第71話 ヴァロニア王と三人の若者(一)
応接の間には、春の陽がやわらかく差し込んでいた。
重厚な扉が静かに開かれると、黒髪の青年――ルーク・ノクシアルが、礼節ある足取りで姿を現した。
その背には、王太子エリクスの姿も控えている。
「陛下、ご用命とのことでしたので」
ルークの声に、ギリアン王は軽く頷いた。
この謁見は、ただの帰還報告ではない。王と忠誠を語る者との、最後の確認だった。
隣に立つエリクスの目は、静かにその姿を見つめていた。
「よく来た。……エリクスには同席を頼んだ。お前が旅の中で何を見て、何を選び取ったのか、その目で確かめさせたくてな」
ギリアンの声音には、かすかな緊張と、父としての思慮が混じっていた。
ルークは姿勢を正し、静かに口を開いた。
「陛下。私は、名を伏せて旅に出ました。ですがノクシアルの名前なしでは、守れない者がいることを、思い知らされました」
ギリアンの視線が鋭くなる。
「……シーランドで、ノアを救うために名を明かした相手は、リナリーだったな」
その名を出された瞬間、ルークの眼差しが僅かに揺れた。
エリクスの視線が、その横顔に注がれている。
「はい。……私は、ノクシアルの名を出してノアを守りました。それが、リナリーの掌中に堕ちることを意味しても」
「……リナリーは、僕の姉だ。だが、ヴァロニアに背を向けた者でもある」
ギリアンの声には、抑えきれない静かな怒りが滲んでいた。
「氷派の血を引きながら、その秩序を焼き払い、炎の王座に立つ。……かつて我々が属した体制そのものへの、怨恨すら感じる」
ルークは、その言葉に目を伏せたまま、なおも言葉を続ける。
「私はリナリーの意図を全て読めたわけではありません。けれど、名を伏せたままでは、ノアを奪われると感じました。だから、ノクシアルの名を使った。……父が命を賭して、陛下をお守りしたあの戦場のように」
ギリアンは微動だにせず、その言葉を受け止めた。
しばらくの沈黙ののち、彼は重々しく問いかけた。
「ならば問う。お前にとって、『忠誠』とは何だ?」
ルークはまっすぐに顔を上げ、迷いなく答えた。
「恐れや従属ではなく、自らの誇りによって選ぶ道。誰の影にも隠れず、自分の名で立つことです」
その答えに、ギリアンの口元がわずかに緩む。
「……エリクス。どう聞こえた?」
王の問いに、エリクスは一度ルークを見てから、静かに頷いた。
「ルーク卿の忠誠は、ただの従属ではありません。……私と共に、立とうとする者の覚悟です」
「ならば、それは、王家に値する忠義だ」
ギリアンの言葉が、ゆるぎない重さをもって響く。
「……陛下」
ルークが再び声を上げた。
「私は『問い』を持って旅をしました。そして、ヴィンセント卿の思想に触れた今、伯父の問いはただの学説ではなく、選び取る生き方だったと理解――」
ギリアンはそこで、手を軽く上げた。
「それ以上語るな。それはもう、お前の中に刻まれているが、まだ、今ではない」
ルークはその意味を噛み締めるように、静かに頭を垂れた。自分が忠誠を誓うべき相手を静かに示唆された。そして、シュケム論を語るのはエリクスの時世だと。
「王太子殿下が剣を取るその時、私はノクシアルの名をもって、その傍らに立ちます」
「それでこそ、ノクシアルの跡継ぎだ」
ギリアンは一歩だけ近づき、目の前の黒髪の青年を見つめた。
「ルーク。今のお前は、父と同じく、いや、それ以上に、ノクシアルの名にふさわしい」
その言葉に、ルークはゆっくりと膝をつき、深く頭を垂れた。
窓から差し込む春の光が、彼の背にひとすじ、静かに降り注いでいた。
* * * * *
王室の書院には、硝子越しの庭光が揺れていた。
その静けさを破るように、書架の影から風が一枚の頁をめくる。
扉が静かに開き、金髪翠眼の青年――アサドが姿を見せた。
だが、今はノアとして、ギリアンの前に姿を見せていた。
「……覚えていてくださって、光栄です」
ギリアン王は席に座ったまま、穏やかな声音で迎えた。
「……忘れるはずがない。君のその姿を」
ノアは、かすかに笑った。
きっと、ヴィンセントに似ているからだろう。
「……弟は見つかりました。ですが、あの旅の中で、問いを抱えて歩くことが、こんなにも苦しいとは思っていませんでした」
ギリアンは椅子に深く腰掛け、卓上の封蝋付き文書に視線を落としたまま静かに言う。
「旅中に、何を見た?」
「……断片です。……シーランドの古い印刷所で、燃え残った羊皮紙の切れ端を。港の地下礼拝堂で、壁に書かれた黒墨の詩を。どれもバラバラでしたが、ある思想に貫かれていました」
「……『シュケム論』だな」
その名が出た瞬間、ノアの身体がわずかにこわばった。
「……あの思想を目にした瞬間、信じたいと思ってしまった自分が、怖かったんです」
ノアの声が震えた。
ギリアンはゆっくり顔を上げた。
「信じたいと思ったこと。それは罪か?」
「……いえ。ですが、あの断章には、読む人に信じたいと思わせる力があります。そして、思想を信じる事を通り越して、……この断章や筆者が、あたかも神であるかのように……読んだ人を操るような……」
ギリアンは、しばし黙して彼の言葉を味わってから、静かに立ち上がった。
書架の奥の鍵のかかった棚から、一冊の古びた書を取り出す。
「これは、僕が記憶を辿って書き写した、彼の論文だ。……若い頃、僕もそれを読んだ。王家の血であることに、意味があるのか悩んでいた時期だった」
ノアは目を見開いた。
「……陛下も、読んだ?」
「かつて教会はそれを、神殿を焼き尽くす『焔』だと恐れた。しかし、僕は、この火を忘れてはならぬと思い、ここに書き写した」
ギリアンは、書を閉じて続けた。
「僕の父も、その思想を汚れと呼んだ。だが僕は、あれが問いの火だと思った。恐れながらも、その火を見た者だけが、氷の王冠に亀裂を入れることができる。……そして、名に支配されずに生きられる唯一の道でもある」
ノアは、胸の内で何かが解けるのを感じた。
「陛下は、……もしかして、信仰か、血縁を……恨んでおられるのですか……?」
ギリアンは、ノアの問いに、直ぐには答えなかった。
聞こえてきたのは(どちらもだ)と言う、心の呟きだった。
少しの沈黙後。
「そう見えてしまっているのなら、僕は、もう一度、氷の仮面を被り直さないといけないようだな」
ノアは真っ直ぐにギリアンを見つめ、答える。
「陛下、……僕は、その思想が、何かを壊すのだとしても、それでも、人の中にある疑う力の方を信じたい。……今は、そう思えるようになりました」
問いの火。それは、自分が逃げながら、ずっと握りしめてきたものだった。
「名に導かれたお前が、それを聖地に持ち帰るなら、それは我らの問いにもなる。僕は、かつての親友……ヴィンセントに、その問いを返したいと思っていた。だがそれは叶わなかった」
「……それなら、僕が向き合います。信じることが、焔であるならば、僕はそれを消さずに運びます」
その答えに、ギリアンはうっすらと微笑んだ。
「それでこそ、『焔を継ぐ者』だ」




