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赤いタフネス(短編)

作者: 縄田 隆一郎

近年、空前の自転車ブームで街中には数十万円もする高級自転車が行き来している。


その中で密かに繰り広げられるロードバイク乗りたちのストリートのバトル。


今日もどこかで始まっている。

(1)


 夜の1号線、いつもの帰り道。


 変則ギアのないシングルスピードのトレックという、この米国製の自転車は、走行感覚が素晴らしい。


 最近流行のフルカーボンフレームの高級ロードバイクの高速走行には敵わないものの、信号が多く、一直線に走り抜ける距離が短い街乗りなら、10倍値の張る高級ロードバイクと同様の走りを体験できる。


 アルミニウムのフレームの溶接あともそのままに、粗っぽく鶯色に黒くペイントされた車体は、多段ギアのメカが省かれた分、軽くて丈夫だ。


 軽いといっても、乗り手の体重次第で登り坂はきついが、転がりよく調整されたリムや丈夫な車体は、下りだったらまっ逆さまに落ちるように走り抜ける。


 レースの経験のない、街乗りオシャレ感覚のロードバイク乗りの連中なら、その気にな?ば後ろからまくることもできる。



 大地震のあった年の夏は、どこも異常な暑さと寒さがくるという。


 そんな厳しい暑さが続いた夏のある日、その日も夜になっても湿度が高く、ベタッとした空気が、じわじわと汗を毛穴から吹き出させ、気がつくと肌一面が汗で被われて濡れているのがわかる。


 頭からは汗が連なり、玉のような水滴となって首と襟にヒタヒタと落ちる。


 この麻布十番あたりから白金高輪あたりまでの起伏のない舗装道路も、凹凸のない新しいアスファルト面だと、緩やかな坂道でもまっすぐにブレずに走るレックの車体がどんどん加速し、赤信号で止まる車を置き去るように、向かい風を受けながら爽快に走ることができる。


 風を全身に浴びていると、全身に汗をかいていることも感じず、ペダルの重みがなくなるくらい膝が軽く回る。


 呼吸が一定のペースで安定してくると、街の喧騒と自動車の排気音が聞こえなくなるくらい、自転車乗りの頭の中は、風を切る音だけになり、この暑さの中でもナチュラルにハイな気分になる時がある。


 今日もそんなハイな気分で、ペダルを高速で回していた。


 いや、ペダルを前に前に足裏に力を入れて回すのではなく、背中をまるで、けだるそうな猫のように丸くしてサドルに寝そべるように座りながら、膝を顎に向かって蹴りあげるように後ろ足で漕ぐ。


 膝から下の足首などはほとんど意識せず、太腿の内側でサドルを挟みながら、内股で腿と膝でペダルを回していく。


 乗れているときの感覚はそんなものだ。


 足裏で強引にペダルを押すような感覚は微塵もない。


 むしろ、腹筋の奥の腹の筋肉と、そこから延びる太腿の内側の筋肉とその先の膝で、ペダルに乗せた膝から下の足首と足が弧を書くようにリズミカルに回る状態だ。


 太腿の内側の筋肉や裏側のハムストリングを使ってペダルが回せているときは、膝側の太腿に乳酸菌は溜まらず、長時間疲労を感じずにいられる。



(2)


 そんな快適走行を楽しんでいた帰り道だった。


 麻布十番から3つめの三の橋を過ぎた、路面がややゴツゴツしているバス停の前を通り過ぎようとした瞬間、赤いフレームの自転車が横から急に割って入ってきて、目のɍに立ち塞がる。


 「な、なっんだ܁?」突然の目の前の侵入者に、先程までの快適走行のハイな気分が吹き飛ばされた。


「まったく、何だコイツは」と目の前の赤い自転車の乗り手に目をやる。


 この暑さの中、白い長袖のワイシャツにグレーのスラックス。安っぽい黒の合成皮革のベルトにクラリーノのようなピカピカ光る黒い革靴。


 身体は長身だがやや太めで、両膝を大きく開いたガニ股でペダルをくるくる回すように踏んでいる。


 「快適ドライブ中に、何でこんな奴に横から割り込まれるんだ」と、一瞬イッラっとして、前を走る赤いフレームの自転車を睨む。


 たぶん傍目にみれば、こんな時は眼を

飛ばした目つきになっているんだろう。


 どこのメーカーの自転車だかよくわからないが、まだ新しい車体で、フレームもタイヤも新品の輝きが残っている。


 単なる街乗り用のクロスバイクのようにしか見えないが、この三の橋を過ぎたあたりは、街灯がまばらで薄暗いので、先を急ぐように加速を続けるこの自転車がよく見えない。


 やや太めのサラリーマンは、ペダルをくるくる回して軽快に赤い車体を前に進めている。後ろ姿は思ったより若い。ボサボサに伸びた髪型は30代前半の風貌だ。


 「ふざけた奴だ」と言いつつ、その速さに少し驚いていた。



(3)


