5.取引
トト・フェリーリョとアンジェロは旧埠頭の七号桟橋に約束より三十分早い四時半に到着した。どうも出だしがよくなかった。というのも、トトは五〇リラを持って質屋へ行くはずがどういうわけだか、気がついたら街角でファロをやっている連中に混じって八の札に一リラ、キングの札に一リラと賭けていて、財布の中身は半分に減ってしまっていた。
そのため、質屋でネクタイとカラーを受け戻すことが出来ず、銃と相当毛羽立った山高帽で我慢することになった。最悪なのは金が足りなくて弾が買えなかったことだった。
トト・フェリーリョが買ったのは米西戦争に使われた四五口径コルトのリヴォルヴァーだった。アンジェロは三二口径の予備弾しか持っていない。トト・フェリーリョは結局丸腰の状態で取引に望むことになった。
スウェーデン船籍の貨物船「オクセンシェルナ」号はすぐに見つかった。大きな二つの貨物船のあいだにタグボートのような船が一隻つないであったのだが、船首の字を読むと、そこには間違いなくオクセンシェルナと書いてあった。これは海賊の船だな、とアンジェロは思った。地中海のなかを麻薬や女、煙草、宝石を違法に運んで金を貰う現代の海賊だ。
そのスウェーデンの海賊船は税関をすでに抜けていて、アンジェロとトト・フェリーリョがやることは本当に取引を見守るだけだった。トトが煙草をせびったので一本やり、自分も一本つけた。誰もいない。カブトムシのような倉庫が並び、湾の底の水の動きが聞こえてきそうなくらい静かだった。漁船の集まる波止場では気のはやい料理屋が灯をともし始めている。C市は西に山を背負っているから暗くなるのがやや速い。空は薔薇色に輝いていても町は薄暗い煤色に沈んでいることが多々あるのだ。
倉庫と倉庫のあいだの暗がりに溜まった水を跳ね散らす音が聞こえた。ダッジのセダン一台は二人の前で止まった。運転席に太った男、助手席に痩せた老人が乗っていて、太った男はアンジェロに対して疑いの目を向けていた。
「約束じゃ一人のはずだ」太った男が言った。
「ええ、報酬は二〇〇〇リラのままです」トトが媚びるような笑みを浮かべて言った。「そのなかで山分けしますから」
痩せた老人が車を降りた。医療カバンのようなものを持っていて、なかにはコカインの濃度を測定するための薬品と器具が入っていた。太った男のほうもカバンを持っていた。それをボンネットの上に置くと、なかを見ろとアンジェロとトトに言った。カバンのなかには使い古されたアメリカのドル札の束が一つ転がっていた。
「五〇〇〇ドルだ」太った男が言った。「一キロ五〇〇〇ドル。十キロで五〇〇〇〇ドルだ。五百グラムずつの包みが二十個だ。こっちの男が純度の測定をする」そう言って五〇〇〇〇ドルの入ったカバンをアンジェロのほうに押し出した。アンジェロはフェルト製のチョコレート色の手袋をはめてから、そのカバンを受け取った。
「あなたは来ないんですか?」アンジェロは太った男にたずねた。
「いや、行かない」太った男は言った。「ここで待つ」
アンジェロは黙ってカバンを手に提げると、トトと鑑定役の老人を連れて、オクセンシェルナ号へと歩いていった。あと数歩というところで二人の船員――一人は北欧系、もう一人はアルジェリア人――が甲板に姿を見せた。
「そこで止まれ」北欧系の船員が言った。「銃は持ってるか?」
「ああ」アンジェロはショルダーホルスターの銃を見せ、トト・フェリーリョは弾倉が空っぽのコルトを見せた。
「こっちも持ってる」北欧系の船員がベルトに差し込んだウェヴリー・リヴァルヴァーを見せ、アルジェリア人は二連式のショットガンを小脇に抱えていた。
「なら」アンジェロが言った。「何も問題ない。立場は対等なわけだ」
