第78話 恋する女王
聖地オス・ロー。
空は澄み渡り、城砦の白壁に陽が射していた。
巡礼の鐘が鳴りわたる。
中央広場には市民と信徒たちが集まり、道の両側を整然と囲んでいた。
今日この日、王が来る。
――シーランドの女王、エルセラ・フォン・シーランド。
純白と紅を纏い、背筋を伸ばし、二十一歳の若き女王は凛とその道を歩いていた。
王冠を戴くその姿は、まさに光そのものだった。
だがその胸の奥で、エルセラの心の中は――
(ウサマ、絶対に見つけてやるんだから……!)
叫んでいた。
エルセラは視線の端をすべて使って群衆を走査する。
『民の顔をしっかり見る王』としての威厳を保ちつつ、心の中は完全に捜索モードだった。
(いるでしょ? どこかにいるでしょ!? いたらせめて顔見せなさい! あたしがこっちに来たんだから!!)
一方そのころ――
人混みの後方、石段の上。
整備員の制服を着た黒髪の青年が、目を細めてその行進を見ていた。
ウサマだった。
姿を見せようか迷っていたが、結局は一般参列者の列に混じったまま、ただ黙って女王の姿を追っていた。
「……女王陛下、ねえ」
小さく呟いて、ふっと笑う。
そして――さらにその上階、祭殿の影。
アサドが静かに腰を下ろし、風に揺れる巡礼旗を見つめていた。
隣に立つのは、聖地を守る騎士の一人、ハリーファ。――三年前、母と一緒に静かに聖地に戻ってきた。その旅で、彼らなりの答えを見つけてきたのだとアサドは思っている。
アサドとハリーファは、聖地を見守る側としてその場にいた――
そして、聞こえてしまったのである。
(……ウサマ、どこにいるの? 絶対に見つけてやるんだから……!)
アサドが、吹き出しそうになって口を押える。
ハリーファは、目元だけで笑っている。
「……娘さん、随分と情熱的だな」
「うん、ほんとに……。まさか、あんな威厳のある顔して、心の中はあれとは」
「ウサマのやつ、シーランドで何をしでかしたんだ?」
「何もせずに、横で立ってただけって、本人は言ってましたけど?」
「あの女の血を引いてるなら、まぁ……」
アサドはうっかり、リナリーのことを知ってるんですか? と聞きかけて、辞めた。
「でも、血縁はともかく、彼女を育てたのは、父さんの母さんの、魔女らしいですよ?」
「……ファティマが?」
ハリーファが眉間に皺を寄せて首を傾げる。
父子間では何も聞こえてこないので、父の胸中はアサドにはわからない。
ただ、親子の形も様々あるのだと、聖地の如く、全て受け入れるつもりだ。
まだ、父の過去を全て知ったわけではないし、全てが話せる事ではないのかもしれない。しかし、少しずつ話してもらえればいいと、今は思っている。
「……ウサマ、今、何処にいる?」
「門の西側に。気付かれてませんけど、表情は完全に見つかるなオーラ出てますね」
ハリーファが動き出したので、アサドも立ち上がった。
「ウサマを呼びに行くんですか?」
「いや。俺は、サライを見に行く」
ハリーファはフードを深くかぶりなおすと、女王の向かった方向へと歩いて行った。
一方、巡礼式の進行を支える信徒たちの間では、もう一人の少女が静かに歩いていた。
サライ。十五歳。
腰まで届く金髪はまっすぐに伸び、朝の光を受けてきらきらと輝いている。今日は特別な日だ。大切な儀式にふさわしく、その髪は丁寧に編み上げられ、首の後ろできれいに結われていた。
白い礼装の胸元には、聖地の花が一輪、繊細な飾りとして添えられている。
サライは、先日エブラ信仰の成人式を終えたばかりだった。信徒の一人として、聖地の大行事に迎える側として立つのは、これが初めてのこと。
胸の奥は少しだけ高鳴っていて、指先もほんの少し震えていた。けれど、それを誰にも気づかれないようにと、サライは背筋を伸ばして歩いた。
今日、この聖地にやって来るのは、シーランド王国の女王、エルセラ・フォン・シーランド。
伝え聞くその姿は、サライにとってただの王ではなかった。
サライは兄たちの旅の話の中で、何度もその名を聞いた。
あのエルセラが来る。それは、まだ見ぬ偶像ではなく、自分の世界と地続きに存在する、本物の女王であり、ひとりの女性であった。
そして、ついにその姿が、祭壇の前に現れる。
背に纏うのは深紅と白の外套。けれど頭上に王冠はなかった。
代わりにあったのは、聖地の花で編まれた花冠。
それは、王としてではなく、ひとりの巡礼者としてこの地に立つという、エルセラの選んだ証だった。
