第77話 帰路にて、二人
ヴァロニアのリエンテから、聖地オス・ローまで、旅の道は、決して短くはなかった。
けれど、話の尽きない二人には、不思議と長く感じられなかった。
王や貴族の使う街道を避け、巡礼者や旅人が歩く古道を辿るようにして、アサドとウサマは、あえて馬を使わず、歩いて戻ることを選んでいた。
木々の枝を揺らす風は、春の土の匂いを運んでくる。
道の脇では羊飼いの少年が歌いながら犬を追い、小さな寺院では老いた神父が、誰もいない祠に祈りを捧げていた。
湿った大地に若草が芽吹き、古い石道の脇にはところどころ小さな花が咲いていた。
オス・ローでは見かけないそれらの花を、アサドは記録帳に描き、一つ手折って挟みこむ。
ウサマはその間、たいてい黙って、兄の手作業を眺めていた。
金髪の兄と、黒髪の弟。
重なり合い、すれ違い、それでも、再び並んで歩くようになった二人は、ぽつりぽつりと、言葉を交わしていた。
「……兄さん。帰ったらさ、昔みたいに、城砦の石壁の上でまた寝転がらねぇ?」
「……うん。僕も、久しぶりに、あそこに上りたいって思ってた。サライが生まれる前は、母さんと僕ら、三人でよく上ってたよね」
「うん。そう言えば、父さんってさ、危ないからあそこに上るなって、やたらうるさくなかった?」
「そうだったかもしれない」
「けど、俺たちもう大人だしさ? あそこ、オス・ローに来る人、一番に見つけられる場所だから」
「そうだね」
ふと、小川をまたいだ先に、かすれた道標が立っていた。
『ヘーンブルグ領、アレー村方面』
古い文字が、苔に覆われている。
「それとさ、……途中で、あの村、寄ってみねぇ?」
「……ヘーンブルグの?」
「うん。母さんとホープ様が、昔暮らしてたって村。アレー村って名前だったよな」
アサドは少しだけ目を細めて、頷いた。
「僕も、寄ってみたかったんだ。……母さんのお母さん、僕らのおばあさん、まだ元気だって言ってたよ」
「おばあさんって? あ、そっか! 母さんの方の母さんか!」
「そう。母さん、昔は……羊飼いだったんじゃないかって、父さんが言ってたんだけど。本当かな? それも聞いてみたい」
その言葉に、ウサマは噴き出しそうになって、肩を揺らした。
「は? 母さんが、羊の相手してたって? 猫の間違いじゃないの?」
「うん、僕も、ちょっと想像つかないけど……。いや、でも、猫よりも、羊の方が扱いがうまかった気が……、いや、そうだ! それより! ヴァロニアに猫はいないんだって! 信じられないでしょ?」
「マジで? それ、嘘じゃないか、アレー村のばーちゃんに聞いてみようぜ」
草の上に、雨粒の名残が光っていた。
春の風が、二人の外套をはらりと揺らす。
その風に混じって、かすかに雨の匂いが香った。
「俺さ……実は、シーランドで、父さんの方のばーちゃんと一緒に居たことあるんだ」
「え? 本当に?」
「それがさ、すごい偶然……なのかな? エルセラの育てのママでさ。……本物の魔女だったんだ。ばーちゃんの名前は、父さんから聞けって言われて聞いてないんだけど……」
「魔女?! ホントに?」
「あの薬作ったのも魔女のばーちゃんだし、この顔の傷も、自分で縫わされた……」
アサドは目を丸くして、ウサマの右頬をまじまじと見つめた。
「おばあさんが魔女……」
「あ、でも魔女のばーちゃん、若くってすごい美人でびっくりするぜ? 兄さんさ、ラシーディアの女評議長に会った? あの人が若かったら、魔女のばーちゃんっぽいかもしれない」
アサドは驚きで茫然としていた。
「ちょっと、びっくりするよな。なんか、今回、急に親戚がいっぱい現れてさ……」
「……ウサマ、君、すごい旅だったんだね。僕、父さんの生まれのことも……ずっと、知りたかった。ヴァロニア王に父さんのこと言われて、すごく気になってたんだ。その話、もっと聞かせて」
「うん。でも、母さんも父さんも、まだ分かんないことだらけだ。どっかで、また旅に出よう。今度は、サライも連れてさ」
遠く、丘の稜線の向こうに、赤と銀の旗がちらりと揺れているのが見えた。
それは、かつて自分たちが『異国』として見上げた旗。
けれど今は、不思議なことに、そこを通ることへの恐れはなかった。
兄と弟は、ふと顔を見合わせる。
「行こうか、ウサマ」
「……うん、兄さん」
二人の歩幅が、自然とそろった。
名を越え、血を越え、選び取ったその道を、確かめるように――
かつて旅立ったあの道を、今度は光の方向へ。
二人は今、確かな足取りで戻っていった。




