。助けられた。僕の血の中で脈打つ少女を感じる。暖かい。寒くなんかない。震えてなんかない。泣いてなんかない。だから後悔なんて――
「怖かったんだね」
ぎゅっと、抱きしめられた。
「ううっ、ああああああ……」
口から漏れるのは嗚咽。
そのまま崩れ落ちるように膝をつく。
妹が頭を撫でて、大丈夫だから、と何度もつぶやいた。
少女の味も、匂いも、咀嚼した感覚も、まだ僕の中に残っている。
本当なら僕が死ねばよかった。
生きるべきは少女のほうだった。
僕は謝罪して、命を取り換えるべきだ。
過去に戻って、あの瞬間をやり直すべきだ。
そんな綺麗ごとが頭のなかを巡る。
正しいことを言って懺悔するべきなんだ。
でも僕は、心底ほっとしていた。
生きててよかったと、妹のぬくもりを感じながら涙していた。
いままで僕は、綺麗ごとがなにより正しくてなにより眩しいと思っていた。
人間に生まれたからには、死ぬよりも選ぶべきことがあると思っていた。
あらゆる物語で、あらゆる教訓で、そう教えられてきた。
でも、いまは生きてることが、なにより嬉しかった。
「お兄ちゃん。なにがあったのか……教えて?」
たぶん、妹は僕を否定しないだろう。
受け入れてくれるだろう。
だから僕は口を開いた。
まるで幼子のように、泣きながらすべて話した。
菌 菌 菌 菌 菌
「そうだったんだ……つらかったね」
すべて聞き終えた妹は、薄く微笑みながら僕をもう一度抱きしめた。
妹の鼓動が聞こえてくる。
大丈夫だからとつぶやいて僕の頭を撫でるその手が暖かかった。
それだけで、大丈夫だと思えた。
「大丈夫だから」
魔法のように安らぎを覚える言葉だった。
ありがとう。
嬉しかった。
この気持ちを、たとえわかってくれなくても。
「……わかるよ?」
「え?」
「ううん……これから、わかるんだと思う」
呆然とする僕の頬に、妹は涙を一粒だけ落とし。
悲しそうに笑った。
「……ねえ、教えてお兄ちゃん。あたしの名前、なんていうんだっけ?」
僕の頭を衝撃が襲った。
『 妹へ
いつか君にとって瞬く灯台のような標になるのであれば、僕は喜んでこの脳を捧げよう。それが君にできる僕のたったひとつの恩返しなのだから。
だから、どうか後悔しないで欲しい。泣かないで欲しい。
僕は君のなかで生き続ける。
天国より、愛を込めて』