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【完結】天国の扉Ⅱ 焔を継ぐ者  作者: 藤井 紫
第8章 本物の王

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第72話 ヴァロニア王と三人の若者(二)

 王城の一角にある簡素な書院。

 そこに通された黒髪の青年――ウサマは、どこか落ち着かない様子で窓の外を見ていた。

 扉の奥から現れたのは、静かな足音と共に、ギリアン王だった。

「黒髪の来訪者を迎えるのは、昔から好きでね」

 その言葉が、ウサマの肩から緊張をひとつ、解き放った。

 声がして、奥の扉からギリアンが姿を現した。

「楽にしてかまわない」

「……ありがとうございます」

 椅子を勧められたウサマは、少し躊躇してから腰を下ろす。

「君が初めてここに来た時は、ホープと一緒に、だったね」

「はい。叔父の家で、世話になりました」

 ウサマは少し照れくさそうにホープを『叔父』と呼んだ。

「彼は良いやつだろう? 僕にとっても、ホープは黒髪の友だ。神の子でも王家の血でもなく、心を置ける存在だ。今も、昔も」

 ギリアンは、窓の向こうに視線を投げた。

 その瞳の奥に、どこか若き日の追憶が滲んでいた。

「ホープと出会わなければ、僕は王を続けられなかったかもしれない。……だから思った。エリクスにも、黒髪の友が必要だと。彼が名に飲み込まれぬように」

 ウサマは黙って聞いていた。

 その言葉の意図を、完全に理解するにはまだ時間がいる。

「血を重んじる者は、同じ血の者に近づきたがる。だが、心を重んじる者は、違う響きに惹かれる。……君は、常にエリクスの隣に立つ必要はないが、君の存在が、彼にとって違う音になれば、それでいい」

 ウサマは、ゆっくりと口を開いた。

「……俺は、この国の仕組みや、政治のことも、よくわかりません。ここに来たのも、家族を探すためだったし」

「そうだな」

 ギリアンは続ける。

「僕は、若い頃は血も名も、信じられなかった。だが、()()()()のホープと、そして、幼馴染のヴィンセントと言う友人がいてくれた。信じようとしなくても、黙ってそばにいてくれる者たちが」

 そして、心からも聞こえてくる。

(若者たちは、信じられるだろうか。今は、王族の証である黒髪が、かつては魔女の色だと恐れられ、迫害されていたことを……)

 確かに、ウサマがシーランドで出会った魔女たちは、みな黒髪だった。しかし、魔女たちは、自ら選んだ者だったのを思い出した。

 ウサマは、ギリアンの瞳をじっと見て答える。

「俺は、帰るつもりです。兄と一緒に、オス・ローへ」

「もちろんだ。君にエリクスの傍に残れとは言わない」

「……黒髪の友なら、ルーク・ノクシアルもいると思うけど」

 ギリアンは微笑み、頷いた。

「君は、名も国も持たずにここに来た。だが、シーランドの革命の日、女王が王冠を掲げたその瞬間、君はそれを見届けた」

 その目はどこか、誇りを帯びていた。

「剣を取らずして、世界が変わる場面に立ち会った者は、稀だ。炎でも、氷でもない、その手で、静かに扉を開けた瞬間に。……君は、その一人だ、ウサマ」

 ウサマは静かに目を見開いた。

「名前のない想いを持ち帰るといい。君が誰かではなく、どうあったかを記憶するために」

 そして、ほんの少し笑って言った。

「次に会う時は、君の旅の続きを聞かせてくれ。オス・ローのことでも、女王のことでも……君自身のことでも」

 ウサマは、深く礼をした。

 ウサマの黒い髪が揺れるたびに、ギリアンは、次の時代の扉が、少しだけ開いた音を聴いたような気がしていた。




*   *   *   *   *




 そして──

 午前の光が高窓から差し込む王座の間。

 三人の旅人が、ひとつの空間に再び揃った。

 ルーク・ノクシアル。アサド。そしてウサマ。

 個として語られた問いは、今、同じ秤にかけられる。

 ギリアン王は、王座に静かに腰を掛け、未来を託す者たちの姿を見つめていた。

「……君たちが交わしてきた言葉、越えてきた境界、背負ってきた問い。それを、今ここで全部さらす必要はない。だが、これからこの国に生きるならば、何を渡したいのか、それだけを、僕に聞かせてくれ」

 その続きは、彼ら自身の言葉で語られる。


 一番に、ルークが一歩前に出て、跪く。

「……問いです。僕は問いを持つ者であり、問いを渡す者でありたいと思っています」

 ギリアンの目が細くなる。

「……その志は、ヴィンセントに似ているな」

 ルークは頷く。

「伯父の名で語られたくはないと、ずっと思っていました。……けれど今は、彼が手放した問いを、引き継ぐことに意味があるのではと」

 ギリアンは、ゆっくりとルークの顔を見据えた。

「では、君の問いに、王として答えよう。僕が王である理由はただ一つ。問いを封じないためだ。信仰が国家を縛り、名が人を殺す時代を、僕は終わらせたい」

 そして視線は、ノアへと向く。

「アサド。あるいは、ノア。君が選ぶ名は、僕の決定に関わらない。だが一つ、君の目が見てきたものを聞かせてほしい。名に縛られない王は、存在できるか?」

 ノアは、小さく息を吐いた。

「……わかりません。けれど、名に縛られながらも、問い続ける王なら……在ってほしいと思います」

 ギリアンは目を閉じた。

「そうか。それが、君が生きて帰った理由かもしれんな」

 最後に、視線はウサマに注がれた。

「君は……少し、父ハリーファに似ている。かつて、西の地の亡国の皇子が、我が宮廷を訪れたことがあった。その時、彼はこう言った。『名は預けられるが、心は奪わせぬ』」

 ギリアンの声が、ほんのわずかに空気を揺らした。

 アサドとウサマの指先が、かすかに同時に動いた。

 お互いには目を合わせないまま、言葉にならぬ気配を感じ取っていた。

 ウサマは、驚いたように目を見開き、しかしすぐに深く頭を下げた。

「……それは、父さんの言葉……?」

 ギリアンは頷き、少し声を和らげた。

「君はその血を引くだけではない。……君は、王の誕生の瞬間を、その目で見届けた。炎派も氷派も、名を盾にして戦った時代に終止符を打ち、ただの少女が王となった瞬間を、君は見た。――その目を、僕は信じる」

(かつて、ジェードは、ファールーク皇国滅亡とラシーディアの形成過程に立ち会った。母子で、稀有な運命を背負ったものだ……)

 ウサマの息が少し詰まる。

「君が見てきたものは、歴史書に記されるような事実じゃない。真実だ。……誰よりも近くで、それを見届けた君が、それを語るなら、僕はそれを誇りと呼ぶ」

 アサドが、わずかに目を伏せたまま、その言葉に呼応するように頷いた。

 兄としても、旅の証人としても、弟が得たその役割を確かに認めていた。

 ウサマは、もう一度、深く頭を下げた。


 ──その瞬間、ギリアンは笑った。ごく僅かに。

「いい眼だ。君たちの旅は……まだ始まりに過ぎない。だが、その旅路の先に、僕が見ることのなかった景色を刻んでくれ。王座はそれを支えるためにある」

 それは、名も血も超えて、未来を託す者の言葉だった。



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