サライは息をのんだ。
その姿があまりにまぶしくて、ただ美しくて。胸の奥に、小さな炎のような感情が灯った。
(……いつか、私も――)
言葉にならないその想いは、憧れと尊敬と、ほんの少しの嫉妬と。
サライは無意識のうちに、自分の足元をしっかりと確かめながら石段を上がる。
そして、定められた位置に立ち、聖地を代表して言葉を告げた。
「――シーランド女王陛下、ようこそ聖地オス・ローへ」
その瞬間、エルセラがこちらに顔を向け、目が合った。
ただそれだけで、サライの中の緊張が一瞬ほどける。
女王の蒼と翠の瞳は、目の前の少女をしっかり見ていた。
まるで、自分がその姿に重なる未来を一瞬でも、許されているような気がした。
エルセラは、王としてではなく、一人の女性として、静かに微笑んだ。
サライは、思わず花冠を差し出しながら、心の中で小さく呟く。
(……ウサマ兄さんから聞いた、この人が、シーランドという国を変えた人)
憧れは、その瞬間、確かな形をとって胸に宿った。
――女王が、祈りを捧げる。
「我が名を問うてきたこの地に、私もまたひとりの人間として立ちました。信仰と、知と、記憶の地へ――敬意をこめて、私は歩きます」
完璧な言葉。完璧な声。
でも、その瞳の奥では――
(ウサマ、……まだ見てるの? 出てきなさい、今ならまだ許すわ……)
柱の影では、アサドが肩を震わせ、ハリーファが顔を伏せて笑いを堪える。
「……父さん……真面目にしてください。ちゃんと、警戒を怠らないで……」
「……あの子、心の声、大変だな……」
「ウサマの心臓がもたないかもしれません……」
こうして、荘厳な巡礼式の裏で、女王と青年のすれ違いと再会の前夜が、静かに始まった。
夜の聖地は、昼とは真逆で、驚くほど寒かった。
巡礼式は終わり、麓の広場や宿の前には露店が並び、夜中も賑わいを見せていた。
エルセラは、その中を護衛も付けず、一人歩いていた。
王冠を外し、礼装も脱ぎ捨て、ただ暖かい旅装に身を包んで。
(そう言えば、オス・ローの夜って、めちゃくちゃ寒いって、ウサマ言ってたな)
あの頃のような軽やかさではないが、足取りは確かだった。
人々の賛辞も、儀礼の祈りも、今は遠い。
石畳の坂道の上方には人気を感じない。
この坂を上れば【天国の扉】にたどり着くはずだ。
灯籠の明かりがわずかに揺れ、石畳の道をかすかに照らす。
(……この道の、終わりまで行ってみよう)
ふと、そんな気まぐれが胸をついた。
月明かりの下、彼女は静かに誰も居ない石畳の坂道を歩いていく。
そして、坂道を上り切ったその先――
そこに、いた。
黒髪の青年が、ひとり、扉の縁の石壁にもたれて立っていた。
その姿は、まるで夜の中に混ざっていたかのように自然で、でも、あまりにもはっきりとエルセラの心に飛び込んできた。
五年振りだが、すぐにわかった。
――ウサマ。
エルセラの足が止まる。
そして、言葉が出ない。
ウサマも、何も言わない。
ただ、少しだけ眼差しを逸らして、照れたように言った。
「……探してた?」
その一言で、エルセラの胸の中の怒りも焦りも、すべてが崩れた。
エルセラは一歩、ゆっくりと近づく。
「……王の巡礼に、応じるべきだと思わなかった?」
白い息が、言葉と一緒に零れる。
「民の中にいたよ」
「顔、見えなかった」
「俺のせいじゃないだろ。――お前が、あまりにも立派で、人が多すぎたからだ」
それを聞いたエルセラは、肩を震わせた。
そして、次の言葉を選ぶ前に、ウサマが、先に言った。
「……おかえり。エルセラ」
たった一言。
けれどそれは、旅の続きでも、女王への敬意でもなかった。
ただ、あの頃のウサマが、旅を共にしたエルセラにだけ向ける言葉だった。
エルセラは、うつむいた。
「……うん。……ただいま」
それから、どちらからともなく一歩近づいた。
ふたりとも、手は伸ばさない。抱きしめもしない。
けれど、それぞれが積み重ねた五年間の空白に、もう一度ぴたりと心が合わさった。
エルセラは、ぽつりと囁いた。
「……君がいてくれたから、あたし、ちゃんと立てた」
「じゃあ、約束どおり、呼んでくれよ。……名前で」
その声に、エルセラは顔を上げた。
静かな月明かりの下、蒼と翠の瞳がウサマを見つめる。
「……うん。ウサマ」
ただ、それだけ。
それだけで、ふたりの旅の続きが、ようやく始まった。




