第76話 Beyond the sky
ウィンブロー城の門前に、白と赤を基調とした花弁が敷かれていた。
シーランドの古い慣習に従い、統一の象徴として両派の色が並べられた式道は、はるか正面の大階段まで続いている。
エルセラは、緋色の外套を肩にまとい、金の髪をゆるやかにまとめていた。
その背筋は真っすぐで、まだ戴冠していない少女でありながら、すでに『女王の器』を湛えていた。
門の内側には、整列した衛兵、式官、貴族たちが並ぶ。
炎派の代表たちは後方に控え、氷派の主要人物の姿もまばらながら確認できる。
そのどちらもが、息を呑んでエルセラを見ていた。
「エルセラ・フォン・シーランド――新たなる御名を以て、参列者の前にお進みください」
式官の声が朗々と響く。
彼女の傍に立つのは、エリクス王太子。そして、そのすぐ後ろに控える騎士ルーク・ノクシアルだった。
ヴァロニアからの参列者として、二人は特別に友好の証として入廷を許されていた。
エルセラは、ゆっくりと一歩を踏み出す。
踏みしめた花道の下には、幾多の血が染みついていると、エルセラは知っている。
けれど、今日はそこに血はない。
あるのは、静かな風と、春の兆しと、希望の視線。
「――リナリーの娘ではなく、わたし自身として、ここに立ちます」
低く呟いたその声は、誰に向けたものでもなかった。
だが、ルークの胸には確かに届いていた。
その横顔は、まるで今この国が新しく息をし始めるのを、受け止めているかのようだった。
やがて、玉座のある式場の前庭に到達したとき、鐘が鳴り響いた。
それは、これから始まる新しい秩序の予告であり、過去との訣別を告げる音だった。
式場の中心に設えられた白の石壇には、かつて王たちが祈りを捧げ、剣に手を添え、名を授かってきた『継承の台座』があった。
しかし今日、その台座の前に立つ者は、名を授かるのではなかった。
エルセラは、一歩ずつ、石壇の前へと進む。
その歩みの背後には、シーランドの民と、参列を許された外国使節。
そして、父の名を認めたオスカーと、かつて自らを育てた炎派の者たちの視線があった。
式官が告げる。
「これより、継承の誓いを以て、我らが未来の女王、エルセラ・フォン・シーランドの名が、歴史に刻まれる」
エルセラは、振り返らずに静かに言った。
「――わたしは、この名を、王家の血でなく、選びの名として受け継ぎます」
ざわめきが、わずかに波紋を広げた。
続けて、彼女の言葉が場を包む。
「わたしは、炎でも氷でもない。どちらの血も継いだ者でも、血の重さだけで立つ者でもありません。この名を、父からもらうのではなく、母のために名乗るのでもない。わたしは――わたし自身の名として、この国に、未来を誓います」
その声は高くはなかったが、確かに響いていた。
エルセラがそっと石壇の上に手を置く。
その指先に、微かに震えがあったが、次第にその手に力がこもる。
「わたしは、エルセラと申します。
リナリーの娘でも、オスカーの娘でもなく。
わたしは、この国に問われる者として、そして応える者として、この名を選び、受け継ぎます」
その瞬間、誰かが深く息を吸う音が聞こえた。
誰かが目を伏せ、誰かが拳を握りしめていた。
そして、多くの者が、沈黙のまま、頷いていた。
式官が、正式な言葉を重ねる。
「女王エルセラ・フォン・シーランド――その選びの名、ここに記され、歴史の頁に刻まれんことを」
鐘が三度、空を貫いた。
扉がゆっくりと開き、陽光が射し込む。
――新たな女王は、血統に選ばれたのではない。
自らの選択と歩みによって、この座を選び取った。
それを見守る者たちの中で、最も静かに微笑んだのは、後方の黒衣の女だった。
ルークがその女を見ると、ふと、視線が合う。
かつて、リナリーと呼ばれたその者は、そのまま静かに、身を翻した。
そして、ルーク・ノクシアルは、その姿に、『母』の矜持を見ていた。
その時、風が吹いた。
血の色を帯びた花々が、舞い上がる。
リナリーの後ろに付き添っていた、若い女の黒い髪も風になびいた。
白と赤が、混ざり合いながら、光に溶けるように空を満たしていった。