 気がつくと、それまでの自分のペースでの走行から、赤いフレームのペースに付いていく走行に変わっている。


 くるくると、こちらのリズムのとりにくいペダルの回し方に違和感を覚えつつも、とにかく目の前の自転車がなぜ自分をまくれたのか、しばらく観察してやろうと後ろに付けて走る。


 ただ、自分の点滅モードのLEDライトの点滅を切って照射モードにすると、さすがに相手も意識し過ぎるだろうと、スイッチの切り替えをためらう。


 そのためか、相変わらずこの赤いフレームがどこのメーカーなのか、どれ程の実力なのか読み取れない。


 そうこうするうちに、もう白金と三田に向かうガソリンスタンドのある交差点前にさしかかっている。


 ここまで長く緩やかな登りだったが、赤いフレームはペースが落ちない。


 むしろ、ペダルは相変わらずくるくると軽快に回り、後ろにつけて走っているだけなのに、自分の心拍数が確実に上がってきたことに気付き始める。


 明らかに自分のペースではなくなり始めている。


 「なぜだっ!?」あのガニ股ペダリングでなぜそこまで軽快にペダルが回せるのか。


 自転車乗りの理論やフォームの鉄則にまったく関係のないその乗り方に、以前に読んだ自転車理論の本の中の筆者のエピソードを思い出す。


 「街乗りしていると、つま先立った走りではなく、土踏まずの真ん中でペダルをグイグイと、ただ力任せに踏み込んでいく若者を見かけることがある。よほど脚力があるのだろう。理路もフォームもまったく無視したような走り方なのに、これがとても早い」という、その本のくだりが頭に浮かんでくる。


 そんな若者なのか。よくわからないが、坂にさしかかると、ますますペダリングが軽くなるような印象だ。


 そのガソリンスタンドの交差点から先は、白金台の都ホテルと明治学院大学に分岐する目黒通りと国道1号線の三叉路まで、数百メート?の急勾配が続く、ちょっとしたヒルクライムだ。



(4)


 ガソリンス?ンド横を通り過ぎている時、自分のトレックも、ほぼ最高速で走っていることに気づく。


 2台の自転車が連なるように闇の中を一直線に走っている。


 いよいよ急勾配の坂の入り口だ。


 「さあ、どうする。その坂をどう登るんだ」と心の中で自然と叫び声が上がる。


 息は上がっているが、まだ付いて行ける。


 「そのままのペースでこの坂を行けるのか?」


 先程まで発汗を感じないくらい風を受けて気持ちよく流していた自分が嘘のようだ。


 三の橋からここまでの1キロに満たないチェイスで、いつの間にか汗だくになり、肩を揺らしながらゼイゼイと呼吸を繰り返している。


 田舎のお盆の時期で、渋滞がなく、通りの流れがよい。


 そのままの高速で坂の入り口にサラリーマン姿の赤いフレームが突っ込んでいく。


 次の瞬間、「あぁ~っ!!」と自分で小さく叫んでいた。



 赤い車体のペダルが一層くるくると早い速度で回っていく。なのに、乗り手の息はほとんど上がっていないように見える。


 それどころか、サドルのお尻が軽く上下に弾むように、とても軽快なサイクリングだ。


 「この男は一体何なんだ!?」


 無尽蔵の体力や脚力を持っているように思えてくる。


 高級ロードバイクだって付いていける自分のトレックが、どこのメーカーかもわからないような安っぽい赤いフレームのクロスバイクにやられるとは・・・。


 こんなことは、あり得ないじゃないか。


 「こうなったら坂のてっぺんまで、何としてもこの男についていってやる」と口走る。


 もう自分のペースではない。どこまで持ちこたえることができるかわからない、破れかぶれの耐久戦だ。


 2台の自転車は前後に折り重なるように一直線に坂を駆け上がっていく。


 クランクの回転でチェーンがギリギリと、ギアと噛み合う音と混じり合いながら、どんどん早いペースで刻まれていく。


 次の瞬間、頭の中をつぶやくような声がよぎる。


 「これはレースだ」



(5)


