第68話 A flame that lights up the night
カヴェリル邸の【赤の間】では、赤いカーテンが、昼下がりの光を柔らかく受けていた。
机の上には未整理の地図と、ページの折れた貴族年鑑が置かれたまま。
エルセラは、その前の古びた椅子に座っていた。
扉が軋んで開いたのは、そのときだった。
「……戻ったのか」
あの声だった。
女官の付き添いもなく、音もなく歩く姿は、衣擦れのみの静けさをまとっていた。
「リナリー様……」
立ち上がるエルセラに、リナリーは手を上げて制した。
「様は不要だ。そなたはもう、その立場に立つ人間となったのだろう?」
リナリーの瞳は変わらない。
海のように蒼く、冷たく、美しく、けれど今は、不思議と少し歳を感じさせた。
「……父に会ってきました。オスカーは、あたしを否定しませんでした。でも、受け入れも、しませんでした」
リナリーの唇がわずかに動く。だが言葉はなかった。
「それでも、あたしは娘として問えたと思っています。だから今度は、あなたに問います。
――リナリー・フォン・シーランド。
あなたは、あたしをその手で王に育てたつもりですか? それとも、あなたの代弁者として、未来を動かそうとしたのですか?」
室内に、長い沈黙が落ちた。
リナリーはゆっくりと歩み寄り、書棚に指を沿わせるようにして、椅子の背に手を置いた。
「……その問いに、正直に答えれば、私の負けになる。私はそなたを、自分の刃にしようとした。女として生まれ、妃として仕え、運にも見捨てられた王太妃が、最後に言葉ではなく、正統なる血で語るために育てた刃。
だが、その刃がこうして私に問いを向けた時、私は、もうそなたを振るうことはできない。私の敗北だ。……そして、そなたの勝ちだ」
エルセラは何も言わなかった。
ただ、その言葉を、まっすぐ受け止めていた。
リナリーは息を吐いた。
微かな笑みを滲ませながら、まるで、長い冬の雪が、解けるように。
「……母としてなら、きっと間違っていた。だが、王国を変える最後の賭けとしては……そなたは、私の誇りだ」
エルセラの胸に、熱いものがこみ上げた。
それでもエルセラは泣かなかった。
「……あたしは、確かに、あなたの娘です。でも、あなたの代わりにはならない。あたしは、あたし自身の名で、王になる」
その瞬間、リナリーの目にわずかに滲んだ。
けれど、それは見せぬように、静かに瞬きの中に沈めた。
「……ならば、【赤の間】は、もうそなたのもの。この国の王家の未来も、そなたのものだ。――行くがよい。そなたの名で、選び取った場所へ」
エルセラは深く一礼し、静かに部屋を出た。
背後で扉が閉まる音を聞いたとき、リナリーは椅子に腰を下ろし、ひとり声を漏らした。
「……ああ、ようやくだ。あの夜に捧げた命が――報われたな」
そして、笑い、思い出す。
――不敗の、あの男の言葉を。
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私の読みを越えた者がいた――そう思った瞬間、血が沸騰するようだった。
敗北というものは、これほどまでに純粋な敬意を抱くものなのだと――
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「……なるほど。そなたの言っていた『純粋な敬意』とは、こういう事か。――ヴィンセント」
その瞳には、ただ、敗者の誇りが浮かんでいた。




