第74話 カイとノアの最終地図
《断章XV:聖地》
聖地は、全てを受け入れ、そして捨てさせる。
身分も、地位も、金も、欲も。
信仰や人種さえも。
聖地とは、人の心の拠り所のことである。
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夜の風が、庭の石畳に落ちた柘榴の影を、そっと揺らしていた。
屋敷の灯りはすでに落ち、周囲は静寂に包まれている。
ノアは、中庭の隅で旅の鞄の紐を締めていた。
背後から近づく足音に、気配だけで誰かがわかる。
「……地図の準備、済んだ?」
カイ――いや、ルーク・ノクシアルの声は、どこかいつもより穏やかだった。
ノアは手を止め、振り返る。
灯りの届かぬ半影の中で、ふたりは互いの表情を確かめるように、視線を交わした。
「うん。……でも、君がいないと道に迷うかもしれない」
「は? 僕の方がそっちに頼ってたんだけど」
いつも通りの冗談交じりのやり取りだ。
けれど、その下にある何かが、今夜だけは、少しだけ違っていた。
ルークは視線を落とし、壁に手を添えたまま、静かに言った。
「……ノア。君の旅は、まだ続くんだよね。でも、僕の旅は……ここで一旦、終わりなんだと思う」
ノアのまなざしが揺れる。
そのまま一歩近づき、軽く頷いた。
「うん。わかってるよ。君がヴァロニアに戻って、ルーク・ノクシアルとして、もう一度名を名乗った時から……気付いてた」
「やっぱり、何でも聞こえちゃうんだな。……不公平だよ。僕は君のこと、まだ何も知りきれてないのに……」
「……誰だって、全部、わかるわけないよ」
「でも、僕の心は、君に駄々洩れだったのに……」
「……うん。君は……まっすぐ過ぎて、ちょっと眩しいくらいで……」
そう言われ、ルークは少し恥ずかしそうに視線を外した。
ただ、ありがとうでは足りない、感謝以上のその気持ちを伝えるため、ノアは続けた。
「……僕にとって、君は『光』だったよ……」
二人の間に言葉がなくなった。
けれど、それでも何かを伝えたくて──
ノアは、そっと一歩踏み出した。
そして、ためらいなく、ルークを抱きしめた。
それはアサドとしての自然な動きだった。
多分、母から、自然と教わった。宗派も身分も性別も関係ないオス・ローの生活の中で。
親しい者を、敬う者を、そして信じた者を、ただ抱きしめる。
別れに言葉は要らないという文化の中で、アサドはずっとそうしてきた。
感謝も、祈りも、再会の願いも──
その一瞬に、すべてを込めて。
ルークの体が、驚いたように強ばる。
貴族の家に生まれた者として、こんな風に人と無防備に触れ合うことは、ほとんどなかった。
けれど、次の瞬間。
ルークもそっと腕を回し、ぎこちなく、けれど確かに、その抱擁を返した。
「……聞こえてた?」
ルークが低い声で、小さく囁いた。
「聞こえてなくても、してたよ」
ノアはくすっと笑って、ルークの背を軽くぽんぽんと叩いた。
「……ありがとう、カイ」
「もう、カイじゃないんだけど」
「うん。でも……最後に、もう一度だけ」
二人はそっと離れ、わずかに笑みを交わす。
「カイ、地図の読み方は、もう大丈夫だよね? 王太子様が方向音痴じゃなきゃいいけど」
「勘弁してよ……」
ルークは笑いかけて、それからふと、顔を伏せた。
「……次に会う時は、ノアじゃなくて、アサドだな。僕は、ルーク・ノクシアルとして行くよ」
「うん。その時はまた、どこかの国で地図を広げて、僕の話をしよう」
二人の背後で、東の空がわずかに白みはじめていた。
明日、ルークはエリクスに随行して、シーランドへ向かう。
アサドはウサマと共に、聖地オス・ローへと帰る。
その道は、別れる。
けれど、名前を超えた何かが、ふたりを確かに繋いでいた。




