第2話 暗殺者
無防備極まりない王子をしばらくつけまわしムサシナタスは実感した。
この街の異様なまでの平和はおびただしい犠牲の上に成り立っている。
彼の人生がそれを証明している。
道端で泣きわめく子供すら羨ましく思った。
ムサシナタスは泣かない子供だった。
泣き出すと狭い部屋に隔離される。
喉が裂けるほど泣いても自分の汚い泣き声が残響するだけだった。
笑うことも許されなかった。
気に入った玩具を愛でていたら、容赦なく破壊された。
そしてまたしばらく隔離された。
母親と思しき女も同じだった。
ムサシナタスの前で感情を見せることはなかった。
残っている記憶は、振り払われた手の冷たさ。
ある朝の血のにおい。
あの日から剣を握らされた。
―「本当に悪かった。」
旅立ちの直前の、剣の師範の言葉が浮かぶ。
悪いのはあんたじゃない。
ムサシナタスが手のひらで虚空を掻くと大きな風が流れた。
風を背に受け民家の屋根を軽快に飛び越えていく。
こんな力がなければ、ムサシナタスはこの街の人々のように笑い、不満を嘆くことができたのかもしれない。
一族がムサシナタスに宿した呪いは、彼が暗殺をやり遂げるのには好都合だった。
ムサシナタスは、風使いであった。
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薄暗い部屋の中、ミコトマスは少女から預かったペンダントを修理していた。
昔から細かい作業が好きだった。作業に集中していると心の中が整う気がした。
ミコトマスが街で人々と触れ合うようになってもう5年は経った。
ただ同じ世界の住人として、共に生きる実感が欲しかった。
王子としての孤独に耐えられなかった。
民の心は繊細だが、ゆっくりと地道に寄り添えば分かり合えると信じていた。
紐の繊維一本一本を扱うように、丁寧に触れていけばしっかりと心が結びつく。
このペンダントの修理となんら変わることはない。
しかし今夜のミコトマスの頭には、昼間人々から浴びせられた言葉たちがひしめき合っていた。
「痛みは完全には取り除けないんだ。」
人間の豊かな生活には犠牲がつきものだと人類の歴史が語る。
ミコトマスも理解していたはずだった。
だが街の人々と触れ合って実感する犠牲の痛みは耐え難いものだ。
いつも親しく接しているはずのミコトマスに雑言を吐くのも無理はない。
同時にそれは、ミコトマスがもっとも恐れる断絶に他ならない。
紐が複雑に絡まり、ミコトマスの手が止まる。
結局自分は王族であり、街の人々と共に生きることはできないのか。
この安全な天空都市の、堅牢な城壁で守られた城の、もっとも安全な最上層に住む王子では、国民を真の意味で理解することはできないのかもしれない。
やがて自分が王になって世界はよりよくなるのだろうか。
別な選択肢があるとするならそれは--
「まだ起きていたか。」
部屋の入り口からホミニスが顔を覗かせた。
「わざわざ階段登って見に来るなんて、年の割には元気だね。」
ホミニスはマクレー人という寿命が長い人種で、200年近く生きているという。ラーフィールの政治に関わるようになってからも久しい。
「そういうお前は年の割に難しい顔をしているな。そろそろ休みなさい。」
ホミニスの軽口に、ミコトマスは表情を緩ませた。
「ホミニス、200年の間で国はよくなったか?」
「...なってますとも。着実に。お父上たち五戦士の活躍は大きい。」
「五戦士か。」
「かつては異教徒が厳しく取り締まられ固有の信仰を捨てた者も多かった。」
「そんな彼らの希望に、五戦士がなった。」
「歴史は得意だったね。」
ホミニスが微笑む。
「王国の歴史のなかで、王になることを拒んだ者はいなかったのかな。」
手元を見たままのミコトマスがつぶやくと、沈黙が生まれた。
ミコトマスはホミニスの表情を確かめなかった。
「もう寝ることにするよ。また明日、ホミニス。」
ぎこちない笑顔でホミニスと目を合わす。
