4
結局の所、その後一ヶ月して河崎は仕事を辞める事になった。あの飲み会の翌日から有給を申請して、そのまま退職という流れになったらしい。もっとも、後から聞いた話しだと申請といっても電話でいきなり来月辞めると強引に言って切ってしまったみたいだから、ハッキリ言ってかなり迷惑なやめ方ではあるのだけど、結局の所職場の人間は余り困ったような顔をしていなかった。
「まあそんなもんだよなあ」
居酒屋のトリマルに集う帰社直後の酔っ払い達。僕も例の如くその場にいる訳だけど、今日はあまり酔えていなかった。
「結局あの程度の奴でしかないんだよ」
同期の大島さんが愚痴るみたいに言った。それに同調するようにみんなが頷く。仄かに顔が赤くて、どこか不満足そうな顔をしながらもこれが自分達の幸せなんだって、そうわざとらしく認識しているかのような顔だ。
「にしてもあいつ、他の職場に行ってまともに務まるんですかね?」
誰かが放ったその一言に、みんなが含みを孕んだ笑みを零す。それは僕も同じで、誰かの事を揶揄する事は出来なかった。皆気付いているのだ。やっぱり話す事が河崎の事に終始してしまう事に。ただそんな自分達が情けなくて、でも直視したくないのだ。
「でも話題の人がいなくなるとやっぱりさびしくなるよな」
自ら口に出した自虐的なネタもどこか虚しく、虚ろに宙を漂うばかりだった。なんとなく気まずい沈黙が卓上を漂い、誰もが次の話題を求めて視線を自分の酒へと向けて呷る中、一人が呟いた。
「それはそうと」
沈んでしまった空気を払拭させる為に、そして社会、会社と言う世界の中で自分達の存在を立脚させる為に。
「やっぱりアイツも駄目だよなあ」
アイツも。その一言に敏感に反応したのは大島さんだった。
「ああアイツね。最近入ってきた中途の奴。ありゃ駄目だ」
結局会社と言う世界の中では必ず一人、いけにえみたいな存在が必要なのかもしれない。この前まではなにも問題視されていなかった奴が注目されてしまう。働きアリの構成が代を変えても変遷しないのと一緒で、人間の社会の中でも必ずその対象の人間を貶める為のポストと言う物が自動的に作られているのかもしれない。
それじゃあ。
僕はふと思う。
河崎の前、そのポストに収まっていたのは誰だったんだろうと。一体誰がそう言った枠に抑え込まれていたんだろう?
そして更に思う。
河崎のズルさって一体何だったんだろうって。
本当に河崎はずるかったんだろうか? 本当に俺達が言うほど腹が立つ存在だったのだろうか? 代が変わるごとに生まれる新たな社内の生贄に選ばれてしまった時点で、彼の人間としてのしたたかさはずるさと揶揄される事になってしまったのではないだろうか?
僕達は本当に河崎を見ようとしていたのだろうか?
本当にちゃんとアイツの事をみて、ちゃんとアイツの事をずるいって、そう言える事が出来ていたんだろうか? もしついこの間、アイツ以上に仕事の出来ない奴がいたらあいつの運命はまた違っていたんじゃないだろうか? あそこまで人間性を否定される事はなかったんじゃないだろうか?
ずるさとは一体何だろう?
確かに河崎は自分で選択をしない人間だった。だけど良く考えてみればそんなのは世の中にはいて捨てるほどいる。言ってみれば全ての人間がそれを避けて通りたいとさえ思っているし、周りの連中に気付かれないようにして選択をしてこなかった人間だっている筈だ。それはこの中のメンバーだってそうだ。それなのに何故アイツだけがずるいと揶揄されてしまったのだろう。こういう事なのだろうか? 河崎は確かにずるい。でもずる賢くはなかった。人から後ろ指を指される人間とそうでない人間の差は結局その賢さに由来していると言う事なのだろうか? でもだとしたら、普通に考えて一番ずるいのはその賢さを持っている、裏に隠れた連中なんじゃないだろうか? このメンバーの中にもいる連中こそが、本当にずるいんじゃないだろうか? でもそれもなんだか腑に落ちない感じもする。大島さん達を見てても僕は何も思わない。それは僕自身がずるい事の証と言う事にもなるのだろうか?
分からない。
本当にずるさと言うのは一体何なんだろう? 僕が河崎に思い描いて投射したあの言葉達の本質は一体どこにあったんだろう?
もう二度と合わないだろう河崎の事を今になって考えるなんて思っていなかった。あてがわれた枠の中で必死にもがいていたかもしれないあいつのずるさが僕には既に分からなくなってしまった。
ただそんな分からない状態の中でも、一つだけ言える事があるとするのならば、アイツは本当に可哀相な奴だったとい事だ。もしかしたら入社する時期がホンの少し違っただけで、アイツの運命は変わっていたのかもしれない。皆の見る目が少し違っていたのかもしれない。
世の中のすべての会社に存在する見えない空気感に食い殺されてしまった河崎に、僕は一人、お疲れ様の意味を込めてグラスをささげるのだった。
乾杯。お疲れ様。
それが僕から可哀相な人に向けて送った、最初で最後の慰労の感情だった。




