第72話 ヴァロニア王と三人の若者(二)
王城の一角にある簡素な書院。
そこに通された黒髪の青年――ウサマは、どこか落ち着かない様子で窓の外を見ていた。
扉の奥から現れたのは、静かな足音と共に、ギリアン王だった。
「黒髪の来訪者を迎えるのは、昔から好きでね」
その言葉が、ウサマの肩から緊張をひとつ、解き放った。
声がして、奥の扉からギリアンが姿を現した。
「楽にしてかまわない」
「……ありがとうございます」
椅子を勧められたウサマは、少し躊躇してから腰を下ろす。
「君が初めてここに来た時は、ホープと一緒に、だったね」
「はい。叔父の家で、世話になりました」
ウサマは少し照れくさそうにホープを『叔父』と呼んだ。
「彼は良いやつだろう? 僕にとっても、ホープは黒髪の友だ。神の子でも王家の血でもなく、心を置ける存在だ。今も、昔も」
ギリアンは、窓の向こうに視線を投げた。
その瞳の奥に、どこか若き日の追憶が滲んでいた。
「ホープと出会わなければ、僕は王を続けられなかったかもしれない。……だから思った。エリクスにも、黒髪の友が必要だと。彼が名に飲み込まれぬように」
ウサマは黙って聞いていた。
その言葉の意図を、完全に理解するにはまだ時間がいる。
「血を重んじる者は、同じ血の者に近づきたがる。だが、心を重んじる者は、違う響きに惹かれる。……君は、常にエリクスの隣に立つ必要はないが、君の存在が、彼にとって違う音になれば、それでいい」
ウサマは、ゆっくりと口を開いた。
「……俺は、この国の仕組みや、政治のことも、よくわかりません。ここに来たのも、家族を探すためだったし」
「そうだな」
ギリアンは続ける。
「僕は、若い頃は血も名も、信じられなかった。だが、同じ黒髪のホープと、そして、幼馴染のヴィンセントと言う友人がいてくれた。信じようとしなくても、黙ってそばにいてくれる者たちが」
そして、心からも聞こえてくる。
(若者たちは、信じられるだろうか。今は、王族の証である黒髪が、かつては魔女の色だと恐れられ、迫害されていたことを……)
確かに、ウサマがシーランドで出会った魔女たちは、みな黒髪だった。しかし、魔女たちは、自ら選んだ者だったのを思い出した。
ウサマは、ギリアンの瞳をじっと見て答える。
「俺は、帰るつもりです。兄と一緒に、オス・ローへ」
「もちろんだ。君にエリクスの傍に残れとは言わない」
「……黒髪の友なら、ルーク・ノクシアルもいると思うけど」
ギリアンは微笑み、頷いた。
「君は、名も国も持たずにここに来た。だが、シーランドの革命の日、女王が王冠を掲げたその瞬間、君はそれを見届けた」
その目はどこか、誇りを帯びていた。
「剣を取らずして、世界が変わる場面に立ち会った者は、稀だ。炎でも、氷でもない、その手で、静かに扉を開けた瞬間に。……君は、その一人だ、ウサマ」
ウサマは静かに目を見開いた。
「名前のない想いを持ち帰るといい。君が誰かではなく、どうあったかを記憶するために」
そして、ほんの少し笑って言った。
「次に会う時は、君の旅の続きを聞かせてくれ。オス・ローのことでも、女王のことでも……君自身のことでも」
ウサマは、深く礼をした。
ウサマの黒い髪が揺れるたびに、ギリアンは、次の時代の扉が、少しだけ開いた音を聴いたような気がしていた。
* * * * *
そして──
午前の光が高窓から差し込む王座の間。
三人の旅人が、ひとつの空間に再び揃った。
ルーク・ノクシアル。アサド。そしてウサマ。
個として語られた問いは、今、同じ秤にかけられる。
ギリアン王は、王座に静かに腰を掛け、未来を託す者たちの姿を見つめていた。
「……君たちが交わしてきた言葉、越えてきた境界、背負ってきた問い。それを、今ここで全部さらす必要はない。だが、これからこの国に生きるならば、何を渡したいのか、それだけを、僕に聞かせてくれ」
その続きは、彼ら自身の言葉で語られる。
一番に、ルークが一歩前に出て、跪く。
「……問いです。僕は問いを持つ者であり、問いを渡す者でありたいと思っています」
ギリアンの目が細くなる。
「……その志は、ヴィンセントに似ているな」
ルークは頷く。
「伯父の名で語られたくはないと、ずっと思っていました。……けれど今は、彼が手放した問いを、引き継ぐことに意味があるのではと」
ギリアンは、ゆっくりとルークの顔を見据えた。
「では、君の問いに、王として答えよう。僕が王である理由はただ一つ。問いを封じないためだ。信仰が国家を縛り、名が人を殺す時代を、僕は終わらせたい」
そして視線は、ノアへと向く。
「アサド。あるいは、ノア。君が選ぶ名は、僕の決定に関わらない。だが一つ、君の目が見てきたものを聞かせてほしい。名に縛られない王は、存在できるか?」
ノアは、小さく息を吐いた。
「……わかりません。けれど、名に縛られながらも、問い続ける王なら……在ってほしいと思います」
ギリアンは目を閉じた。
「そうか。それが、君が生きて帰った理由かもしれんな」
最後に、視線はウサマに注がれた。
「君は……少し、父ハリーファに似ている。かつて、西の地の亡国の皇子が、我が宮廷を訪れたことがあった。その時、彼はこう言った。『名は預けられるが、心は奪わせぬ』」
ギリアンの声が、ほんのわずかに空気を揺らした。
アサドとウサマの指先が、かすかに同時に動いた。
お互いには目を合わせないまま、言葉にならぬ気配を感じ取っていた。
ウサマは、驚いたように目を見開き、しかしすぐに深く頭を下げた。
「……それは、父さんの言葉……?」
ギリアンは頷き、少し声を和らげた。
「君はその血を引くだけではない。……君は、王の誕生の瞬間を、その目で見届けた。炎派も氷派も、名を盾にして戦った時代に終止符を打ち、ただの少女が王となった瞬間を、君は見た。――その目を、僕は信じる」
(かつて、ジェードは、ファールーク皇国滅亡とラシーディアの形成過程に立ち会った。母子で、稀有な運命を背負ったものだ……)
ウサマの息が少し詰まる。
「君が見てきたものは、歴史書に記されるような事実じゃない。真実だ。……誰よりも近くで、それを見届けた君が、それを語るなら、僕はそれを誇りと呼ぶ」
アサドが、わずかに目を伏せたまま、その言葉に呼応するように頷いた。
兄としても、旅の証人としても、弟が得たその役割を確かに認めていた。
ウサマは、もう一度、深く頭を下げた。
──その瞬間、ギリアンは笑った。ごく僅かに。
「いい眼だ。君たちの旅は……まだ始まりに過ぎない。だが、その旅路の先に、僕が見ることのなかった景色を刻んでくれ。王座はそれを支えるためにある」
それは、名も血も超えて、未来を託す者の言葉だった。