「ミコトマス、お前は、愛されてる。そして、それに応えられる器だ。迷う必要は、ないよ。」
ホミニスは優しい目で語りかける。
「少し夜風を浴びるよ。おやすみ。」
ミコトマスはバルコニーに出ようと部屋の奥に向かった。
「おやすみミコトマス。」
ホミニスが階段を降りる音が響く。
夜風を受けながら、ミコトマスは水面の乱反射のように瞬く星を眺めた。
この世界は既に、完成されているとミコトマスは思った。
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高所はもっとも守られた場所と思われている。
都が高山の頂にあることからも導ける。
人々が安全を感じることができる条件であった。
しかし風使いであるムサシナタスには関係なかった。
ムサシナタスが剣を振るうと上昇気流が発生し、彼の身体を城の最上層に送り届けた。
音もなくこの国の王子の部屋に降り立ったのだ。
「!」
ミコトマスが呼吸を止めムサシナタスのほうを向く。
年の変わらないふたりの青年。
しかしムサシナタスが纏う傷と殺気は、遥かに長い年月世界に晒された空気を醸している。
「お前を殺しに来た。」
王子は恐れおののいているようだが、抵抗する意志はあるのか、暗殺者の次の動きに身構えているようだった。
じりじりと距離を詰める。同時にミコトマスは少し後ずさりするが、すぐに下がれる距離は尽きる。
ムサシナタスは武器を取って抵抗を試みろと心のなかで呟いた。
風がひやりとまぶたをかすめる。
ムサシナタスは気がついた。距離が近づくにつれ、ミコトマスの表情が徐々に落ち着きを取り戻していくことに。
関係ない。ただ、目的を遂げるだけだ ―
「君の痛みを教えてくれ。」
ミコトマスの一声が不意打ちのようにムサシナタスに放たれる。
ムサシナタスには質問の意味がわからないし、その会話は意味をなさない。
命乞いにもなっていない。
しかしいつの間にかムサシナタスの足は止まっていた。
「なにかが変わるのなら。」
そう言い、ミコトマスは握りしめていた拳を緩め、ゆっくりと身体の横に下ろした。
真っ直ぐと、ムサシナタスのほうを見ている。
ムサシナタスは自分の震えに気づきながら、刃の向きを確かめる。
風だけが動いていた。
「ひとつだけ、頼みがある。」
刃を向けているはずのムサシナタスが、ミコトマスの次の言葉を恐れていた。
「このペンダントを、持ち主に返してくれないか。五条通りの、屋根にピンクの花が咲いている家だ。本当に、大切な物なんだ。」
ムサシナタスの目の前に、手を伸ばすミコトマス。
止まった時のなかで、美しいペンダントだけが揺れている。
ムサシナタスはほぼ無意識に、それを受け取っていた。
二人の手と手の間。
まばゆい風が巻き起こり、空間を駆け巡った。
たった一瞬の間に二人の身体を柔らかに撫で、包み込んでいった。
光を集めたミコトマスの瞳に、ムサシナタスは目を奪われる。失った記憶が、そこに映り込んでいた。
母が命を絶つ前夜だった。
たった一度だけ、抱きしめられた記憶。
あの瞬間だった。風使いとなったのは。
あのときと同じ風が、今吹いている。
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「...今のは...」
風は止んでいた。
ミコトマスが戸惑いながらもムサシナタスを見つめる。
ムサシナタスは膝をついてミコトマスを見上げていた。
力が抜け、落とした剣が床に転がっている。
「...ミコトマス!」
ホミニスの声。
同時にムサシナタスに向けて激しく輝く魔術を繰り出した。
ミコトマスは咄嗟にムサシナタスの剣を取り、魔術を受け流す。
ミコトマスの技とは思えない魔術無効化に、ホミニスは唖然とした。
ミコトマスはムサシナタスを見てただ頷いた。
「待て!」
ホミニスが叫ぶが、ムサシナタスは夜の闇のなかに風と共に消えていった。
読んでいただいて、大変感謝申し上げます。
本日はもう1話投稿予定です。




