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それから数日、河崎は仕事場で随分と小さくなっていた。挨拶をしても返す返事は小さいし、何より自分のミスを他人に転嫁するでもなく、受け入れるでもなく、ただ呆然と頭を下げながら詫びを入れる事が増えていた。現場の主任から散々ゲキが飛んでいるにも拘らずどこか目はうつろで、自分が今、何故怒られているのかも分からない様子だった。
当然そんな状態で現場にいられても困る、というか危なくて仕事なんか任せられないと仕事を外される事も何日かあった。陰口も前以上に、あからさまに叩かれるようになった。
河崎のミスに対する態度もあからさまになって、最近では露骨に舌打ちをするようになっていた。誰も河崎とは目を合わせようとしないし、口を聞こうとしなかった。元々周囲から浮いていた河崎ではあったけど、今の状態は正に孤立と言って良かった。少なからず周囲から見ても孤独を感じさせるような雰囲気は無かっただけに、それは上から見ても明らかだった。
一週間が経って、河崎が課長に呼び出されたと言う噂が立った。女性社員がいない分、ゴシップのネタがそういう事に集中する傾向が強い。男だけの世界と言うのは女だけの世界と同じように、いやそれ以上にネチネチしているのかもしれない。本当に暇だなあと思う。それは勿論僕も含めての話しだけど、やっぱり河崎の話しが耳の端に入って来るとなんとなく知りたいと言う願望が強く出てしまう。本当だったらあんな奴どうだっていんだけど、と言い切りたい部分はあるつもりなのに、それが出来ない自分がどこか恥ずかしくて、けったいに思えて仕方が無かった。かといって河崎が本当に課長の所へと呼びだされたのか、呼び出されて何を話したのかを聞く奴は一人もいない。
男っていうのはそういう性分だった。気取って快活さやぶっきらぼうさを振りかざす。もし他の社員が課長に呼び出されていたとしたら、彼等はそれが触れても良い部分の呼び出しであった事を確認してから本人に直接聞きに行く。それが男達だけの社会に出来あがった常識でもあった。勿論それは一般常識的に見ても通常の事なのかもしれないけど、でも何となく僕は思う。ここの職場の社員がもしそれをしていたとしたら、きっとネチネチしているなって思うんだろうなって。河崎のする事なす事全てがずるいと思ってしまうのと同じように、きっとそう見えてしまうんだろう。理屈や真実なんて関係ない。それが僕と言う人間の性質なんだろうなって、この三十三年間生きて来て分かった事だった。
そして結局真相は何も分からないまま、時は過ぎて言った。
河崎が活気を失ってから二週間。次第に河崎のその様子にも慣れ始めた社員達は彼の事を意識の外に置き始めていた。いつもの事が一つ増え、前にあったいつもの事が一つ消える。そうやって一つ一つの出来事が生まれたり消えたりしている状況の中で、僕は不意に呼びとめられてしまった。
「星野さん」
誰もいない仕事上がりのロッカールームでの出来事だった。偶然居合わせた河崎が今にも自殺しそうな面持ちをしながら僕にこう持ちかけて来たのだ。
「ちょっと……付き合ってくれませんか?」
勘弁してくれ。
僕は素直にそう言いかけようとした。だけどダメだった。矢継ぎ早に言われた言葉に次いで発する言葉のタイミングを失ってしまったのだ。
「同期のよしみって事で……さ。いいですよね?」
決して自分から切っ掛けを作らなかった男、懇願する事すらしなかった男が自分から声をかけ、誘いをかけて来た事に僕は驚いてしまった。そして更に、彼は畳みかけるように言って来た。
「俺……仕事辞めようかと思ってて」
結局の所、これは僕の弱さなのかもしれない。
僕は彼の顔を見ながら思った。今まで生きて来た人生の中でこういう事は何度もあった。どうでもいいと思っていた相手に突然誘われて、断り切れずに頷いてしまう。それは河崎と同じように、ハッキリと断る事の出来ないズルサと称してもおかしくない事なのかもしれない。