船員二人が顔を見合わせた。そして、スウェーデン語かアルジェリア語かで話し合った結果、三人とも船に入れることになった。船長は頬髯と口髭をつなげた赤毛で赤ら顔、長身の偉丈夫だった。白の制帽にきちんとしたダブルブレストの上着を着て、多少ゆるめてはいたが、きちんとネクタイもしていた。上着の胸には十字の勲章が下がっていた(ここ百年スウェーデンで戦争が起きた覚えはなかったが)。船長の部屋には故郷スウェーデンの風景の絵葉書が数枚コルクボードにピンで刺してあり、長身なスウェーデン国王の肖像が反対側の壁にかけてあった。船長の机には無効のスタンプを押された船荷証券や戦艦ヴァーサ号の文鎮とともにブローニング・ピストルが一丁無造作に置いてあり、銃口が入口の方向を指していた。
「買い手はどこだ?」船長がたずねた。
「僕らが代理です」アンジェロが言った。「お互い、相手の名前も知らず、ただあなたがたとこちら側が欲しいものを手に入れる。取引では一番きれいな方法です」
船長はアンジェロの顔を上から下へねめつけた。しばらくしてから、了解の合図で両手を軽く上げて言った。
「わかった。金を見せてくれ」
アンジェロはカバンから五十ドル札を百枚にした束を持ち上げ、十分見せつけてから、またカバンに落とした。
船長は二人の船員に顎で倉庫のほうをしゃくった。二人は黙って出て行き、二分後には二つの木箱を抱えて戻ってきた。船長がバールを手にすると、釘の打たれた蓋にバールを差込み、こじ開けた。アスピリンの平らな缶が並んでいた。船長はその下のボール紙をつかむと、それを無理やり引き剥がした。アスピリンの缶がテーブルや床に落ちてカタカタと音を鳴らした。二重底のなかには煉瓦大の茶色い包みが十個、もう一つの箱からも同じように十個の包みが出てきた。検査役の老人は黙って、二つ目の箱の包みを一つ取ると丁寧に包み紙を説いて、コカインの真っ白なかたまりを露にした。老人はその角を折りたたみ式ナイフで削って小さな試験管に入れると、試薬を入れて、アルコール・ランプで熱し始めた。
そのあいだ、アンジェロたちは取引の成功を祝ってスウェーデン式ウォッカで乾杯した。船長が赤ら顔なのは北欧人だからだと思っていたが、実はもうかなり飲んでいたらしく船長はすっかり上機嫌になり武勇伝を聞かされた。一九一八年のフィンランド内戦にスウェーデン義勇軍の大尉として参加してタンペレの市街戦を戦っていた話。彼は自分の祖先はヴァイキングの親玉まで遡れて、十七世紀になると、ドイツ三十年戦争の際に国王グスタフ・アドルフからの勅許を得て騎兵大佐として虐殺狂いのフィンランド人騎兵連隊を率いて戦い抜いた。彼らの「ハッカペーレ!(ぶっ殺せ!)」という叫び声を聞くと、帝国軍は震え上がり、スペイン兵は自慢のテルシオ戦法も役立たずとなり背中を見せて逃げていく。その突撃の先頭には常に船長の先祖がいた、船長の話ではそうらしい。
そのため、彼はフィンランドで内戦が勃発したと聞くと戦士の血が騒ぎ、手持ちの資金で二丁の機関銃と弾薬一万発を手にいれ、スウェーデンに戻り、義勇軍に志願した。彼は機関銃隊の大尉として、フィンランド白軍の大反撃に参加し、タンペレから追い出された〈アカのクズども〉を機関銃で次々と薙ぎ倒していった。
「それから――」そう言って机のブローニングをコツコツ指で叩いた。「こいつだ。つかまえたアカをこいつで二十二人殺した。二十二人きっかし! 殺したなかにはチェカのクズもいた」
「チェカ?」
「露助どもが派遣したスパイだよ。両膝をぶち抜いてから、ほったらかして、死ぬ直前に頭に一発ぶち込んだ。おれたちは死んだアカどもを道に放っておかせた。アカどもはあっというまにカチンカチンに凍りついた。まったくアカほどタチの悪い連中はいねえ。もし、おれだったらアカなんてみんな縛り上げて流氷と一緒に海に流しちまうんだがな」
老人が咳をした。そして、純度に問題はないと言った。老人はコカインを包みなおした。アンジェロは五千ドルを船長に渡した。コカインは全てカバンに収まった。
