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パラソルとアンブレラの間

学校からの帰り道、夕立で辺り一面が土砂降りになっていた。

所謂ゲリラ豪雨というやつらしい。

自宅最寄り駅からの放物線を描くように伸びる商店街アーケードは、その様相に恐れをなしたかのように閑散と静まり返っている。

一応は開いているらしい商店も、開店休業状態。

ただ、もともと数年前に近隣にできた郊外向き大型スーパーの出店のせいで、続々と店がつぶれているせいも大いにあるのだろうけれど。

ともあれ、私は大変困っていた。

この梅雨の時期なのに私は傘を部室に置いたまま帰ってきてしまったのだ。

家族の誰かに電話して持ってきてもらおうにも、共働きの両親はこの時間帯はまだ帰ってこないし、

三つ下の弟は学校の部活でここ最近毎日忙しい。迎えは無理そうだ。

更に、近場にはコンビニすらなく、ビニール傘一本の調達さえ難しい有様だ。

私は元パン屋だったらしいシャッターで締め切られた軒先で、

次第に水嵩を増して排水溝から溢れ出る雨水で濡れていくパンプスのつま先を見つめるしかなかった。

そんなときだった。

「傘、入りませんか?」

本当に突然のことだった。

柔らかい口調ながら、しっかり芯を持って腰にまで響いてくるようなバリトン。ほんの一言だけだというのに、艶めかしくさえ感じる。

それほど、この声には魅力があった。

私は、たまらずその声の主を、この目でちゃんと確認したくて顔をあげた。

「え…あ、あの」

 …一瞬、私の脳みそは目の前にある光景を拒否しようとフリーズしかかった。しかし、無情にも現実は目に飛び込んでくる。

 まず目についたのは、ドットの入ったショッキングピンクの大きな傘だった。

夏の海岸レジャーでよく見かけるような、原色の派手派手しいパラソルによく似ている。

しかし、勢いよく雨粒を弾いているところを見ると、雨傘としてよく機能しているらしかった。

 そして次に目に入ったのは、その傘の下の人物だった。

腰に響くようなバリトンの持ち主の恰好は、ひざ上丈のワンピースだった。

スカートの裾からにょきっと生えている逞しい太ももは、

途中まで二ーハイソックスに包まれていて、ご丁寧にも絶対領域が出来上がっていた。

 …それはつまり。

 オカマ、というわけである。

「え、えっと…」

「いいのいいの。こういうことがあったらお互いさまでしょう?」

 いやいや、お互いさまってあんた、滅多にないよオカマと触れ合うシチュエーションなんて。

咄嗟にそんな言葉が喉元まで迫り上げてきたけれど、ぐっと飲み込んだ。

「け、結構です。」

「そんなこと言っても、この雨じゃここ、浸水しちゃうかもしれないわよ?多少濡れてもここから離れるべきだわ。

遠慮なんかしないで、どうぞ、入って頂戴。」

「だ、大丈夫です。大いに濡れちゃってもいいです。」

「嫁入り前の娘さんが、雨に濡れてお腹を冷やしちゃダメよ!ここは遠慮する場面じゃないわよ!」

 今時の人のセリフとは思えないような文句だ。

それをオカマ言葉のバリトンでささやかれると、もしかしたら私自身の気が狂っているような錯覚すら催してしまう。

 これは夢だ。うん、いつか覚めるはずの悪夢。

私はなんとかそう思い込もうと努めたけれど、

未だ眼前で揺らぐことのない事実として存在しているオカマが消えゆくような前兆は一切ない。とりあえず私はこれ以上厄介なことにならないように懸命に目を逸らし続けた。

しかし、相手はそんなことに頓着することもなく、

「もー!ぐずぐずしてたら、大変なことになるわよ!

そこの側溝見てみなさいよ!今にも水が溢れそうになってるの、あなたの目でも見えるでしょう?