 この坂の途中の目黒通りとの三叉路までの急勾配の坂には、途中2箇所の信号がある。


 まず一本目の信号まで全力で坂を駆け上がっていく。


 汗が吹き出して、襟や背中を濡らしている。


 しかし、前を走る赤い車体のペダリングに付いていくのが精一杯で、と

てもまくることができない。


 すでにハムストリングスを使う抑えた走法ではなく、腰をサドルから少し浮かし、太股の前の筋肉を前面に使っていた。


 爆発的な脚力をペダルに伝えようとする前傾姿勢の攻撃的なダンシング・スタイルになって走っているため、すぐに太股が熱くなり、疲労が吹き出すように全身に突き上がってくる。


 しかし、「何くそ、負けるか!」と、腰を更に浮かして、上からペダルを蹴り下ろすようにして、必死の追い上げを試みるも、前を走る赤いフレームの男は、相変わらず優雅に座ったまま、何事もないように、くるくると早いペダリングを続けており、とても追い越すことができない。


 顔をあげて、顎を突きだし、先を見ると、1本目の信号が?い光を放っている。


 信号の真向かいの高い丘には、いまや廃墟となった公務員宿舎アパートの大きな建物が暗い闇の中に浮かんで映る。


 赤いフレームの男は、赤信号の横断歩道に人通りがない?とを左右確認するように首を振ったかと思うと、またしても軽快にペダルを回して、次の更に登りのきつい勾配をスイスイと駆け上がっていく。


 「何というスタミナだ、トレックの軽さが坂でまったく太刀打ちできないなんて・・・」という言葉が自然に湧き上るようなつぶやきに変わる。


 それでも目から汗を吹く勢いで、その後を必死に追う。


 引き離されそうなところを最後のスタミナを使って追い付こうとする。「くそォォ―――、絶対に負けないぞ!!」と、もはや奥歯を食いしばって、太股と膝を回す。


 血液が熱く全身を駆け巡り、乳酸菌が吹き上がったかと思うと、その次には、すぐに強烈な疲労感が襲ってくる。


 しかし、数回の力のこもったペダルの回転がトレックの車体を前に大きく押し出し、固いはずのフレームが大きく前後にしなった瞬間、更に車体が前にググッとうなるように進み、赤いフレームの後輪のタイヤとトレックの前輪が触れそうになるくらい接近した。


 そのとき、ほぼ坂の頂上にさしかかり、オレンジの街灯に赤いフレームの自転車が包まれるようにあからさ?に、その全貌が映し出される。


 サドルを支えるメインのパイプと後輪のシャフトの間に、黒い縦長の箱のようなものが見えた。


 「バッテリーだ」



 そう、この赤いフレームのクロスバイクは、電動アシスト付き自転車だったんだ。


 この髪の毛ボサボサのサラリーマンが、くるくるとペダルをガニ股で回して、スイスイ坂を上っていくその早さは、電動モーターの仕業だったんだ・・・。



 恐るべし電動アシスト付き自転車。恐るべしその登坂力。


 乗り手をモーターの力でスイスイと引き上げ、勾配のきつい坂でも平地でも、まったく同じリズムで普通に車体が前に進む。


 しかも、坂での駆け上がりの滑らかさは、素晴らしいギアレシオに組まれた一流のロードバイクのそれにも匹敵するようだ。


 吹き出す汗で眼鏡の視界が曇りそうだったが、あまりに意外な展開に、一瞬でそれまでのレース・モードの緊張の糸が切れて、全身に倦怠感を覚える。


 坂の頂点の赤信号まできたとき、そのまま真っ直ぐ坂を下る赤いフレームのサラリーマンを見送りながら、ゆっくりと?レックの車体を止め、左足を下ろして地面に着ける。


 赤いフレームは暗闇の中を、今度は下り坂の傾斜を滑るようにどんどん下っていく。


 その後ろ姿を見送りながら思わず「クククっ・・・」という声が出て、次に「ハハハハッ・・・」という笑い声に代わる。何だか自分の中に無性に笑いが込み上げてくる。


 空を見上げると、暗い闇の中の曇り空の彼方に小さな星が見えた。


 額から吹き出す汗も拭わずに、ヤレヤレといった感覚で、再び目黒方面にペダルを漕ぎ始めた。


 「これだからストリートは止められない」



(つづくかな?)

自転車が大好きな人たちに気軽に読んで楽しんでいただきたい作品を目指しました。


最近、街中では交通ルールを守らないマナー違反の自転車乗りも時々見かけますが、本当に早くて、カッコイイ街乗りのプロは、歩行者にも自動車にも細心の注意を払ってバトルを楽しんでます。


そんな人たちを紹介したくて、書いてみました。

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