「さてと」トト・フェリーリョはニコニコして言った。「これで取引は終わりだな」
アルジェリア人が突然銃を振り上げてトト・フェリーリョを撃った。次の瞬間にはアンジェロが豹のように椅子から跳び上がって、船長の背後に回った。左手でナイフを手にして船長の喉につきつけて盾にし、右手でアルジェリア人とスカンジナヴィア人の船員に銃を向けた。検査役の老人は胸を押さえて床に倒れていた。
「銃を捨てろ!」船長が船員たちに叫んだ。「はやく!」
船員二人は言われたとおりに銃を捨てた。
「あんたを殺すつもりはない」船長が言った。「賞金がかかっていたのはトト・フェリーリョだけだ」
「賞金? 何の話だ?」
「ブリンディジに寄港したとき、カラブリア人たちがトト・フェリーリョに賞金をかけたって話を聞いたんだ」船長はあえぎながら言った。「やつは金をもらったのに仕事をしなかった。そのせいで山賊どもの首領がムショにぶち込まれたって。だから、おれはやつの居所を突き止めて、コカインを相場の半分で譲る約束でこの取引にトト・フェリーリョが関わるようにさせたんだ」
あの太っちょも仕組んだなかに入っていたのか。アンジェロは心のなかで舌打ちした。
アンジェロはナイフを喉から外し、船長からゆっくり離れた。船長はかすかに切れた首の傷に手をやり、船員二人は手をあげたままだった。アンジェロは銃をホルスターにおさめると、床に倒れている二人を見た。アルジェリア人は引き金を引き切って一度に二発の鹿弾を撃ったらしく、トト・フェリーリョは取引が終わったときの安心した表情を顔に貼り付けたまま死んだ。老人のほうは驚いたショックで心臓発作を起こしたらしく、全員が銃をしまったころにはもう死んでいた。
「死体はおれたちで片づける」船長が言った。「沖合いに捨てれば二度と浮かんじゃこれねえ。あんたはコカインを持って買い手に届ければ仕事は終わりだ」
「あまり、いい気はしないね」アンジェロは言った。
「だが、仁義に反したのはそこに転がってるペテン師のほうだ。金をもらうだけもらってトンズラするのは殺し屋の風上にもおけねえ。そうだろ?」
船長の道理が正しかった。死ぬべきはトト・フェリーリョなのだ。トト・フェリーリョの血潮はイタリアで暗躍する全暗殺者に対する一種の警句とも言えた。一度つまずいて落ちぶれれば、どこまでも落ちていく。それを防ぐには自分でルールをつくって、それを守ることだ。
自分でルール? まるでアナーキストの口ぶりじゃないか?
船を後にし、自動車で待つ太った男のほうへ歩きながら、アンジェロは苦笑した。アナーキストと殺し屋のあいだに違いは一つ。前者は主義のために、後者は金のために殺す。前者の殺しは美しく見えるかもしれないが、アナーキストと殺し屋、どちらにも等しく地獄が用意されているだろう。もっともアナーキストは地獄の存在を否定しているのだが。
「二人死にましたよ」自動車から出てきた太っちょにアンジェロが言った。
「じいさんもくたばったのか? まあ、しょうがない。それよりコカインだ」
アンジェロはカバンを渡した。太った男は興奮して何度も何度も一、二、三、四、五、六、七、八、九、十と数えた。七回数えてようやく落ち着いたらしく、太っちょはアンジェロに使い古しの十リラ札で二千リラを払った。
太っちょはカバンを後部座席に放り込むと、自分はきつそうにもぞもぞ動きながら運転席に尻を落ち着けると、エンジンをかけて来た道を戻っていった。
一人になると、アンジェロはなぜか七教会地区の三人のことを考えた。マンザネーロことトト・フェリーリョが姿を見せなくなったら、彼らはきっとトト・フェリーリョが借金をチャラにするために姿をくらましたと思うだろう。まさか海の底で蟹の餌になっているなどとは夢にも思うまい。