でもこの癖は直らないんだろうなとも思っていた。だからこそ今、僕はこの場で仕事をしているんだろうなって言う確たる自信がそこにはあった。だから仕方が無いとずっと思っていた。
でも、今回ばかりは本気で思った。
この癖、ズルさ、これは本気で直さないとヤバいんだろうなって。
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僕と河崎は一緒に駅前のチェーン居酒屋に入っていた。中は既に他の客達で込み合っていたが、金曜日と言う訳でもないのに活気づいている店内の様子は僕の気持ちとは裏腹過ぎてどこか気持ちが悪かった。このまま気分不快を訴えて帰ってやろうか、等とも思ったけどそんな事が出来る訳もなく僕たちは店内の隅っこにある小さなテーブルへと通された。
喧騒の中で、二人してウーロンハイを啜る辺りそれが歓喜を祝しての飲み会で無い事は傍から見ても分かる事だっただろう。
僕と河崎は舐めるようにして酒を啜り、お互いうつむいていた。いい加減にしろよな。
僕はウーロンハイを呑みながら何度もそう言いかけた。だけど言いだすタイミングがつかめなくて、その代わりに酒を口へと運んでいた。だからなのかもしれない。今までの人生を振り返ってみても、河崎みたいな奴が僕に接触を図って来るのは。僕の、言いたい事をハッキリと言えない性格が災いしているのかもしれない。そう思った。だから今回ばかりは頑張ろうと、本気でそう思った。
「なんか……意外ですよね」
呟くように放った言葉だったけど、それは掛け値なしの本音だった。
「まさか河崎さんの方から声をかけて来るなんて、夢にも思って無かったですよ」
河崎の酒を呷る手が止まる。対照的に僕の口は調子を取り戻したみたいにスムーズに動き始める。
「だっていつも誘われ待ちしてばっかりですもんね」
帰社直後、みんなでいつもの居酒屋トリマルに向かう途中、河崎はいつだって一人言を呟いている。「腹減ったなあ」「今日は何呑もうかなあ」「帰っても今日は暇なんだよなあ」決してこっちを見て来る事は無いけど、声は僕等のほうに向かってくる。そしてそれは無言の内に「俺を誘ってくれよ」と語りかけて来る。そして誰も誘わない。いつも通り僕達はいつものメンバーでトリマルへと向かい、いつも通り河崎は一人で帰宅する。それが普通でもあり、いつも通りだった。だけど今回は違った。
「断られるのが怖いんですよね?」
それは何となくわかる感情だった。でもそんな感情は高校生を境に無くなってしまった。多かれ少なかれ誰もが経験した事のある、拒絶された時に思い知るかもしれない恐怖。河崎はそれに支配されているように見えて仕方が無かった。そしてそれは他の事に当てはまるような気もした。自分で決められない。選択できない。責任を負えない。誘えない。他人に転嫁する。断られるのが怖い。自分が傷つきたくない。
臆病な奴だと思った。きっと周りの人間全てが怖いんだろう。全てが敵なのかもしれない。だから河崎はこんなにも臆病なのだ。そして臆病だからこそ、ズルくて、可哀相なのだ。
「河崎さん自分で思った事ありませんか?」
僕はウーロンハイをテーブルに叩くようにして置き、彼の目を見据えて言った。もしかしたら酔っているのかもしれない。
「自分が本当にずるい奴だって事に」
僕の言葉にさっきから黙りこくっていた河崎が口を開く。それは僕にとって案の定と呼ばれる物でしか無かった。
「そんなの分かってますよ」
ほらな。
僕は心の中で思う。
やっぱりこいつは本当にずるいって。
「自分でもそんなの分かってますよ。俺がずるい性格してるって事くらい。だからみんな俺をやっかむんでしょう? だからみんなして俺を仲間外れにするんでしょう? そんなの分からないと思ってましたか? 俺にだってそれ位分かるんです」
