第69話 名を持って、門をくぐる
ヴァロニア王国、王都の郊外リエンテ、ノクシアル邸。
その石門の前に、三人の旅人が立っていた。
ノアはやや青ざめた顔色を隠しながら、外套の裾を整えていた。
カイはその傍で、すでに自分の名を名乗るつもりで立ち位置を整えている。
ウサマだけが、どこか微妙な表情で門の意匠を見上げていた。
(……やっぱり、貴族の屋敷ってのは、落ち着かないな)
そう思いながらも、彼は数歩前に出た。
かつて、この門を一人でくぐったことがある。だが、今は違う。
門番が警戒の面持ちで近づいたが、先頭に立つ黒髪の青年がフードを取り、声を固くして名乗った。
「……ルーク・ノクシアル、帰還しました。こちらはノアとウサマ。父上に、お目通りを願いたい」
一瞬の沈黙。
次に、驚きの息。
「若様……! お帰りなさいませ」
その声に、カイ――いや、ルークは小さく頷いた。
「ただいま」
カイの声が静かに響くと、門番はその顔を見て、硬かった表情を緩めた。
ルークが、半年ぶりに、邸へ戻ってきたのだ。
「直ぐに、お通しします!」
門が開く。
風が三人の顔をなで、白い石畳の先に、整えられた庭園と館の影が見えた。
従者のひとりが慌ただしく屋敷に駆け込み、玄関が開いた。
中から姿を現したのは、ホープ・ノクシアルだった。
「……ルーク。それに……ノア、ウサマ」
その低い声に、ルークは静かに頭を下げる。
「ただいま戻りました」
ノアも少し遅れて頭を下げ、ウサマはためらいながらも、それに続いた。
ホープの目が、ひとりひとりの顔を丁寧に見つめていく。
「……無事でよかった」
ホープの目に、怒りも責めもなかった。ただ、深い安堵と、抑えきれない懐かしさが滲んでいた。
「すぐ戻るつもりではなかったんですけど」
ルークが苦笑する。
「報告すべきことが、色々とありまして」
「まずは休め。話は……それからでいい」
そう語るホープの声は穏やかで、しかし貴族の父の距離感を保っていた。
ウサマはそのやりとりを黙って聞いていた。
(……これが貴族の父子ってやつなのか? うちの家とは、全然違う)
時折、長く家を空ける父親だったが、帰ってきた時には家族で大騒ぎだった。
それに、エルセラも、帰ってきたママを抱きしめ、キスで迎えていたのを思い出した。
ウサマはその違いを否定するでも、羨むでもなかった。
ただ、遠くから眺めるように、それを見ていた。
ノアの足取りは少しふらついていたが、ルークがそっと肩を支えた。
静かに閉じられる屋敷の扉の奥で、新たな対話が始まろうとしていた。
* * * * *
【ルーク・ノクシアル】
ヴァロニアの夜は静かで、ノクシアル邸の灯りがわずかに書棚を照らしていた。
ホープは、手にしていた文書をそっと閉じ、椅子の背にもたれた。
その時、書斎の扉が控えめにノックされた。
「入れ」
足音は軽く、しかし迷いのない様子だった。
入ってきたのは、旅を経た息子、ルーク・ノクシアルだった。
「今、少し、時間をいただいてもいいですか」
「お前がその声を使うときは、覚悟を決めた時だな」
ホープの声は、温かいものではなかったが、信じる者の声だった。
「座れ」
ルークは黙って、対面の椅子に腰を下ろした。
机の上には封の開かれた王室の書簡。
そして、その横には、昔ホープが息子に贈った、名の彫られた短剣が置かれていた。
「……旅の間、ずっと考えていました。名を伏せれば自由になれるって。そして、そう思っていた頃の自分が、どれだけ甘かったかも」
ホープは、黙ってルークの話を聞いていた。
遮ることも、言葉を挟むこともなかった。
「ノアを守りたかった。でも、名を伏せたままじゃ……守れませんでした。あの時、ノクシアルの名がなければ、ノアはここに帰れなかった」
ルークは、視線を机に落とす。
「……だから、もう一度名乗ります。僕は『ルーク・ノクシアル』として。王に忠誠を誓うその前に、まず、自分の意志で、この名を選びます」
ホープの瞳に、初めて小さな光が宿った。
それは喜びではない。誇りでも、称賛でもない。
ただ静かに、息子の言葉を聞き届けた者のまなざしだった。
「……なら、その名は、お前のものだ。ぼくとラシェルが与えた名ではない。お前が旅から持ち帰った名だ」
ルークの肩が、わずかに緩んだ。
そして、深く、礼をとった。
「……旅を許してくれて、ありがとうございました、父上」
ホープはその礼に返すでもなく、ただ机の上の短剣をルークのほうへ滑らせた。
「――持って行け。その剣は、お前が初めて守ろうとしたものに向かって歩くためのものだ」
