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光、C、八月一日  作者: 実茂 譲
15/16

* アルトゥーロ

 アルトゥーロ。やつらはきみに何をしたの?

 葡萄酒色の少女は胸に悔しさをいっぱい詰めて、たずねた。だが、当のアルトゥーロはその質問に答えるかわりにナポレオン時代の大砲に寄りかかって、微笑んだ。

 とても気持ちのいい夜だね。

 アルトゥーロ。きみは死んでしまったんだね。

 アルトゥーロはうなずいたが、その表情は別にそのことを悲しむ必要なないんだといった様子だった。

 ここから街を一望できる。きれいだねえ。街が星空と張り合うみたいにきらきらしてるよ。

 アルトゥーロ、やつらはきみに何をしたの?

 アルトゥーロはいたずらっぽく微笑むと、一指し指を自分の唇に触れさせた。

 その話はやめよう。こんなに気持ちのいい夜なんだから。昼間はあんなに暑かったのに、夜になったら、嘘みたいに涼しくなった。ちょっと歩いてみよう。そのために来てくれたんだろ?

 葡萄酒色の少女はアルトゥーロと並んで、ヴェトラーノ砦から市街へと下る道を歩いた。二人はいろいろなことを話した。大人になった友達たち、サクランボのジュース、フェンシングの話。

 サンタ・カタリーナ通りへ出ると、椰子の葉を揺らす風が海から吹いてきた。ホテルの鍛鉄製バルコニーには夜風に当たろうとする若い男女が大勢いた。蓄音機からはマイ・ブルー・ヘブンがかかっていて、その音にあわせて体を揺らしている男女の影がカーテンに映っていた。道路の路肩にはフィアットのオープン・カーが何台も停まっていて、持ち主たちはホテルのなかでシャンペンを開けているところだった。

 星明かりが落ちる砂浜は銀の粉のように光って見えた。アドリア海の暖かい水はゆっくりと磯を洗い、小さな水溜りに取り残された蟹や小魚を海へと連れ戻していた。アルトゥーロは突然、ヒトデが見たいと言い出した。葡萄酒色の少女はその子どもっぽさに思わず吹き出した。しかし、実際にヒトデ探しを始めると、熱中したのは少女のほうだった。夜のヒトデは空から落ちてきた星のように静かに砂浜に身を横たえていて、まるで星の世界から使いがやってきて、自分たちを星の世界に迎えいれてくれるのを待っているようだった。海では全ての生き物は光のなかで静かに息づき、その光は生と死の境をあいまいにした。二人は生きていたころと同じように遊び、笑い、はしゃぎあった。

 大好きだよ。アルトゥーロ。

 少女は心のなかで大きな声で言った。

 ずっとずっと大好きだよ。

 アルトゥーロはゆっくり振り向くと、まるで心の声を聞いていたかのように葡萄酒色の少女に微笑みかけた。その微笑みはアルトゥーロが初めて少女に話しかけたときの微笑みと全く同じものだった。あのとき、アルトゥーロは灰色髪と皆に呼ばれていた少女の髪をミルクティーのような色だと言ってくれたのだ。

 ぼくも大好きだよ。ミルクティーさん。

 アルトゥーロは心のなかでそう返した。

 アルトゥーロとは砂浜で別れた。アルトゥーロはヴェトラーノ砦へと戻っていった。

 葡萄酒色の少女は一人、海を臨む形で砂浜に膝を抱えて座っていた。だが、寂しさはなかった。少女は本当ははしゃぎたいのを我慢しているように嬉しそうに微笑んでいた。これまで何年も彼女を悩ませ、不安にさせた全てが消え失せた。これからはいつだってアルトゥーロに会える、昔のままのアルトゥーロに会える、齢の取り方を忘れたのはボクだけじゃなかったんだ、少女はそのことを何度も何度も口にして確かめた。確かめれば確かめるほど、少女は幸福になることができた。

 葡萄酒色の少女は寄せては返すアドリア海の波音をじっくりと聞いてみることにした。こんな素晴らしい夜なら、きっと海は何か語ってくれるに違いない。今なら聞ける気がする。

 少女は目をつむり、耳を澄ませた。

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