第73話 Ice sparkling in the sun
雪はすっかり溶け、ウィンブローの石庭には、早咲きの花がちらほらと咲き始めていた。
かつて冷気に閉ざされていた政務室には、いま薄く陽が射し込み、重たい書棚の影も、どこか柔らかさを帯びていた。
控えていた近衛が静かに扉を押し開ける。きぃ、と小さな音が鳴る。
オスカーは、かつてと変わらぬ姿で机に向かっていた。
だが、金の髪に白いものが混じり、指先の動きには歳月の重みが宿っていた。
ドアの向こうから、ひとりの少女が静かに歩み出る。
陽の差す中に姿を現したその人影は、赤のマントを翻し、金の髪を後ろで束ねていた。
蒼と翠の混ざるまなざしで、迷いなくまっすぐにオスカーを見据えていた。
「……ご機嫌よう、殿下」
エルセラの声は柔らかだった。
だがその一語が、部屋の空気をわずかに揺らす。
オスカーはゆっくりと顔を上げた。
「……やっと、来たか」
静かな声だった。
あの日よりもさらに落ち着き、なお一層はっきりとした響きだった。
「一度、リナリー様にご報告してきました。これからの在り方を、どうすべきか……考えたうえで、もう一度ここへ来ました」
「……継ぐのか」
「はい」
オスカーは、その一言に長く黙した。
やがて、机の上に両手を組み、背筋を伸ばす。
「そうか。……あの日、問う娘だった君が、今日は選ぶ者としてここにいるわけだな」
エルセラは頷いた。
言葉はなかったが、その頷きに宿る意思は揺るぎなかった。
父と向き合うことは、エルセラにとって過去との決着であり、未来への入り口でもあった。
「君が名を出さずとも、私は敗北を受け入れたつもりだった」
「はい。……でも、あたしは、それだけでは終われません」
オスカーのまなざしが鋭くなった。
「――何故だ」
「名を継ぐことは、権威を得るためではありません。継がされた名を、自分の意思で名乗るためです」
「……継ぐのではなく、名乗る、か」
「あたしは、王権を引き継ぐのではなく、それを新しく変える者になりたい。だから、あなたに問う娘ではなく、名を持つ者として、会いに来ました」
政務室に、再び静寂が落ちる。
長く、深く、誇りと痛みと記憶の沈黙が流れた。
オスカーは、娘に問いを返すことを恐れた。
真に向き合えば、崩れてしまうものがあった。
だが、それを守った末に失ったものの方が、大きかったのだ。
やがて――
「……王となるつもりか」
「女王として、ではなく。……エルセラとして、王座に立ちます」
その言葉に、オスカーは、深く、ただ深く、椅子に身を沈めた。
「……ならば、私が語るべき言葉は、もはやない」
「いいえ。あたしは、聞きたいの。あなたがこの国に見た理想を。そして、何を恐れ、何を守ろうとしたのかを」
オスカーは微かに目を細める。
「リナリーは、愛の『炎』の名のもとに戦った。私は、『氷』の秩序の名のもとに戦った。だが、君は、名を選ぶ自由の名のもとに、何も壊さず『炎』と『氷』に勝った」
「壊したものも、きっとあります。でも、それでも手を伸ばしたのは、あたしは、未来を継ぐ者でありたかったから」
オスカーは立ち上がり、窓の外を見た。
そこには、かつて自分が統べていた白き庭園が、陽に染まり始めていた。
「……君が、王として立つことに、もはや私の否はない。ただ願う。君が、私の過ちを繰り返さぬように」
「はい。あたしは、あなたの敗北を継ぎません。わたしの選んだ王の形を、この国に残します」
オスカーは、それ以上、何も言わなかった。
だが、そのまなざしには――初めて、娘を見る父の影が、微かに宿っていた。
エルセラの心に、そっと灯がともる。
それは赦しではない。和解でもない。けれど、たしかに父と見つめ合ったという温度だけは、胸に残った。
エルセラは静かに一礼し、踵を返した。
扉の先に、新しい秩序のための光が待っていた。