ルークはそれを、静かに手に取った。
夜はまだ深く、ヴァロニアの空に星は見えなかった。
けれど、この小さな灯火の下で、ひとつの名が再び灯った。
「何があったのか、……話してくれ。全てを」
ルークは軽くうなずいた。
真っ直ぐに父の目を見て、言葉を選ぶ。
「僕は、旅の間、カイと名乗っていました。けれど――」
そこでルークは一呼吸置いた。
「シーランドで、ノアが危機に晒された時……僕は、ノクシアルの名を使いました。リナリー殿下の前で」
ホープの眉がかすかに動いた。
「それで、何かが変わったか?」
「……名を使うとは、意味を受け入れることでした。僕は、自分が何を背負っているのかをその瞬間、ようやく理解した気がします」
ルークの声には迷いがなかった。
「そして今、僕はその名を、選び直して帰ってきました」
ホープはしばらく黙ったまま、指を組みながら息子を見つめていた。
「ノアは……」
ルークはわずかに目を伏せた。
「彼がこの先どう歩くか、まだ何も聞いていません。でも、僕は……ノアが聖地に帰るべきだと思っています」
ホープの眉が静かに上がる。
ルークの口から出たその言葉の裏に、ただの戦略ではない感情を感じ取った。
「……何故だい?」
ルークは、少し笑うように息を吐いた。
「……好きなんです、彼のことが。だからこそ、共に歩くより、帰ってほしいと思うんです。何者でもない場所に戻って、誰の名でもなく、彼自身の名で生きてほしい」
ホープはそれを聞いて、ほんの少しだけ、椅子に身を預けた。
「……誰かを想って手放すのは、選ぶより難しいことだ」
「でも、そうすることでしか、彼の選んだ名が守れない気がしたんです。だから、僕はこの国に残って、ノクシアルとして、彼を守る盾になります」
ホープの視線が鋭くなる。
ルークはさらに言葉を続ける。
「僕の志は……ノアという『焔』を守ること。そしていずれ、エリクス殿下に忠誠を誓うことです」
「……王家に?」
「はい。王政を変えるなら、名の重さを自覚した者が側にいるべきだと思っています」
ホープは目を細めた。
そして、静かに問いかける。
「お前……、もしかして、シーランドであの書に触れたな?」
ルークは一瞬、呼吸を止めるようにしてから、短くうなずいた。
「……はい。伯父の、あれは……思想である以上に、鏡でした。読む者が、自分の影と向き合わされるような感覚。……それに、伯父の生き方に触れたように思います。誰かの信仰を壊すより先に、自分の信念を壊して歩いた人。……それが、とても、怖かったです」
その言葉に、ホープの目がゆっくりと閉じられる。
「……ぼくも、かつて『シュケム論』に触れたことがある。初めて内容を聞いた時……ぼくは、ヴィンセントを、異端者だと疑った」
ルークは静かに聞いていた。
「……だけど、その時、ぼくは、ヴィンセントに憧れ、多分、依存もしていた。しかし、彼は、ぼくのその真芯さえも見抜いていたんだ。そして、『この人が書いたものが異端なら、自分はこの国の正しさに何を見ていたのか』――それを理解し、認めるのには、随分時間がかかった」
それは、書に惹かれたのではなく、人に惹かれた者だけが知る痛みだった。
「その時に、ギリアン陛下が信仰を捨てずに、宗教を疑うことを教えてくださった。……あれがなければ、ぼくは今も『正しさ』の檻の中にいたかもしれない」
ホープの声は、懺悔というよりも、今ようやく語れるかつての痛みだった。
「『正しさ』の檻ですか……」
ルークは、父の言葉を静かに胸に刻むように、短く息を吐いた。
「だからこそ、僕は――信じる側にはならないと決めました。信じるふりをして誰かに従うのではなく、自分の名で選んで、自分の声で問い続けます」
ホープは微かに頷いた。
「でも今は、少し時代が変わりつつある。ヴィンセントの問いが、誰かに届くことを、ぼくも、ようやく信じられるようになった。だからこそ、お前がそれを手に取ったなら、恐れるより、託せる」
ルークは静かに目を閉じ、ひとつ深く息を吐いた。
「……ありがとうございます。僕はこの名で、問いを渡す者になります。ノアに、そして、次の王に」
ホープはそれを聞いてから、ようやく口元にわずかな笑みを浮かべた。
「それでこそ、ノクシアルの名を選んだ意味があるな」
ホープはようやく立ち上がり、手を差し出した。
ルークはその手を取る。
「よくぞ戻った、ルーク。……この家も、もうお前の問いを恐れたりはしない」
ルークは、小さく目を伏せ、確かに頷いた。




