今宵、辻斬りは
「辻斬りの醍醐味。それを教えてやろう」
遠くの方で犬が鳴き、それに呼応した別の犬がこれまた鳴く。
月明かりに照らされた柳の木に、赤きしぶき舞い散る。
髭を随分と長い間放置していたせいか、辻斬りの顔は不潔そのものだった。
布が擦り切れるような音。
辻斬りは不自然なほど自然な足運びで、後ろに一度、退いた。
「かはッ……!」
男の握っていた刀が落ちる。
夏にはあれほどうるさい蝉ですら、季節が過ぎれば静まり返る。
どんなに生きようと努力しても、転がるようにして蝉は砂利道に落ちる。
それと同じく、武士の命である刀が落ちれば、それすなわち、死を意味するのだ。
辻斬りは髭を撫でながら、笑いながら、刀を握りながら、「正義を切らない。だが、悪も切らない。辻斬りはな――」、草花を思い切り踏みつけて言う。
「そこにあるものを、切るのだよ」
胸元にできた一筋の刀傷。
止まることを知らない血液を、恨めしく見つめながら、男は地面に倒れこむ。
鼻の穴を雑草がくすぐり、男はもはや、生きることを諦め笑ってやった。
「私は……もの……なんかじゃない……」
いつ終わるかも分からぬ命。
それなのに、どうして下らない反論などをしているのか。男は不思議で仕方がなかった。
「ほう……」と呟いて、辻斬りは少し窮屈な足袋を一瞥する。
優雅に歩みを進めていき、辻斬りは刀の先を男の目玉へと向ける。
「命乞いは、しないのか」
不規則な呼吸音に顔を顰める。
男ではなく、辻斬りが、だ。
視線を下から上へと動かし、辻斬りは男の姿をしかと捉える。
直垂を着ていることから察するに、こいつは武士なのだろう。そう思いながらも、ふとした違和感に気が付いた。
交えた時には分からなかったが、こいつの刀は、錆びている。
そして見覚えがあった。
この錆び方は――間違いない。
「辻斬りだからこそ分かる、この錆び、この匂い、この妖しさ。さてはお前、刀汚しをしたな。切る価値のない人間を、切ったのだな?」
風が二人の時間を停止させ、そしてまた、元に戻した。
「因果応報だ……辻斬りに魅せられた私は……辻斬りによって殺される……」
産まれたての赤子のように、男はみっともなくも、わめいた。
それは混乱しているようにも思え、気が狂ってしまったようにも思える。酒に酔うのではなく、酒に酔わされるように、この男もまた辻斬りに魅せられてしまったのだ。
情けをかけようとは思わない。
しかし辻斬りは、言いようのない不快感を胸に抱いた。
人を殺すことになど、もはや微塵も躊躇いはしない。
そうだと言うのに、どうして刀を握る力は、弱まるばかりなのか。
「さあ殺せ……殺せ……殺せ……殺してくれ……!」
まるで地獄から這い上がって来た使者のように、辻斬りの足を、辻斬りの腰を、辻斬りの手を、男は掴んだ。
女子のようにか弱い力で、男は掴んだのだ。
その刹那――月が雲に隠れる。
唯一の頼みであった月が消え去り、たちまちあたりは暗転する。
「離せ!」と、男の腕を振り払い、辻斬りはただちに刀を鞘におさめる。
悲鳴をあげる植物を踏み分けて、辻斬りは耳を塞いだ。男の声など聞こえはしない。そう自分に言い聞かせ、辻斬りは無我夢中で走る。
木々にぶつかり、石に躓き、辻斬りが立ち止まった時にはもう、あたりは明るくなっていた。月の光が辻斬りを照らし、どうにも心地が良い気分であった。
「まだ夜は明けない……まだ、明けてはくれないのだろう」
ため池に波紋が広がる――いつの間にため池が。
必死に走ったものだから、気付かなかったのだろうか。
ではどうして、波が出来ているのか。
誰かが小石でも投げ入れたのか。
「あれは……」
驚きとため息が混ざり合った、辻斬りの独り言。
頬を伝った一粒の水は、いつの日か花を咲かせてくれるだろうと信じ、目を瞑る。
ずっと昔に見たことのある家紋。
単なる波紋に過ぎなかったのに、辻斬りの目には懐かしくも儚い家紋に、見えてしまったのだろう。
「ようやく私を迎えに来たくれたのか、お前たち――」
血塗られた刀を腰から外し、辻斬りはそれを一気に引き抜く。
闇夜に輝く刀身は今一度、終わることのない戦場へと舞い戻るのであった。




