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【完結】天国の扉Ⅱ 焔を継ぐ者  作者: 藤井 紫
第8章 本物の王

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第74話 カイとノアの最終地図

《断章XV:聖地》

聖地は、全てを受け入れ、そして捨てさせる。

身分も、地位も、金も、欲も。

信仰や人種さえも。

聖地とは、人の心の拠り所のことである。

------------------------------------------------------------



 夜の風が、庭の石畳に落ちた柘榴の影を、そっと揺らしていた。

 屋敷の灯りはすでに落ち、周囲は静寂に包まれている。

 ノアは、中庭の隅で旅の鞄の紐を締めていた。

 背後から近づく足音に、気配だけで誰かがわかる。

「……地図の準備、済んだ?」

 カイ――いや、ルーク・ノクシアルの声は、どこかいつもより穏やかだった。

 ノアは手を止め、振り返る。

 灯りの届かぬ半影の中で、ふたりは互いの表情を確かめるように、視線を交わした。

「うん。……でも、君がいないと道に迷うかもしれない」

「は? 僕の方がそっちに頼ってたんだけど」

 いつも通りの冗談交じりのやり取りだ。

 けれど、その下にある何かが、今夜だけは、少しだけ違っていた。

 ルークは視線を落とし、壁に手を添えたまま、静かに言った。

「……ノア。君の旅は、まだ続くんだよね。でも、僕の旅は……ここで一旦、終わりなんだと思う」

 ノアのまなざしが揺れる。

 そのまま一歩近づき、軽く頷いた。

「うん。わかってるよ。君がヴァロニアに戻って、ルーク・ノクシアルとして、もう一度名を名乗った時から……気付いてた」

「やっぱり、何でも聞こえちゃうんだな。……不公平だよ。僕は君のこと、まだ何も知りきれてないのに……」

「……誰だって、全部、わかるわけないよ」

「でも、僕の心は、君に駄々洩れだったのに……」

「……うん。君は……まっすぐ過ぎて、ちょっと眩しいくらいで……」

 そう言われ、ルークは少し恥ずかしそうに視線を外した。

 ただ、ありがとうでは足りない、感謝以上のその気持ちを伝えるため、ノアは続けた。

「……僕にとって、君は『光』だったよ……」

 二人の間に言葉がなくなった。


 けれど、それでも何かを伝えたくて──

 ノアは、そっと一歩踏み出した。

 そして、ためらいなく、ルークを抱きしめた。


 それはアサドとしての自然な動きだった。

 多分、母から、自然と教わった。宗派も身分も性別も関係ないオス・ローの生活の中で。

 親しい者を、敬う者を、そして信じた者を、ただ抱きしめる。

 別れに言葉は要らないという文化の中で、アサドはずっとそうしてきた。

 感謝も、祈りも、再会の願いも──

 その一瞬に、すべてを込めて。



 ルークの体が、驚いたように強ばる。

 貴族の家に生まれた者として、こんな風に人と無防備に触れ合うことは、ほとんどなかった。

 けれど、次の瞬間。

 ルークもそっと腕を回し、ぎこちなく、けれど確かに、その抱擁を返した。



「……聞こえてた?」

 ルークが低い声で、小さく囁いた。

「聞こえてなくても、してたよ」

 ノアはくすっと笑って、ルークの背を軽くぽんぽんと叩いた。

「……ありがとう、カイ」

「もう、カイじゃないんだけど」

「うん。でも……最後に、もう一度だけ」

 二人はそっと離れ、わずかに笑みを交わす。

「カイ、地図の読み方は、もう大丈夫だよね? 王太子様が方向音痴じゃなきゃいいけど」

「勘弁してよ……」

 ルークは笑いかけて、それからふと、顔を伏せた。

「……次に会う時は、ノアじゃなくて、アサドだな。僕は、ルーク・ノクシアルとして行くよ」

「うん。その時はまた、どこかの国で地図を広げて、僕の話をしよう」

 二人の背後で、東の空がわずかに白みはじめていた。


 明日、ルークはエリクスに随行して、シーランドへ向かう。

 アサドはウサマと共に、聖地オス・ローへと帰る。

 その道は、別れる。

 けれど、名前を超えた何かが、ふたりを確かに繋いでいた。



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