ここは川も近いから、本当に危ないわ。

確かに私は胡散臭いかもしれないけれど、非常事態にそんなこと言ってちゃダメよ!」

と、正論を言い放った。

一応、自身の容貌が衆人に胡散臭く思われていることは自覚しているらしい。

私は、その一言に警戒レベルを一気に引き下げられてしまったのか、渋々とはいえ

 「…わかりました。お願いします。」

と、言ってしまっていた。


 ゲリラ豪雨というのは本当にすごいものである。

ほんの数分ほどのあいだに、大量の雨が集中的に降り注いで、たちまち辺りを泥水で囲い始めてしまうのだ。

元パン屋の軒先にいたときは、靴のつま先が少し濡れる程度しか水がたまっていなかったのに、今ではもう踝の下あたりまで迫っている。

 オカマの言うことも当たるらしい。私は妙に感心した。

 その妙に説得力のあるオカマは今、大きなパラソルのような雨傘を差してくれている。

これが、普通の男性だったなら、相合傘でこのカップルちょー熱々(はーと)、とか思わせることも十二分に可能だっただろう。

 しかし、いかんせん相手はオカマである。

 オカマの本日の恰好は、水色の初夏の風合いを思わせるパステルブルーのタイトワンピースである。

ウエストがきゅっと絞られた型で、男性にしては細い腰つきが強調されている。

しかし、大きく開いた襟ぐりからちらりと見える胸板は、女性にはあり得ない扁平さだし、

がっちりとした肩幅のせいでワンピースの肩が明らかに足らない上、

ぐりぐりっとした喉仏が上下している。

そして、くりっとした目が印象的な顔は、女性でもそうそうないほど気合の入ったメイクで、かなり厚い。

 …違う意味でため息ものの光景だった。

 そんな私の心情を汲み取ったのか、オカマは私の方を向いて、ちょっと寂しそうに丁寧に整えてある眉根を寄せた。

「ごめんなさいね、あたしの恰好変でしょう?驚かせてしまったわよね。」

「あ、いえいえ!世の中広いですし、こんな趣味の人も一人や二人いても全然!」

 我ながらものすごい言い草だと思ったけれど、オカマ相手に気が動転していて咄嗟にそんなことしか言えなかった。

しかし、オカマはあきらめたような笑みを浮かべて、

「ありがとう。あなたみたいな子がいてくれて嬉しいわ。」

と言ってくれた。私は自分のさっきの発言が恥ずかしくなった。

 きっとこのオカマがオカマを始める経緯はあったはず。そうでなければ、こんな恰好をするに至らなかった。

私はそう考えてこちらが聞いてくることを期待しているらしいオカマに質問をすることにした。

「なんで、女装なんてしてるんですか?」

「ああ、これね。」

 そういってオカマは自身の髪を持ち上げるようにして触った。

私の髪よりよっぽど綺麗な色合いに染められたそれは、鬘だ。

肩甲骨辺りまで覆っていて、ふわふわと風に煽られると巻きあがって、それも私のなんかよりとても柔らかそうだった。

そんなオカマは、どこか遠い土地に思いをはせるような目をして答えてくれた。

「私、これでも普段はサラリーマンやってるのよ。」

「えぇぇぇえっ!?嘘でしょ!?」

 私はもっと別の答えを期待していたらしい。…多分、変態チックな何か。

そのため私は過剰すぎる反応をしてしまったのだが、何故かそれを見てオカマは更に目を細めた。

「…ストレス、なんだと思うわ。一時期、ほんっとうに忙しい時期があってね、身体的にも、精神的にもギリギリまで追い詰められてたの。

そんなときにようやっとありついた休日で、なんとか仕事の緊張感で保ってた何かがぶつっと途切れちゃったんだと思うわ

…徘徊するみたいにあてどなく街をさまよい続けたの。

ずっと心の中で

『どうしてこんなにぼろぼろになるまで大したお金にもならない仕事をしなきゃいけないんだ』

『どうして、誰もこんな自分を助けようともしてくれないんだ』

って呟きながらね…」

 それは紛れもなく、企業戦士の悲哀だと思った。

ボロボロになるまで働いても、結局は替えが利くから捨て駒のようにされる。

それでもこの社会で生きていく上では受け入れなければいけない事実だった。

「そんなときに、ふらっと立ち寄ったところでね、見つけてしまったの。

メタボ腹で、足がすごく短くて脂っ気のきついおじさんが、ゴスロリの恰好をしてたのよ。

…そのとき思ったわ、私もしていいんだ、ってね。」

 …途中まではものすごくよかった。

社会に出ていく前段階のモラトリアム期真っ只中の私には大変ありがたい訓示だ。しかしそのあとがいただけない。

なぜ、ここで女装…?

 そんな私の様子を気にすることもなくオカマは続けた。

「女装をするようになって、わたしほんとうに生まれ変わったように生き生きできるようになったのよ!

本当にあのときのゴスロリさんには感謝してもしきれないわ!」

 いや勝手にお願いします、私に向かって語らないで下さい。

 心中でそう呟きながら次第に強まる雨脚の中を、私とオカマは一つの傘を共有しながら早足で通り抜けて行った。

途中、ますます強まった雨がとうとうこのドでかい雨傘でも防ぎきれずに降り注いでくるのを避けるために、

力強いオカマの大きな掌が私の肩を抱いて引き寄せてくれた

…こんなところで急にこのオカマも男なのだと思わされてしまった。


 それからオカマは、わざわざ私の自宅前まで送ってくれた。

どうもオカマの住むアパートと方向が一緒らしかったが、オカマのワンピースは終始私を守ってくれたために、ドボドボに濡れそぼっている。気合の入ったアイメイクも今やドロドロに溶け切って、パンダもびっくり!という垂れ流し具合だ。