聞かなきゃ良かった。本当にそう思った。なんで俺は今こいつと酒を呑んでいるんだろうとさえ本気で思った。だけど河崎はそんな事を気にした様子もなく言ってくる。
「俺だってバカじゃない。自分の仕事の能力がその程度の事だって位分かってますよ。でもだからってそれを全て呑み込んでたらやってけない事くらいわかりますよね? だから必死なんですよ。必死にみんなに責任を転嫁して、生き延びてるんですよ。これは俺が社会で生き延びる為の処世術の一つなんですよ。だから、だから……」
「だから仕事を辞めるんですか?」
正直な所河崎が仕事を辞めるかどうかなんてどうだってよかった。さっさとこの飲み会を終わらせたい思いさえあった。でもそれだけじゃなかった。やっぱり色々と気に入らない所があって、苦言を呈してやりたい部分がたくさんあった。どうでもいいって言ってしまう事は簡単に出来たけど、でも河崎を見ていたらそれだけで終わらせたくない部分もあった。
「別に河崎さんが仕事を辞めようがやめまいがそんなの俺には関係ないですけどね、俺思うんですよ。俺、前の職場で沢山の離職者って奴を見てきました。辞める理由はそれぞれですよ。給料を理由にしたり、仕事のやりがいを理由にしたり、残業の多さを苦にしたり、職場の人間関係を苦にしたり、理由は様々です。でも根っこの所では何一つ違っていないと思ってます。仕事を辞める人は二つのタイプに別れると思ってます。それは目的のある退職か、そうじゃないかです。俺は前職の介護を後者で辞めました。何故なら自分の今後に自分で責任が持てなくなったと思ってるからです」
河崎が自分の言っている事を理解できているとは思えなかった。だから伝えてやろうと思った。簡単に。シンプルに。単純に。
「多分、その仕事における自分のこれからって奴に、限界を感じたんでしょうね」
それは僕自身がそうだった。
「僕は以前介護の仕事をやっていました。そこまで入れ込んでやっていた訳ではないけど、様々な人とであって、色々な経験をしました。その中で出会った一人の女性に自分の弱さを見せつけられました。別に何かひどい事言われたとかそういう訳じゃないんですけど、僕はその人と一緒にいる事が耐えられなくなってたんです。彼女を見ていれば見てる程、自分のちっぽけな部分を直視する羽目になる。それが耐えがたかった。そしてそれは彼女が仕事として取り組んでいる介護についても同じ事が言えた。俺は彼女を見ている内に自分の介護に自信を持てなくなったんです。違う事業所に移ればよかったじゃないかと思うかもしれませんけどそれじゃ駄目だったんです。介護をするたびにあいつの顔が浮かんで、俺が俺に自信を持てなくなってしまうんです。だからもう二度と介護は出来ないって、そう思いました。俺は俺の力を諦めてしまったんです」
「その話しが一体俺のどこに関係があるっていうんですか?」
河崎の言葉に僕はなんと答えていいのか分からなかった。関係があると思って話した内容だったが、今から考えてみれば関係が無かったような気もする。だけど心の奥底で、この話しが河崎のズルサとどこか繋がっているような気もしていた。
「別に河崎さんが今の話しを聞いて何も感じないんならそれでいいです」
僕は残り数口となったウーロンハイを一気に飲み干して席を立った。
「ただ俺から一言言わせてもらうと、このままじゃ河崎さんはただずるいってだけじゃなくてそれに加えて可哀相な奴だって、そう思われながら会社を去る事になりますからね。その事だけは忘れないでください」
五千円札をテーブルに叩き置いて、僕は後ろを振り返る事もなくその場から去ることにした。背後から声が掛かる事は無かった。心のどこかでは自分を引きとめる河崎の姿を想像していただけに、少し不安を覚えたが、それこそ河崎っぽい感情の持ち合わせ方じゃないかと自分を恥じた。そして加えて言うなら、叩きつけたのが一万円札じゃなくて五千円札だった事に、自分のズルサを感じるのだった。