 さすがにこのまま『はい、さようなら』と帰してしまうのも申し訳なかったので、

一応自宅の玄関先で清潔なタオルと、身体を温めるためのお茶を用意した。

オカマはいたく感激して

「こんなこと、他の不審者にはしちゃダメよ!?」

とあたかも自分が不審者のようなことを言ってのけた。

勿論私も事実に相違ないと思ったけれど。

 それからオカマは

「あなたのマスカラ全然溶けてない上に、ものすごいボリュームね。どこのメーカーのを使ってるの?」

とか

「このあいだのバーゲンで手に入れたばっかりのワンピースなのに早速泥跳ねなんかしちゃって…ほんとショックー!」

などぶつくさ文句を言いながら、ゴシゴシと荒っぽい動作で顔をタオルで拭いていた。

私は、仕方ないですよこればっかりは、とか至極まともな返事をしながらオカマの抱えていたトートバックの中を拭いていた。

オカマが身を呈して私を傘に入れてくれた分バックも傘の外にはみ出ていたようで、色が変わるほどに濡れていた。

さすがにこのままでは電気機器がショートする可能性があったので、了解を得た上で拭いていたのだ。

 私が鞄の中を出し終えて、一番濡れたら厄介な携帯から順に拭くのに夢中になっていた時、唐突にオカマは私に向かって告げた。

「ごめんなさいね、溶けたメイクを拭いたせいでこのタオルドロドロになっちゃったわ…新しいの買って返してもいいかしら?」

「え、そんなのいいですよ。商店街で貰ったタオルですし…」

 買ってもらうだなんてこっちこそ申し訳ない、と続けるつもりだった。けれど、その言葉が口から出ていくことはなかった。

 なぜなら。

 オカマは、厚化粧を全て拭い、ついでに滴が落ちるほど濡れていた鬘を拭くために、

一旦それを頭皮から剥がしていたらしく、ありのままのオカマ…否、彼の姿が目の前にあった。

 首から下は相変わらずの、襟ぐりが開いたワンピースだ。

しかし、首から上に乗っかっている顔は、今まで見えていたものとは全く違っていた。

くりっとした目はメイクがとれても印象的なままだったが、他の何もかもが厚化粧と言うアンバランスを欠いて端正に整っていた。

すっと通った鼻筋や、笑みがよく似合う薄い唇に、無駄な贅肉のない顎のライン。

そして、ロングヘアの鬘の下に隠れていた地毛は、清潔な色味で短く切り揃えられている。

…どう考えても、女装をする必要性が全く感じられない、立派な成年男子だ。

特に、女性にモテそうな部類の。

 私が唖然となっているのを尻目に、彼は私が広げていた鞄の中身を入れ替え用にと用意した紙袋に収納してから立ち上がった。

 その姿は、切絵を嵌め合わせたようにちぐはぐだった。

「え、あ…あの…」

「ありがとう。ほんとうに助かったわ。

もうそろそろ雨脚も弱まってくるだろうし、あなたの御家族も帰宅されるでしょう?こんな変なのが玄関にいたら、通報されかねないわ。

これでお暇するわね。」

 相変わらずのオカ口調で彼はドアを開けた。先ほどまでバケツをひっくり返したような豪雨だったのに今では霧雨になっている。

雨がやむのももうすぐだろう。

 私は、この変なオカマな彼が、短時間でものすごく気になっていた。

オカマになる経歴も、オカマの彼と生身の彼とのギャップもそうだけれど、一番気になったのは、

彼が本当はどういう人間なのか、ということだった。

オカマである彼の優しさは、本物だと思う。けれど、全てじゃない。

一体どういう人間性の人物なのか。私にここまでの興味を抱かせたものは多分ない。

まあこれほどまでに強烈な人、そうそういないけど。

そんな彼はもう行ってしまう。

 焦燥感が私の足を動かしていた。

既に玄関ポーチに出ていた彼に向って私は裸足で玄関に降りて叫んでいた。

「オカマさん!もう一度、今度はゆっくり会ってくれませんか!?」

 その言葉は、全然脳裏にすら浮かんでなかったのに咄嗟に口について出てしまっていた。

そんな私の急変っぷりにオカマの彼は、一瞬面喰ったようだったが、すぐにそれは笑みに変わっていた。

「オカマさんって、やーね。私はただの女装趣味なだけで、セクシャリティは極めてノーマルよ。

…それだけ言うなら、会ってやらないこともないけどな?」

 最後の一言は初めて聞く男言葉だった。

しかし、それを言っているのは、首から上がイケメン、首から下がオカマルックだ。

あんまりにもおかしい。

 私は思わず声をあげて笑ってしまった

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